みなさん、こんにちは〜。2週間はアッという間やー(ですねー)。
今回は、久しぶりにあの人やこの人も登場〜。
さ、ぱずみっとー(始めますよー)
みゃーく んなまずぶん(今ごろ)
さどやませいこ(城辺町出身)
ゾーカリウラマンナ(お元気ですか)。ご無沙汰しております。
激動の2004年に、ダイズガダイズ(大変だ)と振り回されているうちに、気がつくと申年は去り年が明けて、鶏がコケコッコーと鳴いていました。しかし、何でとり年は酉なんでしょうね(答えは宮古毎日の新年号を読んでね)。
一月は正月気分で浮かれているうちに行ってしまい、二月は気がつかないうちに逃げ、三月は「ライオンのようにやってきて、子羊のように去っていく」と言われる。若いうちは時間に追いつこうと必死だったが、としをとると、時間に「プジピリ、プジピリ」(早く行け)と追い立てられる。でも嫌なことがあったら、時間を飛び越せないかなーと思ったりする。きょうは、風邪で頭をやられているせいで、プリユン(ばかなこと)ばっかりしているさー。
そーだ、みゃーくのんなまずぶんを云わなくてはならないんだよね。農家は、ブーギブイジキ(キビ刈りシーズン)、一年で最も活気のある季節かも知れない。でも、今年は収穫量が例年の半分だって。昨年、一昨年の台風がたたったみたい。それでも、おじいおばあ、おじさんおばさんは雨が降っても風が吹いても、ひたすら、ブーギをなぎ倒しパーガラ(枯れた葉)を鎌で落としてブーギヤマを作っているよ。あっちが痛い、こっちが痛いと言いながら。だから、ブーギブイジキが終わったら、病院は大忙しだって。
ところで、宮古の畑に不思議な現象がおきています、アンビリバボー、なーぜー。これまで、キビ収穫後の畑は、タイワンミャーツキ(ムラサキカタバミ)の花が一面を覆い、ピンクの絨毯を敷いたかのようでした。ところが、今は見当たりません。なぜでしょう、誰か知っていたら教えてー。
それから、先月24日は、ジュールクニツ(旧16日祭=ご先祖様のお正月)でした。久しぶりの快晴で、夏のような暑さに今年初の麦わら帽子を被りました。お重を、生家の分と、嫁ぎ先の分を作り、ウマカマ廻ってきました。お墓の庭で親族が集まり、ご先祖様と共食しながら後生正月をするという先島だけの文化を改めて見直しました。新正月にはほとんどご馳走らしいご馳走を作らなかったのに、この日ばかりはせっせとお重を作っている自分がいて、不思議な感慨を味わいました。やはり、私もトシなのかなー。
ミャークフツ講座 ミャークフツの正体編
ひさぼう(平良市西仲出身)
ミャークフツに関してずっといだいている関心事は、唯ひとつ、その“正体”である。と同時に、それを話す人間は、いつごろ、宮古島にやって来たかということである。これまで、ばが(私が)「くまかま」で、書いてきたものは、じぇーんぶ、その関心事から来ている。そして今、なんでこんな本を知らなかったか、という本に出合った。
下地一秋著「宮古群島語辞典」これである。
このひとは、宮古の士族の家系らしい。この辞典を手がけたのは、1921年から1922年、東京医学専門学校と日本大学国文科に在籍したころ、となっている。それから約60年後の1979年に刊行されている。余談ながら、著者の弟二人も上京して、上は、カント学者、下は、西田哲学者になり、妹は、『 宮古の豊見親および間切頭年代表 』に氏・屋号が出てくるような家柄に嫁ぎ、その家系は、琉球王朝の中山王にも関わりがある・・という、そういう「宮古群島語辞典」に関わる情報がネット上に流れている。あまりにかけ離れた話で、俄かには信じがたいような思いにもかられるけれど、宮古島にも確かに、以前、こういう階級・階層の人たちがいたわけで、いずれにしても、100年近く前に、ミャークフツで育った「宮古の知識階層」のひとが書いたミャークフツの本、ということだけでも興味あふれる本なのである。
このひとの一途な想いは、ミャークフツの“正体(原形)”を明らかにしたい、自分がこのことを世に知らせないと、ミャークフツは永久に不可解な言葉として後世に残るのではないか、という強烈な自負心に依っている。
そして結論を先に言うと、(ミャークフツは)日本語と縁遠い、または素性の違った語のように見えるが、実は、すべてが古いヤマト言葉から転訛した語であり、そして「この辞典の語彙編は長い年月の間に変容した宮古語を、その音韻を辿って元の形に復元し、その本来の姿をしめしたものである。」ということである。
ミャークフツには、古いヤマトフツが残っている、たとえば ツット(土産)、ナイ(地震)、ストムテイ(朝)・・・こういう話はヤラビパダ(子供の頃)から誰かに聞かされていたような気がする。ただ自分が日常しゃべっている方言が、もとはヤマトフツといっしょだ、などということは思いも依らないわけで、そんなジョートーなものではない・・はずだった。
伊波普猷の「古琉球」によると、言語の上から、オキナワ人の祖先が、日本から渡ってきたという説を唱えた最初の人は、羽地朝秀(向象賢 1617〜1675)だという。さらに明治になって、この説を広めたのは、首里王府最後の政治家、宜湾朝保で、「・・古事記伝、万葉集などを見るに、日本上古のことばここ(琉球)には今も多く残れる」といって『琉語解釈 』を残しているという。
伊波普猷もこの延長にあって「・・以上の言葉を記紀万葉源語の如き日本古代の文学を読んだはずのない小さい島々の愚民が、日常使っていると聞いたら、誰しも驚かずにはおれまい。思うにこれらの言葉はたしかに琉球人の祖先が大和民族と手を別ちて南方に移住した頃にもっていた言葉の遺物である。琉球の単語は十中八九までは日本語と同語根のものであるといっても差支えはない。ただ音韻の変化や語尾の変化によって、ちょっと聞いては外国語のようであるが、よくきいていると日本語の姉妹語である事がわかるであろう。」と書いている。
「宮古群島語辞典」の著者は、これら本島の先達の事績をすべて知った上で、ミャークフツの正体(原形)を、宮古群島はもとより、八重山、オキナワ、さらには、本土の秋田、山形、島根などの方言と比較・鳥瞰しながら解明している。
その“正体のあばき方”は、「ことばの転訛の法則」すなわち音韻の変化や語尾の変化に決まった規則があるのを見つけて、それでもとのことばは、何だったのかを知る、というやり方である。たとえばよく知られている例だと、
共通語 え(e)→ 宮古語 い(i)
共通語 お(o)→ 宮古語 う(u)
腕 ude → udi
声 koe → kui
癖 kuse → fusi
星 hosi → pusu
骨 hone → puni
物 mono → munu
ストウニ カイラシ 叩いて地面に這わすこと
ストウニ トウラシ 地面に叩き付けてやれ
ストウニル 棒で人や馬などの家畜を叩くこと
これらの語が「宮古群島語辞典」では、次のように解明される。
共通語 仕留める sitomeru → 宮古語 situniru
m > n の転訛
それから、古典、古文の知識がないと、何のことかわからないものも出てくる。
たとえば、つんぼ、耳の不自由な人のことは、宮古語では スピシャという。
これは、つぎのように解明される。
mimi sihi hore ja ( 耳しひほれや )
これだけしか説明がないので、「古語辞典」を引いてみる。
「しひ」 意味:器官が働きを失うこと
「ほれもの」のほれ 意味:おろか。ばか者。(宮古語で言う、プリムヌ )
ここで、や(ja)は、サキヌミャ( 酔っ払い )、スマトウリャ(相撲をとる人) などと同じミャークフツの語法で、〜する人 の意味。
こういう具合に、ミャークフツの“正体”が明らかにされる。余談ながら、宮古語のプリムヌ purimunu 、これはさっきまで述べた「転訛の規則」にぴったり合っている。 ho→pu、 e→i、mono→munu
下地一秋のスゴイところは、宮古島の人間として、ミャークフツを話せる立場から、オキナワの伊波普猷、ロシア人のニコライ・ネフスキーなどの書いたものを、批判的に指摘できる“力”をもっていることである。
なぜに宮古に古いヤマトフツが残るのか。「古い言葉は、中央から遠く離れた所に残る。」という言語学の法則、結局このことの証明なのであろう。沖縄本島からも300キロ離れ、また琉球列島の長い歴史上、二度も沈んだという宮古島、、さらには津波に襲われて姉弟二人しか居なくなったという伝説の残る宮古島、ここに2000年の時を経て、古いヤマトフツが話されている。
“ばんがむり”と“お下がり”
宮国優子(平良市出身)
この2年余りの間に2人の子の親となりました。
白状します。きっと私みたいな親は たらーん(頼りない、ダメな)親なんだろうと思います。
離乳食を保育園に持って行ったら、ごうら(苦瓜)が入っているとこっぴどく叱られ、小雨に傘を差さないと叱られ、夜中に洗濯機が火を噴き、生後半年も満たない娘と道路で数時間佇み(もちろん旦那は不在)、子守歌ひとつも満足に知らず、あげればきりがありません。ふがいないのと情けないので自分にいつも ばたふさりて(腹がたって)メタメタになった2年間でした。でもそんな中、私を支えてくれたのは、「ばんがむり」と「お下がり」でした。
「ばんがむり」は宮古の代表的な子守歌。宮古から手伝いに来ている母は子守歌の一つも知らない私に ごーりて(あきれて)教えてくれた。私はといえば、耳になんとなく残っているかな、くらいの認識しかなかった。もちろんフルコーラスは覚えられず、ワンコーラスのみ。それも歌詞は、つぎはぎパッチワークのような状態。勝手に編詞をしていた。最初の一年はそれで乗り切った。
旦那は忙しくほとんど家にはいないので、朝から晩まで母子ともに べたー(べったり)。昼も泣き、夜泣きは一時間おきという悪魔のような娘を抱いて一晩中「ばんがむり」を歌った。泣きじゃくる娘に私は極度の睡眠不足から感情的になって、何度も抱いているその手を離しそうになった。絶叫しながらさしのべてきた娘の手をイライラして振りほどきたくもなった。
いつもいつも私の他には誰もいないというプレッシャーで、ぺしゃんこになりそうだった。「つらーい。拷問だー」と思いながら泣く子に「お母さんも苦しいよー」と言って、あーがあーと(えーんえーんと)半べそかきながら歌い続けた。一時期一日少なくとも100回は歌っていたと思う。ワンフレーズだけど。でたらめだけど。ネガティブな気持ちが生まれれば生まれるほど自分の感情に怖くなって娘をぎゅっと強く抱きしめた。子供のためというより、自分への応援歌になっていた。
「ばんがむり ぷどうさーばーよーいよい うやがたきなり あんながたきなりよーい よよよーい よーい」
勝手な意訳:私がお守りして 育てましょうね 父親のように大きく丈夫になりなさいよ 母親のように愛情深く心広くなりなさいよ
その内容はおまじないのように感じた。言葉も話さない1歳数ヶ月の娘。普段の生活ではイエスノーは示していたので、意志は通じているんだろうなくらいに思っていた。するとある日突然歌い出した。それもほとんど一語一句間違わずに。私のあの「ばんがむり」を歌い上げた。言葉も喋れないのにちゃんと聞いてくれてたんだなぁと思うと、なだーだだだだ(涙どーっと超号泣)だった。
それからもうひとつ、私を支えてくれたもの。友人たちからの子供服のお下がり。その友人たちはみな宮古を離れて孤軍奮闘、必死で子育てをしている。私の頼りになる先輩ママだ。
そんな友人たちからたくさんたくさん頂いた。エコ&リサイクルに日々励む私はイーバーしていた(喜んでいた)。ケチとも言うが・・・。娘は毎日大量に吐く体質だったので、実質的にも役にたった。それ以上に予想もしていなかった大きな効果があった。娘に服を着せるたびにその服を手にするたびに私の心がほわっと暖かくなったのだ。
「みんな同じように子育てしてきたんだ、私だけじゃない。どの子もいろいろあって、夜泣きとか病気とかきっと大変だったんだ」友人たちが子育てに費やした時間が色あせた服の一枚一枚に感じられた。
洋服を着替えさせている間に、子守歌を歌い続けている間に、狭いマンション型の貸家から、すべて畳敷きの宮古の古い家のような日本家屋に引っ越した。全室フローリングは乳幼児にはあまりにも向かない。
引っ越して良かったのは、宮古の雰囲気で子育てができること。長女の時は余裕も知識もなくて、紙おむつだった。念願の完全母乳だったけどいろいろてこずった。今回は下の娘も生まれるまえに布おむつを母と縫った。生まれてくる次女のために。さんぴん茶を飲みながら、いろんな話をしながら。私が生まれた時の話、子供の頃の話、親戚の話、とりとめもないどうでもいいような話だけど、私には大切なエピソードだ。
台所でちゅーか(急須)にお湯を注いでいる母の背中が小さく見えた。私が娘たちを かなすー(愛おしい)と思うように母もそうだったのだろうか。と思うだけで、また、なだーだだだだった。
お便りコーナー
イラウピンザさんより
「伊良部特集」のお三方の投稿、いずれも味わい深いものがあり、ンマリズマを瞼の裏に浮かべながら楽しく読みました。有難う御座いました。
特にア、イラブyouさんの運動会の応援合戦を読みながら独りで笑いこけました。他所から見ると「隣のおじいさんはとうとう狂ってしまったようだ。老人性痴呆にしてはちょって早くないかな。」と思われたかもしれません。
松谷さんが言われるとおり、今度は他所から見た伊良部のイメージなり、伊良部人気質なりを特集していただくと面白いですね。ついでに宮古の各市町村へと発展すればなお楽しくなりますね。「乞う御一考」
※伊良部特集、喜んでいただけて良かったです。応援合戦の様子は地元の人には特に大受けだったようですよ。今後他の市町村もやっていきたいですね。お便り たんでぃがーたんでぃ でしたー。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
1日は、高校の卒業式だったんですねー。宮古の5校の高校からは730名が巣立っていったとか。人数はそんなものなんですね。やっぱり、やらび(子ども)の数は、いきゃらふとぅ(少なく)なっているんだねー。この後、宮古をほとんどの人が離れると思うけど、今の子どもたちは、どこでも、宮古なまりバリバリで平気だそう。ゆーやかーりどぅうーやー(時代は変わったねー)。親元を離れ、大変なことも多いと思うけれど、とっても良い経験になることでしょう。さーてぃ、がんばりよー。と言いたいですね。
さーて、vol.95は、のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?
んなまずぶんの宮古の風景は、ぶーぎなぎ(キビ倒し)があり、ジュウロクニツがありで、んきゃーん(昔)と ゆぬぐー(同じ)で、なんだかうれしい。月に旅行に行く時代がきても、ジュウロクニツをやる風習は残ってほしいなー。それにしても、「タイワンミャーツキ」は、のうしぬばーがら(どういうことでしょうか)。っししどぅ(知ってますか)?
今回も、ひさぼうのミャークフツへの飽くなき、関心、興味が炸裂です。『宮古群島語辞典』を分かりやすく、解体できるのもひさぼうならでは。
著者の下地一秋氏は、すでにお亡くなりになっているそうですが、出版された当時よりもたぶん、今のほうが、この本をひもといている人は多いのではないでしょうか。その価値はますます高まるばかりだと思います。
優子さんの育児奮闘記に、なだーだだだだとした人も多いはずねー。親戚などのいない都会での育児は、本当に大変だ。その中で、宮古の子守り唄と、お下がりに支えられ、そしてかつて自分を育ててくれたお母さんの愛情も・・・。 「ばんがむり」は、メロディも優しく、子どもへの想いがあふれた上等あーぐ(歌)で、やまかさ(たくさん)の人に親しまれています。優子さんの娘さんの歌声をたまたま聞く機会があって、その時は、本当に感動!しました。
しまいぎーゆみふぃーさまい(最後まで読んでくださり)、たんでぃがーたんでぃー でした。みなさんからのご感想を、お待ちしています!
次号は、3月17日(木)発行予定です。どうぞお楽しみに!
あつかー、またいらー。