こんにちは〜。
沖縄本島では、梅雨の長雨で土砂崩れなどの被害がでいるようですね。ニュースを見てびっくりしています。
お見舞い申し上げます。これ以上被害が出ませんように!
さぁ、梅雨を吹き飛ばせ!vol.126お送りしますよ〜。
イチロク同期会〜北海道旅行記〜 (投稿)
ア、イラブyouさん(伊良部出身)
行きーったんどー、北海道。噂に違わずデッカイドーでした。
伊良部中学校イチロク同期会(16期卒業なのでそう称している)は160名もいるが、今回の旅行は模合い仲間を中心の男女21名が参加した。それに草笛と、けん玉で有名な恩師のS先生が同道して下さった。
沖縄の5月は、かりゆしウエアのクールビズで通すので、その出で立ちが多かったが、機内で北海道の気温が17℃とのアナウンスを つきい、(聞いて)南北に長い日本列島を痛感して空港ん着きーやバッグからジャンバーを取り出す あぐ(同級生)もいた。
羽田空港で関東の あぐんみ(同級生たち)と、ぴとみなりー(一緒になって)久方ぶりの会話を楽しみながらバスん乗おりー、いよいよ「イチロク同期会」大旅行の始まりである。
バスガイドさんの挨拶と一通りの北海道の紹介が済むとバスの中は、頭髪が淋しくなったり白髪の混じったりした やらびんみ(子どもたち)の修学旅行と化していた。
伊良部小学校校歌、行進曲に始まり、中学校の校歌ではS先生の草笛の伴奏も入って尚一層盛り上がった。続いて青い山脈、高原列車は行く、学生時代、高校三年生を唄いだす頃には昭和40年代に流行った歌声喫茶が懐かしく思い起こされて青春時代にタイムスリップしている あぐたちを見た。
果てしなく広がる大平原をバスは今日の宿泊地、層雲峡へとひた走る。真っ直ぐに伸びる道の両側には根雪が融けて新芽を噴き出している小麦の緑のじゅうたんが敷き詰められていてガイドさんの説明には生命の力強さを実感せずには ぶらいったん。(いられなかった)
明治2年に入植が始まってから丁度100年目を記念して昭和45年に建立されたという記念塔の説明にも北海道開拓民の精神が宿っている思いがした。大雪山の頂きに白く光る残雪に感激しているうちにバスは層雲峡温泉宿に到着した。そこで旅装を解いて思い思いに温泉に浸かり期待の夕食大宴会である。
盛長会長の挨拶に続いて小中学校の校歌斉唱、かくし芸では事務局長の詩吟、日舞のお師匠さんによる日舞の披露とイチロク同期会は芸達者が多い。そして極めつけは何と言ってもS先生の話芸と共に繰り広げられる草笛とけん玉である。それに魅了されて、その場で先生に教えを乞う者もいるが一朝一夕に出来る技ではない。それでも あぐの中には一生懸命になって練習しているのもいて、小生の用意した伊良部小学校行進曲の演技は、あつぁんかいやー(明日ねー)となった程である。
そうこうしているうちに、あっという間にお開きの時間となるのだが、其の侭この宴会が終わるはずが無い。大部屋に陣取った会長の部屋で全員が夜の更けるのも忘れて飲み明かしたのは言うまでも無い。
それでも翌朝は層雲峡の山並みに囲まれた石狩川の音を聞きながらの露天風呂には ぷからすむぬだった。旅程2日目、昨夜の大宴会の余韻が残ったままバスに乗り込み一路、今日の目的地、藻琴山の芝さくらを目指した。
バスの中は昨日に引き続き歌声喫茶の延長である。道中、家々の みなか(庭)や田んぼの畔にピンク、白、紺の綺麗なお花が見える。あれが「芝さくら」ですよ、と言うガイドさんの説明に「あいろ(そうなんだ)」と軽く受け答えしていたら、「間もなく藻琴山に到着でーす」の声に窓の外を見た一同は「おごえー、あがいんみゃがま(うわー、すごーい)」と驚くと後は言葉が続かなかった。
山一面にピンクのじゅうたんが敷き詰められ、白と紺の芝さくらで縁取りされた模様がものの見事に山肌に浮かび上がっているではないか。凄い、本当に凄い。これが北海道のスケールの大きさだな、と改めてデッカイドウを実感させられた一こまであった。
そのピンクのじゅうたんを縫うようにして丘の頂に向かって280段もの階段が設けられている。うまぬわーらんな(そこの上には)徳の高い神様が祀られたお社があるとの事。小生も気を奮い立たせて登ることにしたが何しろ280もある階段だ。途中で息切れしそうになったが、わーぎをみーてぃがー(上を見たら)還暦をとうに越したS先生がしっかりした足取りで登っているではないか。小生まい負きーやうらいんてぃー(負けていられないと)、やっとがまの思いでたどり着き、やまかさの願い事をして来た。
2日目の晩はいよいよこの旅行の最後の晩餐会である。準備した日の丸の小旗を手に伊良部小学校行進曲の演技だ。45、6年前を思い出しながら両手に持った日の丸を上げたり下げたりしたが、結構ざうずないやしーあしー(上手に踊れて)拍手喝采だった。
そして圧巻はS先生の吹く「漲り水のクイチャー」に合わせて全員が輪になってのクイチャーである。この世の続く限りお互いは友達でいようね、という まーんてぃー今回の旅行に相応しいクイチャーであった。
漲り水のクイチャーは硫黄山でアイヌの衣装を纏って記念撮影をした後にもS先生の草笛に合わせて踊ったが、円陣を組んで踊る様は他の観光客の皆さんには本物のアイヌの踊りだと映ったらしくてカメラに収められ、一同お互いに顔を見合わせて納得した次第だった。
「よーまい そーいー くーてょ(あんたをも連れて来いってよ)」と言われて参加したイチロク同期会の旅行であったが、友達の暖かさと北海道の大自然に触れ感動の連続だった。次回、早期の再会を願いつつ、有難う先生、ぷからっさどーあぐんめ。(ありがとう うれしかった あぐたち)
友よ 淋しいとき お前に会いたい
「友よ」作詞:岩谷時子より
友よ 楽しいとき お前に会いたい
若いよく似た夢を心に
歩き続ける僕達さ
もしも日が隠れて道に迷ったなら
友よ その時こそ 光になろう
ばっしらいん山火事
宮国勉(城辺町出身)
畑から掘り出された石などが山盛りになっている処を むるす(こんもりとした小山)と云う。私が子どものころ(昭和30年代)そこには、むとび(なわしろいちご)、ぽー(くろいげの実)などが実り。その傍らには まかやには、がいちんの巣(茅萱にセッカの巣)、まかやの根元にはうっざ(ミフウズラ)が、褐色のまだら模様の丸い卵が枯れ草の上に並んでいるのを見つけたりした。
ぬー(原っぱ)には松の木などが植えられて畑仕事の時、ゴザを敷きお昼やお茶などの休憩場所となる。踏み固められ平坦な日陰、そして風通しの良い処が選ばれた。ちゃーぬちょうき(お茶のとも)は ぴずちきな(ニンニクの球根を丸ごと砂糖漬けにしたもの)、黄色のたくわんなどが思い浮かぶ。キビの植え付けなど家族総出のときはピクニック気分だった。
しかし、生活にはあまり余裕がなさすぎた。作物に与えた肥料までも吸い尽くす畑の周りに生える雑草は農家にとっては嫌な存在だと云う意識が、のどかな光景を一変させた。
ある、がばしゅー(年老いたおじい)が雑草を払おうとして、にっしゃま(北の山林)までも焼き尽くしてしまった。干ばつとのダブルパンチであった。
「にっしゃま」とは部落の北側に位置することから北方の山つまり「にっしゃま」である。その後、更に大型台風(サラ)がやって来て 尚、ぱぎやま(はげ山)にされてしまった。あだんぎーやさるか(アダンの木やサルカケミカン)などが焼けて、相当ジャングルだった処へも簡単に足を踏み入れることが出来るようになり良かったなどと、当時の浅はかな考えを反省する。
生木が枯れ木のごとく枝から枝へと燃え移る様子や燃える凄まじい轟音を初体験した。火が家の近くまで接近したときはこの世の終わりではないかとさえ思った。ぱごうむぬやーたー(不気味だった)。風の向きが逆だったようで助かったのである。立木が燃え火柱となって天に向う烈火は、40数年経った今でも脳裏に恐怖として甦る。
当時は消防車が駆けつけるわけでもなし、もちろん水道もなかった。木の枝などで叩いて消すのが精一杯だった。小学校低学年のころの出来事であり、記憶がハッキリしないことも多い。使える道具も ぬくぎぃ(鋸)や ぃずやら(鎌)ぐらいでどうやって消し止めたかは判らない。いま考えても相当難儀しただろうことが想像できる。チェーンソーなどの工具が現在のように有ったならばなあと思う。
燃え残ったトンベン(竜舌蘭)とソテツ、黒こげになった岩肌が無惨な姿をみせていた。焦げ臭さもしばらくの間続いた。それ以来自然が極端に少なくなって、以前は そうたつ(セイロンベンケイソウ)なども岩や石垣の上など至る処に花を咲かせていたがすっかり無くなった。ぽー(クロイゲ)も大分枯れ、みずぽー(クロイゲの変わり種)もミルク御嶽だけ残し姿を見なくなってしまったが、ミルク御嶽も水タンクの設置で移設を余儀なくされたこともあり残っていないかも知れない。
あの頃の にっしゃま(北の山林)の大半は、まつぎーやま(松の林)であった。木漏れ日の中から まかや(茅萱)が生えて松の木の枯葉が堆積してフワフワと絨毯の上を歩いているようだった。その松の木の向こうには、そうたつが甘い蜜を貯え岩の上などで鮮やかに咲いていた。あれほど豊かだった以前のまつぎーやまは二度と甦らないだろうかと悔やむ。
現在のにっしゃまは、公園が出来たりして松が切り倒されて、しょうじぎー(相思樹)が主力の座に着いたようだ。以前のような苔や まつぎーぬみん(松茸とは異なるが松のキノコ)などのあるまつぎーやまが懐かしく思い出される。
牛に夏の暑さを凌いで貰いながら草苅りの手間を省く目的で、牛を山に引き連れていく しゅー(おじい)がいた。その しゅーは「たにとずぃしゅー」と呼ばれ、子供の顔を見ると必ず子供の玉を掴む癖があった。子供は大迷惑だったが、しゅーは子供との接点を模索していたのか、喜びを感じているらしかった。昔の大人の子どもに対する愛情表現だったかもしれないが今ではセクハラだ。
帰省の時など、島影が機内から緑豊かに見え、山が樹で覆われているのは豊かさの証であり豊作の予感がして嬉しくなる。
宮古方言で最も難しい発音
ひさぼう(平良市西仲出身)
国語辞典は通常、あ(A)から始まって、ん(N)で終わる。ところが、まだ終わらないで、見出し語で数えて19語載っている辞典がある。
下地一秋の『宮古群島語辞典』である。
その見出し語の頭文字は、i(い)が Iの上に「・」が1つであるのに対し、Iの上に「・」が2つ付いている記号(中舌母音)で載っている。ここではこの記号が書けないので、代わりに「I”」で表記する。以下その19語の内、いくつか拾い出してみる。なお、「1拍」「2拍」はその発音の長さを表わしているつもりで私が勝手に付けたものです。
1、 I”: → 叱る。 1拍
2、 I”I”a → 父 ( 農民語 )。 2拍
3、 I”I”ara → 鎌。 3拍
4、 I”: → 要る。 1拍
5、 I”I”irU” → 入れる。 3拍 ( U”は uの上に・2つ )
6、 I”: → いひ、飯。 1拍
7、 I”I”O: → 借りる。 3拍
8、 I”I”a:su → 貸す。 4拍
9、 I”I”u → 魚。 2拍
10、 I”:kuja → 乞食。 3拍
問題は、この「I”」の発音である。なお、ここでの発音表記はすべて『宮古群島語辞典』によるものであり、その発音は、この辞典の説明によると宮古島平良市内語(旧士族語)とのことである。私は平良市西仲で農家出の両親のもとで育ったけれども、この辞典を読む限り、使う言葉の違いはあっても、士族、農民に発音の違いはないように思える。
さて、「I”」の発音である。ニコライ・A・ネフスキーの『宮古方言ノート』(沖縄県平良市教育委員会2005年3月31日発行)では、これを「Z」で表記している。
「叱る」→ Z: 「鎌」→ ZZara 「魚」→ ZZu など。
ためしに「I”」が、ことばの後ろに来る場合を比較してみる。
宮古群島語辞典 | 方言ノート | |
---|---|---|
蝿 | paI” | paZ |
折る | buI” | buZ |
神願い | kam nigaI” | kam nigaZ |
頭 | kanama(r)I” | kanamaZ |
これでみると、ネフスキーは、「I”」を単に「Z}と別表記しているだけなのか、それとも別の音として聞いているのか未だよくわからない。
次に、語尾が共通語でイ段の場合とウ段の場合とで宮古方言を比較して
みる。
ここで問題です。次の二つのことばの語尾発音は、宮古方言では同じか、違うか?
鳥(イ段) と 取る(ウ段)
隣(イ段) と 探す(ウ段)
年(イ段) と 取る(ウ段)
『宮古群島語辞典』では、「鳥」「隣」「年」の語尾音は「I”」で表記され、「取る」「捜す」のそれは「u」の頭に「・」2つ(ここでは「U”」で表わすことにする)で表記されている。つまり表記上はそれぞれ別の発音のようになっている。
ところが下地一秋は「宮古語の中舌母音はI”とU”との中間音であるが、便宜上iの中舌母音をI”、uの中舌母音をU”で表記した。」と解説している。つまり、ここでの答えは、「表記は別でも発音は同じ」ということになるから、次の「I”」と「U”」の発音は同じということになる。なお、(r)は無声化を意味する。
イ段 | ウ段 | |
---|---|---|
鳥 と 取る | tu(r)I” | tu(r)U” |
隣 と 探す | tuna(r)I” | tumi(r)U” |
年 と 取る | tusI” | tu(r)U” |
ここで、ドウカッテイに(自分流に)発音を説明してみる。
・ i の発音 → 舌先は、前下歯にしっかりつく
・ Z の発音 → 舌先は、上下の歯の隙間で摩擦音を出す
・ I”あるいは U”あるいはまたその中間音
→ これがむずかしい。まず、ん(N)を発音するときは力む感じになり首の動脈が浮き出るように、この場合も血管が浮き出る。Zの場合は出ない。舌先は前歯には触れない。Zの音を出しながら“チーズ”をもっとこわばらせた口の形にする。
自分で発声してみて最も難しいと思う宮古方言の発音はこの「中舌母音」(最近は宮古語の中舌母音はまた別だとのことで「舌先母音」と言うらしい。中舌母音というのは、「い」を発音するときと、「う」を発音するときの舌の位置が違うことから、「い」でもない「う」でもない舌の位置はそのまん中あたりということで「中舌」といっているらしい)である。
そして、い(i)とI”を発音する「魚のウロコ」→「I”I”u nu(の) i(r)I”ki」、これが発音できたらホンモノだと思う。
余談ながら、ことばの発音は、舌と歯と唇の絶妙な動きで生まれる。そしてことばは、この運動が楽な方向に変わっていくものらしい。たとえばP音 → F音 → H音 という歴史的変化も、ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ、という口の動きよりも、は ひ ふ へ ほ、と言うほうがずっと楽だからに違いない。
また、(魚の)ウロコ という共通語が生まれてくるためには、ウロケ、ウルコ、オロコ、オロケ、イリコ、イリキ、イーキ、イラギ、イラ、ヒレ、コケ、コケラ、コケザ、ハダ、サメ、ツー、ソブ、ゼンゴなど全国各地の方言が母体として、土壌としてあったわけである。
思えば、おとうさん、おかあさん、ごちそうさま、ありがとうございます等 人工的な「共通語」がつくられたのは明治時代であった。これらは当時の文部省がつくった「人工語」だったのである。それまでは、各地の方言が、自然な話しことばの「日本語」であった。
これらのことから、宮古方言を考えると、イズウ(I”I”u)は、ある地方に行けば、イユ になり イヲ になり、あるいは、ウオになる。同じように、イズキ(iI”ki)も、イリキ になり イロコ になりウロコ になる。
最も難しい発音と思えるこの宮古方言「I”I”u nu i(r)I”ki」は、ハイカラにすれば「うお の うろこ」になる。
まいや みーらいんど!(先が見えない)三輪
神童(平良市出身)
学生の頃、バイトをしていた。横浜市金沢区から高速「横浜横須賀道路」を経由して保土ヶ谷にあるスクラップ屋に通っていた。
人一倍繊細で神経質な性格の当方は、その日朝から、胃の調子が思わしくなく、しかし、働かないと飯が喰えないので、後輩の三輪と二人でバイトに行ったのだった。
胃の調子は益々ひどくなり、ついに我慢できずにバイト先を早退。三輪は免許がないので、んくみながら(うめき声を上げながらも)自分で運転する。
狩場のインターに入って別所辺りまで来ると胃が激痛。ついには路肩に車を止めて吐いてしまった。出てくるのは真っ黄色の胃液のみ。立っていることもままならず、高速の路肩に這い蹲ってゲロを吐く。
「三輪、救急車を呼んでこい!」
しかし、この馬鹿三輪を使ったのは失敗であった。こいつは父が千葉大学、母が東京女子大という家の出のくせにしやがって、教習所で1年かかっても車の免許がとれず、ついには免許も無いくせに車を購入し、その車で教習所へ通うという、世の中のルールを馬鹿にした奴なのだ。
運動神経を母の胎内に忘れて産まれてきた三輪。高速道路に設置されている緊急電話まで走り出すスピードがナメクジかミミズ又はでんでん虫並。いい加減待ちくたびれて、それでもぜいぜい呻いている当方のもとに三輪が戻ってきた。「今、呼びましたので、もう大丈夫です」とか宣う三輪。
今や遅しと救急車を待ち望んでいる当方のもとに、サイレンの音けたたましく、かっとんで登場したのは救急車ではない。パトカーだ。
「バカ三輪!パトカーは病人を乗せないのだ。パトカーが乗せるのは犯人だ。この阿呆!」この三輪は化学の知識は博士並みなのに肝心な部分が阿呆なのだ。
その次に登場したのは、消防車。別の意味で胃が痛くなる。「あのな、馬鹿三輪!消防車が消すのは火であって、痛みは消せないんだ。このノータリン!して、なんでレスキュー隊なんだ?」
救急車は消防車の到着後に現場に現れ、当方は自分の車と三輪を高速道路上に残したまま病院へ搬送され、2〜3日左腕があがらなくなるまで痛み止めの筋肉注射を打たれてタクシーで帰宅した。
現場に置き去りにされた車と三輪は、車をかたづけるよう高速警邏隊に指示され、無免許だと行っても聞き入れられず、インターが近いとの理由で、なんと、高速道路を警察の誘導でバックで逆進!インターチェンジにある高速警邏隊の駐車場まで車を無免許運転し、自動車専用道路を徒歩で通行し、やっとの思いで駅を探し帰宅したらしいのだ。
後で聞いた話では、三輪は単に救急車を呼んでも来るのが遅いと勝手に判断し、高速道路で事故ったと電話したらしいのだ。やはり、こいつは阿呆だった。結局、救急車はビリだったじゃないか!
十二指腸潰瘍でした。実は十二指腸潰瘍という病名は、15年以上経ってから付けられたんだけどさ。酒の飲み過ぎで通院。胃カメラを使用した検査で医師に言われる。
「以前に十二指腸潰瘍を患ったことがありますか?」
「ないね!」
胃カメラの画像を再生しながら「ほら!ここに治ったあとがあります」
「・・・・・・?」
十二指腸潰瘍は、医者にかからなくても治るものなんだな!
編集後記
松谷初美(下地町出身)
沖縄は、もう、ぴゃーぴゃーと(早く)梅雨明けしてほしいですね。宮古もやまかさ雨が降ったようで、ばんたがやー(我が家)の葉タバコも「最後のほうは、ダメだった」とお父が話していました。適量、適宜は、自然も人間も むずかすむぬ。(難しいものですね)
さて、今回のくま・かまは、男性ライターばかりの登場でしたよー。のーしがやたーがらー?(いかがでしたかー)それぞれの味を楽しんでいただけたと思います〜。
北海道の素晴らしさを あぐたちと満喫する様子とともに、ア、イラブyouさんの、あぐたちへの想いがしみじみと伝わってきましたね〜。宮古の人たちは、どの世代をとっても、同窓会、同期会というのがとても盛んです。同級生への想いは、でっかいどー!
ア、イラブyouさん、投稿たんでぃがーたんでぃでしたー。
宮国さんは、子どものころ、身近な自然(風や木や花や木の実や小動物など)ととても仲が良かったんだなーといつも思いますねー。細かい描写がとてもリアルに感じられます。山火事やー、まーんてぃ うとるぅすむぬやー(本当に怖いものですね)。子どもの目線からの怖さが伝わってきました。昔は、焼畑をしていて、違う畑まで焼いてしまったということもありましたねー。
ひさぼうさんの「宮古方言で最も難しい発音」。ふつん いだしー(口に出しながら)読まれた方も大勢いたのではないでしょうか。私も、「叱る」や「鎌」などを方言で言いながら、読み進めました。舌の位置は無意識だったのですが、なるほどなーです。して、最後の部分を読むと、やっぱり、宮古の方言は、日本語の古い古い発音を今もってやっているんだと思いますね。納得!
見かけによらず、というか、文章によらず?ナイーブな神童のようです。十二指腸潰瘍を患ったことがあったとは!「神童さんってどんな人?会ってみたい!」とよく言われるのですが、文章のイメージとは違うかも!?いや、同じかも!?どっちかよ。なぞは続く・・・。
今月東京では、沖縄県産本フェアや、下地勇さんのライブや、ボーダーインクの新城和博さんとのトークショー、などがあり、だいず楽しみです。気になる方、勇さんのホームページやボーダーインクのホームページ、要チェックどー。
さぁ、今号の感想もぜひ、お寄せくださいね。まちうんどー!
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次号は、7月6日(木)の予定です。 それまで がんずぅやしー うらあちよー(お元気でー)
あつかーまたいら〜。