こんにちは〜。
早くも10月ですね。秋めいてきましたががんずうかりうらまずなー(お元気ですかー)?
vol.301 お届けします。どうぞ、お楽しみくださいね〜。
下地小学校の運動会
松谷初美(下地・高千穂出身)
9月20日〜24日まで帰省していた。
三線教室の発表会の準備があって帰ったのだが、下地小学校の運動会が9月22日にあり、期せずして、小学一年生の甥っ子の応援に行くことができた。両親に、兄家族。やーでぃ(家族)んーなしー(みんなで)出かけた。
下地小学校を卒業したのは、1973年。もう40年あまりも前のことになるとは。なんという早さかさー。
あの頃とは、運動場の場所も違い(今は、学校の西側にあるが、私たちの頃は南側にあった。)建物も違い、まるで違う学校のようだが、ガジュマル数本は、どっしりと太く当時を感じさせるものがあった。
父兄は朝早くから場所取りをし、テントを張り(これにはびっくり。今どきのテントがいっぱいだった)応援の準備万端。爽やかな風に、時折、青空が顔を出す中、幼稚園児と全校児童の行進が始まった。甥っ子の写真を撮りたくて前のほうに行っていた私は、元気に行進する姿を見るだけでうるうるときてしまった。
甥っ子の成長と運動会の懐かしさと今こうしてここにいることのうれしさなのか、なんだか胸がいっぱいになってしまった。明治生まれの祖父母。そして父も通った学校である。甥っ子も通いその繋がりにも感動したのかもしれない。
元気いっぱいの甥っ子は、かけっこも玉入れも踊りも一生懸命。家族に気づいて照れくさそうにしながらも手を振る。
甥っ子を見ながら、昔の運動会を思い出していた。ソテツで飾られた門。オクラホマミキサーのフォークダンス。鼓笛隊でバトンをやったこと。母ちゃんが早起きして作った海苔巻き(たくあん、かまぼこ、桜でんぷがお決まり。のりをコンロであぶる役をやったっけ)、みかんの匂い。アイスぼんぼん、アイスクリーム(学校に売りにきていたよね)そして、校歌ゆうぎ。
そう、校歌ゆうぎは今も踊られていた。しかも、午後の部の一番に。甥っ子は、お母さん手作りのお弁当をおいしそうに食べ、また元気に飛び出していった。私たちの頃もそうだった。家族で弁当を食べた後、旗を2本持って校庭にかけだしていった。
父が、自分たちの時代にも校歌ゆうぎはあったよという。こんなにやるでしょと校歌を歌いながら振りまでやってびっくり。
1年生から6年生が一同に集い、ゆっくりと広がって、校歌ゆうぎが始まった。私はスマホのカメラを動画にして回しながら、懐かしさで胸躍った。そうそう、二番は前後に歩いた!ゆぬぐー(おんなじ)だ。全校児童のゆうぎは、バッチリ決まっていた。
決まっていたといえば、私たちの頃にはなかった「エイサー」も見応えがあった。5・6年生が踊る「エイサー」は、今では定番のようで、下級生は、上級生になったら自分たちも踊れると憧れるようである。
それにしても、子どもの数が少ない。私たちの頃は、全校生徒800名以上いたと思うが、現在214名だそうだ。本当に いきゃらふ(少なく)なっていることを実感した。
私が小学生だったころ40代だった両親は80代になり、ずーっと運動会を見続けるのは、きついらしい。校歌ゆうぎが終わったら帰ろうという。
すっかり晴れ渡った青空。あの頃は、タカが舞っていたなーと思いながら空を眺め、懐かしい下地小学校を両親とともに後にした。
◇あの話をもう一度
大和の宮古人(城辺・長南出身)
「宮古島の水田」(vol.160 2007/11/15)
私の小さい頃(昭和30年の初め頃)、ばんたがやー(私の家)では水田で稲作をしていました。
宮古でいう山(林や丘のこと)と山の谷間に細長く田んぼがあり畦道で何箇所にも区切られた小さな田んぼが段段に並んでいて、畦道の一部が少し削られ、上から順に一番下まで水が流れる様に作られていました。(田んぼの辺りには湧き水がでているところがあり、水はそこから引いていたようです)
最初は馬と鋤で耕して田植えをしていましたが、耕運機なる文明の利器の登場により、みゃーすーみゃーす(楽に)仕事が出来たようです。
宮古の田植えは1月に始まり、7月・8月に収穫となる早稲でした。(秋ですと台風が多くなるからでしょうか)
水の張ってある水田に畦道から適当な間隔で早苗を放り投げて置きます。皆で横一列になり後方へと進みながら、押し込んで行きます。やらび(子供)の私達も、田植えの真似事がしたくて田んぼに入りましたが、大嫌いな生物が棲んでいるのが分かってからは絶対に たーんかいや(田んぼには)入らなかった。(人間の血を吸う蛭がいたからです)気持ちが悪いので説明しませんが。
7月か8月に収穫が始まります。平らな高台に筵を広げ、稲が飛び散らないように硬い布で覆った脱穀機を置きます。一株ずつ鎌で切り取った稲を集めて脱穀機の横に運び込みます。脱穀機を足踏みで回転させながら一掴みの稲を両手でしっかり持ち左右に反転させて脱穀します、藁から籾殻つきの米が離れると、片手で藁を後ろに放り投げながら次の稲の束を受け取り同じようにします。稲を渡す人、受け取って脱穀する人、藁を束ねる人、脱穀された米を俵に入れる人と、人手も必要でしたね。
でも一番大変なことは、台風が近づいた時ですね。その時は脱穀機も2人同時に動かしますから渡す人も2人必要になります。(1台に2人並んで踏んでいきます。早かったですよ。それと皆の息の合った所にリズム感があってね、思い出すとその頃の色々な物音が聞こえてくるようです。)子供でも手伝えますが稲には細いイガイガが沢山あり身体に付くと痒くなりますので余り手伝わせて貰えませんでした。
脱穀された籾殻つき米は、俵に入れられて家に運ばれ1番座、2番座、3番座と部屋中に米俵が置かれ、座る場所が無く食事も寝るのも庭でした。(やらびたちは米俵の間でかくれんぼしたり飛び降りたりして遊んで身体中をポリポリ掻いていました。)
翌日からは庭の筵に米を広げ乾燥させます全部乾燥させるには1日に何度も入れ替えをしても4日5日もかかり、曾おばーは庭に出て鶏に食べられないように見張っていました。
でも手間はかかりますが、新米はすごく、んまーんまでした(魚沼産より美味しかったかも)
大勢の家族でしたが、一年間は十分足りる程の米が出来ましたし、余った分は小学生の私がバスで売りに行かされました。電話も何も無い時分にどんな連絡方法が有ったか分かりませんが、バスで降りるとおじさんが平良の城辺停留場で待っていて引き取ってくれました。(お米をバスに乗せるには昔のバスは車掌さんが乗っていて乗せてくれたさね)お米は、沖縄まで送ったりもしていたようです。
精米しに行くのも私の仕事でしたよ。売りに行くときと同じで平良に着くと精米所まで走ってお米もって来たことと、どのバスで帰るよと伝えると精米所の方が全て運んでくれ、私はと言うと横でボーとしていただけかもしれません。
何処の家にも田んぼはあると思っていたから、皆さんが宮古に水田があったの?との話に正直、この年になってとっても驚きました。
先日、母とその話をしました。母のおばーやにも田んぼがなく、おばーやの近くの ぱり(畑)に行くときは、新米を やますか(沢山)おにぎりにして持って行き、おばーが遠慮するといけないからと、弁当が余ったから食べてねと置いてきたさー。どうしてお米を届けなかったの?と聞いたところ、米は高級品だったさー、特に長間の米は美味しいから高く売れたよ、家族の食べる分以外は売って小遣いにしていたよ、姑たちに悪いから届けられなかったさ。(おばーやーのおじい、おばあ御免ね)
でもその美味しいお米もサトウキビには負けた様です。エニシオ(間違っているかしら、昔の記憶なので自身がありません)と言う品種のキビが出回ると長間の粘土質の畑でも作れるようになりキビに変わりました。(長南の畑は粘土質の為にそれまでのキビは育たなかったそうです)それからは美味しいお米は食べられなかったですね。
余談ですが、私は今でもその頃の夢を時々見ます。畦道の水の流れる所が広がって渡れず、皆は家に帰るのに私だけ取り残されて焦っている夢です。自分でもどうして同じ夢を見るのか不思議です。
それと、田んぼには田螺(淡水の巻貝)や、蝗(いなご)がいました。
蝗は食べた事はありませんが、田螺は味噌汁の具として食べました。美味しかったかどうかは記憶にありません。
『火熾きの歓喜(よろこび)』の話
菜の花(伊良部町仲地出身)
声を聞くだけで心が温まり、励まされたり諭されたりすると、ぽからす〜
(嬉しいの意)となる・・・誰もがそんな経験をしたことがあると思う。
「ぽからすむぬ」とは、宮古方言で喜びや嬉しさを表す。灯(ともし)がついたように明るくなり、温もりを感じて喜ぶことで、古くは「灯し」や「温もり」のもとである「火」に関連した言葉であろうとのこと。
その昔々、太古の時代に思いを馳せてみよう。
火を持たない人類の祖先は、漆黒の闇に脅え、太陽が昇る朝を待ち焦がれていたのだろうか。月の明かり照る夜は、闇の恐怖から逃れて眠りについたのだろうか。灯りを持たない人類が、大地に降りそそぐ太陽や、闇を照らす月を神と崇め、消えてしまわないようにと祈る姿が目に浮かぶ。
ヒトが最初に手にした「火」とは、落雷や山火事で得たものであり、容易に「火」を手にすることができなかった。「火」への渇望が、やがては「火」を生み出すことへと繋がっていく。
ヒトは、樹木の摩擦で火が起こることに気付き「火きり臼・火きり杵」による「人工の火」を創りだした。この時の喜びはどれほどのものであっただろうか!停電になったとき、電気が復旧して蛍光灯が点いたときのあの歓びの何百倍、何万倍もの歓びだったと想像できる。
「それは例えるもののないほど、『歓喜』であったように思える。その『喜悦』の名残と思える語が、幾何(いくばく)か、宮古方言圏の日常語の中に見られる。」とは、宮古方言研究会の講師である新里博先生の言葉である。
以下は「宮古古諺音義」著者である新里博先生の配布資料より抜粋。パソコンでは表記できない特殊記号があり、完全な転記ではないことをご了承ください。
(1)ほからしかる/火熾きあらかしかる/ pokaraskal[形]うれしい
「宮古古諺音義」著者である新里博先生の配布資料より抜粋
(原義;火が熾きたように喜ばしい)・とてもうれしい。
(2)ほからしさ/(火熾き有らしさ/pokarassa[名・感動詞・サ変]
うれしさ、喜ばしさ。
「ほからしかる」[形]の語幹「ほからし(←火熾きあらし)に、
接尾辞「さ」がついて名詞化したもの。
(3)ほおき-うまつ(火熾火)/ポーキ-ウマツ/[名]・・・歓喜の火、
*薪の火が、シューッという音を立てながら勢いよく燃え盛る状態(ありさま)をいう。
(4)ほおきざ(火熾座)/ポーキザー[po:kidza:][名]・・・火が勢いよく燃え盛るように盛り上がっている酒宴の座、歓喜の宴。
ところで、「火」を表す音節を「ほ」と発音する例が上代の文献などにあるだろうか。『古事記』(上巻)の神名に、「天火明命(あめのほあかりのみこと)」(天孫降臨)、「火照命(ほでりのみこと)」・「火遠理命(ほをりのみこと)」(海幸彦・山幸彦)の例が見られる。『日本書紀』(巻第二、神代下)にも、「ほほ(燻火)」の例を見ることができる。
「火をきり出す用具(臼)」の原料となる樹木「火熾し木(ほおこしぎ)」にも「ほ(火)」であり、また、太古から生存したであろう、昆虫の「ほたる(火照る;蛍)」にもやはり「ほ(火)」であることから推察すると、「火」の意味でいう、最も古い倭語は、「ほ(火)」であっただろうと考えられる。
この話を毎月渋谷で開催される宮古方言研究会で拝聴したときは、目からうろこがポロポロと剥がれ落ちていくようであった。
ほたる(蛍)のことを、私の生まれ育った伊良部島・仲地集落では「ヨームポ(ムス)」と言う。まさに、ヨームポ /夜の標火(ほほ)/yo-mpo:である。
宮古方言と遥か遠い原始の時代が繋がって、過去から現在まで、それは途絶えることなく続いていることを感じた。
宮古島の方言を「生きた上代の化石・日本国の宝物」と新里先生は仰る。先生の言葉の一つひとつには、長き人生を歩んでこられた重みがあり、私の心をも照らす灯しである。
まーんてぃ(真に)あてぃ(大変)ぽからすむぬ(嬉しいことだ)!
お便りコーナー
前号(vol.300)への感想が届きましたので紹介します。
玉元清(平良出身・沖縄本島在)
■「くま・かま」300号おめでとう
12年余。すごい!りっぱ!の感嘆詞が最初にでてきます。石の上にも3年、を4回もクリアしたわけですから、ものすごいことです。それも、広い世間から見ればマイナーな宮古島の人と言葉で。
自己紹介の機会には、ワタシも、「宮古島出身です」と自分の誇りとするふるさとを紹介していますが、松谷さんはじめ「くま・かま」のみなさんのような「郷土愛」溢れた方々がおられるから、宮古島は、やっぱり宮古島なのです。
松谷さん、宮古島を愛するみなさんの気持ちをひとつにまとめてくださってありがとう。すばらしい仕事です。そして、これからも、縁の下の力持ちで、コツコツとがんばってください。
おめでとう。そして、ありがとう。
※玉元さん、うれしいメールをたんでぃがーたんでぃでした。おかげさまで迎えた300号です。感謝申し上げます。これからも宮古を誇りに頑張っていきます。どうぞ、よろしくお願いしますね。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
9月の宮古はお盆に帰っていたときとは違って、涼しいがまでした。夏には、雨不足で枯れかかっていた、ぶーき゜(キビ)も、青々として元気いっぱい。うれしい風景が見られました。
9月22日は、「なりやまあやぐ大会」もあって、行ってきました。イムギャーの海上に浮かぶ舞台、ライトアップされた会場。とてもいい雰囲気の中それぞれの個性ある、なりやまあやぐが披露されました。うぷあみ(大雨)が降ったので、途中で帰りましたが、念願の大会を母と見ることができて、ぽからすものでした。
マツカニさん率いる三線教室(棚原民謡研究会、琉球民謡伝統協会神奈川支部)の発表会(11月24日)では、宮古のたくさんの方々が協力してくださることになり、うむやすーと東京に戻りました。発表会の詳細が決まりましたら、おしらせしますね。お世話になったみなさん、たんでぃがーたんでぃでした!
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
母校の運動会を思いがけず見に行くことができて、感動して帰ってきましたが、今宮古では学校の統合問題が出ていて、とても複雑な気持ちもありました。
「あの話をもう一度」は、大和の宮古人さんの「宮古島の水田」でした。私は、この話で宮古で稲作が行われていたのを初めて知りました。家の中に俵が積まれていたことや、バスに乗って精米に行ったことなど、どれも新鮮で、驚きでした。こうやって個人が語る中に宮古の歴史が見られたりしますね。
菜の花の「『火熾きの歓喜(よろこび)』の話」、「ぽからす」の意味がよく分かりましたね〜。私も新里先生の授業を受けて「火が熾きたように喜ばしい」ことだと知り、目からうろこでしたが、改めて、深く納得しました。新里先生がおっしゃるように、宮古方言は、本当に「生きた上代の化石・日本国の宝物」ですね。
前号(vol.300)を発行した後、掲示板で「おめでとう」の書き込みやメールでのお祝いメッセージ、評価のところでの感想など、いただきました。大変うれしく、とても励みになりました。みなさん、ありがとうございました!
今号の貴方の感想をぜひ、お聞かせくださいね。掲示板でもメールでも結構です。どうぞ、よろしくお願いします。
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今回も 最後まで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は、10月17日(木)発行予定です。
季節の変わり目です。感冒しないように気を付けましょうね〜。
あつかー、またや〜。