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公開:2026年10月29日 更新:2026年10月29日 事業継承

「誰かが必ずやらなければならない」。佐久川直仁が担う、地域の最後のインフラ

今回のOWNERSは、有限会社環境クリーン開発の代表取締役、佐久川直仁氏です。

廃棄物の収集・運搬・中間処理、医療廃棄物の処理、そして葬祭。事業だけを並べると、一見まったく違う仕事に見えます。ところが佐久川氏は、その両方を「地域に必ず必要な仕事」と捉えています。

生活をすれば、ごみは必ず出る。人の人生には、必ず最後がある。どちらも普段は表に出にくいけれど、止まれば地域が困る。環境クリーン開発が担ってきたのは、そんな「誰かが必ずやらなければならない仕事」でした。

29歳で東京から戻った時、会社は倒産寸前。経理も決算書も分からないところから立て直しを始め、父の時代の最高売上を超えて代表へ。そこから廃棄物処理も葬祭も、設備とサービスの両面で少しずつ変えてきました。

DJとして東京のクラブで何千人もの前に立っていた青年が、なぜ島へ戻り、地域のインフラを支える経営者になったのか。話を聞きました。

【企業情報】

有限会社環境クリーン開発

廃棄物処理と葬祭を中心に事業を展開。現在の売上構成は葬祭が約7割、廃棄物が約3割。島内で特別管理産業廃棄物の処理許可を持ち、医療廃棄物の処理にも対応している。

「地域に絶対必要な会社」。廃棄物と葬祭をつなぐ共通点

――環境クリーン開発を一言で表すと、どんな会社ですか?

一言で言うと、地域にとって必ず必要な会社、必要な事業なのかなと思っています。

ごみや廃棄物は、生活していれば必ず出ます。事業活動をしていても必ず出る。葬祭も同じで、人の人生には必ず最後がある。だから、どちらも誰かがやらなければ地域が成り立たない仕事だと思っています。

売上の比率でいうと、今は葬祭が7割、廃棄物が3割くらいです。ただ、どちらか一方だけが伸びているわけではなく、会社全体の売上が上がる中で、両方とも少しずつ伸びています。

――廃棄物処理は、宮古島の中でどんな役割を担っていますか?

僕らは産業廃棄物の中間処理施設を持っていて、小型焼却炉で処理できるものは島内で処理しています。特に医療廃棄物については、島内で唯一、特別管理産業廃棄物を処理できる許可を持っています。

ただ、全部を島内で処理できるわけではありません。蛍光灯など、どうしても島外へ送らなければならないものもある。そうなると輸送コストが大きくなります。離島で廃棄物を処理する難しさは、そこにもあります。

台風の時もそうです。暴風警報が出れば営業は止めますが、その後は一気に廃棄物が増える。現場に置いてある廃棄物を早く回収してほしいという依頼も増えるので、止まった後の方が忙しいくらいです。

――リサイクルについても、新しい設備を入れていますね。

以前は、どうしても焼却処理が中心でした。でも、全部燃やしてしまうのはもったいない。そこで、比較的リサイクルしやすい発泡スチロールから始めました。

発泡スチロールは焼却すると黒煙が出やすいので、専用の溶融機を導入して、溶かしてインゴットという塊にします。それを沖縄本島のリサイクル業者へ出す。さらにその先へ運ばれて再資源化される形です。

島の中だけで完結できないという矛盾はあります。でも、焼却するだけではなく、少しでも循環させる方法を増やしていきたいと思っています。

ごみの量を見れば、島の景気まで見えてくる

――観光が伸びたことで、廃棄物の現場はどう変わりましたか?

かなり変わりました。

僕が戻ってきた頃から産業廃棄物の許可を取って、今で17年くらいになりますが、観光や事業所が増えたのに比例して、廃棄物も増えています。

特に分かりやすいのはペットボトルです。昔は缶が多かったのが、今はペットボトルが相当増えた。観光客が増え、飲食店や事業所が増えたことが、そのままごみの量に出ています。

逆にコロナの時は極端に減りました。お店が閉まり、観光客が減れば、ごみも減る。ゴールデンウィークや繁忙期には一気に増えて、オフシーズンになると落ちる。僕らは日々回収しているので、観光客が入っているかどうかが感覚で分かるくらいです。

――お店の状況まで、ごみの量で分かることがあるそうですね。

あります。宮古で勝負しようと新しくお店を出す方も多いんですが、撤退も早い。

最初はごみがたくさん出ていた店から、だんだん排出量が減ってくると、「ちょっと厳しいのかな」と感じることがある。そうすると、後から「今月いっぱいで閉めます」と連絡が来ることもあります。

そういう意味では、廃棄物の量って地域経済の一つの指標みたいなところがありますね。

大学よりDJ。東京で見た「成功している人の空気感」

――佐久川さん自身は、どんな子ども時代を過ごしましたか?

伊良部で育ちました。

団地に住んでいたので、学校から帰ったら近所の子どもたちと野球をしたり、山に虫を取りに行ったり、川でカニや小魚を捕まえたりしていました。

伊良部大橋がない時代なので、平良へ行くのは今でいう東京へ行くくらいの感覚でした(笑)。船がしけると「今日は平良へ行けない」と言われて、泣くくらい楽しみにしていました。

一方で、本を読むのも好きでした。母が小さい頃から絵本を読んでくれていたので、外で遊んだ後は図書館で借りた本を読む。小学校では児童会長、中学校では生徒会長もやりました。

――高校卒業後は東京へ進学しますが、大学生活よりDJにのめり込んだそうですね。

そうですね。音楽は昔から好きで、東京へ行ってから本格的にDJを始めました。渋谷のクラブで練習して、イベントでは2,000人、3,000人を集めるメインDJやプロデュースもやっていました。

大学は、遊びすぎて中退しました。親には申し訳なかったですけど(笑)。

ただ、DJをやっていると、いろんな業界の人や経営者に会うんです。「どうやって稼いでいるんですか?」とか、普通なら聞けない話をたくさん聞けた。大学を卒業していなくても活躍している人が東京にはたくさんいて、「こういう生き方もあるんだ」と感覚が変わりました。

その時に見た、成功している人たちの空気感は大きかったと思います。

――29歳で宮古島へ戻ったきっかけは?

親から「会社が厳しくて、倒産しそうだから助けに来てくれないか」と連絡がありました。もともと30歳くらいには帰ろうと思っていたので、29歳で戻ってきました。

会社の中を見たら、数字的にもかなり厳しい状態でした。弟もちょうど同じタイミングで戻ってきたので、「一緒に立て直そう」と。

経理も分からなかったので、決算書の読み方の本を10冊くらい買って勉強しました。自分で考えて実行したことが少しずつ数字に出て、売上が上がる。それが小さな成功体験になって、自信になっていきました。

父とは「父の時代の最高売上を超えたら、代表を交代しよう」と約束していました。それを超えて、帰ってきて7、8年で代表になりました。

「葬儀」ではなく、その人の人生の最後として送りたい

――もともと、なぜ葬祭事業を始めたのでしょうか?

会社の始まりは伊良部でのごみ収集です。

町から委託を受けて家庭ごみを回収し、クリーンセンターも運営していました。その横に火葬場があって、そこも委託を受ける中で、伊良部には葬儀社がなかったので、祭壇を用意するような最低限のサービスも始めたのがきっかけです。

僕が戻った頃、先輩たちがやっている葬儀を見て、「これで本当にいいのかな」と思ったんです。ネットで調べたり、宮古の他社を見に行ったりすると、宮古全体としてまだ遅れている部分があると感じました。

それなら外を見ようと、沖縄本島、さらに本土、北海道までいろいろな葬儀社や会館を見て回りました。そこで初めて、葬儀がきちんと「セレモニー」として成り立っている姿を見た。

「自分たちなら、こういう場所を作りたい」というイメージが固まって、伊良部だけではなく宮古全体をカバーするために展開していきました。

――宮古島の葬儀も、この十数年でかなり変わっていますか?

変わっています。昔は地域ごとに細かい風習があって、叔父や叔母の世代がずっと受け継いできました。でも、今は家族葬や直葬も増えて、少しずつ簡略化しています。コロナはかなり大きなきっかけだったと思います。

ただ、宮古はまだ地域のつながりが強い。家族葬が増えても、「知っている人が亡くなったら参列したい」という人が多いですし、地域によっては自治会や近所の人が支える文化が今も残っています。

――効率化が進む時代でも、葬祭だけは効率化してはいけない部分がありますか?

あります。亡くなった人にとって、本当に最後の時間ですから。

生産性や効率が大事な時代ではあります。でも、その人が80年、90年生きてきた人生の最後を、単に「葬儀」という一つの業務として事務的に終わらせたくない。

本人がどんな人生を歩んできたのか、その人を尊重して、ちゃんと送り出したい。

もちろん「何もしなくていい、火葬だけでいい」という故人の意思もあります。そこを尊重する家族もいれば、「やっぱり人並みに送りたい」と葛藤する家族もいる。だからこそ、一つの型にはめるのではなく、その人とご家族にとって何が一番いいのかを考える仕事だと思っています。

困っている時に、どれだけ寄り添えるか

――廃棄物処理と葬祭。一見違う二つの仕事に、共通するものはありますか?

今思うと、どちらもお客様が困っている時に関わる仕事なんですよね。

廃棄物でも、「これをどう処理したらいいか分からない」「早く回収してほしい」と困っている。葬祭では、ご家族が悲しみの中にいる。

だから社員にも、お客様の立場にどれだけ立てるかということは伝えています。言葉遣いもそうです。思いやりのある言葉を使う。聞かれた時にどう返すかというのも経験なので、そこは会社として大切にしていきたいと思っています。

――経営では、今どんなことを重視していますか?

今は設備投資がかなり大きくなっています。だから数年前から、キャッシュをしっかり貯めることを意識してきました。

全部を借入れ前提で投資するのではなく、自分たちで貯めたキャッシュを使いながら、不足分を融資してもらう。自己資本比率や借入依存度を見るようになってから、考え方はかなり変わりました。

現金があると、安心感もあるし、次の行動力も変わります。逆に投資すれば当然減るので、そこでまた襟を正す。その繰り返しですね。

――これから会社をどうしていきたいですか?

観光の島なので、将来的には観光関連の事業もやってみたい気持ちはあります。

ただ、まずは本業です。廃棄物も葬祭も、まだまだ足りない部分があるし、設備投資も必要です。まず今ある二つの事業をもっと強くして、会社の基礎を上げたい。

代表になってからは、会社をどこまで大きくできるかだけでなく、従業員の生活をどれだけ豊かにできるかを考えるようになりました。社員だけでなく、その家族まで含めて一緒に頑張っている仲間だと思っています。

――最後に、宮古島の若い世代へ伝えたいことはありますか?

宮古バブルとか家賃高騰とか、いろいろありますけど、背景ばかり気にせず、もっと挑戦してほしいですね。

僕も成功ばかりじゃなくて、失敗もあったし、きつい時期もありました。でも諦めずに、自分で勉強して、調べて、やっていけば、何かしらきっかけは見えてくると思います。

それから、宮古は横のつながりが強い島です。友達や先輩に話を聞きに行く。団体でも、飲み会でも、入ってみないと分からない出会いや成長があります。

若い世代からもっといろんな経営者が出てきたら、宮古島はもっと面白くなる。僕らの世代にとっても刺激になりますから。

【プロフィール】
有限会社環境クリーン開発 代表取締役 佐久川 直仁
生年月日:1979年8月生
出身:宮古島市伊良部
経歴:伊良部小・中学校、宮古高校を経て東京へ進学。大学在学中からDJ活動に没頭し、渋谷のクラブ等でイベントDJ・プロデュースを経験。29歳で宮古島へ戻り、経営難にあった家業の立て直しに参加。専務を経て代表取締役に就任。
大切にしていること:まず自分でやる/相手の立場に立つ/諦めずに学び続ける

【編集後記】
「廃棄物処理と葬祭」。最初に聞いた時は、なぜこの二つの事業が同じ会社にあるのだろうと思いました。

しかし佐久川直仁社長の話を聞いていくと、その答えはとてもシンプルでした。どちらも、地域で誰かが必ずやらなければならない仕事だからです。

台風の後に積み上がる廃棄物。島外へ送らなければ処理できない資源。医療廃棄物。家族を亡くし、どう送り出せばいいのか分からないご遺族。環境クリーン開発が向き合っているのは、いつも「困っている時」です。

だから佐久川社長が社員に求めるのも、特別な技術より先に「相手の立場に立つこと」でした。

東京では、何千人もの前で音楽をかけるDJだった。29歳で島へ戻れば、待っていたのは倒産寸前の会社。決算書の読み方から学び、父の最高売上を超え、代表になった。そして今は、廃棄物と葬祭の両方で設備投資を重ねながら、会社を次の段階へ進めています。

華やかな東京と、地域の裏側を支える仕事。一見遠く見える二つの世界ですが、佐久川社長にとってはどちらも、人と向き合い、人の間に入る仕事だったのかもしれません。

「誰にも頼らず、まず自分で先にやれ。その後に頼れ」。父から受け継いだその言葉の通り、まず自分で動き、学び、試し、その背中を見せてきた17年。

ごみも、人の最期も、普段はできれば考えたくないものかもしれません。けれど、そこを誰かが担っているから、地域の日常は続いていく。環境クリーン開発という会社の存在意義は、まさにそこにあるのだと思います。