こんにちは〜。んにゃ4月やー。 新年度、新学年の始まりですねー。
くま・かまも、この4月から7年目に入ります。 これまでのシリーズも継続しながら、新しいシリーズも始めていきますね〜。
よろしくお願いします。では、今回もぬかーぬか(ごゆっくり)どうぞ。
「思い出の記録」〜40年前の作文から〜
西城小学校一年 ひが こうじろう
「きのうのおやつ」
ぼくの、きのうの、おやつは、おいもでした。
おかあさんが、おいもを、きれいに、むいて、
ほうちょうで、きれいに、きって、おさらに
いれてきてくれました。
ぼくは、みかんかりんごだったらいいなあと
おもいました。
おやつをたべたいときには、
おかあさんのせなかにおやつとかけば
きっとくれますよと先生がおしえてくれましたので
がっこうからかえったらかばんをおいて
おかあちゃんをさがしました。
どこにもいないので「かあちゃーん」と
おおきなこえでよぶと「はいよ」と、
うらのはたけからでてきました。
「かあちゃんのせなかをかして。」というと、
かあちゃんは「せなかをかりてどうするの」と
ききました。
ぼくは、ゆびをつよくおさえて「おやつ」とかきました。
かあちゃんはわらっていました。
そしてだいどころへいきました。
よし、りんごかみかんがたべられるぞと
まっていたらおいものおやつでした。
ぼくはうれしくないのでおいもをじっとみていました。
おかあさんが「どうぞ。」といってもだまっていました。
「これが、おやつか。」ときくと
おかあさんは「そうよきょうはりんごもみかんも
おかしもないからこれをたべてね。」といったので
たべました。
こぼれ話し
松谷初美(下地町出身)
この作文を書いたのは、現在46歳、関東在住で映像ディレクターとして活躍している比嘉幸二郎さんです。
あのころのやらびたちは、おいもを日常的に食べ過ぎて、かまりぷさかまりていました(飽き飽きしていました)分かるね〜、この気持ち。実はこの作文、当時の宮古の新聞に掲載されたのだそうです。(何新聞かは分からないそう)
彼は、高校のときの ぶーりゃ(同級生)。電話で んきゃーんぱなす(昔話し)をしていた時に、おいものことを書いた作文の話しになりました。
「今から20年くらい前かなー、おやじが東京にでてきて一緒にメシを食べたときに、財布から赤茶けたボロボロの新聞の切抜きを出したんだよ。見たら、オレが小学校一年のときに書いた作文が載った新聞だったんだ。ずーっと持ち歩いていたらしんだよね。びっくりしてねー。その時、おやじから切り抜きをもらって今も持っているんだ」
作文の内容もさることながら、お父さんの想いに胸が熱くなりました。くまかまでぜひ紹介したいなーと思い、掲載をお願いした次第です。
本人談
比嘉幸二郎
何か書いて という事ですが、自分の作文をひと様に読んでもらう事は、なんと どぅぐり(気恥ずかしい)事か!それでも 初美さんに頼まれると断れなくて、うわがどぅししゅう(あなたの言う通り)です。
小学校一年に書いた作文なんて忘れていますから、私自身もこの作文と20年ぶりに出合った訳です。
昭和42年(?)、のある日、私のおやつは、おいもだったのです。プリンもヨーグルトもいちごケーキもソフトクリームも冷蔵庫に やまかさ(たくさん)入っていたはずなのに!?あんちゃーあらったん!(そうじゃなかったよ)!
そもそも冷蔵庫が家にあったかどうか?アイスケーキ(普通アイスキャンディと呼ばれるもの)10個入りをお使いで買いに行った時には、急いでしかも食べながら帰ったからやはり冷蔵庫があったとは自慢できません。あの頃、みんなの家には冷蔵庫はありましたか?うるかの透にも聞いてみないと!
おやつをねだられた母ちゃんは、しょうがないからおいもをいつもよりきれいに切って、ケーキのようにお皿に並べて出してくれたのでしょう。作文に書かれるとは思わずに!ぱずかすむぬだった(恥ずかしかった)のかも知れません。おいもを食べると、私は今でも んみくずーんみくずー(胸につっかえる感じ)になります。
この作文は、20年前におやじからもらったプレゼントの様なもので、今では、写真と違って、あの頃の母ちゃんと自分に会える宝物です。
ばんたがやーぬ あず(我が家の味)2【スミのサンドイッチ】
宮国優子(平良市出身)
宮古から荷物を かたみて(背負って)東京に上陸する母スミ。その荷物の正体は、だいたい食料品。東京で やーさんかーきて(おなかをすかせて)いる私たちに、ポーク缶、削り節は勿論、島らっきょうや島にんじんなど野菜など、だう持ってくる。
母が東京に着くやいなや「母ちゃん、作って!」というメニューがある。だいず簡単なので「自分で作れよ」とも思うが、なかなか同じ味が出せないのである。今回は聞き取りしつつ書いていきます。
【スミのサンドイッチ】
材 料 | キュウリ、ポーク缶、食パン、卵 |
調味料 | マヨネーズ、ケチャップ、砂糖もしくはみりん、ダシのもと、油 |
作り方
1、キュウリを縦半分に切り、食パンよりやや小さめにの長さに合わせて3等分くらいにして、マヨネーズにあえておく。
2、卵にダシのもとを入れ、普通に焼く。
3、ポークを1センチの幅で切って、フライパンなど油少々で弱火で両面焼く。焼き上がったら、ケチャップを少々、砂糖、もしくはみりんをふりかける。
4、パン、卵、キュウリ、ポーク、パンで重ねて、適宜に切る。
キュウリがない場合は、キャベツ、レタス、など葉物なら何でもOK。どう考えても簡単なのですが、自分で作ると違うのだ。手のなば(垢)がちがうからか?
今回、母が持ってきたニューフェイスの野菜があるのだが、名前が不明。母の友人の間では「海のほうれん草」と呼んでいるらしい。
わかっていることは「砂に生えている」「アクが強い」ということだけ。これも母曰くなので真意のほどはわからない。たくさん食べたけど大丈夫か・・・。母がゆでて冷凍してものを持ってきたので、原型もわかりません!今頃パゴー(恐怖)です。
少し すぴにーすぴにー(歯ごたえがあって)。和え物で食べるとおいしかった〜。
今月は宮古に行くので、その正体を調べてくるから!
スーパーマーケットの光景
あば本舗(下地出身)
私が時々買い物に行くスーパーには、外国人がよく来る。それも米軍人やその家族とはかなり雰囲気の異なる方々が多い。ただ買出しに出かけたつもりが、色んな国の人をウオッチングできちゃう事があるので結構面白いのだ。
近くに浦添の国際交流会館や琉球大学の留学生会館があるからか、どちらかというとアジア系かな〜?と思われる人々の姿をよく見受ける。
やーでぃとぅ まーつき き゜すばーまいどぅありうてぃ いみーぬ っふぁがまぬ うりゅーみー かりゅーみーしー ぴじみじゃーすきむぬ(家族連れで来ることもあって、小さな子供があれをみたりこれをみたりして、すごく楽しそうだ)
人目を引くのは、目鼻立ちのくっきりしたインドやスリランカあたりの色鮮やかな民族衣装を着た人。
ある時は、エスカレーターの乗り方が解らない様子のアフリカ系の夫婦に、地元の人が乗り方を教えていたこともあった。
韓国人や中国人は、違和感なくまわりに溶け込んでいる感じだ。すなーしうてぃ むぬーあす゜だかー うき゜なーぬ にんぎんとぅ のーまいかーらん(黙っていて喋らなければ、沖縄の人と何も変わらない)
彼らは、結構フレンドリーなので地元の人にいろいろ話しかけてくる。私もぼや〜っと品定めしていると「アノー コレハ ナニヲスルモノデスカ?」 と唐突に質問されては、おごぇと驚く。
「イチミトーガラシ ト シチミトーガラシハ ドンナリョウリニ ツカイマスカ?」そんな意味不明なことを彫りの深い顔のインド人に真剣に尋ねられて、答えに困ったこともある。
のーてぃあす゜ぃばが じょうぶんびゃーいら?(何て言ったらいいのだろうか?)あんしーやたーびゃー?かんしーやたーびゃー?(あんなだったかな?こんなだったかな?)と あわててしまった。
そして、やはり一番の興味は彼らがどういう言葉を喋っているのか?ということにつきる。
っすさんふーふーやしぃ あす゜い゜むぬす゜ゆ き゜きゅっかーぴんなむぬ んじゃぬすまぬ むぬす゜まい ぴーちゃなーや ミャークフツんどぅ んーむぬさいが(知らんふりをして喋る言葉を聞いていると、不思議なことにどこの国の言葉も少しは宮古方言に似ているなぁ)
色んな国の言葉を聴きながら、下地勇さんじゃないけど、あば?中近東の言葉って伊良部ふつみたい、香港語(広東語)は、やっぱり下地の与那覇の訛りに似ているさーと、ミャークフツと比較してしまうのだ。
遠くの国からやって来た人々の言葉にどこか懐かしさを覚えつつ、人間は皆この地球上でどこか繋がっているんだなぁとしみじみ感じたりする。
買い物へと出かけ、外国人を見つけると近寄って聞き耳をたてている私は、怪しい人と思われているかもしれない?
ばんたがやーぬつかふ 17 平良下里
ビートルズ世代のサラリーマン
私が生まれた(1951年)のは、城辺町の ゆなんだき(与那武岳)だが、幼稚園に上がる前には ぴさら(平良)は凱旋通り沿いの下里に引っ越してきた。
「凱旋通りの由来」
凱旋通りとは、東は平一小学校の正門北側の石垣に端を発し、西は市場通りに至るまでの道路のことで、西里大通りと下里大通りの丁度真ん中を東西に走っている。何故こんな狭い道路が凱旋通りと名付けられたか常々疑問に思っていたが、『続 宮古島風土記』砂川玄徳著にその由来が記してあるのを見つけたので以下要約してみる。
「当時、この下里と西里の境界をなす里道は、馬車が通れば子供達が危険にさらされる狭い道路で、それを憂慮していた当時の平良第一小学校青年教頭本永透氏を中心にして、町にその学童路の整備を要請した。1939(昭和14)年頃のことである。しかし、町は財源不足を理由になかなか聞き入れてくれなかったため学校と後援会によって拡張整備がなされた。そして新設道路の名前を凱旋通りとしたのである。“支那事変がまだ終結もしていないのに凱旋通りとは何事か”と一部の反対もあったが、本永氏は“日本勝利を祈念し、他日凱旋将兵に通ってもらうというのに、反対するのはおかしい”と切り返し無事『凱旋通り』が実現した」と書いている。
行政が動かぬ道路事業を学校と後援会が成し遂げるという当時の住民のパワーにはびっくりだが、一方、「凱旋通り」を提唱する当時の世相というのには考えさせられる。こんな南の果ての小さな島にさえ当時の日本国の思想を色濃く反映させてしまう国家の力というものを改めて感じたりする。何時の世でも戦争によって犠牲になるのは名も無い兵士とその家族達だ。死んで故郷に凱旋したって残るのは悲しみと空しさだけなのに。
凱旋通りでも、ばんたがやーぬつかふは、沖縄食糧会社の ゆまた(四辻)から高嶺歯科医院の ゆまたまでということになる。幼稚園から高校を卒業するまで(1950年代の後半から70年代にかけて)ここで過ごした。今は閑静な住宅街となっているが、小学校の頃まで市内といっても、やらうぎー(テリハボク)に囲まれた屋敷があったり、空き地があったり、ばんたがやーの あがす゜(東隣)の裏にはサトウキビ畑もあったりした。
「野球」
小学校の頃は沖縄食糧会社の敷地内で草野球をして遊んだ。敷地を囲むように倉庫と事務所の建物が建っていて、中は広場になっていたから、会社が休みの日曜日は、僕らの恰好の草野球場となっていた。野球のボールは手作りで、中に小石を詰め紙で幾重にも包み木綿糸でグルグル巻きにしたものを使用した。食糧会社には、お米を詰める厚手の紙袋と口を綴じる丈夫な糸がいくらでもあり、ボールを造る材料に事欠かなかった。
「遊び」
道路も恰好の遊び場だった。今では信じられないが当時はほとんど車の通行が無かったので、道路にけんけんぱーの○を描いて遊んだり、鬼ごっこしたりして日がな一日道路で過ごしたりした。中でも極めつけはオリンピックと称してチームを組んでリレー競技をしたり、裏の製材所では木屑をマット代わりにして走り高跳びを競ったりした。コーラ瓶の王冠を潰して造った手製のメダルで授賞式のまねごとまでやったりした。日が暮れるまで隣の家で遊んで夕飯を隣の家族と一緒に食べると言うことも ざらだった。いい時代である。
「ぷりむぬ」
ばんたがやーぬつかふでも「ギタープリムヌ」は出没していた。だいたいが食糧会社の塀の近くに居た。小学校からの帰り道に居るもんだから少し怖かった。でも別に危害を与える訳でもなく、あのイエス・キリストにも似た顔で炎天下の中、一心不乱にギターを弾くような恰好をして只佇んで居るだけである。後年、東京で働くようになって、八重洲の地下街でギタープリムヌそっくりの浮浪者を見つけたときは何故か嬉しかった。通勤の行き帰りそれとなく観察していたが、ある日ぷっつりと姿が見えなくなった。今でもあれは、宮古のギタープリムヌだったのではないかと思ってみたりする。
「がじまるぎー」
市内といえども、ばんたがやーぬつかふでも、がじまるぎーが沢山あった。特に裏の製材所の塀の周りには大きながじまるぎーが何本もあってよく登って遊んだ。がじまるぎーの上の感覚というのは独特なものがあってジャングルのターザンの気分といえばピッタリくるのかな、子供にとってはまさに夢のような空間なのである。その上で寝そべってみたり、くーすふぁや(キノボリトカゲ)を捕まえて遊んだりした。この年になっても時々夢に見たりするぐらいである。
中学生、高校生ぐらいになると町並みも急速に変わり始め、空き地や大きな木も無くなり始める。車も多くなり、ゆまたには信号が取り付けられるようになる。いつしか、自転車で一時停止無しに ゆまたを突っ切る芸当も出来なくなった。
「ラブストーリート」
凱旋通りを西に進むと市場通りとぶつかり、それから先は言わずと知れた「いす°ざと」である。子供の頃は分からなかったが、高校生ぐらいになり受検勉強で夜遅くまで起きていると、いわゆる「いす°ざと」からのお勤め帰りのネーネーとそれを送って行くお客のやりとりが聞こえてきたりする。両方ともかなり酔っぱらっていて嬌声や、笑い声が聞こえたりする。僕の部屋は道路に面した2階にある。夏の暑い夜である。開け放した窓からは下の会話が手に取るように聞こえる。
カッカッと女性のハイヒールの音が響く。そのリズムからどうやら二人はもつれるように歩いていることが分かる。そして僕の部屋の真下でピタッと止まる。そして静寂・・・。アガイ何をしているのか。高校生の僕は勉強どころじゃなくなってしまったりした。そんなラブシーンが展開されたりするラブストリートでもあった。
子供の頃は、意外と行動範囲が狭かったんだなーと思う。同じ市内でも学区が違うとまるで別の世界のように感じていた。ましてやそこに足を踏み入れると不安でしょうがなかった。
中学生になり北学区の友達とも遊ぶようになった。更に高校生になり他の町の学生とも一緒になり次第にその世界を広げていった。こうして、段々と大人になり、島を ぱす°でぃたまま(出たまま)内地でゆらりて(迷って)居るわけだが、原点は、ばんたがやーぬつかふにあることを最近つくづく思う。今こうして、ばんたがやーのつかふを思い出していると、一緒に遊んだ「どぅす」の顔が浮かんでくる。
もうあの頃には戻れないが、ばんたがやーぬつかふの想い出は大事な大事な財産としていつまでも持ち続けたいと思っている。
※「凱旋通り」誕生由来記は紙面の都合上、私の要約を紹介しましたが、是非、原文を読み砂川玄徳氏の名文を味わって頂きたい。
『続宮古島人間風土記』砂川玄徳/著宮古毎日新聞社/発行
新里教室のおしらせ
菜の花(伊良部町出身)
くま・かまの掲示板でも時々書き込みされている、新里博先生による「みゃーくふつ講座」第3弾のお知らせです。
講師の新里先生は、伊良部町長浜出身で『宮古古諺音義』の著者でもあります。日本言語学会会員として、日本全国の方言調査を行ったり『角川新国語辞典』山田俊男・吉川泰雄/編 の編集に携わるなど、言語の世界では幅広くご活躍をされています。
新里先生の講義は、ユーモアがあり、ぐいぐいと引き込まれていく、楽しさ、おもしろさがあります。宮古人にも大和人にも共通する「太古の倭語」を一緒に学んでみませんか?
お時間のある方は迷わずご参加くださいませ〜。
日 時 | 2007年4月22日・日曜日 13時〜15時 |
場 所 | 渋谷リフレッシュ氷川(渋谷駅より徒歩10分) 東京都渋谷区東1-26-23 !)(03-5446-7700)2階 会議室 |
内 容 | 共通語と宮古方言ーことばの対応について |
会 費 | 千円 |
申 込 | 菜の花まで nanohana617@hotmail.com |
多くのご参加お待ちしています。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
前号から三週間の間に、東京では桜の花が咲き、春だね〜と思っていたら、昨日は雪もちらついて、なかなかすぐには春にはなってくれないようです。宮古ではデイゴの花が咲き始めたようですねー。うりずんの季節。いいですね。帰ったばかりなのに、恋しや宮古。
さて、vol.145や のーしがやたーがらやー?
比嘉幸二郎さんのやらびぱだの作文の話しを聞いて、こういうやらびぱだに書いたものを載せていくというのもいいかもーと思いました。本人はどぅぐり(恥ずかしい)かもしれませんが、ま、それは、んきゃーん(昔)のことだからさ、いいんじゃない?
あなたも何かありましたら、エピソードを添えて、ぜひお寄せくださいね。大切に残されるものには、何か想いが まーつき(一緒に)あるんだなーと思いました。そして、時間を越えて今の心を豊かにしてくれる、いいものですね。
宮国優子さんのお母さん、スミさんのサンドイッチ、ふぁいみーぶすむぬやー(食べてみたいですねー)簡単に作れそうでも、いくつになっても母親の味にかなわないというもの、ありますよねー。して、「海のほうれん草」気になりますー。正体は、いったい・・・。報告お楽しみに〜。
あば本舗さん、十分、怪しいかも(笑)
スーパーマーケットにいる外国の人の買い物の中身・・・ではなく、しゃべっている言葉に興味をもって耳をそばだてるところがあば本舗さんらしいですね〜。韓国の言葉、イントネーションも、宮古と んーんー(そっくり)ですよね〜。親近感が湧きますです。
B.サラさんの話しは、へぇーと思うことがいっぱいでした。凱旋通りという名前も、由来も、初めて知りました。「ばんたがやーぬつかふ」は、限られた しばーしばぬ(狭い)地域の話しですが、そこには歴史があり、やらびにとっては世界全てでもあるんですよね。タイムスリップをして当時を実際に見てきたような気分になりました。
新里先生の宮古方言講座は、まーんてぃ聴く価値、大ですよ〜。みゃーくぬぴとぅやらばん、内地ぬぴとぅやらばん(宮古の人でも内地の人でも)、とうまい(誰でも)参加できるそうなので。ぜひぜひ!
しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃでした!(最後まで読んでくださって ありがとうございました!)
感想、ぜひお寄せくださいね〜。投稿もお待ちしています!
次号は、4月19日(木)の予定です。どうぞお楽しみに!
きゅうまい かぎぴかず(良き日)でありますように! ぱだーぱだ うらあちよー(お元気でー) あつかーまたいら!