みなさん、こんにちは!ぴしーぴし うたぁーびゃーてぃ うむいーうつかー、あつふ なずなず(寒かったかと思えば、暑くなったり)春の天気は落ち着きませんね。皆さん、のーしーりゃー?(いかがお過ごしですか)今号も盛りだくさんでお送りします。
「春の海」
ワタリ マリ
子どもの春休みに合わせて、宮古に帰ってきました。宮古はちょうどサニツ(旧暦の三月三日 浜下り)でした。それなのに、やーぬ まいぬ いんなのーてぃにゃーん さびすぎーっちゃ うーさぁ(家の前の海は何となく淋しそうにしている)ぴし(干瀬)も なんとぅ(浜)も人が少ないせいでしょうか。八重干瀬は観光客で賑わっているというのに。
それでもせっかくのサニツ。息子とその友達も連れて、なんとぅに下りました。子どもの頃のワクワク・ドキドキがよみがえります。春の海に「お帰り」と迎えられているようでした。
んきゃあんな サニツ ちぃ あす゜っかあ だいず うむっしぃ あーたーさぁ。(昔はサニツと言えばとても面白い行事でした。)
「ありぃ のーゆがっしゅぅりゃあ ちぃいら あーさぅとぅす゜が」(あれ何をしているの。さぁ行きましょう。アオサを取りに。)と向こうのおばさんこちらのお姉さん 皆々誘って ばーき(カゴ)を持って海に行きます。
「ちぃら サバニう いだしぃ ぴしんかい」(さぁ、行こう、サバニをだして干瀬まで。)お父とおじさん達は、カッコイイ いんしゃー(海の人)。子どもたちは、磯遊びに興じます。
それから磯渡りのスリリングもなんとも言えませんでした。春の海は、そんな村人達をほほえんで見守り、海の産物をたくさん分けてくれるのでした。
なんとぅ(浜)に下り、早速見つけました。ちらざ(マガキガイ)、ぴしんな(サザエ)、そしてこの上ない喜びは、にごうがい(ニマイ貝)を見つけた時でした。あっがいたんで ぷからっさ!!(オー感激!!)
満潮になるまでの二時間弱、昔のようなスリリングな磯遊びはできませんでしたが、おだやかで優しい春の海で私は、ふるさとをありがたく感じていました。
「春の海 ひねもすのたりのたりかな」(蕪村)
「まーすぅ ゆーじ すったぁ ちらざ ん 舌鼓」(マリ)
(塩茹でのマガキガイに舌鼓)
「お店紹介2《デイゴ館》」
松谷初美
デイゴ館では、宮古に自生する まかや(学術名はチガヤ。イネ科の多年草の植物)で作った 作品(まかや細工)を展示・販売している。
まかやで作ったものと言えば、昔懐かしい「まぐ」(宮古上布の糸となる ぶー を入れたり、穀物を入れるものとして使った)や「なびふた」(鍋蓋)を思い浮かべるが、デイゴ館では、まぐ や なびふた はもちろん、果物入れや、鉢カバー、小物入れ、コースター、草履、クリスマスリースやお正月飾りの壁掛けなど、現代風にアレンジした創造力あふれた作品がたくさん展示・販売されている。
お店をやっているのは、根間瞳さん、楚南栄子さん、砂川清美さんの三人。三人は同じ平良市西原の出身。四年前に市の公民館民芸講座で まかや細工を習ったのをきっかけに まかや細工に魅了されていった。作品はどんどん増えていき、二年前に《デイゴ館》を開く。
三人が想像した以上にお客さんからの反応がよく、去年の6月には東京赤坂の「アグリウェルカムセンター」(農漁村生活研究会の支援センター)で展示・即売会を開き、内地の人たちにも大変喜ばれた。宮古では、産業まつりや平良市の文化祭、農高文化祭などにも出展し、毎回、好評を得ている。
さて、まかや細工は、まず、まかやを刈ってきて干す作業から始まる。二日ほど陽に干し、2?3日陰干しをしたら材料の完成だ。作品は、干したまかやを数本から数十本束ね、タコ糸できつく結び、だんだんと足していく。そしてそれを巻きながら形を作っていく。仕上がったものは、固く、しっかりしている。作りたては青々としていていい香りだ。年月が経つと落ち着いた茶色になっていき、ますます味わい深くなる。
まかや細工は、自然の材料で作られ、シンプルなものだけに、作った人の想いがこちらまで直に伝わってくるようだ。宮古の風をはらんだ まかやの温もりも感じられ、心がなごむ。
興味のある方はぜひ《デイゴ館》を尋ねてみてください。また、今年も文化祭などに出展されるとのこと。そちらもどうぞお楽しみに。
《デイゴ館》
平良市東仲781-1 電話:0980-XX-XXXX(砂川さん宅)
平成13年開店
店主:根間瞳さん、砂川清美さん、楚南栄子さん
場所はニャーツ通り 北中の東100メートルの通り沿い。
看板は出ていませんのでお気をつけください。
「ミャークフツ講座?擬音・擬声・擬態語編」
マツカニ
- ごんごん(ゴツンゴツン)
- だだだだ・・(タラタラ、ダラダラ)
- ふっちゃふっちゃ(くちゃくちゃ)
- どぅんまどぅんま(ドンドン)
- むっちゃむっちゃ(ネチャネチャ)
- がんまがんま(ガンガン)
- がじゃがじゃ(ゴチャゴチャ、イライラ)
- びす゜った (ツルっと、ドキっと)
- ぷとぅぷとぅ(ドキドキ、<ワナワナやブルブルに近い場合もある>)
- じゃんぐじゃんぐ (三線など弦楽器をかき鳴らす音、ジャンジャン)
- さらさら (日本語のさらさらと同じ意味もあるが、宮古では、「なだぁ さらさら」(涙が流れ落ちる様)とも言う。)
(例)だだだだ・・の用法
- あしぁ だだだだ・・(汗がタラタラ・・)
- あかっつぁ だだだだ・・(血がダラダラ・・)
- なだぁ だだだだ・・(涙がダラダラ・・)
「あんなまい うやまい 元気だったころ」
ひさぼう
その頃、自分の親を呼ぶのに“おとう、かあちゃん”に混じって父親を“うやー”母親を“あんなー”と呼ぶ子供は、まだまだ沢山いた。1950年代に、小学・中学を平良の西仲で過ごした者の想い出である。
年寄りを呼ぶときは、これはもう、じいさんには“しゅうー”、ばあさんには、“んまー”だった。正月年始の挨拶は、“しゅうまい んままい いいしょうがつやー”が決まり文句で、これでお年玉がもらえた。“おじい、おばあ”という言い方は、姉の子供たちから聞き始めたような気がする。もっともこれらは、おなじ平良でも、西里・下里あたりの“まちの子供”と芋掘り、草刈をしている子供とでは、事情がかなり違うかもしれない。
私のウチは、芋と野菜は、まあまあ自給自足、現金収入は、宮古上布という家計だった。当時は、もちろんテレビはなく、ラジオは「友利ラジオ」という、有線放送が始まったのを覚えている。‘からてこぞうは か?らてが じょーず‘という主題歌の連続放送劇と、栃錦、若乃花が全盛の大相撲中継くらいしか思いだせない。それだから、日常の言葉が、ラジオから影響を受ける、ということは、ほとんど無かったと思う。日常会話は、学校から帰れば、もう方言だった。なにしろ、母親が、完璧な みゃ?くふつ で、育てるから、学校にあがるまでは、“普通語”はしゃべれなかった。ことばで、唯一しつけれたことは、※“しゅう と んま んかいや んん てぃ あずざだな おう てぃ っさいる”(お爺さんとお婆さんには、んん と 言はないで おう と返事しなさい)これだった。(おう と答えるときは、あごを引きながら。上げたら、こーしゃー(拳骨)をふゃあされる(くらわされる))
テレビはないから、映画館は、全盛だった。映画館は、琉映館、沖映館、国映館の三つがあって、東映と日活は琉映館、松竹と大映は沖映館、東宝・新東宝と洋画は国映館、と分かれていた。その頃は、学校の団体見学が盛んで、見た映画はけっこう思いだす。しいのみ学園、二十四の瞳、次郎物語、ひめゆりの塔、のんちゃん雲にのる、裸の大将、日本誕生、明治天皇と日露大戦争、怪人二十面相と少年探偵団、鞍馬天狗、砂漠は生きている、川上哲治背番号16物語 白雪姫 バンビ ダンボ・・・。
洋画は、あまり見なかったように思う。兄に連れられて、「タイタニック」(第1作目?)、「恐怖の報酬」とか見た覚えがあるだけ。小学校の運動場でも、夜、ときどきやっていたけど、これは何を見たか全然覚えていない。琉米文化会館(現在の市立図書館の建物)でも、洋画の海賊ものとか、タダで見られた。琉米文化会館は、できたばかりのピカピカで、教科書以外の本は、ここで初めて見た。
映画といえば、見てウチに帰る時間には、電灯はもう点かないので真っ暗。朝まで点いているというのは、大晦日だけだった。それだから、月夜の晩というのは、むしょうにうれしく、遅くまで遊んでいた。缶けり、馬とび、影ふみ牢破り、それから、荷馬車に座り込んで、年長者の“はなし”を聞くというのがあった。「カランコローン カランコローン てい あっつあぬ うとぬし?(下駄の音がして?)」で始まる怖い話やら、ゆがいな(滑稽な)ぱなすを方言で聞いた。
漫画雑誌は、「少年」「冒険王」「少年画報」とかあった。これは、買ってもらえる子供は限られていて、廻し読みしていた。 イガグリくん、矢車剣之介、まぼろし探偵、赤胴鈴乃助、鉄人28号、鉄腕アトム、月光仮面・・・。ちなみに、鉄腕アトムは、50年後の今年、2003年4月7日に生まれたことになっている。
小遣いというものは、貰える子供は、ほとんどいなかったと思う。家の仕事は、さんざんやらされていたのに。ぴんざぬ ふさかず(山羊の草刈)、水汲み、んんかじ(いも掘り)、んん洗い、糸巻き、カマドの灰取り、かんな屑集め(たきぎ用)床下の大掃除、ゆむぬんちゃみ(ネズミ捕り)、ジャリ作業(石を砕いて砂利をつくる)、天水タンクの掃除、便所の汲み取り・桶かつぎと、何だってやらされた。特に、水汲みと桶かつぎは、成長期にやらされたものだから、短足になってしまった。
ばんたが世代は、戦後の食うや食わずの時代が終わりかけて、・ ・ ・バッタとカエル、んにゃ やきふぉーつかー んまい!(焼いてたべるとうまい)こんな話を、先輩から聞いたりした。学校には、まだ裸足で通ったり、雨が降ったらチョーチンガー(麻袋)をかぶったりしていたけれど、やがて靴をはいたり、雨合羽を着たりするようにはなった。けれどもまだ、この世に、おかずというものがあることを知らなかった。芋を食べながら、んんなじる(実のない味噌汁)を飲む、というのから始まって、野菜でも魚でも、味噌汁の具におさまるところまでで、皿にのって出てこなかった。60年に入ってからだろうか、飯台のうえに、おかずを見るようになったのは・・・。
※編集者注:「おう」は目上の人への返事。敬語。
「お便りコーナー」
イラウピンザさんより
前回のくまかまはとても面白くて、一人で思い出し笑いしながら読みました。ピサを蹴った瞬間、アガーとうめきながら、ケンケンをした経験はいまどきの子どもたちに話してもピンと来ないでしょうね。それにしても懐かしいですね。わだちの出来た いすぐー道(砂利道)や水溜りの出来た道などで転んで手のひらや膝小僧をすりむいて泣き喚いた頃が。
ミャークフツ講座もいかにも宮古ならではの独特な表現で本気で怒れないおおらかさが感じられて思わず笑ってしまいました。やっぱり宮古は素敵な島ですね。
伊良部の方言は宮古島のそれとはかなり異質ですよね。「んもーい」も伊良部では御免くださいではなく、子どもが用を足した後、お母さんにお尻を拭いてもらうときに母親が子どもに向かって発する言葉で、お尻を上げなさいという意味で使われていました。母親が「んもーい」と言うと子供はピョコッとお尻を突き出し四つん這いになるのです。すると母親は陰干しにした「ゆーなの葉」で・・・と言うのであった。昔は排泄は豚小屋でというのが慣わしで豚にお尻を舐められた経験をお持ちの方も少なくないでしょう。ゆーなの葉の次は新聞紙が愛用された時期もありましたね。
イラクの子どもたちは何で拭いているのでしょうかね。もしかしたらゆっくりと用を足すだけの心のゆとりさえも無くしているでしょうね。一日も早く戦争が終わって欲しいですね。
※「んもーい」は、伊良部ではまた別の意味があったんですね。すっさたんどー(知らなかったよー)。イラク戦争で大怪我を負った男の子の映像が忘れられないです。
「編集後記」
松谷初美
「春の海」を書いているワタリ マリの実家は、上野のみゃーぐん(宮国)にあり、いん ぬ つかふがま んどぅ あー。(海のすぐ傍にある。)近所の人たちが誘いあって、賑やかに浜下りをしている様子が目に浮かぶようだ。八重干瀬も素晴らしいけど、何気ない浜にも海からの素晴らしい贈り物は、やまかさ(たくさん)あるんだよなぁ。
私がやらび(子ども)のころの1960年代には、「おとう(あるいは、とうちゃん)かぁちゃん」と呼ぶ子どもの方が多かった。その後は、「お父さん、お母さん」「パパ、ママ」と呼ぶ人たちもでてきた。その呼び方によって、時代背景がすごく違ってくるから、あの頃の10年単位の宮古の生活環境の変化は相当なものだったと思う。
それにしても最近は、お年寄りに「おう」と返事をしている人をあまり見ないし、自分でも使っていないなぁ。宮古のすごくいい敬語だと思うので、使っていきたいし、伝えていきたいですね。
ご意見、ご感想、投稿、お待ちしています。
次回は、5月1日の予定です。あつかー またやー。