「街は、みんなでつくるもの」。佐和田はるかが広げる、シグマの「共創」
今回のOWNERSは、株式会社シグマの代表取締役、佐和田はるか氏です。
シグマの仕事は、道路や農地、橋などの設計だけではありません。現在は都市計画や条例づくりにも関わりながら、建設コンサルタントの領域を「街づくり」そのものへと広げています。
佐和田氏が大切にしているのは、「答えを持つ人が一方的に決める」のではなく、地域の人、行政、企業など、それぞれの立場が対話しながら一緒につくること。そこに掲げる言葉が「共創」です。
東京のIT企業でエンジニア、SNS運用、ファシリテーションを経験し、30歳で宮古島へ戻って父から会社を引き継いだ佐和田氏。トップダウン型だった組織を、社員一人ひとりの個性や言葉を生かす組織へ変えながら、今は「地域の人が、自分たちの街を自分たちの言葉で語れる状態」を目指しています。
【企業情報】
株式会社シグマ
宮古島を拠点に、道路・農地・橋などの設計、積算、現況調査をはじめ、都市計画や条例づくりなどにも関わる建設コンサルタント。佐和田はるか氏は2019年に代表取締役へ就任。
設計図を描くだけじゃない。「街をどうするか」まで考える会社へ
――株式会社シグマは、どんな仕事をする会社なのでしょうか?
大きく言えば「街づくり」です。
建設コンサルタントという仕事は、道路や畑、橋などのインフラをつくる前に、まず現地を調査して、今どうなっているかを把握するところから始まります。
そこから「今こういう状態だから、こうした方がいい」と発注者へ提案し、設計図を描いて、工事費を積算し、スケジュール感までまとめて納めます。実際に工事をするのは土木会社などですが、その前段階をつくるのが私たちの仕事です。
今はさらに、都市計画や条例づくりなど、もっと上流の部分まで広げています。宮古ではまだそこまで手がける建設コンサルタントは少ないですが、本来この仕事は、かなり広く街づくりに関われる仕事だと思っています。
――そこから「WIN-WIN-WIN」や「三方よし」という考えにつながっていったのですね。
元々「三方よし」という考え方は知っていましたし、父からも「道路や畑をつくることは、その時の工事だけではなく、将来そこで暮らす人たちの資産になるんだ」と教えられていました。
宮古に戻ってきてからも、「地域は本当はこうしてほしいのに、声が届かないまま開発されている」と感じる場面がありました。じゃあ、発注者にも良くて、会社にも学びがあって、最後にそこを使う地域の人にも良いものって何だろう、と考えるようになったんです。
会社だけが良ければいいわけではない。発注者だけが満足しても足りない。そこで暮らす人にとっても良いものにする。その三つを同時に考えたいと思っています。
――お父さまから受け継いでいる、設計への考え方はありますか?
父がよく言っていたのは、なるべく土地を変えないことです。削りすぎない、盛りすぎない。自然には元へ戻ろうとする力があるので、一瞬使いやすくなっても、無理に変えたものはどこかで不都合が起きるという考えでした。
だから、元々あった傾斜や景観、人が「美しい」と感じる感覚もできるだけ残す。今まで見えていたものが突然大きな壁で見えなくなるようなことは、できるだけ避けたい。
「当たり前にあったものを、当たり前に残す」。そこは今も大切にしています。
家業を継ぐためのキャリアではなかった。東京で学んだことが、全部いまにつながった
――子どもの頃から、会社を継ぐことを意識していたのでしょうか?
全然です。
南小、平良中から開邦高校へ進み、琉球大学へ行きました。勉強は親に言われてやっていたというより、分からないことを知るのが好きだったんです。
ただ、中学生くらいまでは「失敗しちゃいけない」「良い点を取らなきゃいけない」と自分で思い込んでいて、少し生き苦しかったですね。
何かあると前に出される機会は多かったです。小中学生の宮古代表のような役を任されたりして、周囲の大人が機会をくれることは多かったと思います。
――大学卒業後は東京へ。シグマとは全く違う仕事をしていたのですね。
東京ではIT系の会社を3社経験しました。最初はエンジニアでした。でも「プログラミング、私できないわ」と思って1年くらいで辞めて(笑)。次は企業のSNS運用をする会社で、文章を書いたりコメントに返信したりしていました。
そこで今度は「人の言っていることって、分かりづらいな」と感じるようになって。3社目で、ファシリテーションを学びました。人の意見を聞いて、引き出して、それを言葉にしてまとめる仕事です。
当時は全然意図していなかったんですけど、今振り返ると全部つながっています。ITも、文章も、対話も、今の仕事で全部使っています。
――宮古島へ戻り、会社を継ぐことを決めたきっかけは?
東京で働きながら子育てもしていて、「仕事も家庭も、今のまま一人では難しい」と思う時期がありました。そこで宮古に戻りながら働くために、当時まだ一般的ではなかったテレワークのような働き方を会社に提案しました。半分は宮古、半分は東京。そんな働き方を2年半くらい続けました。
その経験で、「働く場所は一つじゃなくてもいい」「どこにいても仕事は面白くできる」と実感しました。
ちょうどその頃、父も体調面を考えて会社を引き継ぎたい時期に入っていました。最初は兄が候補でしたが、兄が継がないとなって、「じゃあ私がやる。女でもいいでしょう」と。父をこれ以上悩ませたくないという気持ちもありましたし、「一歩踏み出せば何とかできるだろう」という、根拠のない自信もありました(笑)。
そして2019年に代表になりました。
――代表就任と同じ頃、「シグマ技研」から「シグマ」へ社名を変えています。
「技研」という名前には、どうしてもハード面、技術だけをやる会社という印象がありました。私はもっと幅広くやりたかったので、一度そこを外したんです。
でも「シグマ」という名前は残しました。父に「そもそもシグマって何?」と聞いたら、数学が好きな父らしく、「集合知。いろんな人が集まるように」という意味があったと聞いて。それは素晴らしいなと思いました。
私が引き継ぐなら、もっとカラフルな人材が集まる会社にしたい。そこからロゴも変えて、「株式会社シグマ」にしました。
人は、言葉を持った瞬間に伸びる。トップダウンから「対話する組織」へ
――お父さまの代から、自分の代になって一番変えたことは何ですか?
父は良くも悪くも、何でもできる人だったので、トップダウンでした。でも私はそんなに何でもできるわけではない。だから、みんなの力が必要です。
一人ひとりの個性を伸ばして、それぞれの強みを生かす組織にしたいと思っています。
――人材育成では、特に何を大切にしていますか?
人が一番伸びるのは、試練があって、それを乗り越える時だと思っています。でも、ただ苦労すればいいわけではなくて、その経験を自分の言葉にできた瞬間に、すごく伸びると思うんです。
「自分はこうしたい」「ここはもう少し改善した方がいい」と自分の言葉が見つかった時、本人の中にストンと落ちる。その時に初めて次へ進める。
だから、社員とはできるだけ対話します。何に困っているのか、自分をどう見ているのか。きっちり面談の時間を取るだけではなくて、3分でもいい。「今日ちょっと声が低いけど、何かあった?」みたいな短い会話を積み重ねる。
人って、話す回数が増えると、その人のことが好きになると思うんです。だからまずは対話の回数を増やす。そこは意識しています。
――「共創」という言葉も、対話と深くつながっていますね。
そうですね。東京で勤めていた会社が「共創」を掲げていて、商品も消費者と一緒につくるという考え方がありました。それにすごく共感していました。
街も同じだと思うんです。本来は、そこに住んでいる人たちと一緒につくるものなのに、都市計画や条例が「一部の専門家しか分からない難しいもの」になっている。それは少し不自然だと思っています。
私自身も以前は、「妻ならこうあるべき」「母親ならこうあるべき」という一般論のレールに自分を乗せすぎて、しんどくなった経験があります。そこから、自分の人生は自分で手綱を握るものだと感じるようになりました。
地域も同じです。誰かに決めてもらうだけではなく、自分たちの街を自分たちで考える。発注者と受注者という関係も超えて、「一緒に考えよう」「一緒につくろう」という世界へ行きたいんです。
――会社として、どんな数字を重視していますか?
もちろん利益は見ます。でも、それと同時に「学びにどれだけ投資できているか」も見たいと思っています。
人が学ばないと、会社も止まってしまう。だから一般管理費の中でも、何に使ったか、社員がどれだけ学びに時間やお金を使えたか、その費用対効果まで見ていきたい。
人が成長すること自体を、会社の大事な投資として捉えています。
「地域の人が、自分の街を語れるように」。共創を、宮古島の日常へ
――これから10年、シグマをどんな会社にしていきたいですか?
地域の人が、自分たちの街について当たり前に語れるようにしたいです。
今、条例づくりにも関わっていますが、条例を「作って終わり」にしたくないんです。困ったことがあった時に、「この条例のここに書いてある」「じゃあ次にどこへ相談すればいい」と、実際の行動につながるものにしたい。
都市計画も同じです。小学5年生が見ても分かるくらいのものにして、「ここにこう書いてあるから、一緒にこうしたい」と市民が話せるツールにしたい。
専門家だけが分かる計画ではなく、地域の人が使える計画にする。そこまでできれば、街づくりはもっと自分ごとになると思っています。10年と言わず、5年くらいで形にしたいですね。
――宮古島の街づくりで、今特に取り組みたいことは?
一つは、冠水しにくい街です。今は、昔畑だった場所が開発されて、土地が水を吸収する力がなくなっている場所もあります。道路をつくった時の前提と、今の周辺環境が変わっているんです。
だから、道路だけを見るのではなく、その周りの土地利用も含めて考え直す必要がある。個人のマンションや駐車場でも、敷地内で水を吸収・処理する考え方を取り入れるなど、民間でできることもあります。
開発することだけが街づくりではなく、維持管理や、自然が元々持っていた機能をどう残すかまで考えたい。そこは今後もっと広げたい分野です。
――女性経営者として、宮古島で会社を率いる中で感じることはありますか?
まだ「女性だから」という見方をされる場面はあります。でも一方で、YEGやJCなどでは、性別を超えて関わる人も増えてきました。
だからこそ、私自身がもっと自由に生きる女性像を見せてもいいのかなと思っています。子どももいるので、家庭を大切にしながら仕事をする。夜7時くらいになったら「もう今日はここまで」と割り切る。全部を完璧にやろうとしない。
それも含めて、自分なりの経営者像をつくっていけばいいと思っています。
――最後に、宮古島の若い世代へ伝えたいことはありますか?
「何かおかしい」と思ったことは、変えていっていいと思います。ただ、誰かを敵にして変えるのではなくて、相手にも相手の正義があるということを知ってほしい。
正義と正義をぶつけたら、戦いにしかなりません。だから「あなたは何を大切にしているの?」「私はここを大切にしている」と話す。若いうちに身につけてほしいのは、そういう対話の仕方です。
私は20代でファシリテーションを学べたことが本当に大きかったです。相手から違うことを言われた時に、「否定された」と受け取るのではなく、「あ、その見方もあったんだ」と思えるようになった。
物事を一方向からではなく、立体的に見られるようになると、「じゃあ誰と何ができるだろう」と次の想像へ進めます。
街も会社も、正解は一つではありません。だからこそ、一緒に考え、一緒につくる。その力をもっと広げていきたいですね。
【プロフィール】
株式会社シグマ 代表取締役 佐和田 はるか
生年月日:1988年6月生
出身:平良
経歴:南小学校、平良中学校、開邦高校、琉球大学を経て、東京のIT企業でエンジニア、SNS運用、ファシリテーションなどを経験。30歳で宮古島へ戻り、2019年に株式会社シグマ代表取締役へ就任。
大切にしている考え方:共創、対話、WIN-WIN-WIN
【編集後記】
佐和田はるか社長の話を聞いていると、「建設コンサルタント」という言葉の見え方が大きく変わります。道路や橋の図面を描く会社ではなく、その先にある「人がどう暮らすか」まで考える会社。
父から受け継いだのは、土地を必要以上に変えず、元々ある景観や自然の力を残すという姿勢。一方で、自分の代ではトップダウンから対話型の組織へ変え、都市計画や条例づくりまで仕事の範囲を広げています。
その真ん中にあるのが「共創」です。社員とも、発注者とも、地域の人とも、一緒に考える。答えを持っている人が誰かに与えるのではなく、それぞれの立場から言葉を持ち寄って形にする。
特に印象的だったのは、「人は、自分の言葉を持った瞬間に伸びる」という考え方でした。社員との3分の会話も、地域でのワークショップも、条例づくりも、佐和田社長にとっては同じ線上にあるのだと思います。
地域の人が、自分たちの街を自分たちの言葉で語れるようにする。シグマがつくろうとしているのは、道路や計画そのもの以上に、「一緒に街をつくれる関係」なのかもしれません。