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公開:2026年10月23日 更新:2026年10月28日 事業継承

価格ではなく、「最後のひと手間」で選ばれる。100年近い肉屋を次の世代へ

今回のOWNERSは、宮古島公設市場を拠点に、飲食店やホテルなどへ食肉を卸す株式会社なかざとの代表、仲里穏恒(やすのぶ)氏です。

ひいおじいさんの代までさかのぼれば、肉に関わる仕事は100年近く。祖父が公設市場に販売店を構え、父の代から飲食店向けの卸売を本格化し、現在は仲里氏が会社を率いています。

ただ、仲里氏が目指しているのは、昔ながらの肉屋をそのまま守ることではありません。島外からの企業参入も増える中、価格だけで競えば、最後は商品も市場も疲弊してしまう。だからこそ「運送業でいうラストワンマイルのようなサービスを徹底したい」と考えています。必要な量、納品のタイミング、使い方、店ごとの細かな要望。お客様が本当に困る「最後のところ」まで応えることで選ばれる会社でありたい。そこには、島内企業として長く商売をしてきた自負と、徹底したお客様目線があります。

【企業情報】

株式会社なかざと

宮古島公設市場を拠点に、牛肉・豚肉・鶏肉などの食肉を中心に、飲食店・ホテル等への業務用卸を展開。法人として18期目。仲里穏恒氏は代表就任3期目。

価格では勝負しない。お客様の「最後の要望」まで応える

――仲里さんが考える「良い肉屋」とは、どんな肉屋ですか?

今は島外からもいろいろな企業が入ってきています。

当然、価格で比べられることもあります。でも、うちは価格だけで勝負するつもりはありません。安くすることだけを続けると、商品の価値も、市場全体の価値も下がってしまうと思うんです。

だから僕が大事にしたいのは、運送業でいう「ラストワンマイル」みたいな部分です。お客様が最後に「こうしてほしい」と思うところまで、どれだけ応えられるか。必要な量、納品のタイミング、使うメニュー、店ごとの細かな仕様。そこまで見て、「なかざとに頼んだ方が仕事がやりやすい」と思ってもらえればいい。

価格だけを見て別の会社を選ばれるのであれば、それはそれで仕方がないと思っています。島内企業として長くこの仕事をしてきたからこそ、お客様との距離の近さや、現場に合わせて動けることには自負があります。結局、商売はお客様がいて初めて成り立つものですから。

――長年肉を扱っていると、良い肉は見ただけで分かるものですか?

良い肉は、ある程度一目で分かります。和牛であれば、見た目で「これはいい」「これはちょっと違う」と判断できる。ただ、輸入の豚肉や鶏肉は、開けて切ってみないと分からないこともあります。密閉されているので、開けて初めて匂いが出ることもあるんです。

肉屋の仕事は、仕入れた商品をそのまま右から左へ流すだけではありません。状態を見て、用途を考えて、どう使えば一番良いかまで考える。そこにプロの仕事があります。

――料理人への提案も、かなり踏み込んでいますね。

料理人によって全然違います。仕入れた肉を自分で一度食べて、「これ美味しいから、またこの部位を」と言う人もいれば、「この料理にはこの部位しか使わない」と決めている人もいます。

例えば「牛の握りに使いたい肉はない?」と聞かれたら、「これなら使えるはずよ」と提案して、まず食べてもらう。そこから毎回注文してくれるようになることもあります。

逆に、新規のお客様から「とりあえず見積もりください」と言われるのが一番困るんですよ(笑)。うちは商品が何千種類もあるので、何を作りたいのか分からないままでは提案できません。だから「まずメニューを持ってきてください」と言います。メニューがあれば、こちらで必要な商品を拾って提案できる。最初はそこでぶつかることもあるんですけど、不思議とそういう相手ほど、後々長い付き合いになったりするんですよね(笑)。

家業を継ぐつもりはなかった。東京で気づいた「宮古島って、こんなに綺麗だったんだ」

――もともと、肉屋を継ぐことを意識していたのでしょうか?

全然です。高校は宮古農林高校でしたが、家業を継ぐために選んだわけではありません。

卒業後は先生に勧められて鹿児島の第一工業大学の土木工学科へ進みました。特にやりたいことがあったわけでもなく、「大学行かないか」と言われて「いいですよ」くらいの感じです(笑)。

大学では4年間土木を学び、その後は先生の紹介で東京の会社へ入りました。土木機械のリース会社だと聞いていたのに、入社したら「もう土木機械はやってないよ。全部建築機械だよ」と言われて(笑)。「なんじゃそれ」と思いましたね。

でも、もともとプラモデルを作ったり機械をいじったりするのが好きだったので、工場の仕事は性に合っていました。営業をやれと言われたんですが、「やりたくないです」と断って、ずっと工場にいました。

――宮古島へ戻ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

30歳くらいの時、東京の友人を連れて宮古島に帰ってきたことがあったんです。自分も観光客を案内するような目線で海や店を回ってみたら、「宮古島って、こんなに綺麗だったんだな」と改めて思いました。十何年ぶりに、島を外から見る感覚だったんだと思います。

その後、母方のおばあちゃんが倒れて、「もう長くないから、帰ってこられるなら帰っておいで」と連絡がありました。1週間ほど宮古に戻って看病していたんですが、東京にいたまま亡くなったら、すぐには戻れない。死に目に会えないのは嫌だなと思ったんです。

祖父母はまだ他にもいる。この先も東京で働きながら同じことを繰り返すのかな、と考えた時に、「宮古で何かできないかな。帰ってきてもいいかな」と思い始めました。

東京には家も買っていたので、それが売れなければ帰れないと思っていたんですが、たまたま宮古に縁のある不動産関係の知人に相談したら、ローンがきれいに消える形で売れた。それで「ありがとうございます。宮古に帰ります」と(笑)。本当に、いろいろなタイミングが重なって戻ってきました。

――子どもの頃は、今のように明るく話すタイプだったのですか?

今はよく喋ると思われていますけど、中学・高校の友達からは「変わったね」と言われます。昔はもっと大人しかったです。

小学校ではサッカー、中学校ではハンドボールを少しやったんですが、キツすぎて辞めました(笑)。その後はずっとギターを弾いていました。鹿児島や東京に出た時、周りの友達がめちゃくちゃ静かだったんですよ。「自分が喋らないと、ずっと静かなままだな」と思っているうちに、周りが静かすぎるがゆえに、自分がうるさくなっていった感じです(笑)。

――肉屋としては、どれくらいの歴史があるのですか?

ひいおじいちゃんの時代までさかのぼると、100年近いと思います。昔は今のような大きな冷蔵・冷凍設備がないので、豚を飼っている農家さんから直接買ってきて、自分で捌いて、それを一人ひとりのお客さんに販売していたそうです。

その後、おじいちゃんが昔の公設市場にしっかりした販売店を構えて、親父の代から飲食店向けの卸売を始めました。法人としては18期目で、僕が代表になって今ちょうど3期目です。

「親父とは真逆です(笑)」。人情を、続けられるサービスへ変える

――お父さまから受け継いだもの、逆に変えようとしているものはありますか?

はっきり言うと、親父とは考え方が真逆なんです(笑)。

親父は「困っている人がいたら助けたい」という昔ながらの職人気質な人です。それ自体はすごく大事なことなんですが、会社や家族より先に何でも引き受けてしまうところがあった。お金の面でもかなりおおらかでした。

だから僕は、その「人のために動く」という良さを、きちんとサービスとして仕組みにしたいと思っています。臨機応変には対応する。でも、無茶なものまで全部やるわけではない。お客様が一度それに慣れてしまうと、それが当たり前になって、会社も社員も回らなくなってしまいますから。

やる時はやります。ただ、その時も「普段はこれはやらないよ。次から気をつけてね」とちゃんと伝えます(笑)。

――その代わり、スピードや対応力で選んでもらう。具体的にはどんな工夫をしていますか?

例えば30kgの大口注文が入ったとして、「何日くらいで使いますか?」と聞きます。「1週間で使う」と言われたら、「じゃあ毎日5kgずつ持っていきましょう」と提案する。

30kgを一気に切ると1時間半くらいかかります。でも5kgなら15分くらいで終わる。それを毎日に分ければ、こちらの作業も組みやすいし、お客様も必要な分だけ受け取れる。

今、現場は社員3人で回しています。限られた人数の中で、お客様の要望に応えながら、自分たちの仕事も詰まらせない。そのために「どう届けるか」までこちらから提案するんです。

注文の受け方も変えました。昔は居酒屋さんから終業間際に「あれ頂戴、これ頂戴」と連絡が来ることもあった。でも、その時間から切れるわけがない(笑)。今は「営業が終わったらLINEを入れておいて」と伝えています。朝7時、8時にLINEを見ると30件くらい注文が溜まっていることもあります。それを朝から段取りして、午後には納品する。お客様にとって便利で、こちらも仕事を組み立てやすい。そういう仕組みに変えてきました。

――経営面でも、かなり変えてきたそうですね。

僕が会社に入った頃、親父が続けていた薄利多売で、ほとんど利益が残らない取引を整理しました。売上は一時的に3,000万円くらい下がりました。

でも、売上だけあっても会社に利益が残らなければ意味がない。そこから商品や取引を見直して、きちんと利益が出る形に変えていきました。

コロナの時は飲食店が止まったので売上も大きく落ちましたが、その後は回復して、親父の代の月間最高売上だった1,800万円を超え、初めて2,000万円を超えました。年商も1億6,000万円台から1億9,000万円台まで伸びています。「死にそうですけどね(笑)」と仲里氏は笑います。

売上を大きくすること自体が目的ではありません。ちゃんと利益を残しながら、お客様に必要とされる会社にする。そのために数字を見ながら仕事のやり方を変えています。

2億円超の設備投資。その先にあるのは「家業」ではなく、次の誰かが継げる会社

――今後、会社として一番大きな課題は何ですか?

設備ですね。今使っている冷凍庫は、僕より年上なんですよ(笑)。さすがにもう限界が近い。

今、駐車場のスペースに新しい冷凍・冷蔵設備と工場をつくる計画を進めています。仮の見積もりでは2億円を超えています。それを金融機関に「うん」と言わせるために、今頑張っているところです。

離島なので、在庫も本土と同じ考え方ではできません。沖縄本島や鹿児島から船で入ってくるので、台風や波で船が止まることもあります。よく出る商品は1週間単位で仕入れながら、切らさないように回しています。

その一方で、食品ロスは基本的にゼロです。肉を整形した時に出る端の部分も捨てません。貯めて挽肉にして商品にする。同じ値段で仕入れた肉ですから、できる限り全部商品にする。それも肉屋の仕事です。

――宮古牛についても、肉屋として強い思いがありますね。

宮古牛という名前だけではなく、中身の価値をもっと高めないといけないと思っています。A4、A5という格付けだけで「良い肉」と決めてしまうのではなく、本当に食べて美味しい肉をどう作るかを考えないといけない。

宮古島は子牛を育ててセリに出す繁殖農家が多く、島で最後まで育てる肥育農家がまだ少ない。だから、一貫肥育に挑戦する人が増えれば、宮古島の肉はもっと面白くなると思っています。

僕自身、宮崎の牧場などにもつながりがあります。「もし宮古で一貫肥育に挑戦したい若い人が出てきたら、教えてくれる?」と聞けば、「全然教えるよ」と言ってくれる人もいる。そういう外の知恵も借りながら、宮古島の中で新しい挑戦ができれば、もっと良いものを、もっと強いブランドとして出せるはずです。

――これから株式会社なかざとを、どんな会社にしていきたいですか?

今までは、いわゆる「家業」でした。でも、これからは家族が継がなくてもいいと思っています。

僕はまだ40代前半です。これから会社を大きくして、社員が増えて、その中から「自分がやりたい」と言う若い人が出てきたら、その人に繋いでもいい。親族である必要はありません。

大事なのは、会社の考え方に賛同してくれること。その人が「やってみたい」と手を挙げた時に、「じゃあ、やってみる?」と言える会社の基盤をつくっておきたいんです。

宮古島では、今からゼロから商売を始めるのは本当に大変です。一方で、これから後継者がいなくなる会社は確実に増えてくる。新しくゼロからつくるだけじゃなく、今ある会社や事業をM&Aや事業承継で受け継ぐという選択肢も、もっとあっていいと思います。

僕らの親の世代は、「宮古には仕事がないから帰ってくるな」と言われた世代でした。でも今は、仕事そのものがないというより、家賃や物価が高くて生活しづらい。だから僕らの世代が、若い人たちに「宮古に帰ってきたい」と思ってもらえるマーケットや仕事の選択肢をつくらないといけない。

少なくとも食肉業界については、自分たちの世代でいい流れをつくりたいと思っています。同業の二代目たちも自分と同世代になって、昔よりずっと話しやすくなりました。競争はあっても、お互いに話しながら宮古島の食肉業界全体を良くしていく。「やっと宮古島らしくなってきた」と感じています。

【プロフィール】
株式会社なかざと 代表 仲里 穏恒(なかざと やすのぶ)
出身:宮古島
経歴:宮古農林高校卒業後、鹿児島の第一工業大学土木工学科へ進学。東京で建設機械関連の仕事などを経験した後、宮古島へ帰郷。株式会社なかざとに入り、現在は代表就任3期目。
学生時代:サッカー、ギターなど

【編集後記】
仲里穏恒社長のインタビューでは、とにかくよく笑いました。「ハンドボールはキツすぎて辞めた」「見積もりだけくださいと言われると困る」「冷凍庫は僕より年上」「売上は伸びたけど死にそうです(笑)」。言葉だけ拾えば、明るくて面白い肉屋の社長です。

しかし、その笑いの奥にある経営はかなり細かい。価格だけで競わない。無理なサービスを当たり前にしない。30kgの注文を5kgずつに分ける。終業間際の電話注文を店舗の閉店時間のLINEに変える。利益が残らない取引を整理し、2億円を超える設備投資に備える。

父の「困っている人を助けたい」という姿勢を否定するのではなく、その人情を、社員も会社も続けられるサービスへ変えていく。仲里社長が語った「ラストワンマイル」という言葉は、まさに今のなかざとを表しているように感じます。

そして、視線は自社だけに向いていません。宮古牛の価値をどう高めるか。若い人が島へ戻れる仕事をどう残すか。後継者がいない会社をどう次につなぐか。

100年近く続いてきた「家業」を、自分の代で「次の誰かが継げる企業」へ変えていく。明るく笑いながら語る仲里社長ですが、その言葉の端々から感じたのは、島内企業としてこの食肉業界を次へつなぐという強い自負でした。