こんにちは〜。
新年度ぬ ぱずまずやー(始まりですねー)。 「くま・かま」まい おかげさまで6年目に入りましたー。
んなまからまい、あたらっさっしーふぃーさまちよー(これからもご愛読のほどお願いしますね)
今回も季節の話題から ぱずみっとー(始めましょうねー)。
サニツ
カニ(平良出身)
ハイ おはようございます。カニど−。
昨日(3月31日)は旧暦3月3日・浜下り・サニツの日でした。我が家でも やつうさむつ・くばすやむつ(ヨモギ餅)を食べ、娘らはスサカダ−の白浜で しな(二枚貝)を やまかさ取ってきました。今日は「しなずー(二枚貝汁)」を飲むことが出来そうです。(あがいたんでぃぷからっさ)
とずっぁ(妻は)八重干瀬(ヤビジ)の環境ガイドで八重干瀬へ・・・。カニゃー「あがいー ばんまい いむかい いきぶす−ぶす」、「ばんまい あすぴが いきたずーたず」、「ばんまい ヤビジんかい いかばや〜ばや」・・・てぃ・・・あんちー うむいうず。
サニツ行事の由来について調べましたので書いてみます。
旧暦3月3日は「サニツ」と呼んで、大潮にかかる時間に浜下りして海水で足を洗い、厄を落とすといって、女達は皆ピクニック気分で近くの浜で浜遊びをする。
島の女たちはこの日ばかりは自由に海辺で潮干狩りを楽しみ、くるぶしを波の華にひたし打たれて、身に宿した アカマター(蛇の名前)の精を降ろすという伝説がある。いずれにしても女の節句で三に三が重なるこの日、悪厄払いの浜下りが「サニツ」である。
明治末期の「サニツ」行事の模様が「仲宗根カマド」により伝えられている。
サニツが近づくと、サニツきん(着物)は自分で織って着けた。かし(糸)がない人や元銭がない人はサニツきんを持っている家の人から借りなければならない・・・がしかし、金がないのでその家の毎日の水汲みの肉体労働をすることで、着物の貸し賃を稼がねばならなかった。
女の人は髪を結えなければ致命的であった。髪の薄い人は「いじがら」(かもじ)借りが大変だった。島中を「いじがら」借りに、水汲みに駆けめぐる光景があったそうだ。鏡の少ない時代で 「カンプゥ」を頭の真上にのせる者、右うっすぅ(後頭部)、左うっすぅに坐らせる者、いろんな結い方があって愉快だったみたいだ・・・。カンプゥした髪にさす「ぎぃーぱ(かんざし)」で飾るが士族の女性らは「なんざぎぃーぱ(銀のかんざし)」で飾っていたようだ。
明治の頃まで有夫の妻が浮気をすると「サルカ(サルカケミカン)」の木の上に坐らせ町中をひきづりまわし、さらしものにしたそうだ。大正の末期、相手の男と言葉を交わしたこともなければ 顔をみたこともないまま親同士の決めた結婚をさせられた・・・という例は珍しいことではなかった。
しかし、この「サニツ」の日だけは 親も社会も黙認し、これら一切の因習的道徳の束縛から解放される日であった。若い男女が見初め合う、絶好の機会であり適当な場所であった。青年たちは「ずぅ いんぬ つきすが(さあ 彼女を見定めに行こう)」と言いながら浜辺に繰り出した。
こうして長年の因習的伝統の社会に閉じこめられた若い小鳥たちは、親にも赦され社会も認める「サニツ」という絶好の見合いの日を待ちあぐね浜辺へ浜辺へと、どどっと一大絵巻物語を繰り広げた。
「サニツ」とは、特に女性の解放の日と呼べるかもしれない・・・。
さぁさぁ〜 きゅうや のーがすーでぃ(さぁさぁ きょうは何をしようか)旧暦3月4日や 「イム(ン)ザニツ」てぃ あびりうずど−。カニまい いむかい うらでぃべ−や・・・(カニも海に下りようかな)。
※参考資料
・「サニツ行事について」岡本恵昭著(宮古毎日新聞 平成17年4月13日)
・『西里の民族』羽地栄著
あさんま(両親)から聞いた 宮古のことわざ
ざうかに(平良市宮原出身)
今回は、あさ、んまから聞いた宮古島のことわざを書いてみます。
●みゆうとぅ ぬ ゆうや あまいゆ っふぁ ゆうや なきゆ んまが ぬ ゆうや たらまゆ
(夫婦の、世は、笑い世、子供の世は、泣き世 孫の世は、多良間世)
(解説) 新婚時代は、二人きりで毎日笑いながら暮らせるが、子供ができるとそうはいかない。子供を育てる事は、たいへんな事である。孫は大きくなるにつれて、だんだんと離れて行ってしまう。多良間島は、宮古島から離れている事からたとえて言うのでしょう。
●まつ ぬ ぱーしどう ぴとぅ ぬ くくる ばあ つつん(松の葉で、人の心は包む)
(解説) もちろん、松の葉で物が包まれるわけがない。しかし、ごく小さな物なら可能かも知れない。このように、人対する小さな親切、思いやり、心つかいをたとえている。
●きゆうす ぬ すたんな うらいすが すとぅま ぬ すたんな うらいん
(煙の下には、居られるが、姑の下には居られない)
(解説) 煙の下には、なんとかがまんすれば居られるが、姑といっしょには、生活できないという嫁、姑の関係をたとえている。でも、現代は、ひっくりかえっているかも知れない。
●ふあん ふあん ななまかい(食わぬ、食わぬ、の、七茶碗)
(解説) 食べ物を、すすめられた時、初めは結構ですと遠慮するが、さらにすすめると少しだけ食べる。さらにすすめると、おなかいっぱい食べてしまうという事。
生活の中からにじみ出てくる言葉で表されたことわざ。大人になればなるほど、その意味が ふかーふか(深ーく)分かるようになるねー。んきゃーんぬ ぴとおー まーんてぃ すぐりむぬやー。
(昔の人は本当にすごいですね)
初めての喫茶店
松谷初美(下地町出身)
初めて喫茶店に入ったのは、高校生になってすぐのことだった。平良に住んでいる二つ上のいとこのねぇねぇが自分の妹と私を連れていってくれた。そこは、下里通り近くのマクラム通りにあった「香(こう)」という喫茶店だった。
ちょっとドキドキしながら、ねぇねぇの後をついていく。店内は薄暗く静かに音楽が流れていた。座ったのは、はじっこの4人がけのテーブルだったと思う。
何を飲みたいか?と聞かれたが、メニューを見ても分からなかったので、ねぇねぇが頼んだものと同じ「レスカ」というものにした。それが「レモンスカッシュ」を略した言い方だと知ったのは、喫茶店を後にしてからである。
ストローで ぐずぐずーと飲み干しそうな私たちにねぇねぇは、「あんなに一気にいっぱい飲んだらだめだよ。ゆっくり飲むのがいいんだからね」と言った。ストローの口を指で押さえながら、ストローにレスカを吸わせ、ちびちび飲んでいるねぇねぇがいつもと違って、大人っぽく見えた。
ドキドキわくわくの喫茶店デビューからしばらく経つと、いろいろな喫茶店に行くようになった。あの頃(1970年代)の宮古には喫茶店が やまかさあった。
宮古高校近くの「A7(エーセブン)」、西里通りの「南蛮」。琉映館近くの「馬酔木(あしび)」は、特に大好きで、よく行った。「A7」のチャーハン、「南蛮」のアイスウィンナーコーヒー、馬酔木の馬酔木トーストの味は、今でも覚えている。本当にどれも、んまーんまだったよー。(おいしかった)
これらのお店に共通していることは、オーナーが音楽が大好きという点だろうか。どのお店にも立派なスピーカーが置かれ、レコードの数も半端じゃなかった気がする。こだわりのあるお店はあこがれでもあった。お店の雰囲気をとても大切にしていて、居心地がとても良かった。粋な感じがすごくした。
でも、今はもう、どの喫茶店もない。市内を通るとき、喫茶店のあった場所を見ると、ふとあの頃が蘇ったりする。
「レスカ」と言う言葉を初めて知った高校生は、もう高校生の子を持つ親になっていた。
かっちゅのまらがま(鰹のちんちん)
みしん(池間出身)
くまかまの皆さん、ほかの人が ふぁいたいくとうぬにゃ〜ん(食べたことがない)興味深い食べ物をたべたことはありますか?
10年前にこの町(カンザス州マンハッタン市)の英会話クラスの授業で聞かれた質問です。頭の中に一番に思いついたのが「かっちゅのまらがま」。(まらがまと言っていますが、実は、それは心臓のこと)
あうさりむん(生ぐさいもの)好きな私の大好物のひとつで、生のままかぶりついたものでした。しかし、それをこの場でいうべきか・・・。まさかこの多国籍のクラスで『私の大好きだったかつおの心臓です。生のまま食べると最高!』絶対に言えません。
今、日本料理は流行のものとしてアメリカ人に受けていますが、一昔前は、刺身、すしはグロテスクなイメージで、鯛の生き造りがロスアンジェルスのテレビ番組で放送され、残酷だ、虐待だなど、爆弾脅迫された日本レストランがあったくらいです。
それがあるのに、心臓をたべるとは!この うとうるす(怖い)日本人。恐怖映画の主人公になることをおそれて、上品な「いかのすみ汁」に急遽変更。
さて、私が子どものころは、池間のインシャー(漁師)が大漁旗をあげて、港に戻るとおばあや〜へ。かっちゅをさばいて、かんまい(頭)から まらがまを取り出して、ボウルにいれるおばあの横でとりたてのまらがまを生のまましょうゆにつけて食べる。これはほんとにおいしかった。
煮ると硬くなり、特に白い部分はこりこり度が増して味気なかった。そのまらがまが心臓だとわかったのはずいぶん、先のこと。
むぬたらん(なにも知らない)子供でよかったと思う。
心臓だとわかっていたら食べなかったかも。
からず(髪)
宮国勉(城辺町出身)
私が やらびぱだ(子供の頃 1950年代)は街の床屋に行くことは、ほとんどなかった。4、5才頃まで母にカミソリでスキンヘッドにしてもらっていた。切ってから3日目あたりは帽子をかぶるにもマジックテープに被せるような抵抗を感じた。
小学校に通うようになってからは、10セントを握りしめて隣近所のおじさんの処に行き刈り取ってもらっていた。家から歩きで5分ぐらいのかーずく(沼)のすぐ傍が床屋のおじさんの家である。そこへ行く通りは空が見えないぐらい樹でおおわれ、赤土の轍もなく平らで、塵一つ無い綺麗な道だった。たおじさんの家の垣根はブッソウゲを綺麗に刈り込んであり、おじさんの頭に似ていつも角刈りだった。
庭に入ると ぬーまたつ(馬小屋)に通され、(当時ぬーまたつには、表の庭側に馬、奥の隅にはぴんざ(山羊)が大抵飼われていた)こぢんまりと土間コンクリートの処に椅子が置いてあり、風呂敷を被せられて手動のバリカンで丸められるのである。ぴんざ(山羊)が餌欲しさに寄ってくると かまんかいぴりてぃ ちびぐーゆ うしとぅらし(向こうへ行けとお尻を押しやる)。がしかし、ぴんざはなかなか強情、おじさんはぴんざを尻で押さえながらバリカンを巧みに操るのである。襟足を剃るときは、ぴんざのお陰で手元が狂い耳を削がれやしないかと不安で堪らなかった。そのうち、ぴんざのお尻から丸くて黒いコロコロしたものが飛び出して、かまんかい ふっつぁしい すだーすきなり うぬぴんざ うーたーだら(山羊はあちらを向いて気持ちよさそうにしている)。
散髪は刈る方は大忙しだが、刈られる側は退屈で、仕方なくぴんざの顔立ちや ちびぐー(おしり)を観察しながら、丸坊主にして貰い あんちーかんちー(いろいろ)と考えを巡らし退屈凌ぎをする。長さは普通が1分刈り(約3ミリ)、それを長めの2分刈りにして貰えばよかったかなあ、しかし2分刈りにして貰うと早く伸びるので回数が増えるから経済に響くし、などと思いを巡らす訳である。
周りの遊び友達は「2分刈りにしてきたよ」それが誇らしげに聞こえる自分がいた。次回は絶対に2分刈りにして貰おうと思うのであった。憧れの2分刈りはバリカンの底にアタッチメントを取り付けて浮かして刈るのである。今にして思うと1分刈りも、2分刈りも同じ富士額(髪の生えぎわが富士山の形に似ている額で昔は美人の条件の一つとされたらしい)に変わりがないのだが、そのときは値打ちがあった。
おじさんが居ない時は私より5つぐらい年上の あざ(お兄さん)が代行を務めるのだが、ぴょうすーんな(ときには)髪の毛を抜かれて、あがー(いてえ)と心で泣く。そのあざが折りたたみカミソリを出して皮ベルトで研ぐ仕草、「あば えりゃー じょうぶんやーば(あっ、襟足はやらなくて結構ですよ)」と遠慮した。
おじさんの腕前はピカイチで何時も きつぎんてぃ きしふぃ とらしば ぷからす かんがなす(綺麗に切ってくれるので感謝)であった。終わって代金のコインをズボンのポケットから出しそびれて下へポトリ。ぬーまたつ(馬小屋)の幾重にも敷き詰められた ぱーがら(サトウキビの葉)の中へ消えた。んにゃ あにむぬぴとー のしーがすぅーでぃ(ああ もう どうしよう)。はーい うぐきなよー ぴんざまい ぬーままい とーとぅ(山羊さんも馬さんも動くんじゃないぞー、神様仏様)、やっとの思いで光り輝くコインを見つけて支払い、家には何事も無かったかのように帰り着いた。
運動会 ままーず(間近)になると床屋は混むので あつぁぬ すとむてぴゃーしんかい くう(明日の朝早く来いよー)。日の昇る前に起き朝日と遭遇する機会が与えられ今では感謝であるが当時は辛い事の一つであった。2度ぐらいはピサラ(平良)の理髪学校へ行き、刈り取って貰ったが床屋独特の匂いがして ぬーまたつ(馬小屋)の方が好きだった。
からず(髪)で何時も思い出すのは、ばんたが んま(我が家の祖母)がカンプー(完封や寒風でもなく沖縄独特の髪の結い方)をよく玄関で垂らし手入れをしていた姿だ。いま思うと、地面まで着きそうな髪を垂らした姿格好は、ふすま絵に描かれている浮世絵の時代を連想する。んまの髪は晩年まで黒く、量質とも衰えず大きく、自慢のカンプーであった。
梳いた後はくるくると蜷局を巻いてアルミの ぎぃーぱ(かんざし)を差して手入れが終わる。その ぎぃーぱ をときには頭から取り出して、あこうん(ウニ)の中を抉り出して食べる道具にしていた。私が小学校6年のとき83歳で亡くなったが、生涯現役で まかや(チガヤ)の まぐ(麦、豆などの入れ物)や うぷなびぬふた(大鍋の蓋)を作り、製糖時期が近づくと茅で縄を綯っていた。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
冒頭でも書きましたが、「くまかま」を始めてから、おかげさまで丸5年が経ち、この4月から6年目に入りました。パチパチパチ〜、いよっ!ひゅーひゅ〜。
自分で盛り上げるのも何ですが、それもこれも読者のみなさんとライターのみなさんのおかげですので、盛り上がらせてくださいね。本当に感謝申し上げます。たんでぃがーたんでぃ!!
あんちぬばーやしー(そんなわけで)、5周年を記念して、くまかまの本を出すことにいたしました!(イエーイ!)
出版社は『読めば宮古!』『書けば宮古!』『下地勇/心のうた』でおなじみ「ボーダーインク」さんです。新城和博氏が かなます゜やましながら(頭を痛めながら)上等な本にすべく、制作を頑張ってくださっています。
メルマガとはまた違った味わいで、あの笑いと感動と懐かしさが蘇る!これまでの傑作選になっています。発売は、6月ごろの予定。(本を作るって手間ひまかかるんですね)どうぞお楽しみに〜。
さーて、vol.121や のーしがやたーがらー?
先月の31日は、旧暦の3月3日で「サニツ」だったんですねー。みなさんは、海へは行かれましたかー?サニツの翌日、くまかまの掲示板で、カニさんが早速その話を書いてくださったので、メルマガにも登場していただきました。サニツの由来や昔の人たちのサニツを楽しむ様子が伝わってきましたねー。かんぷーを結い、すぅがりて(着飾って)海に下りる、あんがたー ずみどぅ やたーぱずやー(お姉さんたちは、素敵だったことでしょうねー)
ざうかにさんの宮古のことわざ「んまがぬ ゆーや たらまぬゆー」は、知っていましたが、その前にも「みゅうとぅ ぬ ゆーや・・・」とあったんですねー。すっさったんどー。
親から言われたことは、いつまでも耳に残っていて、ふとしたときに出てきたりしますね。
みしんさんの「かっちゅのまらがま(鰹のちんちん)」。うむっし名前ですが、心臓のことなんですねー。おごえー。
獲れたての魚が入るところならではの食べ物ですね。私は食べたことありませんが、一度聞いたら、忘れられない名前ですね。うわまい(あなたも)人が食べたことないような興味深い食べ物を食べたことがありますか?
宮国勉さんの「からず」の話は、懐かしく思い出された方も多かったことでしょうね〜。男の子は、ほとんどバリカンでそられていましたよねー。私も、小学生のころは、近所の床屋に行っていました。襟足にカミソリをあてるまえに石鹸をつけられることの びごーさ(くすぐったさ)といったら!かんぷー結いをしていたおばぁは、うちの近所にもいました。今はもうほとんど見られなくなりましたね。
「初めてシリーズ」今回は「喫茶店」でした。このシリーズ、まだまだ続きますよ〜。あなたの初めて物語もぜひお寄せくださいね。そうそう「あんな(母)への手紙」の投稿も募集しています。締めきりは、今月末です。どうぞお気軽にお寄せください。まちうらっとー(待っています)!
今号の感想もぜひぜひお送りくださいませ。よろしくお願いします。
次回は、4月20日(木)発行の予定です。あつかー、またいら〜。