「2年で東京に戻る」はずだった。新城浩司が描く、島のクルマ屋さんのこれから
今回は、宮古島で40年以上にわたり自動車販売・整備を手がける株式会社東和(ロータス東和オート)の代表取締役社長、新城浩司氏です。
【企業情報】
株式会社東和は、宮古島の暮らしに欠かせない自動車の販売・点検・整備を通して、地域の安心・安全なカーライフを支えてきた。企業としての持続的な発展だけでなく、「良き企業市民」として地域に必要とされる存在であり続けることを掲げ、交通安全、EV・PHEV、V2H、DX、人材育成などにも取り組んでいる。
二代目の新城浩司氏は、もともと家業を継ぐつもりはなかった。高校卒業後は東京へ渡り、美容・ファッションの世界へ。28歳の時、実家の経営状態を見て「2年だけ立て直して東京へ戻る」と帰郷したことが、現在につながる転機となった。異業種から戻ったからこそ見えた違和感を一つずつ変えながら、現在は「島のクルマ屋さんに求められる価値とは何か」を問い続けている。
ランドセルを水槽にした城辺の自然児。東京の美容・ファッション業界へ
――まず、新城さんはどんな子どもだったのですか?
城辺で育って、城辺小、城辺中、宮古高校と進みました。子どもの頃は、本当に自然の中にしかいなかったですね。海、公園、山。今みたいに家の中で遊ぶというより、外に出て一日中遊んでいるような子でした。
小学校1年生の時、朝寝坊をして学校へ行こうとしなかったら、親父に怒られて、軽トラに乗せられて「野城泉(ぬぐすくがー)」の湧き水のところに置いていかれたことがあるんですよ(笑)。今だったら絶対に大問題になる事案ですけどね。
朝から夕方まで一人でそこで遊んで、魚を捕り始めたんです。でも入れるものがない。だからランドセルの中身を全部出して、ランドセルに水を入れて魚を入れていました(笑)。
夕方、親が迎えに来たら今度は「何やってるか!」ってまた怒られて。ランドセルは水を吸って使えなくなったので、1年生の途中から斜めがけバッグで学校に行っていました。
今振り返ると、本当に自然児でしたね。自転車で新城海岸や浦底の方まで行ったり、一人で行動することも多かった。自分で「行く」と決めたら動くという部分は、もしかするとあの頃から変わっていないのかもしれません。
――高校卒業後は、自動車とはまったく違う美容・ファッションの世界へ進んでいます。
家業を継ぐ気はゼロでした。僕は次男坊ですし、東和を自分がやるという発想自体がなかったですね。高校2年生ぐらいから美容かファッションの世界に行こうと決めていました。
市内にあった美容室でアルバイトをしたことがきっかけで、人とのつながりがどんどん広がっていきました。卒業後は東京の美容専門学校へ進み、そのまま東京で就職して、宮古に戻るまで約10年間いました。
東京では、ファッション業界のパーティーやイベントにも自分から顔を出して、とにかく人に会いに行っていました。当時は深く考えていなかったですけど、今になって思うのは、仕事やチャンスを持ってくるのは結局「人」なんですよね。お金がなくても、人とのつながりがあれば面白い場所へ行けるし、新しい世界を見ることができる。その感覚は今の経営にもかなりつながっています。
「2年で立て直して東京へ戻る」。28歳、実家の経営危機で帰郷
――家業を継ぐつもりがなかった新城さんが、宮古島へ戻ったきっかけは何だったのでしょうか?
28歳の時、ちょうど東京で次の仕事を考えていたんです。いくつか声をかけてもらっていて、次のキャリアも見えていました。
そのタイミングで宮古に戻って自社の状況を見たら、「この事業、大丈夫かなぁ〜・・・?」と思う雰囲気を感じました。今まで東京で自由にやらせてもらっていたので、一回ぐらい親孝行じゃないですけど、「2年ぐらいかけてその事業を立て直して、それから東京へ戻ろう」と思ったんです。
東京側にも「2年後に戻る」と話していて、戻る場所もありました。だから最初から後継者として覚悟を決めて帰ってきたわけではないんです。
でも実際に会社へ入って数字を見ると、社員数は今より多いのに、売上も利益も小さい。「この人数がいて、なぜこの数字なんだろう」と純粋に疑問でした。自動車業界の常識を知らなかったからこそ、「これは本当に普通なのか?」と思えた部分は大きかったと思います。
そこで、車業界だけを見るのではなく、いろいろな会社を見に行きました。経営者にお願いして朝礼を見せてもらったり、島外の会社へ勉強に行ったり。知らないなら、知っている人のところへ行けばいい。東京時代と同じで、とにかく外へ出て、人に会って、自分で確かめるところから始めました。
――入社して半年間、車が1台も売れなかったそうですね。
本当に1台も売れなかったです(笑)。しかも最初は給料もゼロでした。東京にいた頃の自分の価値観と、宮古島で車を買うお客様の価値観が全然違っていたんです。僕自身、25、26歳の頃には「車を買うならこのくらい」という金額感があった。
それで100万円の車を見て、「これなら普通に売れるでしょう」と思っていた。でも、お客様が何を大切にしているか、家族構成も生活も知らない。車の知識も十分じゃないのに、カタログを見せて、見積もりを作って、それで買ってもらえると思っていたんです。
最初に買ってくれたのは、同級生のお母さんでした。「浩司、帰ってきたの?今度、あんたから買うさ」と言ってくれた。その時に初めて、「そうか。得体の知れない人から、高い買い物なんてしないよな」と気づいたんです。
東京で学んだと思っていた「人とのつながり」が、宮古島に戻って初めて本当の意味で腹に落ちた瞬間でした。それからは、自分の固定概念を一度置いて、お客様の話を聞くところからやり直しました。
「何でもやる」から「ルールの中でやる」へ。安心安全と社員が続く会社をつくる
――38歳で代表を引き継ぎます。先代から受け継いだものと、新城さんの代で変えたものは何ですか?
親父からは「お客さんが言うことは何でもやれ」という感覚を教えられてきました。それは創業者として、お客様との信用を一つずつ積み上げてきたからこその考え方だったと思います。
ただ、僕は組織として会社を続けていくには、それをそのまま引き継ぐことはできないと思いました。夜中でも電話があれば車を取りに行く。365日24時間仕事のような状態では、経営者本人はできても、社員には家庭も生活もある。だから「何でもやる」から「ルールの中できちんとやる」へ変えました。
これはお客様へのサービスを減らすということではなく、社員が長く働ける会社にしながら、必要なサービスを継続して提供するためです。組織として人を動かす以上、働く時間と休む時間、責任の範囲を明確にしなければ続かない。そこは代表になって大きく変えた部分ですね。
一方で、絶対にブレてはいけない経営の軸として受け継いだのが「安心安全」です。売上、利益を追うのではなく、お客様が事故なく安心して車に乗れるサービスを提供する。
その安全に必要な点検・整備をきちんと行い、その内容を理解していただいたうえで適正な対価をいただく。それが東和としてお客様に提供できる価値だと思っています。
――経営計画を非常に大切にされています。毎年どのように作っているのですか?
事業承継をする5年ぐらい前から、毎年自分で経営計画書を作っていました。親父が作る計画と自分の計画を照らし合わせて、「自分だったらこの会社をどうするか」をずっと考えていたんです。親父が安心してバトンタッチできるくらいまで、自分が作る計画書に信用と説得力を持たせようと思っていました。
毎年のルーティンとして、年度末前までに経営方針につながる情報をたくさん集めて、ある程度まとまったら沖縄本島のホテルに一人で籠もります。電話にも出ない。部屋からも出ない。
そこで丸一日かけて、集めた情報と数字を一気に経営計画へ落とし込みます。 様々な 経営者の集まりの場で「経営計画書の作成は大事だ」とよく耳にします。でも、「忙しいから作れない」という人が沢山いる。僕は、会社を動かすための計画書を作ることこそ、経営者が時間を取るべき仕事だと思っています。
――数字の中では、何を一番重視していますか?
一番見るのは売上ではなく、メカニックの生産性です。売上は結果として後からついてくるものだと考えています。前年度を振り返って、部門ごとの売上割合や利益率、一人当たりでどこまで仕事ができるのかを細かく見ます。そして、その数字を社員と共有する。4月の経営計画発表会では、目標を達成したら会社がどうなり、それが待遇や賞与にどうつながるのかまで説明します。
現状の社員数で生産性の上限を考えずに「売上をもっと増やそう」と言っても無理があります。だから、人を採用できる環境をつくること、人材を育成する体制をつくること。その2つを最優先に取り組み段階的に会社を成長させる計画を立てています。
自動車整備という仕事は、宮古島において重要インフラである車を支える非常に大きな責任を持つ仕事です。新しい技術を搭載した車がどんどんリリースされる中で、その技術に対応する整備士を育成し、安心して働ける環境を提供することは、宮古島で車に乗る方々にとって必要とされる大きな価値につながります。
整備士という職が大きな価値を持つ誇れる仕事としての地位を確立したいですね!
15年前からEV、2030年には次の社長へ。「島に必要な価値」をつくり続ける
――宮古島の車屋として、これからどんな役割が必要になると考えていますか?
離島において車は、単なる移動手段ではなく、生活を支える重要なインフラです。通勤も買い物も病院も、車がないと困る場面が多い。
だから僕は、「島のクルマ屋さんに求められる価値とは何か」をもっと考えなければいけないと思っています。車そのものも大きく変わっています。以前は整備士の経験や技術だけで対応できた部分も、今は診断機やソフトウェアが欠かせない。EV(電気自動車)やPHEV(プラグインハイブリッド車)、暮らしとエネルギーとの連携も含めて、クルマ屋側が時代の変化を学び続ける必要があります。防災士としての一面もあるので、災害に強い島での暮らしを実現するためにも「勉強漬け」の毎日です(汗
EVについては、15年ほど前から取り組んできました。当時はまだ普及するかどうかも分からない時代でした。でも、時代が変わってから「じゃあ始めよう」では遅い。変わる可能性があるなら、その前から少しずつ投資して準備しておいた方がいい。そう考えて、整備士をメーカーの技術研究所へ長期間派遣するなど、会社として技術を学んできました。
現在、宮古島では純粋なEVが約500台走っているという認識です。島全体の車がすべてEVになるとは思っていません。ガソリン車、ハイブリッド、EVなど、それぞれの用途やエネルギー供給に合わせた選択肢が共存していく。その変化に対して、地域の整備会社として対応できる状態をつくっておくことが大事だと思っています。
――2030年までの計画では、本業の規模を伸ばした上で、社長を譲る構想もあるそうですね。
本業については、2030年までに今の売上・利益規模を倍にする計画を作っています。経営幹部と議論を重ね、しっかりとした計画のもとで実現したいと考えてます。順調に会社が成長したら、今の経営幹部に次期社長を任せたいと思っています。
自分がずっと社長でいることが会社の成長とは限らないですからね。次の人が経営できる状態をつくって、その人に任せる。事業承継を視野に入れて計画を策定してます。
その先で自分がやりたいことの一つが、ハブクラゲ刺傷被害に関連する事業です(笑)「クルマ屋がクラゲ?」と思うでしょうけど、この事業計画には10年以上の時間をかけて取り組んでいます。
ハブクラゲは近日中に東北大学やOIST研究機関、沖縄県、宮古島市、宮古総合実業高校との連携を視野に事業化を目指しています。こだわっている点としては、ただ事業を作るだけではなく、人材育成も視野に入れた計画になっているというところです。僕の中では宮古島に必要な事業なのか、地域に必要とされる価値をつくれるのか、収益事業として成立させられるのか。
そこをとことん調べて、可能性があるならやってみる。アイデアが出たら、日本だけでなく世界中の事例を調べて、エビデンスを集めて、計画に落とし込む。それが僕のやり方です。チームとして楽しんでやれるのかも重要ですね(笑)
――最後に、宮古島の若い世代へ伝えたいことをお願いします。
「会いたい人、憧れる人、面白そうな大人を見つけたら、自分から会いに行け!」と言いたいですね。若い人は、経営者や自分より経験のある人との距離を、自分で勝手に遠く設定してしまうことがあるように感じます。でも、同じ人間です。
会いたいと思ったら、まず相手を調べる。その人が何をしてきたのか、その会社が何を目指しているのかを知った上で、自分から会いに行く。そうすれば、思っているより距離は近い。僕自身、20代で東京にいた頃からそうやって人に会いに行ってきました。その結果、沢山の出会いと沢山の機会をいただけました。宮古に戻ってからも、分からないことがあれば分かる人のところへ行った。それで今があります。
ただし、人とのつながりは、ただ知り合いを増やすことではなく、礼儀や筋を通しながら築いていくものです。誰かに紹介してもらう際は、特に慎重になる必要があると思ってます。
自分がこれまで出会ってきた人たちとの縁も、自分一人だけのものにしたくないんです。若い人や仲間をそこへ連れて行って、また新しい出会いが生まれる。その繰り返しで、宮古島に面白い人や挑戦する人が増えたらいいなと思っています。
株式会社東和(ロータス東和オート) 代表取締役社長 新城 浩司
出身:宮古島市城辺
生年月日:1980年3月生
経歴:城辺小学校、城辺中学校、宮古高校を経て上京。美容・ファッション業界で約10年勤務した後、28歳で宮古島へ帰郷。株式会社東和に入り、38歳で代表取締役に就任。
所属団体:全日本ロータス同友会 沖縄県支部 経営委員長、宮古島市総合計画審議会委員、第4次宮古島市教育ビジョン検討委員、エコアイランド宮古島推進計画検討委員長、エコアイランドモビリティ協議会 事務局長、宮古島市立東小学校 PTA副会長、宮古島市立北中学校 PTA会長、宮古地区PTA連合会 会長、沖縄県立宮古総合実業高校 PTA副会長、宮古島市青少年育成市民会議 副会長、日本防災士機構 防災士
編集後記
新城社長の言葉には強さがありました。15年前からEVの可能性を見て投資を続け、毎年ホテルに一人で籠もって経営計画をつくり、2030年には自分以外の人間へ社長を譲るところまで描いている。その強さは、誰かより上に立つためではなく、「変化する前に準備しておく」という徹底した姿勢から生まれているように感じます。
そして、話の中心に繰り返し出てきたのは「人」でした。東京での人脈、最初の1台を買ってくれた地元の人、会社を支える社員、これから出会う若い世代。車を売ることも、整備することも、新しい事業をつくることも、最後は人に行き着く。
「会いたい人がいるなら、自分から会いに行け」。城辺の自然の中を一人で走り回っていた少年は、今も変わらず、自分で行き先を決めて動き続けています。その先にあるのは、自社だけの成長ではなく、島のクルマ屋さんとして、宮古島に必要とされる価値をつくり続けることなのだと思います。