春のような、真冬のような ぴんなぎ(変な)天気が続いていますが、がんずぅやしーうらまずなー(お元気ですかー)。
今回も たっぷりの みゃーくをお届けしますよー。 読みきりサイズどー。お好きなところから、どうぞ〜。
ばんたがやーぬつかふ 13
宮国勉(城辺町西中部落ゆなんだき)
北にミルク峰、南は野原岳(のばるだけ)の尾根で挟まれた所に西中部落が在る。西中部落は、ゆなんだき、東底原、中底原、西底原の集落に分かれ、ゆなんだきの中程を県道198号線が東西に通り抜けている。
ばんたがやーや(生家は)、県道から北側でミルク嶺のふもとの少し高台にある。いずぃかた ぬ ゆまた(西の方のT字路)は、ミルク嶺への登り口で少し んみがま(登坂)になっていて、雨が降るとすぐ がーら(水路)を作って流れ出すので、何時も石ころがごろごろしていた。ゆまたとは四つ角を意味するのだが、なぜか解らないがT字路をゆまたと呼んでいた。帰郷の際、その坂を登りきると帰り着いたことに一息つくのである。
子供の頃に大人達が都会に出て働き、正月などになると、その ゆまたから白い歯をのぞかせて帰ってくる。駆け寄り荷物を持つ、迎える幸せ感、土産の期待も大きかったのだろうが、幸せの始まりがその場所となっている。そこは今ではアスファルト舗装され、坂も緩やかで周りには家が建ち、昔の面影はないが、目を閉じると子供の頃に凧揚げをした楽しそうな残像が浮かんでくる。
ミルク嶺からの眺めは最高で大神島など島全体が見渡せ、特に山の上に舟が浮いている風景は錯覚に陥っているようである。上野村の野原岳レーダー施設を のばりぐす ぬ んーぶ(野原越のへそ)と呼び、いつも2つ並んでいた。その んーぶも台風で飛ばされたりして台風の大きさのバロメーターであった。
んーぶ と同じ方向に西西部落の旧製糖工場の名残で煉瓦積みの古い煙突が立っている。初夏にはそれらを囲むように虹ができて、煙突の煉瓦色と砂糖きびの緑のコントラストに七色の虹がアーチをつくる、出現するといいことが有りそうな気がした。
ミルク峰一帯にはポー(和名:クロイゲの実=大きさ5?位の黒い実でブルーベリーを小さくしたような感じで甘い実)が岩の上や、ぬー(小さい野原)、又は畑の境など、どこにでもいっぱい実っていました。今では絶滅危惧種に成りそうである。普通は真っ黒だが透き通った朱色の変わり種がミルク嶺の御獄の周辺にもあった。子供の頃は弁当箱や つが(枡)に溢れるほど採れた。
ぽーんぎー(クロイゲの木)は地面を這うように地表を覆い、枝には鋭いトゲがある。子供の頃は靴を買う余裕も無いので、山へも さば(ゴム草履)を履いて行きました。さばで ぽーんぎー「クロイゲの木」の上を歩き、ちょっとへまをすると足の裏にズブリとトゲを刺して、トンベン(竜舌欄)のお出ましとなる。トンベンの葉の先端が ぴづ(針)に早変わりしとげ抜きになるのである。
子どもの頃は殆どの家が農家で、畑を耕すのに まーやま(木で出来たすき)又は、すきを使い必ず馬を養っていた。まーやまとは角材を組んで耕す部分に鉄製のヘラを取り付けて、馬に引かせるすきのことである。根石などに当たると簡単に折れてしまう、しかも深く掘り起こせないのが欠点である。
ある時、母親に”男はそれ位出来ないでどうする”などと嗾けられ ずーすきぃ(畑を耕すこと)に挑戦した。だが、んたがーら(土塊)の上は歩き辛く、馬の早さにに追いつけず、馬と まーやまが地表を無人で走って行く。少年はんたがーら(土塊)と相撲を取り、まともに操作出来ず今に至る。すきは全てが鉄製で重く、まーやまに比べて丈夫で深く耕せるのである。宮古の農具への叡智が垣間見える まーやま、すき、ぴら(へら)、などがどこかに残っていないだろうか。
昔の母親は怖かった、今ではにこにこして孫等にお世辞だけで接しているが、あの恐ろしい、かあちゃんはどこへやら。小、中学生の頃、そのかあちゃんに丸くなれ、くぱうちゃ っすぅな(怒りっぽい口調をするな)と、耳にタコが出来るほど注意された。
しかし、性格は簡単に直るわけがなく、今でも自分の欠点は削るよりカバーするほうが利に適うんだろうと常々思っている。少しは反省したが、削りすぎて自分が融けてしまいそうな時が多々あり軌道修正した。自分の欠点を自覚して理性を信じ行動するほうが、人生を楽しく生きられるのではないかとも思った。
つまり、好きに生きることが自分のためになり、他人をも喜ばせることが出来るだろうと思う。若いときの ふぎゃまさ(怒りっぽい)は、責任や向上心の塊だと思う。証拠に怒ることは相当なエネルギーが要る。若さを保つには欲と好奇心があれば大丈夫ではないかと思うのだが。
「かあちゃん!あなたの遺伝子ありがとう」。んにゃ おしまい。
ミャークフツ講座 やなふつ(罵詈雑言)編
神童(平良市出身)
- ぷりむぬ!(馬鹿)
- ふぅすぅ ぐどぅん!(くそったれの愚鈍)
- うぬぅ ぱなだりゃぁ!(このはなたれが)
- たすからん んまり!(救いようのない奴)
- みーちゃぎ んまり!(恥ずかしい奴
- くぱりゃ!(不器用な奴)
- かっかみきぃ んまり!(落ち着かない奴)
- うぷだらか!(大嘘つき)
- ふしばがま!(性格の悪い乱暴者)
- うぷがなまりゃ!(直訳は大きな頭 (頭でっかち))
- ふすぅがなまりゃ!(う○こ頭(あたま悪いんじゃねーのっ!))
- んびゃーいん んまり!(どうしようもない奴(堪えられない奴))
- むぬぅから ふぁい!(飯を食え)
- ぴゃーまりっ!(早くしろ)
- ぬぉーばいぬぅ ぎぃっつぁ しぃらいん やらび!(なんて行儀の悪い子供なんだ)
- やがますかーば!(うるさいから)
- ばたふさり!(腹が立つ)
- かさますぅーかさます!(いらいら いらいら)
- なきぃ びっしぃうり!(泣いて座っとけ)
- まーんてぃがみゃぁ!(全くよー)
- やーんかい ぴり!(家に帰れ)
- やーんかい ぴらし!(家に帰らせ)
- うふぉーぎゃー なさったん!(お前を産んだ憶えはない(勘当手前だ。やばいね!))
- のーやらばん じょうぶん!(何でもいい(もうどうでもいい。知るもんか!))
- あかふぅすぅ!(赤いう○こ(嫌なこった:「あっかべー」))
- えげーっ!うるらっ!(「ふんっ」とか「へっ」)
- うわがぁ しゃくぅ ばがぁ しゃくぅ にゃーん!(お前は俺ほどでない(十年早いんだよっ!))
- かなます゜まぐがぷい!(頭真っ白)
- ふぁーし!(轢いちゃえ)
- きりゃーしぃ してぃる!(蹴っ飛ばせ)
- うすとぅーらしぃ!(押し倒せ)
- びらかし とぅらし!(転がしてやれ)
- うらかいらし!(ひっくり返せ)
- だらかーしぃ!(また嘘ついてっ)
- かいとぅっさぁ たきゃーならん!(あいつとはまともな話ができない)
- あばぁ!(おろっ)
- ぬぉーぬぅ ばぁーぃりゃー?(どういうことなんだ)
- どぅが さみぃとんまいかきぃ!(てめーの面倒から見ろ)
- ばがぁ さきぃぬ ぬまいんな?(俺の酒が飲めないってか?はぁ!)
- うわが しゃくぅ!(てめー、このやろう)
- さきぃ いかっふぁっとぉ!(酒をひっかけるよ)
- ぷーっち あんちゅぅり!(どうぞ、そうしておけ)
- あどぅ ふぁーし!(かかとおとし)
- みんたっわぁ すぅっふぃ!(びんたを張れ)
- かまっつぅ どぅみんどぉ!(横っ面ををどつくよ)
- さっふぃ!(刺せ)
- あかつぬぅ いでぃきゃー みんぎぃ!(血が出るまで殴れ)
- すなすんどー!(殺すよ!(ほんとは痛めつけてやるだな))
- すなし とらし!(殺してしまえ!ホトトギス)
- すなし かいらし!(殺してから転ばしておけ)
- どぅみぃ すなし(どついて殺せ)
- ぷにぃ ぶり すなし!(骨を折って殺せ)
- みぱなぬぅ かぁーゆ むき゜んどぅお!(顔の皮を剥くよ(インディアンだ))
- ぬばいっ きしぃ すなすんど!(首切って殺すよ)
- ばっつぁい すてぃる!(解体してやれ)
- なかみぃ いだすぅんど!((お前の)臓物を出すよ)
- ぴぃっちゃがま かがろす゜たー(ちょっとかすっただけ(人を殴ったときの言い訳))
最後の方言札世代だ。親兄弟はもちろん、島尻部落をあげて方言撲滅運動にいそしんだのさ。結果、方言は使われなくなっていくのでした。しかーーーし!感情がたかぶってくると、思わず方言で喋るんだな、親が!なので、やなふつだけは、いくらでも出てくるのである。はっはっはっはっ!
同期会
松谷初美(下地町出身)
高校を卒業してから27年。中学を卒業してからは、30年にもなる。あの頃、そんな先のことなど考えたこともなかったし、中年になるとも思っていなかった。
今から5年前の2000年に中学を卒業してから25年の節目にあたるということで、下地小、中の大きな同期会が行われた。
卒業以来、初めて会う人もいて、幹事が配った卒業写真のコピーを みーがつな(見ながら)、遠くから「あれは誰?」「この人は?」と、最初から大騒ぎ。大型観光バスに乗り込み、島内一周する中で、全員の名前と顔が一致するようになった。25年もたてば、みんなそれなりに、おじさん、おばさんだ。あの当時の性格と変わらない人もいれば、無口だった男の人が、饒舌になっていたりした。オトーリで鍛えられたからか!?
そんな中でもM(男子)が、一番あの頃と変わったように見えた。中学の頃は、方言を ばんみかし(大声でしゃべり)、服装もラッパズボン、いわゆるぼうちら(暴れん坊)で不良のイメージだった。女子にとって だいず うとぅるす(とても恐い)存在だった。
現在は、関東のほうで会社を興し、社長だという。あの頃のイメージは、まったくなく、物腰も柔らか、しゃべるのも標準語だ。(みゃーくふつを使いたいけど、なかなか思うように出ない感じでもあったが。それだけ、内地では、みゃーくふつをしゃべらないようにしてきたのかもしれない。)
そんな彼が、島内観光の途中、東平安名崎のところで、M子にこう話したそうである。
「自分はさー、小学校のころ、○子のことをよくからかったり、からんだりしてたさ。そしたらある日、M子が“なんでいつもいつも○子をいじめてばっかりいるか!そんなことしたらダメでしょう!”と怒ったときがあったでしょ。自分がしていることを面と向って注意されたことはなかったし、自分では、いじめているとも思っていなかったから、驚いて、それからいじめるのをやめたんだ。あの時はありがとうなー。M子に会ったらお礼をいわんとと思っていたよー。」と。
M子は、そんなことあったけー?と ばっして(忘れて)いたそうだが、Mからそんな話を聞いて、うれしかったと話していた。Mがそんな想いを持っていたのは、意外なようでもあり、また、分かるような気もした。人は誰でも、その時に言えなかったこと、言うタイミングを逃してしまったものを持っていると思う。
卒業してから25年。たぶん彼は、このことをずーっと心に止めておいたのだろう。そして、人生の折々のなかで、そのことを思い出し、いつかM子に会うことがあったらそのことを伝えようと思っていた。そして、○子にも謝りたかったのだと思う。(彼女は残念ながら欠席だった。)
同期会が行われたその日は、誰もが自分を解放して、心が開ききった感じだった。飾ることは何もなく、カッコをつける必要もなかった。バレーボールでは、珍プレーが続出。失敗しても気にしなーい。東急ホテルでのパーティでは、うれし、恥ずかしフォークダンス、しまいには、校旗を持っての校歌ダンス。いひーがあはーてぃ あまい(ゲラゲラ笑い)、気持ちは15歳に戻っていた。
同期会に参加するまで、あんしぬ うむっしむぬ てぃーや うまーったん(こんなに楽しいものとは、思わなかった)。そう、30年前に卒業した日も、こんな日を予想だにしなかった。
あの頃では、言えなかったことがこの年になって言える、あるいは、分かるということがある。年をとるのも悪くないなーと思った長い長い一日だった。
“宮古島市”命名について
クイチャーマン(下地町出身)
2005年3月8日、宮古5市町村合併協議会は、合併後の新市の なー(名前)について「宮古島市」と正式に決定した。合併後の新市は10月1日に発足(誕生)することになっているので、名称を生まれる前につけたことになる。ン!「名前」の語源はこれ?
名称問題については『くま・かま』読者の皆さんも しわーしー(心配して)見守っていたことと思うので、一緒に喜びたい。3月8日は宮古の「み」「や」と語呂合わせして覚えやすい。「宮古島市の命名記念日」として記憶にとどめ、後世にも伝え、記念行事も考えたい。
少し長くなるが、この機会に合併協議会の名称決定までの経緯を振り返ることは意義深いと思う。
同協議会は一年ほど前の当初から「名称は宮古市とする。公募(アンケートを含む)は実施しない」と再三決定してきた。しかし、これは民主主義教育を受けた人の かなまず(頭)で考えれば、あてぃ ぴるますむぬ(とても不可解なこと)であった。
「うりゃ あんしーがみゃーならん(そのようなことではいけない)」と、人々が声をあげたのは当然であった。岩手県宮古市の市長さんからも決定の経緯と理由など、4項目について照会状が届けられた。その後、古里を離れて生活する人と地元の人たちが呼びかけ人となって「新市の名称を考えるシンポジウム」が平良市で開かれ議論が深まり、マスコミも大きく報道した。同シンポでは私も呼びかけ人となりコーディネーターを務めた。
さらに宮古青年会議所と商工会議所青年部による高校生以上を対象にした非公式アンケートの結果、新市の名称については(合併協議会として)公式アンケートを実施したほうが良いとの回答が79%に達し、宮古島市(45%)、宮古市(21%)、まてぃだ市(14%)琉宮市(7%)など約80もの名称が寄せられた。
このような経過のなかで2月28日から実施された公式アンケートでは「宮古市」と「宮古島市」の二者択一が問われ、その結果「宮古島市」が59.33%の支持を得た。3月15日の合併調印式を控え、ぎりぎりの段階で合併協議会が住民の意思を尊重し「宮古島市」と全会一致で決定をしたことを高く評価したい。
「ぱずみから あんしきみっかー とーめー のーてぃーめー あずあったーむぬーいら(はじめから そのようにして決めれば 誰も 何とも 言わなかったのにねぇ)」との声は、大切な教訓である。
民意で決めた「宮古島市」を誇り高く発信していこう。岩手県宮古市のみなさんとも笑顔で交流が広げられるし、夢はふくらむ一方だ。11月の第4回クイチャーフェスティバルでの祝福と歓喜の踊りも目に見えるようだ。
ばん? んにゃ んなまから まいにつ ぶどぅりどぅうーさーよー (私?もう いまから 毎日 踊っているんだよ)。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
先週あたりから、関東はスギ花粉が飛び始め、花粉症歴14年の私には、かさましい(うっとおしい)時季だ。うっ、春なのに。スギのない宮古に育ったから花粉症にはならないと うむいーうたーすぅがやー(思っていたのになー)。
まーんてぃ やっかいなむぬ。みなさんは大丈夫?
さて、vol.96は、のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?
「ばんたがやーぬつかふ」も13回目となりました。宮古は、平らな島と言われますが、あんがい、んみ(峰)と呼ばれる箇所も多くあり、場所によってずいぶんと風景が変わりますね。「ゆなんだき」から大神島が見える話や、坂の話、煙突の話、映画のワンシーンのようです。風景と出来事は、一緒に結びつき、宮国少年が見えるよう。
ああ、それにしてもよー、やなふつのすごいことよー。そこまで言うか!という感じだけど、言うさーねー 宮古の人は。ばんたがお父まい、ごたぶんにもれず やなふつでして、「うわが わーやりばどぅ やきーまいふぉー」(あんたが豚だったら焼いてでも食べるのに、煮ても焼いても食えん奴だ!)など、日常茶飯事でした。あっがいたんでぃよーい。
2000年に行われた同期会の楽しさは、5年たった今でも、ありありと思い出す。くま・かまを始めたきっかけのひとつでもあった気がします。
島を離れている人たちにとっても、大きな関心事だった合併後の新市名。アンケートが行われ民意で決まって うむやすむぬ(安心)ですねー。「宮古島市」が、宮古や宮古の人たちに、たくさんの ゆー(福)をもたらしますように。そして、これから上等な歴史がたくさん刻まれていきますように!
くま・かまは、おかげさまで、5月19日発行で100号を迎えます。たんでぃがーたんでぃ〜。そこで、くま・かま100号を記念して、読者のみなさんの声を掲載できたらなーと思っています。これまでのくま・かまを読んでの感想や、くま・かま歴、出身地と現在お住まいの場所(大まかに)などをお書きの上(400字以内)下記までお送りください。実名でもハンドルネームでも結構です。どうぞよろしくお願いします。やまかさのご応募お待ちしています!
今号の感想まい まちうんどー(待ってますよー)。
次号は、3週間後の4月7日(木)発行予定。どうぞお楽しみに!
あつかー、またいらー。