88年の味を、100年の「喜業」へ。四代目社長が描く株式会社いちばの未来
第2回は、宮古島で長年親しまれてきた「市場すし」をはじめ、コンビニエンスストアや飲食店などを展開する株式会社いちばの代表取締役、與那覇翔太郎氏です。
【企業情報】
株式会社いちばの歴史は、公設市場の中で営まれていた食堂から始まる。その後、公設市場の大火をきっかけに巻き寿司づくりを始め、現在まで四代にわたってその味を受け継いできた。先代の時代には量販店や商店への卸売、コンビニエンスストア事業などへ事業を拡大。現在は「健康と笑顔をつくる市場グループ」を経営理念に掲げ、食を中心にさまざまな事業を展開している。
四代目の與那覇翔太郎氏が代表になったのは21歳頃。先代の急逝によって突然会社を背負うことになった。それから約15年。守るべきものを守りながら会社を成長させてきた與那覇氏が、いま次の目標として掲げているのが「100年喜業」だ。
21歳、何も分からないまま四代目社長になった
――もともと家業を継ごうという気持ちはあったのですか?
ほとんどなかったですね。小学校は平一小、中学校は平良中、高校は宮古高校で、小学校から高校までずっとサッカーをしていました。高校進学の時には那覇西高校のような沖縄本島の強豪校に行きたいという気持ちもあったのですが、一緒にサッカーをしていた仲間たちが「宮古高校で全国を目指そう」と言っていたので、そのまま宮古高校へ進みました。
高校卒業後は沖縄本島の食品製造会社に就職しました。それも「将来は家業を継ぐから食品関係を勉強しよう」と考えていたわけではなく、特にやりたいことも決まっていなかったので、先代に紹介されて「とりあえず行ってこい」という感じでした。1年ほどして宮古島へ戻り、ちょうど共和マンション向かいのココストアが始まった頃だったので、そこで働き始めました。スタッフから店長になって、普通に仕事をしていたんです。その頃も、自分がすぐ会社を継ぐなんて全く考えていませんでした。
――そこから突然、会社を継ぐことになったのですね。
先代が急に亡くなったんです。僕が21、22歳くらいの頃でした。宮古島に帰ってきてまだ1年くらい。ココストアの店長をしていたところから、突然社長になりました。最初は、社長というものが何なのかもよく分からないまま、ある意味軽い気持ちで引き受けた部分もあったと思います。でも実際に会社に入ってみると、当時は工場が2つあり、従業員も多く、会社としての仕組みもまだ十分に整っていませんでした。
社長にはなったものの、僕自身が会社の仕事を分かっていない。なので、まずは全部の部署に入りました。何年かかけて一つひとつの現場を経験して、会社の中身を覚えていきました。それでも、「社長とはこうあるべきだ」という姿と、自分の能力や実際にやっている仕事との差を比べてしまって、かなり悩んだ時期がありました。一度、東京へ逃げたこともあります。
当時は本当に孤独でしたね。今はチームとして会社を動かすことを意識していますし、周りに任せられることも増えました。それぞれの時期で経営の大変さは違いますが、振り返れば、何も分からない状態で会社を背負ったあの頃が一番苦しかったと思います。
公設市場から始まった巻き寿司。四代で守り続ける「味」
――株式会社いちばには、かなり長い歴史があります。
僕で四代目です。もともとは、ひいおじいちゃんの代に公設市場の中で、兵隊さん向けの食堂をやっていたと聞いています。その後、公設市場で大きな火事があり、「残ったもので何ができるだろう」と考えたところから巻き寿司が始まったそうです。それから現在の場所へ移り、「市場すし」として巻き寿司を作り続けてきました。僕自身も小さい頃は公設市場でよく遊んでいました。
祖父はNTTに勤めていたので、祖母が市場すしを継ぎ、最初は本当に家業という感じで細々と作っていたそうです。それを先代の時代に量販店や島内の商店などへ卸すようになり、会社として少しずつ規模が大きくなっていきました。ただ、先代から言われていたのは逆で、「会社を大きくするな」ということでした。家族だけでやればいい、大きくせず細々とやりなさい、と。
なぜそう言っていたのかを詳しく聞いたことはありません。でも、今自分が経営する立場になってみると、人を雇い、組織をつくることの大変さを知っていたからこその言葉だったのかなと思うことがあります。
――約90年続いてきた中で、変わらず守っているものはありますか?
やはり味ですね。宮古島では、年末年始やお盆、十六日祭など、家族が集まる時にお寿司を飾る文化があります。そういう宮古島の行事や暮らしの中で、市場すしを長く使っていただいてきました。だから僕たちにとって巻き寿司は、単なる一つの商品という感覚ではないんです。特に酢飯のレシピは、今でも親族だけで受け継いでいます。スタッフにも全部は教えていません。
もちろん、お米はその時々で状態が違うので、米の質を見ながら配合を少し調整することはあります。でも根本となる味は変えない。時代に合わせて会社や事業は変えていかなければいけませんが、宮古島の文化と一緒に残ってきたこの味は、これからも大切にしていきたいですね。
事業を増やすことから、理念で事業を選ぶ会社へ
――代表になってから会社の規模もかなり変わりましたか?
売上規模でいうと、僕が代表になった頃と比べて今は約3倍になっています。大きいのはコンビニ事業ですね。今は会社の売上の半分以上をコンビニが占めています。ただ、コンビニは売上が大きい一方で利益率は低いので、利益まで単純に3倍になったわけではありません。
最初は数字のことも本当に何も分からなかったのですが、経営を続けながら勉強して、少しずつ数字には強くなってきました。笑
コンビニ事業自体は、もともとコンビニ向けのお弁当を納品していたところから本部とのつながりができ、そこからフランチャイズ店舗の運営につながったと聞いています。先代はチャンスがあればどんどん進むタイプで、コンビニを始めた時も自分自身がオープニングスタッフとして現場に入っていたそうです。
一方で、僕の代になって始めた事業の一つがマイパマエスカーサです。僕自身も5、6年前までは現場に入って若いスタッフたちと一緒にやっていました。そうやって事業は広がってきましたが、今は「チャンスがあるからやる」という考え方から少し変わってきています。
――今、新しい事業を判断する基準は何ですか?
今は理念ですね。うちの経営理念は、「健康と笑顔をつくる市場グループ」です。新しい事業をするときも、「儲かりそうだから」だけではなく、それがこの理念に沿っているのかを一つの判断基準にしています。食を扱っている会社として約90年続いてきたわけですから、「健康」について自分たちなりの責任があると思っています。
沖縄は昔、長寿県と言われていました。それが今は平均寿命の順位も下がっています。もちろん、その原因が食だけということではありませんが、長く食に携わってきた会社として、自分たちにもできることがあるんじゃないかと思っています。食を通してお客さまに健康になってもらう。そして、お客さまだけではなく、働いているスタッフにも笑顔になってもらう。事業が増えるほど、何をする会社なのかが分からなくなりがちです。だからこそ、この理念を会社の中心に置いておきたいと思っています。
――経営者としての役割も変わってきましたか?
かなり変わってきたと思います。若い頃は、とにかく自分がやらなければという感覚が強かった。でも会社が大きくなり、人が増えてくると、それでは続きません。昔のようなワンマン経営では人が入ってこない時代にもなっています。会社が働く人を選ぶだけではなく、働く人も会社を選ぶ時代ですよね。だから今は、会社の目標だけを伝えるのではなく、スタッフ自身がどうなりたいのか、どういう人生を送りたいのか、その中でこの会社で働くことがどうつながっているのかを共有できるような会社にしていきたいと思っています。
僕はもともと人と話すことが得意なタイプではないんです。自分ではコミュ障だと思っているくらいで。笑 従業員とのコミュニケーションも含めて苦手な部分はありますが、そこは自分自身が殻を破っていかないといけないと思っています。人との関係が近い宮古島だからこそ、その良さを会社の力にできたらいいですね。
自分を育ててくれた会社を、100年続く「喜業」へ
――これまで会社を続けてきて、やっていて良かったと思ったことはありますか?
最近、勉強会や研修に参加する機会が増えて、その中で山合宿へ行ったことがありました。そこで一人で自分自身を見つめ直す時間があったんです。普段は目の前の仕事があるので、自分の人生や会社についてじっくり考える時間なんてなかなかありません。その時に改めて、「この会社にいて良かったな」と思ったんです。
もしこの会社がなかったら、僕の性格からして、もっとフラフラした人間になっていたかもしれません。学生時代から、明確な夢があったわけでもなく、周りに流されて生きていた部分がありました。そんな自分が会社を背負うことになって、いろいろな失敗をして、人と関わって、勉強するようになった。会社を経営してきたというより、会社に自分を育ててもらった部分も大きいと思っています。
そして会社をここまで続けてこられたのも、自分一人の力ではなく、スタッフとお客さまがいてくれたからだということを、その山合宿で改めて実感しました。僕にとっては一つの大きなターニングポイントだったと思います。
――若い世代に、何か伝えたいことはありますか?
僕自身が若い頃、目的を持たずに周りに流されていたので、「自分で決める」ということは大切にしてほしいと思います。自分の長男が中学校を卒業するとき、「宮古高校に行く」と言ったことがありました。「なぜ?」と聞いたら、「友達が行くから」と。それを聞いて、「その理由なら行かせない」と言いました。
自分自身が同じように周りに流されてきたからこそ、息子には自分で目的を持って選んでほしかったんです。今、息子は宮崎県の高校でプロサッカー選手を目指して頑張っています。毎週末の試合を父兄の方がライブ配信してくれるので、それを見るのが今の僕の一番の趣味です。これは会社で働く若い人たちにも同じことが言えると思っています。入った会社が自分の理想と違うからといって、すぐに会社を変えるだけではなく、「だったら自分でこの会社を変えてみよう」というチャレンジがあってもいい。
もちろん、本当に自分でやりたいことがあるなら、起業して挑戦するのもいい。どちらにしても、自分自身が目的を持って動くことが大切だと思います。
僕が21歳の自分に何か言うとしたら、「思ったことはすぐ行動しろ。悩んでいる暇はない」ですね。動いて失敗したら、その失敗から学べばいい。そして、
「もっと自信を持て。もっと周りを頼れ」とも言いたいです。これは今の自分にも言っていることなんですけどね。笑
――これから株式会社いちばを、どんな会社にしていきたいですか?
一つの大きな目標として掲げているのが、「100年喜業」です。会社にはいろいろな段階があると思っています。最初は家族で仕事をする「家業」。そこから利益を生み出す「稼業」になり、人を雇い組織をつくる「企業」になっていく。
今の僕たちは、ただ組織があるというだけではなく、自分たちで未来を「企てる」という意味での企業にならなければいけないと思っています。
そして、そのもっと先にあるのが、「喜業」です。お客さまに喜んでもらうことはもちろん、働いている全社員が仕事でもプライベートでも充実して、「この会社で働いて良かった」と思える会社にしたい。ただ100年間会社を残したいわけではありません。喜んでくれる人がいる会社として100年を迎えたい。
山合宿に行った時、自分自身との約束として一つの言葉を決めました。「従業員、スタッフの幸せのために学び続ける」今も会社に貼っています。自分が学び続けることも、会社を成長させることも、その先にいる人たちの幸せにつながらなければ意味がない。そこを忘れずに、まずは自分の代で100年までつなげたいと思っています。
株式会社いちば 代表取締役 與那覇翔太郎
出身:宮古島市平良
生年月日:1989年9月生
趣味:息子のサッカー観戦
好きな言葉:幸せ
尊敬する経営者:西里長治氏
編集後記
21歳という若さで、突然約90年続く会社を背負うことになった與那覇翔太郎社長。何も分からないまま代表となり、会社のすべての部署に入り、時には自分の能力と社長という立場の差に悩み、宮古島から逃げたこともあったと言います。しかし、それから約15年。会社の規模を約3倍に成長させながら、與那覇社長が行き着いたのは「大きな会社にする」という目標ではありませんでした。四代にわたって受け継いできた酢飯の味を守るように、変えてはいけないものは守る。一方で、会社の経営や働き方は時代に合わせて変えていく。
その先に掲げた言葉が「100年喜業」です。お客さまだけでなく、そこで働く人たちにも「この会社で良かった」と喜んでもらえる会社であること。「会社を大きくするな」と教えられた四代目が目指しているのは、会社の大きさではなく、そこで生まれる「幸せ」を大きくすることなのかもしれません。宮古島の祝いの席に長年並んできた一本の巻き寿司。その変わらない味とともに、株式会社いちばは100年という次の節目へ向かっています。