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公開:2026年9月7日 更新:2026年9月7日 創業

「完走したら独立する」。新崎亮太がつくる、人が活きるトライファクトリー

今回のOWNERSは、宮古島で飲食・美容関連事業などを展開するトライファクトリー株式会社の代表取締役、新崎亮太氏です。

【企業情報】

トライファクトリー株式会社は、2014年に個人事業としてレンタカー事業からスタートし、2016年に法人化。その後、花、弁当、飲食などへ事業を広げてきた。現在は琉球個室居酒屋AGUNIYAをはじめ、美容関連事業や新たなスカルプ事業を展開している。一方で、育てた事業を次の担い手へ譲るM&A・事業譲渡も積極的に活用する。会社が掲げるビジョンは「人が活きる企業を作って地域に貢献する」。一つの事業を守り続けるのではなく、つくり、育て、託し、また次へ挑戦する。その独特の経営スタイルは、どこから生まれたのか。

事業をつくり、育てて、人へ渡す。「出口」から考える経営

――レンタカー、花、弁当、飲食、美容。これまでいくつもの事業を立ち上げていますが、新しい事業を考える時、最初に見るものは何ですか?

もちろん、事業として成り立つかどうかは見ます。でも僕の場合は、まず「やりたい」が強いですね。思いついたら早い。全部を計画してから動くというより、まず動いて、やりながら考えていくタイプです。

最近はそこに、「宮古島に何が足りていないか」という視点も以前より強くなりました。青年会議所で地域に関わったことも大きかったと思います。最初の頃は自分がやりたいことから始まっていたけれど、今は「この島に必要なのか」「ここに空いている役割があるのか」も見るようになりました。

――その考え方がよく表れている事業はありますか?

花屋ですね。宮古島では当時、冠婚葬祭の生花祭壇を組む技術を持つ人がほとんどいないという話がありました。僕は沖縄本島にいた頃、バンド活動をしながら花屋で5年ほど働いていて、その技術を持っていたんです。JAから「一緒にやらないか」と声をかけてもらって、「提携してくれるなら立ち上げます」と動き始めました。

もともと花屋で働いた理由だって、将来花の仕事をするためではありません。バンドをやっていて、ライブの時に休みやすい仕事だったから(笑)。当時は仕事なんて何でもよかった。でも5年続けたら技術が身につき、それが何年も後に宮古島で一つの事業になった。人生って分からないですよね。

その花屋も、後に店長として育った人へ事業譲渡しました。自分がずっと抱えることより、その事業を活かせる人がいるなら任せた方がいい。今振り返ると、こういう形が自分には合っていたんだと思います。

――レンタカーや弁当も、育てた後に売却しています。

最初のレンタカーは妻と二人、10台ほどから始めました。そこから駐車場を確保して車を増やし、30台、40台という規模まで育てました。そして2019年末に事業譲渡しました。その直後にコロナが来たので、「お前、コロナが来るのを知っていたんじゃないか」と言われましたけど、そんなわけないです(笑)。

弁当事業も同じです。原材料やいろいろなコストが上がっていく中で、弁当は簡単に値段を上げにくい。まだ利益が出ていて、事業として価値があるうちに次へ渡した方がいいと判断しました。レンタカーは本土の会社へ、弁当は地元の会社へ売却しています。

毎月同じ事業の利益を積み上げ続けるより、「何かをつくり、価値をつけ、育ったところで次の人へ託す」。それが自分の経営スタイルだと、経験を重ねる中で分かってきました。

――今は、事業を始める時点から「出口」まで考えているのですか?

そうですね。今は始める時に「この事業はどうやったら価値がつくのか」「誰かに引き継げる形になるのか」「M&Aできる形になるのか」という出口を考えます。AGUNIYAをつくった時もそうです。始める前から出口を考える。

ただ、売ること自体が目的ではありません。会社のビジョンは「人が活きる企業を作って地域に貢献する」です。その事業をもっと活かせる人がいるなら、その人に渡す。そこで仕事が続き、人が活躍できる場所が残る。大きな事業譲渡なら納税という形でも地域に還元できる。僕はそれも一つの地域貢献だと思っています。

「完走したら独立する」「二代目は安泰」から抜け出して

――ここまで現在の経営について聞いてきましたが、トライファクトリーを立ち上げたきっかけは何だったのでしょうか?

26歳の頃に宮古島へ戻り、父がやっていた自動車関係の仕事を手伝いました。

もともとは兄が関わっていたのですが、兄が沖縄本島へ戻ることになって、その流れで父から「帰ってこないか」と話が来たんです。宮古島へ戻る前は、名古屋で鳶職をしたり、沖縄本島で花屋や農業をしたり、バンドをやったりしていました。だから最初から「家業を継ぐために帰る」という感じでもなかった。タイミングが重なって戻ってきた、という方が近いですね。

父の会社で働き始めてから、父の友人やお客様に「いいね、二代目は安泰だね」と言われることがありました。それが僕にはどうしても引っかかったんです。もちろん、そのまま残れば安定した道だったかもしれない。でも「このままでは、自分らしい人生を生きられない」と思うようになりました。

――そこで、なぜトライアスロンだったのでしょうか?

まずは自分の限界に挑戦してみようと思ったんです(笑)。27歳頃から宮古島のトライアスロンに挑戦して、4回出場しました。最初は完走できなくて、その後3回完走しています。

4回目に出る時に、自分の中で「これを完走したら独立する」と決めました。だから、その大会は絶対に完走しないといけない(笑)。会社を辞めることより先に、まず自分に約束をしたんです。

完走した後も、父にはすぐ相談しませんでした。父は僕が後を継ぐと思っていたし、独立すると言えば止められるのも分かっていた。だから先に金融公庫へ行って、「レンタカーをやりたい」と事業計画を持ち込みました。父の会社で対応しきれていないお客様をどう取り込むか、自分なりに計画を作って、融資の見通しが立ってから初めて父に「辞める」と伝えました。

父からすれば突然ですよね。当然、怒りました。でも、自分の人生だから、自分で決めて生きようと思った。そこからトライファクトリーが始まりました。社名の「トライ」も、このトライアスロンから来ています。「何があっても、あのトライアスロンよりきついものはない」「きつい時はあれを思い出そう」。そして、「いつまでたってもトライ、チャレンジする会社でありたい」。独立した時の覚悟を、そのまま会社の名前にしました。

――創業当初は順調でしたか?

いや、全然です(笑)。妻と二人で始めたばかりの頃は、仕入れの量を読み違えたり、「まあ大丈夫だろう」と根拠なく進めたりしていました。今だったら「これ、危ないな」と分かることも、当時は勢いで行ってしまう。振り返れば、よく乗り越えたなと思うこともあります。

でも、失敗しながら「自分はどういう経営者なのか」を少しずつ知っていった。最初から今のスタイルがあったわけではなく、動いて、間違えて、直して、その繰り返しです。

「県大会に行けば、母に会える」挑戦する力の原点

――新崎さんの「まず動く」という強さは、どこから来ているのでしょうか。子どもの頃はどんな少年でしたか?

僕は野球少年で小学校の頃からキャプテンをしていて、高校は副キャプテンを経験しました。

でも、自分では「みんなをまとめよう」と強く意識していたわけではないんです。気づけばそういう立ち位置にいたという感じですね。僕は宮古島の平良で育ちました。子どもの頃に両親が離婚して、母は沖縄本島へ行ったので、父と生活していました。ある日、学校から帰ったら母がいなくなっていた。子どもだった僕にとっては、かなり大きな出来事でした。

そんな僕にとって、野球には普通とは少し違う意味がありました。大会で優勝して県大会へ行けば、沖縄本島にいる母に会える。母が試合を見に来てくれるんです。だから県大会に行くために野球をしていたようなところもありました。

ピッチャーでキャプテンでもあったので、「自分が中心になって勝たないと県大会へ行けない」という気持ちがあった。周りの子とは、勝ちたい理由が少し違っていたのかもしれません。県大会へ行くと、監督が気を使ってくれて、僕だけ母のアパートに泊まらせてもらうこともありました。翌日、母に球場まで連れて行ってもらって試合をする。その時間がうれしかったんです。

――その野球が、浦添商業高校への進学にもつながります。

中学校でも県大会へ行くことを繰り返しているうちに、浦添商業から声をかけてもらいました。もちろん野球の強豪校だったこともあります。でも僕にとっては、「母と一緒に暮らせる」ということもすごく大きかった。母は僕のために浦添へ引っ越して、そこから沖縄市の職場まで通ってくれました。

高校では部員が120人ほどいる中で野球を続けました。宮古島から一緒に行ったキャッチャーと、最後の夏にバッテリーを組めたことも思い出に残っています。大学から声をかけてもらうこともありましたが、進学はしませんでした。

母には、僕のために無理をさせてきたという思いがありました。だから高校を卒業したら、これ以上負担をかけたくなかった。先生に「どこへ行けば一番給料をもらえますか」と聞いて、名古屋の鳶職へ就職しました。仕事そのものへの憧れというより、とにかく自分で稼ごうという選択でした。

その後は沖縄本島へ戻り、花屋、農業、バンド活動など、いろいろな経験をしました。当時は「これが将来の経営につながる」なんて考えていません。でも花の技術は花屋事業になり、バンドの経験は今の店での音楽や人とのつながりにも生きている。振り返れば、無駄だった経験はほとんどないんです。

「自分を知る」。人が活きる会社をつくる

――複数の事業を立ち上げ、時には手放す。その経営スタイルを、新崎さん自身はどう捉えていますか?

一番大事なのは「自分を知ること」だと思っています。

僕は自己分析をすごくする方です。周りに「あれをやった方がいい」「こうした方がいい」と言われても、その人の成功をそのまま真似することはできない。まず、自分がどういう人間なのか、何が得意で、何が苦手なのかを知ることが大事です。

最初は僕も、一つの会社を強くして長く続けていくことが経営だと思っていました。でも実際の自分を見ると、事業を立ち上げて、形にして、また次へ動いている。毎月毎月同じものを積み上げ続けるより、新しいものをつくって価値を高める方が自分には向いている。そこに気づいてから、経営の仕方も変わりました。

――自己分析は、立ち止まって考える時間を取るのですか?

いや、僕の場合は「動きながら」です(笑)。やってみて、「あれ、これ違うな」と思ったら変える。失敗したら、何が合っていなかったのかを考えて次へ進む。トライ&エラーですね。やらないと、自分が向いているかどうかも分からないですから。

――現場では、社長の仕事とスタッフの仕事をどう分けていますか?

僕はあまり、「これは社長の仕事」「これはアルバイトの仕事」と分けていません。AGUNIYAでも必要なら普通に中に入って仕事をするし、自分がやるべきことならやる。当たり前のことを当たり前にやるだけです。

それを見たスタッフが「自分も頑張ろう」と思ってくれたらうれしいですけど、そこまで狙ってやっているわけでもない。本当に、自分の目の前にやることがあればやる、という感覚です。一方で、仕組みにできるところや委託できる業務は任せていく。全部を自分が抱えることとは違います。

――これから、トライファクトリーをどんな会社にしていきたいですか?

10年後も、いろんなことにトライしている会社でありたいですね。正直、10年後にAGUNIYAが今と同じ形で残っているかどうかも分かりません。それくらい社会も宮古島も変わっていくと思う。だから形を守ることより、変化に合わせて挑戦し続けられる会社でありたいです。

「人が活きる企業を作って地域に貢献する」というビジョンは変わりません。事業をつくることも、人へ譲ることも、その人が活きる場所をつくるため。JCのような地域活動とは別に、親子で参加できるイベントなども考えています。会社の利益だけでなく、自分たちが地域に何を残せるかは、これからもっと大事にしたいですね。

宮古島の若い人たちにも、もっとチャレンジしてほしいと思っています。「どうせ二代目だから」「運が良かったから」と外から見れば簡単に言える。でも、継ぐ人にも創業する人にも、それぞれ見えない苦労がある。そういう話をもっと下の世代へ伝えれば、「自分もやってみよう」と思う人が増えるんじゃないかと思っています。

――これから商売を始める人に、一つ伝えるとしたら何でしょうか?

やっぱり「自分を知ること」です。何をやりたいかを探すことも必要です。でも決めた後に、もう一度自分を見る。自分はどんな性格なのか、どういうやり方なら力を出せるのか。経営のスタイルは人それぞれです。誰かの正解が、自分の正解とは限らない。

僕も、一つの事業をずっと続けるタイプではないと分かるまでに、いろいろ失敗しました。でも、その失敗があったから今の形が見えた。自分を知った上で動けば、自分なりの強い経営ができると思います。

――最後に、経営や人生で一番大切にしていることを教えてください。

父からは「真面目に生きなさい」とよく言われました。言葉としてはすごくシンプルですけど、父が長く商売をしてきた中で、全部を凝縮するとそこに行き着いたんだろうなと思います。

僕自身が一番大事にしているのは、「人を絶対に裏切らないこと」です。どんなにふざけたことをしてもいい。でも、人は裏切らない。そこを守っていれば信用が残るし、周りに人がいてくれる。明るくて楽しそうな人を見て「ああいうふうになれたらいいな」と思うこともあります。でも、その人にはその人の生き方がある。僕は僕で、真面目に生きながら、しっかり周りを見て、自分を知って、人を裏切らない。それだけは変わらないと思います。

トライファクトリー株式会社 代表取締役 新崎亮太

出身:宮古島市平良
生年月日:1983年5月生
大切にしていること:人を絶対に裏切らない
会社のビジョン:人が活きる企業を作って地域に貢献する
所属団体:沖縄宮古法人会青年部会、YEG

編集後記

印象的だったのは、「県大会に行けば、母に会える」という少年時代の話です。勝ちたい理由が、他の子とは少し違った。ピッチャーでキャプテンとして勝つことが、そのまま母に会える時間につながっていた。その経験を知ると、トライアスロンを完走してから独立し、思いついたらまず動く現在の行動力も、突然生まれたものではないことが分かります。

そして新崎社長の経営は、「一つの会社を守り続ける」ことだけを正解としていません。事業をつくる。価値を高める。人へ託す。そしてまた次へ挑戦する。その時に必ず、自分自身を見直す。「自分を知ること」という言葉は、単なる自己分析ではなく、失敗しながら自分に合う経営を探し続けてきた人だからこそ出てくる言葉だと感じました。

その一方で、どれだけ事業の形が変わっても、最後に残る軸は驚くほどシンプルです。「人を絶対に裏切らない」。つくる事業も、会社の形も、時代とともに変わっていく。でも信用だけは積み上げ続ける。挑戦と信用。この二つがある限り、トライファクトリーはこれからも「次は何を始めるんだろう」と思わせる会社であり続けるのだと思います。