くまから・かまから vol.447

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 こんにちは〜。
 ぴしーぴしだったかと思えば、夏日があったりと落ち着かない天候の宮古です。  
 がんづぅかり うらまずなー(お元気ですか)くま・かま最終号です。投稿をたくさんいただきました。感謝を込めて、お届けします。ゆみふぃーさまちよー(お読みくださいね)

地域の言葉を見つめ直すきっかけに

クイチャーマン(下地・与那覇出身)

 初美さん、18年と9カ月、毎月2回の『くまから・かまから』の編集・発行、お疲れ様でした。初美さんがインターネット時代に小さな宮古島の文化に誇りを持ち、それを世界に発信したことは画期的な意義があったと思います。

 私が『くま・かま』と出会ったのは『くま・かま』が創刊されて3年ほど経ったころ、初めてパソコンを買い、インターネットに接続し『くま・かま』の掲示板に投稿したのがきっかけでした。

 その後『くま・かま』のライターもさせていただき、ふるさと与那覇の「ゆなぱふつ」や各地域の言葉を見つめ直すとともに、初美さんをはじめ多くの『くま・かま』関係者との交流を深めることができました。たんでぃがーたんでぃ。それらは私の貴重な体験となりました。

 初美さんのこれまでのご尽力に敬意を表します。今後は「くま・かま掲示板」を通じて交流できることに期待しています。

くまから・かまから!

神童(平良・島尻出身)

 携帯をクルマに置いたまま、早めに寝てしまった昨日。今朝、携帯を確認したらピカピカと。メールマガジン「くまから・かまから」の管理人からCメールが入っていた。くまからかまからを12月中に終了するとのことだ。

 思えば当方のハンドルネームは宮古スピリッツにつけてもらったんだけど、同じハンドルネームでくま・かまのライターをしていた。当初、メールなるものが理解できず、メールを使用することもできなかった。なので記事はFAXや手紙という手段で管理人に届けていた。時代は平成だったのに当方は昭和だった。スタート当時はのりぼーも存命でな。

 いつの間にかブログを開始したのでメルマガから遠ざかってしまった。メルマガのおかげで日本全国に知り合いができた。掛け替えのない財産である。

 メルマガは記事の一部が書籍となり、出版祝賀会なるものも宮古島で催した。当方はライターということでリボンをつけて会場に入る予定だったのに、菜の花がその筋のひとと勘違いして入口で押し問答があったな。菜の花よ、俺を捕まえてその筋の人とな。当時は模範的な公務員だったぜ!

 オフ会なる催しも初めて知った。あれはかなり恥ずかしいな。

 初美、長い間御疲れさん。そして、ありがとう!

貴重なマガジン

ふくう(千葉在)

 くまかまマガジンが終わるのは大変寂しい事です。19年間も継続された事は同時に大変な偉業を達成された事と思います。私が初めて知ったのは、2003年頃だったかな家内が伊良部島生まれなので宮古島は何度か行っていました。言葉が解らず話かけられてもただただニヤニヤするほかありませんでした。

 くまかまでひさ坊さんからみゃーくふつ直講義を受けたりしながら聞き取りは出来るようになりました。神童さんの学校が無いシリーズ、菜の花さんの病院シリーズ、佐渡山さんの格言。ワタリマリさんのお兄さん物語、沢山の心に響く物語がありました。

 方言の解説また宮古民謡の解説など聞いただけでは判らないことが言葉で表現されて意味が解る事は素晴らしい事だと気づきました。バックナンバーで初期から読み直し宮古島の各地域の事が解りました。

 大変貴重なマガジンありがとうございました。ライターの皆さんありがとうございました。発行をして頂いた初美さん大変お疲さまでした。ありがとうございました。

受け継いだもの

Motoca(平良・下里出身)

 僕が生まれたこの空のことを
 僕はどれくらい知っているんだろう

 この言葉で始まるBEGINの『島人ぬ宝』の歌詞をかみしめていた頃に「くま・かま」に出会いました。宮古で生まれ育った私は、宮古の何を知っているのだろうか。何か、受け継いだものはあるのだろうか。そんな思いに駆られていました。
 
 そこからさらに数年前。沖縄本島に住んでいた高校時代、エイサー祭りや首里城祭など、イベントやお祭りをいくつも見に行きました。威勢良く太鼓をたたき、旗頭を揚げていたのは、自分と同じ世代の若者たち。そんな彼らの誇らしげな表情を見ながら「ばんまいいつがらーんな(私もいつか)、宮古のことで『何か』を彼らのように誇らしげに掲げてみたい。」という思いが湧いてきたのを覚えています。

 その「何か」が「宮古方言を受け継ぎたい」という目標になったきっかけは、『読めば宮古』であり下地イサムさんの歌であり、そして「くま・かま」でした。

 ばが んまりたー くぬすまぬ くとー ならいみーぶす
 (僕が生まれたこの島のことを 学びたい)

 「くま・かま」がならーしふぃーた(教えてくれた)ことは、方言だけでなく、歴史、文化、伝統行事、民謡など、宮古のかいまいくいまい(あれもこれも)。それも、地域や時期(時代?)による違いもふくめ、宮古全体を俯瞰するようにやまかさ(たくさん)のことに触れることができました。初美さん、ライターのみなさん、たんでぃがーたんでぃ。

 そして、ばんまい(わたしも)、ライターのひとりとして約13年間参加できたことは、何よりも光栄でした。私の書いた拙い記事のいくつかも、もしとーがらー(だれか)のお役に立てていたのなら、ぷからすむぬ どー(幸いです)。

お疲れさんでした

平良務(平良在)

 月2回発行は大変だったと思います。今後は気軽に発信できる、なにかを追い求めて宮古島を発信し続けてください。くまかまの読者は、皆宮古島大好き人間の集まりであると同時に初美さんのファンと思います。

 何回かのくまかまのオフ会にも参加することがありました。また一番の大きな「くまかま」のイベントは旧クール会館での出版記念の集まりではなかったでしょうか。会場いっぱいにガフと集まっていましたね。

なかなか地元にいながらも方言を使う時間、機会が減った気がします。方言を使う相手はほとんどがお年寄りの時です。その方言を使うお年寄りもだんだん時代とともに減ってきているのが現実です。後世に残したい方言ですが、絶滅危惧言語の宮古方言。文化協会が取り組んでいる方言大会などで次世代に少しでも残せる文化として取り組んでいく活動を今後も期待します。お疲れさんでした。

長い間お疲れ様でした

ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)

 んなま(今)、vol.446の「これまでのくま・かま」を読みながら「くま・かま」と歩んで来たこれまでのいろんな事を振り返っています。

 「くま・かま」との出会いは2003年だと思います。下地イサムさん(当時は勇さん)繋がりで「くま・かま」と出会い、うんからの(それからの)長い付き合いでした。

 ライターとしては2007年から参加させて頂きました。「くま・かま」を通して沢山の方と繋がることができました。本当に「くま・かま」には感謝しています。初美さんには毎回原稿締め切りギリギリまで、いや、発刊ギリギリまでご迷惑をおかけする出来の悪いライターで申し訳ありませんでした。まーんてぃ(ほんとに)辛抱強くお付き合い頂き、タンディガータンディ。

 初美さん、長い間お疲れ様でした。そしてご苦労様でした。「くま・かま」を愛してくれた皆さん、数々の出会いをありがとう。また、違う形での「くま・かま」に会える日を楽しみにしています。

『くまからかまから』と『新里教室』で得た学び

Sachiyo (藤田ラウンド幸世)(東京在)

 2019年の12月は忘れられない節目となりそうです。これまでさりげなく隔週の木曜日に配信されてきた「くまからかまから」で、そうだ私もがんばろうと朝から励まされてきたビタミン剤がなくなってしまうこと、また偶然ですが東京の渋谷で行われてきた「新里教室」、正式名称は、宮古方言研究会(故新里博先生主宰)も今日、12月15日に解散会を行い、一つの節目を迎えたことです。

 「くまかま」はもちろんみなさんご存じだと思いますので、新里教室について私が知っている少しだけでも報告をさせていただきます。今日の最後の解散会で菜の花さんの話の中で聞いたことを参考にまとめますと、

 2006年12月に東京で新里博先生を迎えた宮古方言研究会は13年間、のべ1000人の参加があったということでした。この教室は、毎月第3日曜日に行われ、90分授業を2コマ(これは大学の2コマと同じ長さですが)新里博先生がご自身の研究をもとに宮古ふつについて講義をしてくださいました。

 私は最後の4年半ほど出席させていただきましたが、新里先生の朗々たる講義は今ではなかなか受けることのできないような「学者肌の先生の講義」で、同時に、新里先生ご自身が伊良部島の長浜出身ということもあり、宮古島の出身者の聴講生に「では、城辺では何といいますか」とそれぞれの出身地の語や発音を尋ね、その場の私たちは新里先生の長浜発音だけではなく、その場でそれぞれの宮古ふつの音や語の違いを聞き比べることができ、まさに生きた授業を受けさせてもらいました。

 そのときの先生の、同郷の方々に対するまなざしがとてもやさしく、愛おしいように感じられ、参加をしている私たちは先生の宮古島とご自身の故郷のことばや文化への愛情をその場で感じていたと思います。新里先生はご自身が社会人として働いた後に、國學院大學の博士前期と後期課程を修了なさり、その後も継続して宮古ふつと、それから上代文学について講義を続けられました。

 先生が博士論文に相当するご著書を自費出版なさったのが『上代倭語の化石:宮古方言の手引宮古古諺音義』です。新里教室ではこの先生のご著書をテキストとして、先生から直に教えていただくという授業をしていただきました。私は新里先生のご研究なさった上代文学や日本国内の古代語としての言語学は全く初心者ですので、新里教室で改めて宮古ふつの歴史やことわざから見えてくる当時の生活やそれぞれの集落社会のありかたなどを教えていただきました。

 特に、先生の著書である『古諺音義』の中で私が研究者の立場としてみたときに驚いたことは、新里先生はご自身の足でこの本の中で区分された19の集落を歩き、それぞれの地域で実際に諺やことばについて尋ねて回ったという、まさにフィールドワーカーであったこと。また上代語として宮古語をみていらっしゃったのにも関わらず、ご自身が歩いて理解した後に、宮古語を19の区分に分けたというそれまでにない新里先生のオリジナルな着眼点です。そのようなことをもう、先生から直接伺うことができないことが悔やまれてなりませんが、先生が残してくださったこのご著書を紐解きながら、これからも宮古語について考えるヒントをいただくしかありません。

 最後に2つ、私から言わせてください。一つは、くまからかまからと新里教室を私の研究としてのドキュメンタリー映像「みゃ〜くふつの未来:消えゆく声、生まれる声」に収めることができた幸運です。未来の視聴者がこの2つの「生き字引」を知ることができ、またこの2つの「生き字引」を知っている人が見てくださったら、懐かしいと思っていただけるのではないかと思います。今後の上映については、またお知らせしたいと思います。

 もう一つですが、来年の2020年4月14日から7月3日まで東京の三鷹市にあります国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館(月―土開館、入場無料)で「よみがえる宮古島の祭祀:二人の写真家、上井幸子と比嘉康雄が写した記憶」の写真展が決まりました。1970年代の祭祀や集落の写真が東京でも「よみがえる」よう、多くの方々に見ていただけるように、現在、準備を進めています。こうした写真展を東京で行いたいと思うようになったのも、「くまからかまから」や新里教室のみなさんの影響だと思っています。

 くまからかまからの精神をこれからも少しだけでも引き継いでいけたらと心に刻んでいます。もちろん、初美さんの発信をこれからも楽しみにしています。図らずも、私が頼りにしてきた2つの宮古ふつの「生き字引」が締めくくられることになりましたが、これから別の形でまたよみがえるものだと思っています。目に見えずとも、人と人とのつながりは消えませんし、また、時期がくれば現れると信じてやみません。その時まで。

『くまから・かまから』との邂逅

あすなろ(平良・東仲出身)

 「くま・かま」との出会いは「朝日新聞」でした。毎週土曜日(be版)「フロントランナー」と題して、人物紹介があり『島唄』で有名な宮沢和史氏を取り上げていました。関連記事に「ボーダーインク社」があり、検索すると、おかっぱ頭の女の子の写真本を発見。「くまから・かまから」と記されています。早速、注文すると絶版とのこと。その後、松谷さんと連絡が取れ、本をゲット。あれから、10年が過ぎました。最初の投稿は、2009年12月17日。「電信柱に花が咲く(パート1)」でした。

 続編は(パート2)vol.213(2010/2/4)

 現在、「稲垣国三郎レポート」6まできましたが、昨年の12月、女房が脳出血で倒れて以来、家事労働に忙殺され「レポート」が途絶えています。私のライフワークとなった「稲垣国三郎」研究は、別の形で発表できたらと考えています。

 「くま・かま」が終わりを迎える事など考えた事もありませんでした。家事、仕事、編集の3役をこなしながらの18年9か月。並大抵な努力では継続は不可能です。松谷さんに心から敬意を表したいと思います。ご主人の協力も大きかったことでしょう。本当に御苦労様でした。

 ある意味、「くま・かま」は宮古島の貴重な資料としての側面を持ち合わせています。大事に保存して後世に残してほしいと思います。

 最後に、心から有難う御座いました。
 「あすなろ」こと上地恵英(在愛知)でした。

時の流れ

相田恵美子(東京在)

 8年前に他界した父から「度胸のにゃーん(ない)やらび(こども)」とよく言われた私。5人姉妹の真ん中という立ち位置もあったのか、あまり自分を主張するタイプではなかった。周りからは「むぬゆまん(しゃべらない)」とよく揶揄された。学校でもりきちゃー(頭がいい)でもなく、特に秀でるものがない、フツーに目立たない宮古での18年間だったように思う。東京での時間が生まれ育った宮古での倍の時間を過ぎたが、根っこは相変わらずフツーに目立たない宮古人である。父の後、母が他界し実家も住む主を変えた。私には宮古に帰る場所がナイ。これが時の流れというものだと自身を納得させている。

 そんな私に「くま・かま」は宮古人としての自分を彷彿させてくれるエキスのような存在だった。残念です・・・。

 松谷さん、ライターの皆さんたくさんの励ましを本当にありがとうございました。「くま・かま」が終了するこの12月。私は東京の某町の議会議員としてスタートしました。松谷さんも「くま・から」からの卒業。そして新たなスタートになるかと思います。どうぞ、新たな境地でのご活躍をお祈り申し上げます。お疲れさまでした。

くまかまとカニ

カニ(平良・西里出身)

 カニがくまかまに登場したのは2005年(平成17年)3月19日です。くまかまが始まったのが2年以上も前ですので途中で加わったことになります。私が宮古島に戻ったのは1998年(平成10年)4月ですので、宮古島に戻ってから7年目になります。

 当時、カニは仕事以外に大きな目標を持っていました。「宮古方言に取り組むこと」「宮古民謡・古謡に取り組むこと」「宮古の自然《植物、野鳥、地質・地形》に精通すること」などです。そのことを生涯のテーマとして学習していくこととして取り組み活動を始めていました。その時にくまかまに出会ったのです。

 当時、くまかま掲示板にかなりの投稿をしました。2005年3月19日から2013年までのカニの投稿を私はコピ−し手元に置いてあります。興味ある内容が投稿されていて、振り返りながら吃驚しています。そうした中でくまかまのライタ−たちとの交流もあり、現在でも続いています。亡くなられたひさぼ−さん、宮国勉さんとも、イーザト街でお酒を酌み交わした仲です。たった一回の出会いですぐに気が合い打ち解けるという不思議な体験をしました。またそれは初美さんを始めくまかまの仲間の皆さんに言える共通事項でした。

 あれから約15年が過ぎました。宮古島は目まぐるしく変わりました。職場も時代の変化に対応せねばならず忙しくなってきました。くまかまの在り方も時代の流れで変わらざるを得ないかと思います。しかしカニは変わらないものもあるかと思います。それは私たち宮古人に流れる宮古人のこころを、精神をもった遺伝子です。「あららがま」という精神文化と助け合いの精神文化です。そして『宮古方言』です。先祖が残してくれた真実の宝、それこそは『宮古方言』だという気がします。私はそのことをはっきりと意識し行動していくようにすることで私自身の今後の在り方をくまかまの仲間と模索していこうと考えております。

宮古が一番好き

トックリキワタ(東京在)

 これまで長きに渡り素敵なメルマガを届けてくださってありがとうございます!感謝してます。掲示板も楽しみにしています。沖縄好きのナイチャーです。離島では[アツい人]がたくさんいらっしゃる宮古が一番好きです。そんな宮古を身近に感じられるメルマガはとても貴重な存在でした。

 ライターの方々、イサムさんの大船でのライブでおみかけしました。皆様素敵な仲間で羨ましく思いました。ますますのご健勝をお祈りいたします。

変わりゆくもの

下地茜(城辺・保良出身)

 「ばがぬーあじゅーりゃ、うう゛ぁ、なーまいすさんだら」(私が何を言っているか、あなた何も分からないでしょう?)帰郷したおり祖母の家に行くと、祖母が腕を握って尋ねてくる。分かるよ、おばあ。と心で思っても、方言で言い返せず、胸の奥にチクリと刺さるものを感じたのでした。

 90代の話は面白い、70代以降になると文化が急速に失われていったことが分かる。いつだったか、母にそんな話を聞いたことがあります。昔は、数名でおしゃべりをしていると、誰ともなしに即興で歌をうたい、他の誰かがそれに掛け合う、ということがあったのだそうです。生活の中から生まれてくる、さまざまな感情が歌となって、口にのぼってくる。

 ミャークフツが希少で美しい響きをもつ言葉だと知ったとき、方言を話せないまま育ってしまった自分に気づかされました。ふたたび島に戻ってきたとき、失われていくものにばかりに目が向いてしまいます。

 文化は時代とともに変わりゆくもの、ですが、そこには私たちの生活のありかたが深く結びついているように思います。豊かな文化を生む、生活の土台とはどんなものだろう。この頃はそんなことを考えます。

くま・かまを見つけて

靖圃(横浜在)

 はじめまして、ペンネームを靖圃といいます。宮古ではなく、奄美出身で今奄美に帰るべくいろいろやってるアラフィフです。

 仕事の都合で宮古に一年住むことがあり、どういう形でたどり着いたか、くまからを見つけました。ちょうどほぼ2018年を宮古で過ごすことになり、方言サミットなどを間近に見ることがありました。

 奄美も宮古も方言のレベルを超えて、奄美語、宮古語だと感じていた時でもあり、こうして宮古語を見る?聞くことができるこのメルマガを楽しみにしていたものです。んで始まる言葉があったり宮古語は不思議なものです。しりとりが終わらないことを知りました。

 また、宮古上布を通して奄美とつながりがあったり、知り合いのおじさんの孫の嫁が宮古出身だったりと、2018年から宮古島とのつながりを感じていました。こういう、方言を文字に表すことに魅力を感じて、また日常語で話せるメディアとしていつも楽しく読ませていただきました。いつか、こんな形で奄美語も楽しく書けないかと考えてもいます。

 不思議な縁で今横浜にいますが、宮国優子さんとも会うことができました。宮古の開発、インバウンドなど、今後奄美に起きても不思議でないことなど、いつも宮古島を先例として感じているところです。

 こうして無くなるのは残念なことかもしれませんが、無くなる前に私は出会うことができて良かったと思っています。長い間のご苦労は、紙面を通じて感じるものがあります。くまからは、今考えてることの先例でもありいい先生でもあり、今後ともいい先生であり続けるでしょう。お疲れ様でした。

良い想い出ばかり

宮国優子(平良・下里出身)

 はじめて松谷さんに会った日から、18年もたったんだ、と思うと感慨深いです。感謝の言葉しかありません。メールマガジンは、私にとっては長距離走・・・逆立ちしたって無理。今回、読み直してみると、さすがのボリューム。参加できたことが誇らしいです。

 結婚してまもない頃に松谷さんに会って、子ども3人を育てながら、仕事をしながら、書き続けた。そして、結婚が幕を閉じたこの年にくまかまが終わる。何という因果な!その間、何度も書けなくなったけど、そのたびに松谷さんは電話や会って励ましてくれた。愚痴もたくさん聞いてもらった。私の原稿は、すべて松谷さんへのラブレターだと思う。

 そして、なかなかお会いできなかったけど、くまかまメンバーのみなさんにも、会うことがあれば親戚みたいに付き合っていただいた。良い思い出ばっかりだなぁ。すでぃがふう!くまかま!

想い出いろいろ

浅野卓史(埼玉在)

 浅野 卓史と申します。大阪に住んでいました。メールは初めてかな?でも初美さんには一度、上野(東京)でくまかま発行後の関東宮古島祭だったか下地イサム君が出演した時です。本を購入させていただき、菜の花さんとのサインもお願いしました。その後、菜の花さんとは、古謝美佐子さんのライブだったかな、新宿辺りですれちがいに、お逢いしたことも。宮古島クイズでは、島バナナと神童さんのパーントゥを獲る事ができました。

 京都でのイサム君ライブでお会いしたY那覇U子さんとは宮古島でご一緒し、神童さんを紹介され、博物館でBBQをご一緒しました。イサム君と新良幸人君の公民館でのライブの時でしたね!!

 その後も宮古へはイサム君のライブへ行きました。宮古の初めはダイビングで八重干瀬や通り池に潜りたくて、次郎村の開村した頃で、花笠のターミナルの時、来間島大橋が建設中でしたね。

 くまかまとの出会いは、PCを使うようになり、宮古島の事をネット検索してからです。皆様ライターの方たちの観察力や記憶力に関心させられてきました。

 長い間、お疲れ様でした。島の方言を少し単語ではわかるようになりました。ぴんなぎびきだつ(変な独身男)より。

方言を少しでも話せるように

友利志麻子(城辺・福里出身)

 「くまから・かまから」が最終回をむかえるという事で少し寂しさを感じながらも、ご縁を頂いたことに感謝しています。宮古に帰ってきて約5年半ですが、去年あたりから「あがいー」などの簡単な単語が自分の口から自然にでるようになってきました。

 18歳で島を出る前には、なるべく方言は使わない様がいいと言われていた為、なるべく方言を使わないように、標準語をしっかり話せるように努め、実際に九州、本州で過ごして来た中でも方言はほとんど使わずに生活をしてきた。

 そして、地元に帰ってきてもなかなか自然に地元の言葉が話せないままでいますが、失われつつある島の方言を思うと、今からでも少しずつ話せるようになっていきたい。そんなことを思いながら届くメルマガをいつも読ませて頂いていました。まだまだ、先輩達から多くのことを学べるチャンスがあります。少しずつでも楽しみながら身につけていけれるように心がけていきたいと思います。

楽しかったぜ方言大会

Captain Anuhea(東京在)

 令和元年7月13日、わたくしCaptain Anuheaこと浅川勝之は第26回鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会に出場した。

 当日は午後早く、リハーサルのために会場入りした。ステージでは照明や音響の調整をしていて、控室では発表者のみなさんが方言と共通語を交えて歓談している。私はみなさんのお話に相槌を打ちながら、ときおりそわそわとスピーチのカンペに目を落としていた。

 リハを終え、いよいよ方言大会が始まる。文化協会の大城会長が方言で挨拶をしているのが、舞台袖で聞こえた。(え、冒頭の挨拶も全部方言なの、とプレッシャーを感じた。)

 最初の発表者、野原康男さんが角帽をかぶってアカデミックな雰囲気を作り、見事なプレゼンを終えた。二人目の下地朝盛さんが、貫禄のあるスピーチを終えた。緊張が弥が上にも高まる。三人目の私、息を大きく吸って立ち上がり、壇上に向かう。でもこのとき、緊張していたけれど、アガってはいなかった。だから壇上でも900人のお客さんの顔が、見えた。手元のカンペに目を落としながら、つたないみゃーくふつで話しはじめる。私は東京から来ました、親戚もみんな関東の人間です、でもどうして宮古方言を話しているのかって、それは下地イサムさんのまねです・・・。

 話しながらどんどん緊張が解けていくのがわかった。ウケを狙った箇所では笑いが起こり、きちんと自分の話す言葉が通じているのがわかり、楽しくなる。今、私の話す方言に、お客さんたちが笑っているのが、拍手してくださっているのが、見える、聞こえる。

 ・・・私はまだまだ宮古方言を勉強しなければなりません。ですがどうして今日ここにいるのか、それはオリンピックと同じです。出場することに意味があるのです。・・・と、夢中になって話し終え、自席に戻る。退場する私に、客席から「上手だよ」と声をかけてくださった方もいた。(緊張がとけたので、このあとは落ち着いて発表を聞くことができた。)

 結果が発表された。私のつたないみゃーくふつは、もちろん正規の入賞には至らない。当然である。みゃーくふつの語学力はもちろんのこと、プレゼンとしてもスピーチとしても圧倒的に負けていた。しかし、審査員特別賞をいただくことができた。望外の喜びである。

 ・・・「くま・かま」を読み始めたのは大学生のころだった。その後卒業論文に宮古方言を取り上げたので、報告を兼ねて投稿した(vol. 3162014/5/15)。2015年にはじめて宮古島を訪れたきには、松谷さんをはじめくま・かまライターのみなさんに温かく迎えていただき(vol.387 2017/5/4に掲載)「もっと方言がうまくなってからまた来なきゃ!」と決意した。・・・でもそれから、4年も経ってしまった。

 この数年、隔週木曜の朝は、起きがけにわくわくしながらメールを開いていた。くま・かまに詰まっている、島のあれこれ、昔の遊び、草花の利用方法等々バラエティあふれる記事を読み、自分がもし、宮古で幼少期を過ごしていたら、どんな生活をしていたかな、と想像を膨らませるのが好きだった。もう、そんな木曜日は最後なのである。

 しかし最後に、お世話になったくま・かまに「方言大会で賞をいただきました」と報告できるのはとてもうれしい。恩返しと言ってはおこがましいのですが、以上、ご報告いたします。

くまかまライターのみなさま、長い間お疲れさまでした。すでぃがふ−、たんでぃがーたんでぃ。

ありがとうございました

時原千恵子(茨城在)

 12月15日、新里教室の最終回の日、思いがけず『くまから・かまから』の本が私の手元にやってきてくれた。うわぁ〜、表紙のど真ん中に菜の花さんの子どもの頃の写真が!変わらない〜、すぐわかる〜!

 不覚にもこの本の存在をこれまで知らなかった。2001年から2006年までの世界がそこにある。またまた、ミャークとミャークフツの世界に圧倒されてしまう。

 時を同じくして新里教室も閉じられた。とても寂しい。でも、どちらも宮古愛に満ち溢れていた。その温かさは消えることはない。初美さん、18年間月2回定期的に発行してきた大変さは、想像に余りあります。凄いです!お疲れさまでした。

 私が『くま・かま』に出会い、読み始めたのは2009年。後半の時間を読者として過ごすことができて幸せでした。本当にありがとうございました。たんでぃがーたんでぃ〜〜!!

『くまかま』ありがとう!

菜の花(伊良部町仲地出身)

 先の「くまかま」vol.446を読みながら、これまでのあれこれが思いだされ胸がキュッとなった。ずーっと続くものだと思っていた「くまかま」が今回で終わりになる・・・何だか実感が湧かない。「くまかま」には、私の内にある思いを沢山綴らせてもらった。くまかまで蒔かれた「一粒の種」は、多くの人との出会いへと繋げてくれた。

 みゃーこふつ(宮古方言)を通して「宮古方言研究会」通称:新里教室を毎月第三日曜日に渋谷で開催することにもなった。13年間続いた新里教室も12月15日に解散式を行ったばかりだ。「くまかま」「新里教室」共に私の心の拠り所であり、私が私で居られる場所であった。私の人生を変えてくれた。多くの方々に支えられ、励ましていただいた。豊かな時間を過ごすことができ、皆さんには感謝でいっぱい!本当にありがとうございました!今回で「くまかま」への投稿も最後となるけど「くまかま」はいつも私の心に在る。

 ありがとう「くまかま」!ありがとう、初美!ありがとう、皆さん!

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 最終号・・・この言葉を見るだけで目頭が熱くなります。最終号に向けて投稿をお願いしたところ、たくさんの方からメールをいただきました。き゜むぬすくぅから たんでぃがーたんでぃ(心からありがとうございます)。

 改めて、みゃーくふつをキーワードにたくさんの方と繋がり、広がったことを実感しました。また、皆さんが、くま・かまの事をとても大切に思ってくださっていることも。感謝の気持ちでいっぱいです。すでぃがふー。

 それにしても、創刊当時はこのような広がりができるとも思ってもみませんでした。方言札で嫌な思いをされたという方からは、方言を使ってのメールマガジンがある事にとても複雑な感情があるというメールをいただいた事もあります。方言に対する想いは、人それぞれあるということもメルマガを始めてから知ったことでした。

 誰もが知る、大きな歴史も大切ですが、個人の小さな歴史をも大切にしたいと思いながらやったくま・かまでもありました。個性あふれるライターたちの想い出話や現在の話は、だいず心を豊かにしてくれるものでした。その人にしか書けない、またその地域ならではのものもあり、小さな宮古の豊かさを表しているようでもありました。

 のーしゃー ばんたー んきゃーんぬくとぅ うぬすぅく うぶいうーがらいら(なぜ、私たちは昔の事をよく覚えているのでしょうか)。不思議に思ったりしますが、やらびぱだぁ(子どもの頃は)、五感をしっかり働かせ、イキイキと生きていたからかなーと思ったりします。そしてそこには、方言でしか言い表せない私たちの感情というのがあったのかもしれないとも。

 これからのみゃーくふつについて憂える投稿もありました。現実問題、話せる人が年々減っていくのは目に見えています。私は親世代が方言を日常会話として使っていたので聞くこともある程度話すことも出来ます。が、自分の子どもには伝えてこなかったという反省もあります。みゃーくふつの魅力をこれからもいろいろなところで発信できたらと思っています。

 それから、新里博先生の話もありました。世話役の菜の花にたくさんお世話になりました。皆さんが感じているように、先生との出会いは、大きなものでした。みゃーくふつに対する向き合い方が大きく変わりました。ただ話せればいいというのではなく、言語学的に知ることの大切さを学びました。何せ先生は、宮古方言の語彙は「あたかも『上・古代倭語の博物館』の様相を呈している」というのですから。音の変化、国際音声表記、古語との対応、地域による違いなど、学ぶことがいっぱいありました。

 始まりがあれば、終わりがある。次は新たなスタートですね。

 くま・かまは貴重な資料でもあるというお話もありました。バックナンバーをいつでもネットで見られるということが大切だと思っています。melma!のバックナンバーは1月までは見られますが、その後は別のサイトでアップする予定です。ただ膨大な量なので時間がかかります。アップできた際は、掲示板でお知らせしますね。

 また、忙しいのが落ち着いたら、ブログができたらと考えています。こちらもやれるようになったら掲示板で報告しますね。

 まだまだ書きたいことがあるような気がしますが、そろそろ終わりますね。今回投稿いただいた皆さん、また、創刊号からこれまで、感想や投稿をお寄せくださった皆さん、たんでぃがーたんでぃどー。皆さんからの感想は、何よりの励みでした。ライター一同、心より感謝申しあげます。

くまかま掲示板は今後もそのまま使います。

書き込み、投稿、これまで通りよろしくお願いします。まだ掲示板をご覧になったことがない方もぜひのぞいてみてください。最近書き込みが少ないので、書き込みもよろしくお願いします。

 今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー。
 (今回も最後までお読みくださりありがとうございました)

 18年9ヶ月。とても充実した日々でした。くま・かまを発行してこれた事に感謝して、終了したいと思います。お互い元気でいましょうね。がんづぅかり うらあちよー。宮古にはさようならのことばはありませんので、いつも通りにお別れします。
 
 今日も佳い一日でありますように!
 あつかー、またいら〜。