今年もあと残すところ2週間ちょい!
忙しい毎日だと思いますが、開いていただいてぷからすむぬ〜。
今年最後のくま・かまお届けです〜。
ポーランド紀行 (投稿)
山雀タヌキ(下地・上地出身)
Polandの田舎街 Wloclawek (ベザベック)に仕事に来たのは7月初旬で、朝は4時頃から明るくなり夜はいつまでも暮れず、ふふぁっふ ないたいば にっわ(暗くなったから寝ようか)と時計を見ると11時近かった。
夏の最高気温は31℃でその暑さも約1週間くらいでした。春から夏そして秋の過ごしやすい期間には、街中(国中)が開放的になり、アパートのベランダはパラソルが開き、日中は日光浴に、夕方はリビングになってにぎやかな夕食会を多く見ることができます。
ポーランドでは北側のバルト海沿岸にグダンスクと言う港町に泳げる海岸があり、短い夏の海水浴楽しむ人たちが、国中から押し寄せます。ちなみに私が住んでいる町を午前3時頃通るグダンスク行きの電車は首都ワルシャワからの海水浴客で満席、一等車のチケットを持っていましたが、満杯で5時間半立ちっぱなしでした。
私たちの化学工場建設工事現場でも、「半そでに半ズボン」の作業者をよくみかけ、中には上半身裸の溶接作業者もいました。休みの日中にBAR(バル:ビールが飲める居酒屋さん)のパラソルの下で青空を眺めながら飲むポーランドの生ビールは本当においしいです。それに安い(中ジョッキーで4ズローチ、120円ほど)。
ばんたが あつーぬ みゃーく(私たちの暑い宮古)では考えられない短い夏の太陽をいっぱいに浴び、夜はまだ明るい11時頃まで公園での子供たちの歓声がひびきます。
10月に入るとだんだん気温がさがり、木々の紅(黄)葉が始まり、黄金の秋と呼ばれる季節となり街路樹・公園などの栃の木が見事に色付き、風が強い日は、栃の実が空から降ってきます。近隣の林からとってきた天然の「きのこ」が路地売りされるようになり、その種類も豊富です。料理法を手ぶり・身ぶりで教えてもらい「きのこ」料理も楽しめました。このころから集中地域暖房施設から気温にあわせて各家庭の温水暖房器へ給湯が始まりだします。
11月ともなれば最低気温は零度を切るようになり寒い冬が始まります。もっともこのころは当地の方に言わせるとまだ「晩夏」とのこと。つまり「秋」はなく11月下旬になると零下5℃、今年は11月30日から本格的な雪になり、今では積雪約30cmで、最低気温はマイナス15℃、日中の最高気温もマイナス8℃、一時帰国して12月1日の夜11時頃ワルシャワ空港に到着した時の気温はマイナス10℃、なかなか来ないタクシーを風に吹かれて20分ほど待ったが、うかーす ぴしむぬやたむ(ものすごく寒かった)。
12月に入ると青空市場にところせましとならんでいた路地売りの八百屋・果物屋さんが閉まり(寒さで野菜などが凍るため路地売ができなくなる)、かわりに冬物衣料屋さんが軒をならべています。店舗売りの八百屋さんもビニール幕などで外気を遮断して営業しています。
公園の花壇には、11月ころにパンジーが植えられていましたが、雪の降る直前に松の小枝が掛けられ雪から守られ、4月には一斉に咲きみだれるとのとのことです。
クリスマス飾りが華やかに街を彩りだし、夜のイルミネーションを見るのが楽しみになりだしました。寒くて雪雲の垂れ下がる暗くて長い冬の始まりです。美人で当たり前と言われるポーランド女性の冬の着こなしはスマートで暖かそうで、さっそうと歩いています。
冬は室内で過ごす時間が長くなるためか、明るく楽しく過ごすために、室内の壁も3〜4色のパステルカラーで塗り分けられているのが普通の家庭のようです。冬でもロディー(Lody・アイスクリームとの意味)が売れるとのこと、牧畜の盛んなポーランドのロディーは美味しくて、暖かい部屋で食べると格別です。
ふわふわの粉雪に足を取られながらの工事現場歩きは大変ですが、ゆきゆ すさん みゃーくん んまり(雪をしらない宮古生まれ)にとっては、新雪で真白なところをはしゃぎながら歩き回る毎日で結構楽しんでいます。
3月までの長い冬をいかに楽しく・明るく過ごすか、雪で真白くなった名所旧跡を訪ねることもイイナーと思いながら、地図を広げて思案中です。
折角の冬のポーランド、みゃーくん ういかー うまーるん うかーす ぴしーさ(宮古にいたら考えられない、ものすごい寒を)と雪を楽しまなくちゃー。
あの頃の宮古テレビ(3)
松谷初美(下地・高千穂出身)
「週刊テレビ アガンニャ」は、昭和57年に始まった。(今から28年も前になるんだね。どひゃー!)
向山晃アナウンサーは、とてもバイタリティのある人で「アガンニャ」の前には、「夕焼け広場」という生放送の番組(30分)を月〜金で帯でやっていた。それを終え、今度は週一回土曜日の午後6時〜7時までの生放送の番組を作ることにしたのだ。
なぜ「アガンニャ」というタイトルにしたかというと、向山さんは内地の出身で、宮古に来たときに初めて覚えたのが「あがんにゃ!」(大変!、あれまー!など意味はいろいろ)という言葉だったことと、「あがんにゃー(東の家)」にも聞えるし、お隣さんという感じもするから。と話していた。
「初めまして赤ちゃん」や「クイズここはどこでしょう」など、視聴者参加型のバラエティ番組は、子どもたちを中心に大うけ。クイズの時間になると賞品(スポンサー「パリジェンヌ」のケーキなど)を狙って電話が殺到した。(余談だけれど、宮国優子さんも やらびぱだ(子どものころ)この番組をよく見ていて「パリジェンヌ」のケーキが当ったことがあるそうだ。当時顔を合わせていたのか!?)
番組が始まって一年が過ぎたころ『週刊朝日』の記者の方が取材に来た。南の島の小さなテレビ局が作る番組が珍しかったのか、いろいろな話を聞かれ写真も何枚か撮られた。
そして掲載された号(昭和58年8月26日号)が届いてびっくり。グラビアページに でかでかと「『おしん』ぶっ飛ばす勢い。脅威の視聴率90%を維持するMCTVの『週刊アガンニャ』」と紹介されていたのである。(そう、あの頃は「おしん」が大人気だった)。おごえー、そうだったのか!?おしんをしのぐ視聴率だったとは すさったん!(笑)確かに やまかさ(多く)の人に「見ているよー」と声をかけてもらっていたけど。
私は初めての生放送で気持ちはいっぱいいっぱい。声をかけれるのは、うれしい反面、自分のヘタさ加減に どぅぐりーでも(心苦しくも)あった。
そんな私に向山さんは、特訓をした。「クイズここはどこでしょう」の撮影に行くと、カメラを回す前に、必ず撮影用ではない風景描写をさせられる。(もちろん言葉で)。言葉が足りない私は、それじゃ見ている人に伝わらないと何回もやらされた。また本番の前には、何らかのネタを必ず準備し、いつでも出せるようにとも言われた。そのネタを披露するよう振ってくれても、かんでしまうのが常であったが・・・。
向山さんに褒められることはほとんどなかったが、一度だけ、インタビューの仕事で褒められたことがあった。この時は涙が出るほとうれしかった。
今になって思うと、「アガンニャ」に関われたことは、本当に幸せなことだったなーとつくづく思う。
向山さんは、残念ながら若くして向こう岸に渡ってしまったけれど、今まで「アガンニャ」が続いていることを一番喜んでいることでしょう。
兄を想って書いた詩(16)
ワタリマリ(上野・宮国出身)
この詩は、脳性マヒの あざ(兄)を想って書いたものです。
絆の固結び 一本の、着物の腰ひも、なわとび、電気コード、かやのつな これらがボクの目の前にあれば これらはボクの遊び相手となり これらに一日をあるいは人生をゆだねるボクがいる 今日のひもはなわとび 昨日、妹の友達が家に遊びに来た時忘れていった ピンクのなわとび 皆が学校に行っている間に ボクのひも遊びは始まる ビニール製の紐がボクの遊びには一番いい 両手を使い結んでいく 一結い、二結い、三つ四つ五つ・・・ ボクの結びには目的があるわけではない これとこれを結ぼうと決めて結ぶわけではない 単なる結びだが 複雑な結びに仕上がる 時間を忘れて結ぶ 結んで遊んでいるその時間のなかにこそ ボクの本当の思いがあるのだ 結びの団子 結びの迷路 結びの絡み 結びの立体 結びの無意味 学校から帰ってきた妹は 友達のなわとびをボクが結んでいるのを見て激怒 のおちが うりゅう つかいゆう?! (どうしてそれを使っているの(遊んでいるの)) きゅう とぅいす°が きすがまたちまい すさん!! (今日取りにくるのに) 妹はボクから紐を取り上げると 元の長細いなわとびに戻そうと必死に指に力を入れる 団子を離し 迷路を進み 絡みを見つけ 立体を崩し 意味を成す 目的を持ち ここのところをこうもって この輪っかをくぐらせて こうなるだろうと答えを求めて 一つ一つの結びをほどく こんどは妹が無心になっている姿が ボクにはおかしい 時間をかけてやっとほどけた妹から怒りは消え 自分の手で結びを解消させたことを喜んでいる ただ元のようにまっすぐではなく 波型になったなわとびにため息をつくのだが そうさ 元には戻らない ボクは人生を言語化できない ボクはとことん不自由だ これも元には戻れない 不自由を結ばれ 不自由を解かれ また結ぶ ある日 おとうがサトウキビを束ねる縄をよっている ボクにも一本こしらえてくれた ぎすき(萱)でよっているからごつごつしている ボクはなわとびびのほうがよっぽど好きだ ちくちくしているが結び始める いくつもの結びができ ひと固まりのこぶができた もうひと結びと強くひっぱった ぷつっ 縄が切れた 結びが一つほどかれ ボクは手をはなした 結べない縄はもういらない ありい きしにゃあん (切れてしまったのか) あんちいなあ つうつう すまいすな (あんまり強く結ぶんじゃないよ)と おとうが言う 固く固くより強く結んだ なのに切れた 摩擦だ 知らず知らずのうちに必要以上に結んだ こぶはほったらかされて 誰かにほどかれることもなく こぶのままほっとかれた そしてボクは次の紐を要求する 母ちゃんの腰ひもであれ 電気コードであれ 結べるものをもってこいと訴える そしてまた意味もなく 一結び、二結びと結ぶ これ以上な結べないとなると 家族の誰かを呼んでほどいてもらおう 結ぶのはボクのおこない ほどくのは家族のふりむき 結んではほどかれ ほどかれてはまた結び ほどけないと家族は必死になる 必ずやほどけた時の顔はいい 意味があるとすれば ボクはそこに意味を見つけたい ピンクのなわとびは 妹の友達に返され ボクに妹が自分の水色のなわとびをもってきた これまで何度も切れてしまったので きさんよーん あすぴ んに (切らないように遊んでね) といってボクの手にからめた こんどは元に戻らないと言って 不機嫌になることもなさそうだ
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
12月4日、法政大学で行われた「宮古島の神歌と古謡」に行ってきました。会場のさったホールは400名の来場者でいっぱいでしたよ。
静かな会場に、神歌や古謡がひびき、静謐な空気が流れているようでした。言葉を理解することは難しかったけれど、歌や祭祀にとても誇りを持っていることが皆さんから伝わってきました。
ゲストスピーカーの谷川健一さんは「宮古には古代の精神があり、根が残っている。魂の上品さを感じる」と話され、なんだかうれしい気持ちになりました。
宮古に生まれ育ちながら、知らないことが多いく(特に祭祀については)はるか んきゃーん(昔)から続く神歌や古謡を実際に祭祀にたずさわったことがある方々から聴くことができて、ホントに行って良かったなーと思いました。
さて、今年最後の くまかまぁ のーしが やたーがらやー?
山雀タヌキさんのポーランドの話は、実際に現地を案内されているような感じがしましたね〜。それにしても山雀さん、ぴしさ(寒さ)もなんのその。好奇心いっぱいで だいず楽しそう〜。読んでいるこっちも楽しくなりました。またの投稿、お待ちしています!
宮古テレビの話を書いていたらあの頃のことが次々と思い出され、書くのがなかなか まいやみーん(前をみない)状態でした。当時の「アガンニャ」を見た!覚えている!という方、うーでぃすびゃー(いるかなー)
ワタリマリのお兄さんの詩、今回もジーンときましたねー。お兄さんが結び、家族がほどくという、一見単純な作業。でも、そこには無言の絆がしっかりとあるんですね。お兄さんを中心とした家族の強い結びつきを感じました。
あなたの感想もぜひお聞かせくださいね。
それから、前号でおしらせした、「一粒の種」の本の発売日が延期になったそうです。12月24日とおしらせしましたが、来年1月22日になるとのこと。詳細は、砂川恵理歌さんのHPをごらんくださいね。
http://sunakawaerika.net/
おかげさまで今年も毎月2回滞りなく発行することができ、最後の号も届けることができました。感謝の気持ちでいっぱいです。たんでぃがーたんでぃ〜〜。
また、掲示板やメールでの感想、声をかけていただいたことはライター一同、大きな励みとなり、次への活力になりました。感謝申し上げます。
ライターそれぞれの個性もますます際立ち、その人ならではの話がたくさん展開されたように思います。10月には幸地郁乃さんがライターに。ぬふーぬふの(温かい)話に、反響がありました。
さて、来年はくま・かま創刊10周年となります。(ぴゃーむぬやー)どんなことをやろうかねーと、今いろいろ考いやーみーみーしています。決まったら、おしらせしますね。
この一年も読んでくださり、すでぃがふー!
次回は、1月6日(木)発行予定です。
どうぞ、良いお年をお迎えくださいね。あつかー、また来年いら!