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公開:2026年9月1日 更新:2026年9月7日 事業継承

家業を嫌った三代目が、「人を育てる会社」を目指すまで。古波蔵組・古波蔵太志の挑戦

第4回は、宮古島を代表する建設会社の一つ、株式会社古波蔵組の代表取締役社長・古波蔵太志氏です。子どもの頃から家業を継ぐことを意識していた――という、いわゆる「後継者」の物語ではありません。むしろ若い頃は「古波蔵組には関わりたくない」と思っていたという古波蔵氏。島を出て学び、26歳頃に帰郷。現場経験を重ね、35歳で三代目として会社を引き継ぎました。

宮古島では名の知られた会社。しかし沖縄本島へ出れば、決して特別な存在ではない。さらに代表就任後には3期連続の赤字も経験します。そこで古波蔵氏が行き着いたのは、売上や規模を追うだけではなく、「地域に必要とされ続ける企業」であり、そのために「人を育てる会社」であることでした。

【企業情報】

株式会社古波蔵組は、祖父の代から続く建設会社をルーツに持ち、父の代に土木を中心として事業を拡大。現在は宮古島と那覇を拠点に、土木・建築を手がけています。伊良部大橋など宮古島の社会基盤を支える工事にも携わり、古波蔵氏が代表となってからは民間建築にも目を向け、事業領域を広げてきました。現在の社員数は約40名。基本理念に「地域に必要とされ続ける企業であること」を掲げ、人材育成にも力を入れています。

「宮古島を出たい」。家業から離れたかった少年が建設の世界へ

――子どもの頃は、どんな少年でしたか?

小学校は1年生の時だけ平良小学校で、2年生から南小学校です。その後、平良中学校へ進みました。小学生の頃はいろいろやっていましたね。サッカーや野球、ボーイスカウトもやっていました。家でゲームをするより、外に出て遊んでいる方が多かったです。

当時は進学塾も流行っていて、親は勉強をさせようとして塾にも通わせてくれました。でも私自身は、そんなに「点数を上げよう」という子どもではなかったですね(笑)。平均点くらい取れればいいんじゃない、という感じで。それより遊ぶ方が優先でした。ただ、中学生になる頃には「宮古島を出たい」という気持ちは強く持っていました。姉は宮古高校でしたし、周りも当然僕が宮古高校へ行くと思っていたはずです。

でも自分で県内の私立高校を調べて受験しました。高校では野球部に入りました。今では全国的な強豪校ですが、僕らが卒業して10年ほどしてからの話ですので、雰囲気も今とは全然違っていると思います。

――大学では建築を学んでいます。その頃には、会社を継ぐことを考えていたのですか?

全く考えていなかったです。大学受験に一度失敗して、1年間浪人して日本大学の理工学部建築学科へ進みました。建設自体が嫌いだったわけではないんですが、当時はむしろ「うちの会社が嫌い」「古波蔵組には関わりたくない」というくらいの気持ちでした。

父の会社は土木が中心で、港湾や橋などの仕事が多かった。一方、僕が大学で選んだのは建築です。家業を継ぐために選んだというより、それしか特にやりたいことがなかった、という方が近いと思います。ただ、大学に行って外から宮古島を見るようになってから、少しずつ「会社」というものや、父がやっていることに興味を持つようになりました。

35歳で三代目へ。宮古島での「知名度」と、那覇で見えた現実

――卒業後、どのような流れで古波蔵組へ入ったのですか?

大学卒業後は東京で1年ほど、建設とは全く関係のない仕事をしていました。そんな時、父から「忙しいから帰ってきなさい」と言われて宮古島へ戻りました。26、27歳になる頃だったと思います。

ところが帰ってきたタイミングで県内建設業界の官製談合事件があり、多くの業者が営業停止になっていた。せっかく帰ってきたのに仕事がない。「俺、何をするの?」という状態からのスタートでした。会社自体も、今のように組織として仕組みが整っているわけではありません。父がトップにいて、みんながその指示で動く。営業をしろと言われても、「営業って何をするの?」という感じです。「見て覚えろ」という時代でした。僕自身は30、31歳くらいまで現場にいました。その間に会社の中身を見て、現場を経験していったという感じですね。

――35歳で代表を引き継いだ時、どんなことを考えていましたか?

2、3年前から父には「もう継がせるからな」と言われていました。でも、こちらは現場しかやっていない。株のことも会社経営のことも十分に分かっていない状態でしたから、正直そんなに乗り気でもなかったです。ただ、現場で社員を見てきたので、「この人たちのために」という気持ちはありました。それと那覇の拠点も当時は十分に機能していなかったので、そこも含めて「もう好きにさせてもらいますよ」という条件で引き継ぎました。結果的には、好きにさせてはもらえなかったです・・・事業承継のあるあるですね。笑

仕事で印象に残っているものとしては、やはり伊良部大橋があります。宮古島の経済や発展の一助になれた仕事だと思います。個人的にはセルラースタジアム那覇の現場も印象に残っています。自分も野球をやっていたので、楽しかったですね。代表になって強く感じたのは、宮古島と沖縄本島での会社の見え方の違いでした。宮古島では古波蔵組という名前を多くの方が知ってくださっている。でも沖縄本島へ行けば、決して特別な会社ではない。

「宮古では名の知れた会社。でも那覇へ行けば、その程度の会社でしかない。」その理想と現実の差は大きかったです。本社を那覇に置く以上、那覇でもしっかりやっていかなければいけない。そのためには結局「人」だと思うようになりました。違う地域、違う環境で仕事をすることで、社員の引き出しも増えていきます。

3期連続の赤字。「テクニック」ではなく、根っこから変える

――先代から受け継いで、今も大切にしている考えはありますか?

父からよく言われていたのが、「生き金と死に金の区別をしっかりつけなさい」ということです。深く考えて使った結果、死に金だったら仕方ない。でも最初から死に金だと分かっているものに、お金を使うなと。

だから今でも、社員から提案があれば、小さい金額でも「これは何のためにやるのか」「どういう意図があるのか」を聞きます。僕は最初、提案されたものの8割くらいは「これ、死に金じゃないか?」と疑って見ます(笑)。厳しいかもしれません。でも「生き金になる」と考えて挑戦し、それが結果的に失敗したのなら納得できる。何も考えずに使うこととは全く違います。

――代表になってから、経営者として大きな転機になった出来事はありますか?

恥ずかしい話ですが、3年連続で赤字決算を出したことがあります。1期目で赤字が出た時に本気で向き合っていれば、おそらく3期も続かなかったと思います。でも僕自身が「これくらいなら後から返せる」と天狗になっていたんです。2期目も挽回できなかった。その頃に父も亡くなり、いろいろなことが重なって、思考がうまく回らない時期が続きました。

そこで何周も考えた末に、「もう本業に徹しよう」と決めました。優先順位の一番を本業に置く。家族、社員、そして自己実現。その順番をはっきりさせた結果、当時の趣味を全て捨てました!当時、社内には「公共工事を取る」という考え方が強くありました。もちろん公共工事は大事です。でも一歩横を見ると、古波蔵組には建築もできる。民間の仕事もできる。

そこで宮古島の市場を感覚ではなく、きちんと調べました。すると「宮古島バブル」と言われるほど市場が動いている中で、僕ら自身が道端に落ちている宝を拾おうともせず、凝り固まった考え方のまま捨てていたことに気づいたんです。自分たちにできることは何か。競合が少ないところはどこか。どうアプローチするのか。一つずつ考えていくと、「ここにも仕事がある」「こんなこともできる」と見えるようになりました。

厳しい時期に支えになったのは、やっぱり家族、社員ですね。一度、会社をどうするかというところまで話した時にも、「やります。やらせてください。」と言ってくれた。そこで改めて感じたのが、テクニックだけではダメだということでした。「テクニックに走りすぎると、マインドがなければ頭でっかちになって倒れる。」

目指すのは「人が卒業していく会社」。地域に必要とされ続けるために

――そこから「人を育てる会社」という考えに変わっていったのですか?

大きなきっかけの一つは、イタリア・ミラノで参加した合宿でした。行く前には、宮古や沖縄の市場を考えて、「5年後には売上をここまで持っていこう」という計画を作って飛行機に乗ったんです。

でも現地に着いた時に、「これじゃない。全部違う」と思った。行きの飛行機で書いた計画を、全部書き直しました。宮古島には、経営やイノベーションを引っ張る人材がもっと必要だ。このままでは何をするにも県外の企業や人材に頼ることになる。それなら自分がもっと勉強して、そういう人材を育てなければいけない、と考えるようになりました。

今は若手向けのセミナーもやっています。でも、そこでは現場の施工方法を僕が教えることはほとんどありません。教えるのは人間力や経営、数字の見方などです。現場の仕事は、現場の上司や先輩から学べばいい。それよりも、その先に経営者になれるような力を身につけてほしいと思っています。

――古波蔵組を、これからどんな会社にしていきたいですか?

売上や利益を伸ばすことももちろん大切です。でも、うちの基本理念は「地域に必要とされ続ける企業であること」です。結局、原点に戻ると父がやっていたように「人を育てる会社」にしたいと思っています。古波蔵組で育った人が、そこから卒業して、自分で新しい会社をつくる。それくらいの人材が集まる会社にしたい。

だから優秀な社員が「独立するので辞めます」と言ったら、僕は「お疲れ様でした」と送り出せる会社でありたいです。むしろ「将来経営者になりたいから古波蔵組へ行く」と言われるようになったら、面白いと思いますね。建設業も、昔のやり方だけでは続きません。AIやデジタル化も含めて、環境はどんどん変わっています。大切なのは、変化に敏感であること。そして、その変化を楽しめることです。

「できる・できないじゃなくて、やってみるか、やってみないか。」「こういうのは若い人にやらせておけばいい」と言っているだけでは、これからは厳しい。自分で「これ面白そうだな」と触ってみる。建設業に限らず、それができる人が生き残っていくと思います。

――もし代表になったばかりの自分に、今の自分から何か言うとしたら?

ん~~多分、何も言わないです。結局、自分で経験して、失敗してみないと分からない。うまくいっている時に誰かから何を言われても、なかなか響かないんですよね。自分がつまずいた時に、そこで初めて人の言葉が入ってくる。

だから当時の自分には、そのまま進ませます。「5、6年後につまずけ。落ちるところまで落ちろ。大丈夫、命までは取られないから。」失敗して、そこから何を掴むか。それも経験だと思っています。

――これから建設業や経営に挑戦する若い世代へ、伝えたいことはありますか?

まずは「何でもやってみること」ですね。できるか、できないかで判断しがちですが、本当は「自分がやりたいか、やりたくないか」だと思うんです。やりたいならやってみる。失敗したら、そこで終わらずに何かを掴んで次へ進む。もう一つは、「人を好きになること」です。若い社員にも「言葉に付加価値をつけて相手に言いなさい」と話しています。付加価値というのは、自分の思いや気持ち、意図を言葉に乗せること。

同じ言葉でも、自分の気持ちが乗っているかどうかで伝わり方は変わります。相手にどう伝わるかは相手次第かもしれませんが、まず自分が思いを乗せなければ伝わらない。これは僕自身が現場で経験してきたことです。好きな言葉として、父がよく言っていた「自分の身の丈に合った行動をしなさい」という言葉があります。

人は結局、自分の身の丈に合ったことしか行動に移せないし、その時の実力以上のものを出すこともできない。だからこそ、この言葉は「身の丈以上の挑戦をするな」という意味ではありません。もっと大きなことに挑戦したいなら、そこに届くように自分自身の身の丈、つまり実力を上げなさいという意味なんです。

現状維持をするための言葉ではない。やりたいことがあるなら、それに見合う自分になるまで学び、経験し、実力を高めていく。父から受け継いだその考えは、今、人を育てる会社を目指す自分の考え方にもつながっていると思います。

株式会社古波蔵組 代表取締役社長 古波蔵太志

出身:宮古島市平良
生年月日:1979年4月24日
出身校:平一・南小学校・平良中学校・県内私立高校・日本大学 理工学部 海洋建築工学科
好きな言葉:自分の身の丈に合った行動をしなさい

所属団体:沖縄県建設業協会 会計幹事、宮古ライオンズクラブ

編集後記

「家業を継ぎたくなかった」という言葉から始まった古波蔵太志社長の話。しかし、インタビューを終えて振り返ると、その距離があったからこそ、古波蔵組を外から見る視点を持つことができたのかもしれません。宮古島では知られた建設会社であることに甘えず、那覇で自分たちの現在地を知る。3期連続の赤字を経験し、自分の慢心を認める。そして公共工事という従来の枠から一歩横へ出て、宮古島にある仕事を改めて探す。

その過程で古波蔵社長がたどり着いたのは、最新の経営手法でも、会社を大きくすることだけでもありませんでした。「地域に必要とされ続ける企業」であるために、人を育てる。しかも育てた人材を会社に囲い込むのではなく、いつか独立して経営者になることさえ歓迎する。父から受け継いだ「身の丈に合った行動をしなさい」という言葉も、古波蔵社長にとっては現状維持の教えではありません。挑戦したいなら、その挑戦にふさわしい自分へ成長すればいい。

「できるか、できないかではなく、やってみるか、やってみないか」。失敗も遠回りも経験として受け入れながら、人と会社の「身の丈」を上げ続ける。その先に、古波蔵組が目指す次の時代があるように感じました。