現金18万円から始まった郷家。奥平幸司が「食」で宮古島を元気にするまで
第3回は、宮古島を代表する飲食店の一つ「郷家」を立ち上げ、料理人として、経営者として、そして宮古島の「食」を盛り上げるために走り続ける奥平幸司氏です。
【店舗情報】
郷家は約22年前、元Aコープだった広い店舗を活用してオープン。宮古島の料理と酒、三線ライブ、クイチャーを組み合わせ、観光客が島の文化を体験できる店へと成長してきた。2012年には、宮古島の食材を和食で表現する「郷家はなれ」も開業。奥平氏は店舗経営だけでなく、調理師会の再始動や料理人の育成、宮古島産食材の活用などにも取り組み、「食」を通して島全体を元気にする活動を続けている。
海のすぐそばで育ち、いかだで沖縄本島を目指した少年時代。大阪であえて厳しい料理の世界へ飛び込み、宮古島へ戻った後は家族が抱えていた借金とも向き合った。郷家を始める時、手元にあった現金は18万円。それでも「どうしたらできるか」を考え続け、店をつくり上げた。苦労話でさえ笑って話す奥平氏。その明るさと行動力の奥には、料理と宮古島への一貫した思いがある。
「沖縄本島に行くぞ!」海で遊び回った少年が料理人になるまで
――子どもの頃から、今のように元気な性格だったんですか?
そうだね。海の近くで生まれたから、毎日海で遊んでいました。釣り竿を持って自転車に乗ったら、15秒以内に漁場に着くような場所です(笑)。あの頃は港も今みたいに埋め立てられていなくて、本当に海が遊び場でした。
先輩たちとパレットに発泡スチロールを詰めていかだを作って、「沖縄本島に行くぞ!」って旗まで立てて出ようとしたこともあります。行けるわけないんだけど(笑)。港を出たら海上保安庁に止められて、結局「那覇は無理だから伊良部に行こう」と。でも今度は流されて、パイナガマの方まで行ってしまったり。そんなことばかりしていました。
携帯もSNSもなかったけど、いつも集まる場所と時間は決まっていて、その場で何をするか決める。雨でも晴れでも毎日楽しかったですね。今思えば、ああいう遊びの中で「とりあえずやってみる」という性格ができたのかもしれません。今、海洋少年団に関わっているのも、子どもたちにあの頃のような体験を少しでも伝えたいという思いがあります。
――料理人になろうと思ったのは、いつ頃ですか?
小さい頃、両親がレストランをやっていて、僕はその厨房で遊んでいたんです。「これが牛肉、これが鶏肉、これが豚肉」「これはとんかつになるよ、これは照り焼きになるよ」って教えてもらいながら、食べたり作ったりしていました。小麦粉に水を入れてぐちゃぐちゃにして揚げて、「サーターアンダギーできた!」とかね。今考えたら全然違うんだけど(笑)。でも、小学3年生の作文にはもう「僕はコックさんになる」と書いていました。
高校卒業後は辻調理師専門学校へ行きました。当時、宮古から進学するなら東京か那覇が多かったんです。でも僕は、みんなと同じところへ行くと絶対に流されて遊ぶと思った。だから、あえて知り合いの少ない大阪を選びました。卒業後の就職先も同じです。先生に「一番大変なカウンターの店はどこですか?」と聞いて、紹介された大阪・北新地の割烹へ面接に行きました。親父さんがめちゃくちゃ怖くて(笑)。先生からも「厳しすぎてみんな辞める。お前もすぐ辞めるよ」と言われましたが、「じゃあ、そこにします」と。
当時は、「人が5年で成し遂げることを3年でやろう。人が3年でやることを1年でやってやろう」と考えていました。かなりギスギスしていたので、あの頃の自分にはあまり会いたくないけど(笑)、約5年間そこで学んだことが今の料理人としての基本になっています。大阪で和食を学びながら、「沖縄の魚や野菜で和食を作ったら面白いだろうな」とずっと考えていました。その思いは後に「郷家はなれ」につながります。郷家を始めた時から、「いつか和食の店もやる」と決めていました。
「無理無理無理!」から始まった郷家。手元にあったのは18万円
――大阪から宮古島へ戻り、郷家を始めるまでにはかなりいろいろあったそうですね。
大阪にいた時、親父から「店が苦しい」という話を聞いて、それなら近くまで戻ろうと思いました。最初は沖縄本島で暮らそうとしたんです。でも当時は、不動産屋で話が進んでも最後に「宮古の人? 宮古の人には貸せないよ」と言われるような時代でした。
実際に「宮古の人お断り」と書いてある店もあったくらいです。結局、宮古へ戻り、親父がイーザトでやっていた店を使って、食べ放題・飲み放題のビアホールのような店を始めました。忙しい日はものすごく忙しかった。でも食べ放題だから、お客さんが取った料理が大量に残って、最後は残飯になる。それを見るのが悔しくて、「なんで俺、こんなことをやっているんだろう」とずっと思っていました。
それでも続けたのは、親に借金があったからです。店を銀行に取られるかもしれない。親父が亡くなった後に残ったのも借金でした。ビルを建てている途中で建設会社が倒産して、また別の会社と契約して建て直したので建設費は大きく膨らみ、当時は金利も高かった。最終的にはそのビルを手放しました。
その後、串屋グループに入りました。石垣店や那覇店の立ち上げを任せてもらい、図面の変更、厨房づくり、料理、業者とのやり取りまで一通り経験しました。約3年で卒業しましたが、後に自分の店を作る時には、この経験がものすごく役に立ちました。
――そして、今の郷家の場所と出会うわけですね。
そう。僕がまだ那覇の串屋にいた時、お袋が元Aコープだった今の郷家の場所で「自分で店をやりたい」と言い出したんです。妹から「一回帰ってきて」と言われて、飛行機を降りたその足でここへ連れてこられました。店を見た瞬間、「無理無理無理、無理無理! どう考えても無理だろう!」って(笑)。こんな大きな店、当時の宮古にはほとんどない。しかも中はまだAコープの設備が残っている。
でも、一日ここに座って考えました。「どうやったらこの店を流行らせられるかな」と。お母さんに難儀させるくらいなら、もう俺がやってどうにかしよう、と。その時、手元にあった現金が18万円。まず床に使う杉板が必要だと思って見積もりを取ったら24万円でした。「現金はこれしかない。残りは後で払うからどうにかできないか」とお願いして、先に板を手に入れました。
さらに、スーパー時代の冷蔵設備を捨てる見積もりを取ったら900万円と言われた。「900万円? じゃあ捨てなければいいさ」と(笑)。棚を外すと空洞があったので、そこを飾り棚にしたり、杉板で壁を作って設備ごと全部埋めました。大工さんへの支払いも現金がない。カード会社から借りて工賃を払い、店がオープンしたらお祝いと売上で返す。返したらまた借りられるから、また借りて次を払う。その繰り返しを2年くらいやりました。
だから本当に、「明日どうする?」という毎日。でも今振り返ると、いい思い出なんですよ。お金がないから、お金で解決できない。「どうしたらできる?」ってずっと考える。紙1枚も無駄にしたくなかった。あの頃は大変だったけど、すごく面白かったですね。
――しかも、郷家のスタートには歴史的な台風まで重なった。
そう(笑)。プレオープンの日が歴史に残る台風14号マエミーだったんです。食材を仕入れて、仕込みをして、オープン準備ばかりしていたから、ニュースもほとんど見ていない。
「台風来るよ」と言われても、「いつもの台風でしょ、大丈夫!」って。 親戚からも「お前、何考えてるか?」と言われましたが、勢いでプレオープンしました。知らない人も友達もたくさん来てくれて、お祝いしてもらって、最後のお客さんを見送った瞬間に停電。その後3日間です。もう、どん底から這い上がってきました(笑)。
僕らの日常が、観光客にとっては非日常だった
――今の郷家に欠かせない三線ライブは、最初からやっていたんですか?
いや、最初はやっていません。というより、お金がなくてできなかった(笑)。音響を買えるお金もなかったですから。当時、民謡をやっている店を見に行って、「美味しい料理があって、楽しい酒があって、そこに民謡があったら面白いんじゃないか」と思ったんです。
そこから少しずつ三線ライブを始めました。ある時、演者さんに「クイチャーできる?」と聞いたら「できる、できる」と言うから、「じゃあ最後にみんなでやろう!」と。「はい皆さん、宮古島の伝統的な踊り、漲水のクイチャーやりますよ! 右、真ん中、ちょんちょん!」って僕がやり始めました(笑)。
当時の沖縄本島の民謡酒場も見に行きましたが、ライブチャージも高かった。郷家なら80人、100人入る。だったら一人300円くらいなら演者さんにもきちんとお金を払える。美味しい料理を出して、楽しいお酒があって、三線ライブがある。そこから今の形ができていきました。
――その後、観光客を強く意識するようになったのですね。
最初から観光客だけを見ていたわけではありません。島の人にも来てほしかったから、ビールを安くしたり、タイムサービスをしたりしていました。でも観光客が増えてきて、少しずつ「観光で来た人にもっと喜んでもらうには?」と考えるようになりました。そこで料理も観光客目線で見直したんです。すると面白いんですよ。紅芋のコロッケがこんなに喜ばれるのか。もずくの天ぷらがこんなに出るのか。僕らが普通に食べているカツオの刺身を「すごく美味しい」と言ってくれる。
そこで気づいたんです。
「僕らの日常が、観光客にとっては非日常なんだ」と。社員研修でディズニーランドへ行った時にも、「郷家も、ここに来たら宮古島を体験できる、そんな感覚にしたい」と思いました。そこから観光のお客さんへしっかり振り切ったら、一気に店が伸びていきました。
――「沖縄のおばぁ家(や~)のお祝い」というコンセプトも、その中で生まれた?
最初は「沖縄のおばぁの家みたいにしたい」と考えていました。でも、何か足りなかったんです。ある時、「おばぁ家(や~)じゃない。おばぁ家(や~)のお祝いだ」と思った。沖縄のおばぁのお祝いって、親戚がみんな集まるでしょう。
美味しい料理があって、おばさんたちが集まって料理を作る。見た目は派手じゃなくても、食べたら美味しい。オリオンビールと泡盛がある。誰かが歌い出したら手拍子が始まって、指笛が鳴る。「あ、これが三線ライブだ」って、全部ストンとつながったんです。だから郷家は、「沖縄のおばぁ家のお祝いの中に、お客さんを招き入れる」という店にしようと。僕らは「食」を売ってるんじゃなくて、「宮古島の文化の体験」を売っている。そうスタッフに話したら、みんなも「ああ、それだ」と分かってくれました。
「食」は、人を良くする。だから宮古島ごと元気にしたい
――郷家はなれでは、宮古島の食材をかなり意識して使っています。島の食材にはどれくらい可能性があると思いますか?
ものすごくあります。僕が宮古の野菜を使って料理を出したり、こういう話をしたりしていると、農家さんが「幸司、これ作ろうと思ってるんだけど売れるかな?」って相談に来るんです。そういう時は、「めっちゃあるよ。どんどん作れ。俺が責任持って使うよ」って(笑)。
農家さんは作るのは上手だけど、出口が分からないことがある。「どれだけ作ったらいいのか」「本当に売れるのか」と不安になる。だったら僕ら飲食店が出口になる。そうすると農家さんも新しい野菜に挑戦してくれる。宮古のトマトもカボチャも、本当にレベルが高いと思っています。ただ、自分たち自身がその価値をまだ十分に分かっていないし、外への伝え方も上手じゃない。
最近は島の地下水や土についても勉強しています。山がない、川がない、水がない島だと思っていたけど、調べるほど「いや、全然違う。ものすごい水がある」と分かってくる。だから今は、本当に思います。
「めちゃくちゃすごい、この島のポテンシャルは。宮古島には、もうありすぎる」って。
――しかし、観光客が増えるほど「島の食材が足りない」という問題もあります。
そこは大きな課題です。例えば夏は台風の影響もあって、宮古島にゴーヤーがほとんどない時期がある。一方で1月から4月頃には野菜がたくさんできる。しかもすごく美味しい。観光のピークは夏なのに、その時に島の野菜が少ない。だったら冬に採れた野菜を冷凍したり、乾燥加工したりして、夏まで保存できる仕組みを作ればいい。
農家さんの所得も増える。飲食店も島の食材を使える。観光客にも宮古島のものを食べてもらえる。食だけの話ではなく、農業と観光まで全部つながるんです。僕はそういう仕組みをずっと提案しています。まだなかなか進まないところもありますが、「できない」で終わるんじゃなくて、「どうしたらできるか」を考えていきたいですね。
――ご自身の店だけでなく、調理師会や飲食業界全体にも関わっているのはなぜですか?
調理師会をもう一回立ち上げた理由は一つです。「料理人の地位向上、技術向上」。僕はもう、それしかなかった。料理人みんなで質を上げていきたかったんです。
料理人みんなの技術が上がったら、料理の質が上がる。店の質が上がる。それが観光につながる。宮古島にとって「食」はものすごく大切ですから。同業者も、僕はライバルだと思っていません。「同志」です。島出身でも移住してきた人でも、宮古島が好きで、宮古島の食を良くしたいと思っているなら一緒に勉強して、一緒に伸びていけばいい。若い料理人もどんどん育ってほしい。「若手を伸ばすことも観光」だと思っています。僕一人の店が良くなるより、島全体の飲食店が良くなった方が絶対に面白いでしょう。
――これから料理人や経営者を目指す若い人に伝えたいことは?
まずは、失敗を考えすぎずに飛び込めよ、ですね。みんな「失敗したらどうしよう」と考えるけど、失敗はするんですよ(笑)。まずやってみる。ダメだったら少し変えればいい。それと、一人で悩まないこと。相談する相手を作る。自分を出したら、意外とみんな助けてくれます。恥ずかしがることじゃない。
そして、一番大事なのは自分が健康であることです。健康だったら動けるし、考えられる。僕は「オーナーの健康=お店の健康」だと思っています。元気なオーナーの店は元気なんです。飲食店だから夜遅くまで起きて、飲みに行くのが当たり前、ではなくていい。30分だけでも運動する。その30分を作るだけで全然違います。
自分が元気だからこそ、前向きなことも考えられる。それは飲食店だけじゃなく、どの業界でも同じだと思います。そして、僕が好きな言葉は「努力」です。ただ、僕の中では単に「努力すれば成功する」という意味ではありません。
努力=最幸。
努力した先にあるものは「最高」であり、同時に「最も幸せ」な状態なんじゃないかと思っています。だから努力すること自体を苦しいものとは考えていません。自分が成長したり、周りの人が喜んでくれたり、その先にある幸せにつながっていくものだと思っています。
――料理人をやっていて良かったと思うのは、どんな時ですか?
やっぱり、自分の料理を食べて人が元気になった時ですね。この前も、「体調が悪いからキャンセルしたい」というお客さんがいたんです。でも料理はもう準備していたので来てくれて。最初は本当に調子が悪そうだったのに、帰る頃にはものすごく元気になっていた。「何かあったんですか?」と聞いたら、「めっちゃ美味しかった」って。
僕はスタッフにもよく言います。「食」って、「人を良くする」と書くでしょう。僕らは、その「食」に関わっている。つまり、人を良くする仕事をしているんです。だから料理を出す時も、「これ、○か×かで考えて。三角はないよ」と言います。「盛り付けはいいから」「早く出せるから」と理由をつけた時点で三角になる。でも三角は×です。自分たちが「人を良くする料理だ」と思えないものは出さない。料理人としても、経営者としても、そして宮古島の食に関わる一人としても、そこはずっと大切にしていきたいですね。
株式会社郷家 奥平幸司
生年月日:1969年7月生
出身校:平一小学校・平良中学校・宮古高校
料理修業:辻調理師専門学校、大阪・北新地の割烹
所属団体:宮古島観光協会 副会長、沖縄県飲食業生活衛生同業組合 宮古支部 副支部長、沖縄県食品衛生協会 宮古支部 支部長、宮古島調理師会 行政連携統括、宮古島地産地消推進協議会 会長、宮古島商工会議所 製造業部会 副部会長、宮古島海洋少年団 副団長
編集後記
奥平幸司さんと話していると、とにかく明るい。現金18万円しかなかった話も、親の借金を背負った話も、台風マエミーの日に店を開けた話も、本人が話すとなぜか最後は笑い話になります。しかし、その明るさは「何とかなるさ」と待っている明るさではありません。お金がなければ、あるもので店を作る。900万円かかるなら、冷蔵設備ごと壁に埋める。失敗しそうでも、まずやってみる。そしてダメなら変える。奥平さんが約22年間繰り返してきたのは、徹底して「どうしたらできるか」を考えることでした。
その行動力は、今では郷家という一つの店だけに向いているわけではありません。農家さんが新しい野菜を作れば「俺が使う」と背中を押し、料理人の技術を上げるために調理師会を動かし、若い経営者には「まず飛び込め」と声を掛ける。そして、宮古島について話し始めると「この島には、もうありすぎる」と目を輝かせます。約60年この島を見てきた人が、今なお宮古島の可能性を見つけてワクワクしている。その姿こそが、奥平幸司という人の一番の魅力なのかもしれません。
「食」は、人を良くする。
一皿の料理で人を元気にし、一軒の店から宮古島の文化を伝え、そして今は島の食そのものをもっと良くしようとしている。今日もきっと、奥平さんは誰かを巻き込みながら、次の面白いことへ走り出しているはずです。