みなさん、こんにちは。宮古は だいずばかーず(すごく大変)な暑さのようですね。お見舞い申し上げます。
夏バテ知らずのくま・かま、vol.56お送りします。
なんというばーかよ(どういうわけだ!)
宮国優子
なんというばーかよ。(どういうわけだ!)この感覚はなんだろう?県外にいて、沖縄・宮古の事を考える。宮古がどうしようもなく恋しくなって、いてもたってもいられなかったりする。でもその反面、宮古で長期間過ごしていると、宮古独特の出来事にばたふさりたりもする。なんの事はない。いつも沖縄宮古のことで頭がいっぱいでただの万年ホームシックなわけさぁ。
新聞記事で「定年後生活を考える」というのがあった。海外や沖縄で暮らすと生活費が安いとかそんな事が書いてあった。食費や交際費などの平均の統計も載っていた。一年間、いくばくかのお金(一円単位までは覚えていませんが二百万前後だったと思う)があれば、沖縄ではスローライフで素敵に生活されますよ、という感じ。沖縄と本土は生活様式や習慣はまるで違うのに簡単に数値化できるのでしょーか?宮古・沖縄に住めば、老後の不安から解消されるわけではないはずよ。ういぴとぅ(年輩者)は一生懸命働いたからだし、時代もあるさー。「安いお金で沖縄スローライフ」という書かれ方は県出身者として非常に居心地が悪い。
お金も大事さぁ、仕事も大事さぁ。だから東京にきたわけさーね。と、反論する私もいる。んーだよ。そーいえば、そうだった。
沖縄は人情が厚くて、いい人ばかりでと書いてある文章も多い。優しい人に囲まれて、自然を満喫して、楽しく暮らす。まあ、理想だね〜。あば(あれ)、まて、まてよ。本土に比べてそんないい人ばっかりだったけ?そんなわきまえたおつきあいばかりだったっけ?自分を含めて、ひいき目にみても・・そんな事はないっ!
ゆったりと自分の仕事をする。それもよく書かれている。でも、仕事を選択するほど余裕のある社会かね?与えられた場所で黙々と実直に仕事をこなしている人の多いこと多いこと・・。辞めたら次の仕事まで助走期間が長かったりするし。そんな生き方ははつまらないと思った時期もあった。「普通に暮らす」それは実は一番難しかったりして。なんとのばーかよ・・・。大変さいが。
スローライフと言って、沖縄がもてはやされているとしたら、なんだかお尻がムズムズする。たしかに東京の煩雑な生活に比べれば夢のような暮らしはできるだろう。しかし忘れてはならない。口やかましい家族、親戚、友人がいない人にとってはである。なので私にとっては、逃げも隠れも出来る東京の方がある意味だいずスローライフ・・・。
しかし、 東京でみんなに威張る。出身地は?と聞かれただけなのに、勝手に語る。沖縄は海がきれいで〜。宮古は特にきれいなんですよぉ。星もきれいでね。夕焼けもすごくて感動的なんですよ。ああ、もちろん夜明けも。どこでも近いから住みやすくて、人もざっくばらんでさぁ。素朴でさぁ。おもしろい人がいっぱいいますよぉ。どんどんエスカレートする。今の時期は風が気持ちいいとか、宮古そばはおいしいとか、ゴルフコースが安いとか。ゴルフやらんくせに言う。そして最後は「あ〜あ、帰りたいなあ」とつぶやく。その気もないくせに。いや半分くらいはあるはず。
おむつ替えながら、おっぱいあげながら、皿洗いながら、そんな事をつらつら日々考える。子供の頃、なんであんなに宮古の人たちが楽しそうに悠々と見えたんだろう。大人になったら毎日あんなに楽しいんだろうと思っていた。それは大きな財産かも知れない。
毎日毎時毎秒、宮古万歳と宮古敬遠との間で揺れ動く。そんな話を県外出身者の知り合いに話したら、「本当に好きなんだね〜」とあきれられた。だからよ〜、もう大嫌いだけど大好きなんだよね、沖縄。特に宮古。無限大に妖しい魅力を放ちまくる宮古に今日も乾杯、いや完敗です。
お店紹介8《大見屋呉服店》
松谷初美
大見屋呉服店は、大正の頃に創業された宮古では老舗の呉服屋さんである。市場通りにあったお店は、拡幅工事の為、今は西里通りのすぐ南側の通りで営業している。
創業当初は大見謝百貨店としてスタートし、戦後は台湾からの輸入品や洋服、雑貨なども扱っていたそうだ。その後、大見屋呉服店となり着物の専門店として発展していった。
今でこそ着物の需要は減ってきているが、昭和40〜50頃のピーク時には、訪問着、付け下げ、小紋、留袖などなどがたくさん出て、ひとりのお客さんが一回に数反頼むことも多かったそうである。特に離島(佐良浜、池間)の方たちの注文が多かったとのこと。遠洋漁業で南方から大漁で帰ってくると、神願いをするおばぁたちにお礼として、船主が反物を一反づつ差し上げていたらしい。
「今はそういうこともなくなってきたねー」と店主の政子さんは話す。
また昔は、正月はウールのアンサンブルの着物で過ごす人や、やらび(子ども)も着物を着ることも多かった。私も やらびぱだ(子どもの頃)、母ちゃんに連れられて大見屋さんに何回か来た覚えがある。正月用の着物と、うぽーぷぬ(大きな)髪飾りを買ってもらって、ぷーきて(喜んで)いたっけ。
それから宮古では、年長者になるにつれてのお祝いがとても盛んで、その度に着物を新調することも多かった。ひと頃は、61歳の祝い、70歳の祝いなどには、留袖や紋付袴などが多く出たそうである。
また8月8日には、一斉に米寿の祝いがある。おじいは紋付袴、おばぁは、紅型模様の明るい着物を着るのが主流だ。8月が近づいてきて、注文もそろそろ入ってきたそう。この時季、観光客も多いが、紅型の暖簾などが人気。
結婚式や成人式などの着物を求める人や、踊りを習っている人(琉踊や日舞、結婚式の余興の踊り、あるいは祭りの為の踊りなどなど)たちが、衣装を求めにくることも多い。長年の仕事で培われた政子さんのお見立てはお客さんから厚い信頼があり、内地に嫁いだ方からも注文が入ったりするそうだ。
新しいお店のイメージもだいぶ膨らみ、必要としてくれるお客さんがいる限りがんばりたい。宮古の若い人たちにも着物の良さを知ってもらい、また本物の良い物を見る眼を養ってほしいと政子さんは話していた。
着物について何か分からないことがあれば、気軽に行ってみてください。
《大見屋呉服店》
平良市西里160
電話:0980-72-2100
店主:大見謝政子さん
ミャークフツ講座 お父と母ちゃんの日常会話編
松谷初美
お父は玄関で とおうう”ぁ(台所)にいる母ちゃんに話している。
父「ばが 帽子やー んざんが ありゃー?」
(俺の帽子はどこにあるんだー?)
母「うまたんどぅ あーたー ぱずゆ」
(そこら辺にあったはずよ)
父「みーらいん どーや」
(見えないよー)
母「あば、んなぴ になーり とぅみ みーる」
(あれ、もっとしっかり探してごらん)
父「とぅみらいん てぃ あっじばー」
(探せないと言っているだろ)
母「うう”ぁが かなまずん ぬーりゅー むのー のーりゃー」
(あんたの頭の上にあるのは何か?)
父「いいー」
(ああー)
宮古方言で読む『我輩は猫である』
ひさぼう
ばーやー まゆ。名前(なまい)や んなだ にゃあん。
(吾輩は猫である。名前はまだない。)
何処(んざ)んうてぃ 生(ん)まりたずがら のーまい知(す)さん。のーがら っふぁっふぁぬ すぷたや所(とぅくな)んうてぃ ニャーニャーてぃ 泣きうたず事(くとぅ)がみゃあ 記憶(うぶい)どぅ うず。
(どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いていた事だけは記憶している。)
ばーやー うまんうてぃ どぅ 始(ぱず)みてぃ 人間(にんぎん)てぃぬ むぬうばあ 見いたず。あってぃ 後(あとぅ)から 聞すきつかあ うりゃあ書生てぃ あず 人間(にんぎん)ぬ 中んうてぃまい んにゃ のーまいしらいん やなばたむぬぬきゃあ どぅ あたずのーかん。
(吾輩はここで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ、人間で一番獰悪な種族であったさうだ。)
うぬ書生てぃぬむのお 時々(ぴょーすんな) 我々(ばんと)を捕(んちゃみ)ってぃ あってぃ 煮(に)い食(ふぉ)てぃぬ話(ぱなす)どお。あっすうが うぬ当時(ずぶん)な のーぬ考(かんがい)まい にゃあったんやいば 別段(なんずぅ)恐(うとぅ)るすてぃまい 思(うまあ)ったん。ただ彼(かい)が掌(てぃぬぴさ)んかい 載(ぬう)しらいってぃ スー てい持(む)ち上(あ)ぎらずたず時(とうき)んな のーがら フワフワていぬ肝(きむ)がまぬ あたずだきさいが。
(此の書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し其の当時は、何といふ考へもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じが有った許りである。)
掌(てぃ)ぬ上(うわあび)ん うてぃ 少(ぴっちゃ)落(う)ちつきってぃ 書生ぬ顔(みぱな)を見(みい)たずすがどぅ んにゃ 人間(にんぎん)てぃぬむぬぬ 見始(みいぱずみ)だら。うぬ時(ばーつん)妙(ぴん)なぎむぬやぁてぃ 思(うむ)ずたず くとぅ ぬどぅ 今(んなま)まい残(ぬく)りうず。第一(まず はあい)毛(きい)しい装飾(かざ)らい うらだからあ ならんぱずぬ顔(みぱな)ぬどぅ つるつるてぃ んにゃ うりゃあ 薬缶(ちゅうか)んどぅ んんかたずだら。
(掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たのが所謂人間といふものの見始であらう。此の時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛を以て装飾されべき筈の顔がつるつるしてまるで薬缶だ。)
うぬ後(あとぅ)から 猫(まゆ)んかいまい やまかさ 逢(いでぃお)うたずすぅが ういんぎ片輪(かたぱむぬ)うばあ 一度(ぴとうん)つんまい 見いたず事(くと)お にゃあん。
(其の後猫にも大分逢ったが、こんな片輪には一度も出くはした事がない。)
ういちゃあんな あらん 顔(みぱな)ぬ 真中(まんなか)ぬどぅ あてぃくとぅ 突起(とぅんがり)うず。あってぃ うぬ穴ぬ中から 時々(ぴょおすんな) ぷうぷうてぃ 煙(きうす)う 吹(ぱ)くだらよ。あがいたんでぃ んにゃ 咽(ぬど)お ぐっふぁみかし だまがりどぅ うたず。ういがどぅ 人間(にんぎん)ぬ 飲(ぬ)む 煙草(たぶく)てぃ あずむぬぬ事(くとぅ)てぃや やっとぅ んなまどぅ 知(す)ったず。
(加之(のみならず)顔の真中が余りに突起している。さうして其の穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。是れが人間の飲む煙草といふものである事は漸く此の頃知った。)
※( )は、夏目漱石『我輩は猫である』の原文
お便りコーナー
千葉県在住 福嶋さんより
<菜の花さんの夫婦を読んで>
今回もやっぱり泣きました。
自分のかみさんが、5年前乳がんで入院した事が有るんですが、その時のショックは今思い出すと、人生が終わってしまうくらいの勢いだったような気がします。病院では、毎日繰り返されている事とは思いますが、当事者としたら天下異変に等しい・・ 。(大袈裟すぎますが)いろんな事を考えて、悪い方向へ突き進んだり、まるっきり楽天的になったり頭の中が、大変忙しくなってしまい、ある意味では大変良い経験となった気がします。人生折り返し点を過ぎ、回りの関わりの有った人々の、不幸なども経験し、人間は、やはり、誰かによりかかって生活している事が解るようになりました。
夫婦を読んで一番感じるのは、この点が何処かで一致しているからだと思います。自分の未来の危うさなど、間接的なり、直接的なりに、やはり誰かによりかからざるをえないと思います。菜の花さん今後も、宜しくお願いします。
※福嶋さんも大変な経験があったのですね。菜の花の病院でのぱなす(話)、これからも期待してくださいね。お便りたんでぃがーたんでぃ。
東京在住 まなちゃんさんより
<カイゲンとみゅうとぅ>
毎回「今回のはどうかなぁ」と楽しみに読ませていただいてます。
今回の平田菓子店の話にあった「カイゲン」ですが、「開眼」と書いて亡くなった人に「あなたはもう亡くなったんですよ」と教える法要で、お葬式の翌日あたりに行います。今年の春に実家でもお葬式があり、平田菓子店の話は「そうそう、私も教えてもらったなぁ」と親切なお姉さんを思い出しながら、前々回の丸平せともの店(仏壇用品を買いに行きいろいろ教えてもらいました)の話も読み返してしまいました。
「みゅうとぅ」の話、うちの仲がいいとはいえない両親もそんな感じになるのかな〜何かにつけてよく喧嘩してるけど・・たまに帰る私達子供は、いいかげんに仲良くしてよと思うのですが、あれも愛情表現の一種ですかね。
これからも「宮古ってやっぱりいいさぁ」と思える話、楽しみにしています。
※「開眼」と書くことや、意味も すっさたんどー(知らなかったよー)。教えてもらって だいずぷからすむぬ(すごくうれしい)。これからもよろしくお願いします!
編集後記
松谷初美
宮古のあまりの暑さに実家でもついに、クーラーを取り付けたらしい。んー、うれしいんだが、悲しいんだがよく分からんなー。
あと4日経てば宮古に帰る。いつも空港から やー(家)に着くまでの10分くらいの間に私の心身は、まるでカメレオンのようにすっかり宮古色に変色する。一週間の夏休み。「帰ってきても やーんなかもーん(家にかまわない)」と母ちゃんに言われつつ、また外にいることが多いんだろうな。
沖縄から離れたところにいると(いなくてもか)、沖縄のことについてが書かれたものにすごく敏感になる。少しでも批判的なものには、怒りがでてくるし、あまりに褒めすぎると、そういうことばかりではないと妙に反発したくなる。やっかいな気持ちだなーと思う。
ひさぼうの「宮古方言で『我輩は猫である』」は、夏目漱石がもし宮古の人だったらと想像して書いたそうだ。みんながよく知っているフレーズ。くいんいだしい(声に出して)読んでみることをお勧めします。あずぬどぅあーどー。(味がありますよ)
みなさんからの感想メールが届く事が何よりの楽しみ、励みとなっています。みゃーくぬくとぅう(宮古のことを)知らないことも あてぃどぅあー(たくさんあります)。読者のみなさんと一緒に作っていくメルマガでありたいと思っていますので、ご意見、ご感想、投稿、よろしくお願いします。
次回は、8月7日の予定です。あつかー またやー。
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