こんにちは〜。
今年も、残すところ、んなぴっちゃ(もう少し)ですねー。ぱんたーぱんたの毎日だと思いますが、ゆくいがまーしー(休んで)くまかまタイムにしませんか?
どうぞ、ぬかーぬか(ごゆっくり)お楽しみください。
芋が美味しい大連の冬
アモイ(平良市出身)
今、中国の大連にいます。大連の冬は寒く、今頃の朝晩の気温は氷点下5〜6度位まで下がります。
つい先日、会社の用事で電車で出かけての帰り、駅をでてタクシー乗り場に向かう路地で、焼き芋屋がドラム缶を細工したなべで焼き芋を売っていた。んんー、いい匂い、食べたい衝動にかられながらも、会社に戻って急ぎの仕事がある為、我慢して通りすごした。会社に戻ってから焼き芋をたべそこなって損したような気分がしていた。
仕事が終って7時過ぎに近くの市場通りへ出かけた。焼き芋の事が頭にあったので、見渡してみたが、焼き芋屋らしきものは居なかった。でもサツマイモを売っている親父がいたので、手ごろな大きさのものを4個選んで渡すと。1.5元(約23円)だと言うので2元渡して買い、釣りはいらないよ、と言うと、にこっとうなずいていた。
子供の頃(46年位前)に、朝ちょっと早めに起きると、お袋はすでに、とーうわ(台所)で んーなび(芋なべ)で芋を煮ているのだった。火を絶やさないように枯れた茅の葉を燃やし続けるのを手伝ったものだ。その季節が冬場しか思いうかばないのはなぜだろう?と考えてみると、温まりながら芋を煮ていた事が心地よかったからだろうか?
宮古島へ帰省したときに当時の芋なべをみてみたのだが、あんなに大きいと思っていた芋なべが意外に小さかった。あれ?これが?と思ったものだが、子供の感覚で記憶している事で、かなりの誤差が生じるようだ。
芋を煮る時間は朝6時頃はじまり、7時近くまでかかっていたように記憶している。芋を煮ることで、その日の主食の準備は終る。あとは食事の際に ぴーちきな(にんにくの漬物)や、あうわんつぅ(油炒めみそ)などをおかずにしながら、毎日のように芋を食して、たまにご飯が食卓に並んでも腹いっぱい食べられなかったりでしたね。
芋を食べ飽きたせいで、大人になってから芋が大嫌いになる派と、芋の味を懐かしんで食べる派に分かれるようだが、私は後者の方なので、今でも芋を買ってきて食べる事がある。
そんなサツマイモの歴史を調べると、日本に入ってきたのが1605年だそうで、当時琉球から中国への進貢船の乗組員だった嘉手納の野国村出身の野國總管という人が中国の福建省から持ち帰って栽培したのが始まりだそうだ。
沖縄の暑い気候風土に合う作物で飢餓防止に役立ち、腹持ちもよくて、好んで栽培され15年の間に沖縄全域に普及するようになり、そのおかげで沖縄の人口も倍増したとう言う事である。
嘉手納町では「嘉手納町の野國總管甘藷伝来400年祭」と言うのが平成17年に開催されたそうで、琉球から伝わったのにどうしてサツマイモなの?と言うことで「野国芋」と命名しようと言う宣言もしたというのがネットに掲載されている。
琉球で「唐芋」とも呼ばれたサツマイモは「リュウキュウイモ」と言う名前で薩摩に伝わり、やがて、「サツマイモ」という名前で北上し関東まで広まったという事で、当時の日本の食糧事情をかなり改善したそうです。我々の先祖が生きながらえ我々まで命をつないできたのは、サツマイモのおかげなのか、と思うと、サツマイモに感謝ぜずには居られないですね。
市場通りで買ったサツマイモは中国ならではで、とこどろどころ土がついたままだ。綺麗に洗ってから電子レンジにいれてスイッチを入れると、しばらくしていい匂いが漏れてきて、チンが終って扉をあけると、一気に香ばしい匂いが広がった。昔は長い時間を掛けて煮るものだと思っていた芋ですが、電子レンジで7〜8分チンするだけでOKです。昔の芋が知ったら?我々と扱いが違うぞ、なんて怒るかも知れないですよね。
アチチチッ!温かいなー。大連の寒い寒い冬には最高だ。サツマイモのありがたみも知ったし、きゅーから まいにつ んんむ ふぁーだかーならんやー てぃっすっす(今日から毎日芋をたべにゃーいかんかなーと言ったりして)のーてぃーまい あいし、ふぁす゜ふくりむぬぬきゃーんが、あんちぬ くとぅぬ ならでぃが さーい(何とでも言えばいいさ、贅沢になれきった人達に、そんな事が、できるはずがないさーね)
あば、んなまーまちよ(おい、ちょっとまてよ)近い将来、世界が食糧危機に見舞われるかも知れんさーね、其のときはきっとサツマイモ?いや野国芋が我々地球人類を飢餓から救うに違いないね。農家のみなさん芋の栽培量を増やしていきましょう。
ところで、比例してオナラの排出量が増える事態になるはずですが、地球温暖化に影響があるや否や??どなたか教えて下さいな。
くぱふつよ、永遠に
宮国優子(平良市出身)
まず、くぱふつ、どう訳したらいいのだろうか。
書いている手が止まってしまいました。たぶん堅いしゃべり方とか、きつい物言いとか。それが一番近いかもしれません。ニュアンスを伝えるのにいつも頭をひねります。いつ〜も翻訳家になった気分ってば・・・。
「母ちゃん、あんたーだいずくぱふつ」と、この何十年も言い続けてきた。私自身は、平一小、平良中、とバリバリの市内ふつなので、普段は母も一応市内ふつでした。でも、兄弟や親戚と話すときは勿論、出身である城辺の長間ふつ。いつもケンカしているみたいで怖かった。
たらーん(おバカな)&ボーチラ(おてんば)な子どもだった私は、四六時中母に叱られていた。「のしーぬ ふっふぁがま!(なんという子どもだ)」「うかーす ふっふぁ(恐ろしい子どもだね)」「ぴり!(あっち行きなさい)」など大声の長間ふつのオンパレードだった。
人は特に感情的になると、ネイティブランゲージに戻るのと思う。子どもの時は罵声イコール長間ふつになり、私はどんどん受け付けなくなってきた。
しかし、因果は巡る。
5歳の娘に言われてしまった。
「お母さん、宮古ふつやめてほしいの」半泣きだ。あがい、なんでかよ。
娘いわく外では日本の言葉(標準語という意味らしい)なのに、なんで家では宮古ふつなのか、おかしい、というのだ。そう言われても困る。自分ではそんなに宮古ふつを意識的に話しているつもりはない。だからこそ問題か・・・・。
たたみかけるように娘が言う。「怒ると(特に宮古ふつで)お母さん怖いよ。声も大きくなるし。日本語に戻して!」と。いや、そんなわけにはいきません。できるわけないさいが。
昔、西辺の友達が家に来て電話を借りた。電話口に立って友人が話し出すと、弟たちがひどく怖がっていた。私もバリバリの西辺ふつを聞くのは初めてだったので、とても驚いた。自分たちの喋っている言葉以外にこんなディープな言葉を喋る人がいるなんて!言葉を色に表すと、エメラルドグリーン級。自分たちの言葉はモスグリーンのイメージなので。見た事ないぞ、この色は!と衝撃度が高い。
それは、相手にとっても同じ事だったらしい。くしくも別の西辺の友人が遊びに来たとき、私が母に向かって喋った市内ふつが怖かったそうだ。後日そう言われました。え〜嘘、あんたなんかの方が怖いけど、と思ったものだ。
自分の環境にない言葉は人に恐怖を与えるのかもしれない。それがまして自分に身近な人間や同級生だと特に。言葉の色の系統は一緒でも、お互いに放つ色の強さが違うのだろう。
娘の気持ちが理解できないわけではない。でも、今のところ娘にはこう言っている。「あのさ、お母さんが宮古ふつをしゃべらなくなったらお母さんじゃなくなるわけ」。娘はわかったようなわからないような顔をしているけど。私の子どもに生まれてしまった以上受け入れてもらうしかない。
でも、まずは怒るとき感情的にならないようにしなければ・・・反省。その前に母ちゃんに謝らんと。母ちゃん、自分もくぱふつみたいよ・・・。ちなみに母ちゃんの言葉はオレンジ寄りの緑。だいず微妙な表現だけど。
「あがい、うわーのーあっじゅーりゃー(あなたは何を訳のわからないこといってるの?)」と大声くぱふつで言われるのは間違いない。
達人シリーズ
神童(平良市出身)
(怪我の達人)
怪我の達人が居る。イサオさんではない!
若かりし頃は、中距離の陸上選手だった。20代で出した400mの記録は近年まで塗り替えられることはなかった。いわゆる、みゃーくいち!
しかし、そこはそれ。陸上の宮古記録保持者だからといって、すべてにおいて優れているわけでない。人間そこが可愛いところだ。なにもかもこなすような人間は近寄りがたいし、できれば敬遠したい。一部ネジが外れてるくらいが愛嬌があっていいのだ!
陸上と言えば、青年会の先輩で狩俣中学校の先輩でもある御仁が居られる。3個先輩なので、ことさら敬語を使うようなこともないんだけど。
力道山を90%縮小したようながっちり体形。とりたててスポーツを経験してるわけでもない。市の運動会でハンマー投げの選手が居ないことから、がっちり体形を見込まれてお鉢が回ってきた。
どうせ参加選手も少ないだろうから、出場するだけで高得点が狙える種目。安易な気持ちで引き受け、狩俣代表となる。市の大会前に簡単なレクチャーを受けて参加すると、謀らずも優勝。次は郡の運動会。連日陸上競技場に通い練習。その結果、見事、郡の運動会で優勝。宮古新記録というおまけ付。人間、あしぃ みーだかぁ っすぁいん!(人間、何処に才能が隠れているか解らない!)
話は戻って、粗忽者の宮古記録保持者。ガンマリ(いたずら)が大好き。頑張りではない!がんまりだ!頑張ります。という言葉が好きくない。頑なに何かを追求しろ。ということさーね。がんまりバースでいいんじゃないな?がんまりが好きな阪神バース選手。
夫婦そろって教員。妻の一週間の留守中に大工を使って家を大改造。妻をびっくりさせるつもりが相談無しに改造を行い、多額の出費を要したことから、あわや離婚の危機!微笑ましい限り。
この粗忽者。現在、友人が宮古高校を甲子園へ行かそう会!の役員をするくらいの野球好き。同級生で野球チームを結成。大会でヒットを放ち、2塁ベースへ滑り込んだ際に、足が絡まって右脛を骨折。松葉杖の生活を余儀なくされ、妻から野球禁止令を言い渡される。
県立少年自然の家へ異動した際は、高速カッター(電気のこぎり)であわや左手を切断手前。高速カッターは、チップソウという鋸刃が付いている。通常、のこぎりは金属を尖らして先っちょを研磨している。
しかし、チップソウは英語が示すようにチップ(削る)とソウ(鋸)が組み合わさっている工具だ。分かり易く言うと、鋸の刃先に小さい鑿(のみ)が付いている。無数に取り付けられた鑿が高速で木材を削る。引掻くような削り方をするので袖のだぼだぼしたシャツを引きずり込まれ、事故となるケースが多い。
果たして粗忽者。よそ見しながら高速カッターを操作。右利きなのになぜか左手でレバーを握り右手で材木を固定。よそ見してるので鋸の下に手があることに気づかない。
右親指と人差し指の間の筋肉をカット。チップソウの威力により指と指の間の筋肉は引き釣り込まれ粉々に粉砕。結局皮の部分を縫い付けられ親指と人差し指が接近する形で接着。本来、親指は他の4本の指と相対して存在する道具なのに、人差し指の隣にくっつけられて不便この上ない。まずがーと試してごらん。人差し指と中指以下の3本でお箸をつかってみたら解るさ!親指の機能の80%が失われたはず。
その翌年の冬休みの正月3日。多良間小学校に異動した妻が3学期に備えて多良間島へ飛び立った。妻を宮古空港まで見送り、正月の酒を抜くために自転車のツーリングを思いつく。宮古本島内だと父兄に見つかり、酒を飲まされる恐れがある。折角の目的が台無しだ。一計を案じ、伊良部島へ渡る。定期船でトライアスロン用の自転車とともに上陸し、島を周遊する。しかし、そこは粗忽者。道路を横断するグレーチングの隙間に前輪を突っ込む。
グレーチングは道路の路面排水を行うための鉄製のスノコで宮古の土木コンサルタントが気違いなのでやたらと取り付ける。雨天の場合、スリップの原因になる。何より犬が足を嵌まらす。宮古の犬は、グレーチングの恐怖を知っているので迂回するか、もしくは飛び越える。トライアスロン大会のときに事故が起きる大きな原因のひとつだ。でも、誰も疑問に思ってないんだな。一度、コンサルの社長を呼びつけてどやしつけたことがあるんだけど改善されない。ま、役所の担当も阿呆なんだけどね。
学校ん いきたーくとぅてぃん にゃーん いんじゃーん っしぃどぅあまりゅー ぐれーちんぐぬ うとるっさゆ うぬ かかみきんまりゃーっすぁんさいが まず!(犬でも知っているグレーチングの怖さを粗忽者は理解しない。)
グレーチングは本来、ボルト締めが基本なのに、たまに固定されていない箇所があったりする。その場合、グレーチングがずれて2cmくらいのスリットができる。その他にバーベキューの網の代用品として いんばた(海端)のグレーチングが盗まれてなくなってたりする。粗忽者の自転車はトライアスロン用でタイヤの幅が極端に薄い。2cmと言えどもその隙間にフィットする。
果たして、前輪が嵌まり込んだ粗忽者は前方一回転。自転車の前転。勢いで粗忽者は投げ出され路面に顔面から叩きつけられる。仮にも往年の宮古記録保持者。運動神経は優れている。とっさに両手を突き出すものの右手の怪我を気遣い左手1本で顔面激突を避けようと試みる。でも、腕1本では全体重を支えきれない。とっさに右腕も突き出す。しかし、時すでに遅し。
まず、体重を支えきれず左手甲及び左腕を骨折。続いて右手の甲を骨折。右手なんて折れた骨が皮膚を突き破る状態。刹那の時間差で両手が使用不能となった。
伊良部診療所に担ぎ込まれた時点ではショックから血圧が急降下。定期船による緊急輸送で平良港へ搬送。港で待ち受ける救急車に連絡され宮古病院へ入院。当方、連絡を受け平良港で待機。宮古病院へ付き添って移動。
医者の処置が始まった。まず、折れた骨を通常の位置に戻す作業。外科医なんて大工となんら変わらん。指の付け根を桐でがりがり。4本の指の付け根を貫通させた後に3mmほどの金属棒を挿入。両腕をベッドに固定して先の金属を紐でしばり上部の滑車を通して床付近に錘で牽引。重力で骨を伸ばす。これを両腕に処置。治療というより、修理だ。ベッドに寝かされるというより固定され、両腕は牽引されているので万歳状態。
連絡を受け、多良間空港からとんぼ返りした妻を万歳状態で迎える。何も言えず涙ぐむ妻。命に別状が無いことを安堵しての涙ではない。あんたはまず!というあきれ果てた涙。涙を飲み込んだ後に強烈な説教のスタート。本当の意味でお手上げ状態の縛られた夫に対し日頃の鬱憤を叩きつける。
あてぃ ばかすかーば!(見てて笑えたぜ!)
(空手の達人)
ひろぼーは空手の達人。人間凶器。自宅は いーざとの外れ。
午後10時頃の いーざとの中通りを歩行中、チンピラに絡まれた。7〜8人に取り囲まれ絶体絶命。口論の末、袋叩きになる前に逃亡に成功。いかんせん。一人で相手にできる数でない。追いかけられたものの、ここはそれ、生まれ育った いーざと。あっというまに追っ手をまく。
肩で息をしながら暗闇に眼を凝らすと手ごろな長さの鉄パイプを発見。これだよ。これさえあれば人数は関係無い。
鉄パイプを片手に いーざとに舞い戻り、ちんぴらを捜索。「ぱりー」付近の路上で一味の一人を発見。うわがぁ しゃくー!逃げられないように鉄パイプで からすにぶに(弁慶の泣き所:脛)を殴打。うずくまるちんぴらのむなぐらを掴んで次の鉄拳を入れる前に重大な事実が判明。人違い。警察に一晩宿泊。
おなじく いーざと1号線の「ぱりー」前路上。あぐと遭遇。ひさしぶりやー。ひろぼー!すれ違いざまにあぐと握手。と、あぐが必要以上に強烈な握手。手を離さない。引き戻される形で転倒。ひろぼーの右足がひろぼーの左足に絡まって左からすにぶにを骨折。さすが人間凶器!松葉杖生活を余儀なくされる。
ぴんざzooを造るため、街路樹の支柱を回収。番線で結束されているので番線を切らんといけん。K.takanoriと3名で作業。小さい番線カッターで番線を切るひろぼー。作業修了間際に右手に異変。手ーの付け根が腫れている。脚でいうと あまんぶに(くるぶし)のところ。わずかの作業で腱鞘炎。虚弱体質なひろぼー。
職場で飲酒のひろぼー。ひでおさんと2次会へ。
職場の玄関から外に出る。タクシーを拾うために。と、突然ひろぼーが視界から消える。段差1.5mの駐車場へ落下。右足半月板が駐車場のブロックに激突。右足裂傷。二次会を諦め宮古病院へ搬送される。
翌々日、びっこをひきながら当方も交えて乾杯。2次会のぶんみゃー(人々が集う愉快な場所(公民館のような場所))へ。びっこをひきながら、くいちゃーを踊るひろぼー。くるくる回る変則くいちゃー。脚、痛いんじゃないの。
さすが。人間凶器の虚弱体質の不死身のひろぼー。いぎゃん!
ひろぼーの踊りは空手の演舞のようで格好良いんだぜ。ぶんみゃーの踊り子と言われてファンも多いんだな!
『一粒の種』 それから
菜の花(伊良部町出身)
「一粒の種」がくまかまvol.71に載ってから3年余り。
その間に「一粒の種」は故人の遺志を受け継ぐかのように、いろんなところへ飛んでいき芽をだした。実を結び新たな種を増やした「一粒の種」をもう一度ここに蒔こう。
普段通りの生活を送っていて、それを特別なことなどと考えもせず、当り前のように過ごす日々。そんな中で突然やってくる、病や事故という禍。人生の幕を閉じる日まで、のーまい にーだ(何事もないまま)いられることは、稀だと分かってはいても、それがなぜ 「今」なのかと、うろたえ、たじろぎ、嘆き、諦めたり、闘志を抱いたりする。
そんな患者の一日に向き合う看護という「仕事」。すぐと(仕事)とはいえ、同世代の患者が、今、まさに命尽きようとする間際を看ることは、多くのものを自分と重ねてしまう辛さもある。
一粒の種になりたい。命の種になり、小さな芽でもいいからこの世に在りたい・・・。生きたいと願う命の叫び。魂から絞り出されるひと言、ひと言が、一滴の雫のように あーつむ(私の心)の深い部分に落ちていった。それきり、彼は二度と言葉を発することもなく逝ってしまった。
彼がこの世で最後に口にした言葉は、んーな(全て)私が預かってしまった。彼に代って私が一粒の種を蒔こう。なぜかそう思わずにはいられなかった。
彼の遺志を「一粒の種」という詩に書き、くま・かまで蒔き、彼の両親、姉弟(きょうだい)の元にも届けた。しかし、老いた母親は息子を失った悲しみのあまり、脳梗塞で倒れ、ふぉーくとまい(食べることも)、ぱなすくとまい(喋ることも)ばっしー(忘れ)、ベッド上の人になってしまった。このことは、折にふれて届く彼の うや(父親)からの便りで知った。
いん ぬ くいたー(海を越えた) みゃーくぬ ずーん(宮古の地で)くまかま出版祝賀会があり、私は、お祝いにきて下さった多くの方々の前で「一粒の種」を朗読したことを知らせた。
ぴてぃーつ(一通)、また ぴてぃーつ てぃ(また一通と)増えていく うや(父親)からの手紙。「妻は胃に管を通して、栄養の全てを注いで命を繋いでいるが、それでも生きていてくれて嬉しい、一人は寂しい」とあった。
また、「一日でも妻より長く生きて、妻の側にいてやることが願いです」ともあった。時には、「妻とは生きているだけの関係です」と、やりきれない悲嘆の便りが届く。どうしようもないときは、息子の遺志である「一粒の種」を読み、息子の眠る墓を訪れて心を慰めているとのことであった。
息子は逝ってしまったけれど、残された者は きゅうまい(今日も)生きる。息子を失った悲しみのままに倒れた あんな(母親)、それを見守る うや(父親)。どちらも老いており、二人の人生に残された時間は決して多くはない。そう思った時、彼の母親に息子の遺志をもう一度届けたい、との思いだけが強くなっていった。
例え ふぉおくとう ばっしー ぶらばん まい(食べることを忘れたとしても)、ぱなすくとう ばっしー ぶらまん まい(喋ることを忘れたとしても)、人間の聴力は原始の力、きっと聴こえている!もしも あんなーみんかい(母親の耳に)息子の うむい゜ぬ(思いが)届いたら、何かが変わるかも知れない・・・。そんなことばかり考えていた。
高校の後輩であり、以前からの知人でもある、みゃーくふつシンガー・下地勇さんに「一粒の種」にまつわる ぱなす(話)をすると、故人の遺志を歌詞にして、優しさと慈愛に溢れた歌に仕上げてくれた。下地勇というミュージシャンの感性の鋭さや情けの深さと、故人の遺志が溶け合ったものになっていた。
原詩の「一粒の種」は、生きていたいという深い悲しみの詰まった詩であるが、歌になった「一粒の種」は、逝ってしまった者から、残された者への慈しみのメッセージとなり、聴く者の心をくるんでくれるような優しさを感じる。
彼の父親はこの歌を、黄泉の国に住む息子からの声でも聞くかのように、黙って、ただ黙って聴き入ったという。一切の反応を示さなくなっていた彼の母親は、この歌を耳にして「これ、誰が歌っているの?」と、これまでずっと忘れていた言葉というものを、自らの意思で口にしたという。
唐突に、あまりにも突然に聞いた とず(妻)の声。周りの者も驚いたという。「息子の姉がゆっくりと話して聞かせるのを、妻はじっと聞いていました」との手紙を読んで、何もかもに感謝をしたい気持ちであった。彼の遺志は、愛を含んだ歌になり、無反応の日々を送る あんな(母親)の心にも届いたのだ。
人の思いの底知れない深さを感じた。音楽というものの、未知の力をつむぬ すく(心の底)から感じた。夢のような奇跡を感じながら、気がつくと なだぬ さらさら てぃ(涙がハラハラと)こぼれていた。
人は生きて死ぬ。自然のことではあるが、それを自然のこととして受け止めるまでに、どれほどの悲しみと向き合い、どれほどの辛さを越えていかなくてはならないことか・・・。
愛する者を失った人たちは、それを越えて今日も生きていかなくてはならないのだ。「一粒の種」は、そういった多くの人へのメッセージでもあると思う。
「一人でも多くの人が、わずかでもいいから愛と希望を持って生きていってほしい・・・心からそう願う。」勇さん自身もそう語っていた。
11月21日。「下地勇 SOLO tour ATARAKA UVA to BURN 07」の東京会場である「草月ホール」で、下地勇さんが歌う「一粒の種」を生で聴いた。予期しないことであった。
ホールに響く(蒔かれる)「一粒の種」・・・。
あの衝撃と感動を、私は生涯忘れることはないだろう・・・。「一粒の種」が、聴いたあなたの心にも、どうぞ芽をだしますように・・・タンディト-トウ・・・。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
宮古では、ぶーき゜(キビ)の ばらん(穂)が出始めているようですね。太陽の光にあたって輝くあの銀白の風景は、郷愁をそそる、ばっしらん(忘れがたい)風景です。
東京の街は、木々の葉が赤や黄色に色づいてハラハラと舞い、秋も深まってきました。
三週間ぶりのくま・かま。余裕があってうれしい思うところに隙があるのか、数日感冒で寝込み、仕事は忙しくなるわで、なんだか、アッと言う間の三週間でした。
さてさて、今号も個性豊かな面々のエッセイをお届けしましたが、のーしがやたーがらやー(いかがでしたかー)?
アモイさんの中国からの便りは、今の生の暮らしが見えて興味深く、面白いですね。中国の福建省から沖縄に伝わった芋を宮古でやまかさ食べて、そして、今、アモイさんは中国大連で食べていると思うと、なんだかすごいですね。私も、子どもの頃からたくさん芋を食べていますが、んなままい(今も)大好きな口です。子どもの頃、我家は、おならの大合唱でした。地球温暖化に貢献したかも。
優子さんの話は、いつも肩の力が抜けて、とても楽しいですねー。宮古ふつをやめて欲しいと言っている娘さんも大人になったら、宮古ふつで自分の子どもに話しているのかもしれませんよね。東京で育っても優子さんの娘さんならそうだはず!と確信しますね。東京で暮らしていても、子どもたちに宮古ふつでしゃべる優子さんはホントにすごい。それができなかった私は、戻ってやり直したい気持ちになります。
今回の神童のは、達人シリーズでしたが、神童は爆笑エッセイの達人!今回もまたうむっしでしたねー。怪我で仕方なく万歳をしているのを見て本当の意味でお手上げ状態・・・ってオモシロすぎる。捉え方や、描写が神童ならではで、同じことを見聞きしても他の人には、じぇったい書けないワザですよね。人間の持つ可笑しさを愛を持って書ける稀有な人なんだはずね。
「一粒の種」あれから・・・もう一度違う形で息子さんの遺志を届けたいと思う菜の花の気持ちが形になり、お母さんの き゜む(心)を動かした様子は、感動しますねー。勇さんの作った歌を私も会場で聞きましたが、心ふるえました。息子さんが澄んだ穏やかな気持ちで両親に優しく語りかけているような歌でした。息子さんの残した言葉が、菜の花、勇さんの手を渡り、ご家族の元へと届けられる。それを行動に移す二人の優しさ(優しさという言葉だけでは足りませんね)にも だいず感動しました。きっとこの詩、歌は、これからもあちこちへ飛んで播かれることでしょう。
今回も、しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜。読者のみなさんの感想がライターにとって何よりの励み。カンフル剤!今号のあたなの感想をぜひお聞かせくださいね。
次回は12月20日(木)発行予定です。今年最後だー。
寒さが一段と厳しくなります。どうぞ、お体には気をつけて。あつかー、またお会いしましょう〜。