こんにちは〜。
今年最後の、くま・かまをお送りします。 んなま(今)の宮古から、んきゃーん(昔)の宮古まで
お楽しみください〜!
山羊肉忘年会
アモイ(平良・宮原出身)
師走も中旬にはいり、忘年会シーズンたけなわというところですね。私も昨日(10日)で3回目の忘年会となりました。明日も忘年会の予定が入っており、医学的見地からは「飲み過ぎ注意報」か「オトーリ警報」位になっているかとおもいます。
今回の忘年会に参加したのは、イクイク会という名のムヤイ(模合)を先輩達14人とやっていて、その中の山羊を飼っている先輩から、「同窓の忘年会で山羊を焼く計画をたてているが、同窓の参加人数が少ないので、いっしょに参加しないか」との誘いをうけた。「山羊か・・・」子供の頃には何度か食べた事があり、臭いがきつかった事を思いだしたが、何十年ぶりなので、食べてみたくなり、「参加します。」と言う事からだった。
山羊を焼くという事で聞いてみた。「山羊は先輩が殺して焼くの?」先輩「ばーやー うとぅるすかーば どうーしや しらいん(私は怖いから自分ではできないさー)」と言う事で、「とーが ピンゾー すなさでぃ(だれが山羊を殺しますか)?」「のーしが すなしゃー(どうやって殺す)」「カタナしー ぬぶいゆ さうふぃ さーい(包丁で首を刺してさー)」10人位集まってる中で、自分がやれるという人は一人もいませんでした。
いつも何気なくおいしいおいしいと食べている豚肉や牛肉など、畜舎から料理されるまでの経緯を考えると残酷なんですね。ただ、私が小学生だった45年前頃には集落の行事やお祭等があると、家畜としで飼っている山羊や豚を焼いて食べるのは普通のことでした。親父が山羊を殺して木に後ろ足を吊るして首から血を抜いていたのをみましたし。集落の屠殺場では馬の首にロープを巻いて両サイドから引っぱり、一人が大ハンマーで眉間を殴打してその場でズドンと倒れたのも見たことがありました。子供には殺す場面は見せないように気を使っていたようでしたが、馬の屠殺を見たときはびっくりでした。
話が脱線しましたが、忘年会当日、山羊肉忘年会で何十年ぶりの山羊肉です。私は用事があって30分程遅れての参加でした。席に着くとみんなは食べ終わって既にオトーリが回っていました。
私は山羊肉を食べながら「はーい あざたー、ぴんざぬ にくぬ じゃーん んまかー とかなー んざ(ねえ兄貴達さ、山羊肉で一番おいしいところはどこですかね?)」と訊ねると「うりゃー たに だら(それは玉さー)」「あー!たにーい!まーんてぃーな?(え、玉なのほんと?)」「まーんてぃだら(ほんとさー)」私はすかさず「あつかー うぬ たにゃー ぬくり うらんな?(そしたらその玉は残ってないの?)」「えげー うりゃー みーぴんざ やーむぬ」(あー それは雌山羊なんだよ)「いぎー あんちぬ ばーなー(なんだー そういう事かー)」で大爆笑でした。
久しぶりに食べる山羊肉でしたが、雌山羊と言う事で、玉こそなかったものの、臭いという感じもなく、刺身も味付けがよく、柔らかくて「ンメー ンメー」と戴きました。
ちなみに山羊の屠殺は屠殺場に依頼して、4000円で処理してもらったそうです。屠殺場ではサルモネラ菌などの細菌の検査もするそうで、刺身も安心して食べられた訳ですね。屠殺についての詳しい事はわかりませんが、個人で屠殺することは、密殺と言う事になり、中毒の危険性などから条例等で規制しているようです。
忘年会は別の先輩が所有するゲートボール場の小屋で行われ、先輩たちは屠殺場で処理された肉を持ち帰り、ゲートボール場の外にお釜を作り大鍋を据えて夕方の開始時間に間に合うように午前十一時からゴトゴト煮たのだそうで、私は後輩なのに後から参上して食べるだけと優遇されましたが、その分オトーリの洗礼はきつかったです。
◇あの話をもう一度
naichar-shima(下地・高千穂出身)
「高千穂幼稚園」 vol.195(2009/5/7)
おぉーっ!! 言葉の響きが内地っぽい!カザンミ幼稚園でも、ツンフグ幼稚園でも、ましてやガーラバリ幼稚園でもない。高千穂幼稚園なのだ。
仄かにアカデミックなものを感じるのは僕だけだろうか?
この、タ・カ・チ・ホという響きがすきだ。
高千穂は元々は川満部落の一部だったらしい。子供の頃たまに、お父宛にくる郵便物をみると下地町字川満○○○番地って書かれてて、何で高千穂なのに川満な訳?とずっと思ってたよ。
自分で手紙とかハガキとか出す時の差出人住所は必ず下地町高千穂(もちろん字はつけない)と高千穂に力をいれて書いてだしてた。
4才頃から高千穂幼稚園に通ってたと思う。
すぐ上の兄と近所の子らと一緒に通園してた。もちろん子供どうしでね。今の時代考えられないね。歩いて30分くらいだろうか。色々しゃべったりふざけたりしながら通うのには適度な距離だった。さすが高千穂幼稚園だよ。
高千穂幼稚園に通う道すがら、馬糞が落ちてて(ていうか、当たり前のようにあちこちにあったけどね)兄が「かつぼー、踏みみーる(踏んでごらん)」て言うんだよ。「へ、何で?」「だいず足が速くなるよ!」「まーんてぃなー(本当な)、ひやっほー!」かつぼーも、ひこぼーも、たかぼーも、興奮して馬糞をこれでもかというくらい踏んで(靴じゃなくサバでね!)、馬糞の臭いをひきずりつつアカデミックな高千穂幼稚園に通ってました。
あと、通園時の一番の難所、子供らが一番緊張するところであります。髪の毛がボサボサで汚いなりをした浮浪者風の変なおじさん(プリセイコーと呼ばれてた)がいて、その人を見つけると兄が皆に「すとーむき!」(下を向け!)と小さな声で叫ぶと皆一斉に下を向き、目を合わせないようにしながら心臓バクバクさせて通りすぎるまで冷や汗たらたらもんでした。(そのおじさんは別に何をする訳でもなくただ道端に座ってただけだけどね)
高千穂幼稚園にはマツ子先生がいて、ひらがなの読み書きの勉強したり、園庭一周ぐるぐる競争とかした。あと、建物の壁にエンピツ大の穴が開いてて、そこにその辺にある草の葉をちぎってきて棒で葉をぐりぐり押し込んで葉の汁が垂れるのを見て面白がったり(今思うとそれの何が面白かったのかちっとも分からん。)ん〜、子供の遊びは謎だ。
マツ子先生には娘さんがいて(名前はのりこ、当時高校生)学校が早く終わったり、マツ子先生の都合が悪くて来れない時は代わりにのり子先生が来て教えたり、一緒に遊んでくれたりした。
すごく綺麗で可愛くて、かつぼーは会った瞬間目がハートになり、イチコロでのり子先生にノックアウトされ、あろうことか大胆にも「今日、のりこ先生家に泊まってもい〜い?」などとのたまうのであった。(お前幾つかよ〜、4つだよ、まだたったの4才!)
「いいわよ、かつぼー」おっと、のりこ先生軽くねー?
「マ、マジッすかのりこ先生!?ひやっほー!」
「あー君達、先に帰ってていいよ。僕はのりこ先生ん家に泊まるから」
何と、かつぼーは兄とその他の子供たちを先に帰してしまったのであった。
のりこ先生いいのかそれで〜!?台湾パギで んーぱな垂れ(はなたれ)のちっとも可愛いくないかつぼーにナンパされちゃったのか〜?(その当時、かつぼーは台湾パギで頭には ぷてぃがいっぱいあった)
普通、4才ったらまだまだ母ちゃんに甘えたくてしょうがない頃だと思うけど、かつぼーはあっさり母ちゃん卒業なのか?(母ちゃんの立場も考えようよ、かつぼー。)
それからというもの、かつぼーは連日連夜、のりこ先生ん家に泊り込み(ヒモか、君は)ちっとも家に帰ってくる様子もないので、かあちゃん、おとう、おじー、おばー、兄達、おじさんおばさんたちも少し心配になり、入れ替わり立ち代りかつぼーを説得し連れ帰ろうとした。
が、かつぼーは頑として「んば!(嫌だ)家にはじぇったい帰らん!」と吼え、それどころか、ますますかつぼーの気持ちはかたくなになり「ふふ・・・これくらいで僕ののりこ先生への気持ちは変わらん!」などと又もや垂れてる んーぱなを拭おうともせず、まるで自分とのりこ先生の将来でもみるかのようにじっと遠くの方をみつめていた。(かつぼーは何かを決意するたび んーぱなが垂れてたみたいだ)
いよいよかつぼーとのりこ先生は障害があればあるほど燃え上がり、固い絆で結ばれるのであった。(もちろんそう思っているのはかつぼーだけである。は〜っ・・・書いてて頭が痛くなってきた。なんちゅー子供かよー)
最後の刺客は、やはりおとうだった。泣き叫ぶかつぼーを抱きかかえて帰り、のりこ先生との仲を切り裂くのだった。その時ののりこ先生の顔がぷからすきなり(嬉しそうに)みえたのは気のせいだろうか?
方言札(ほうげんふだ)
松谷初美(下地・高千穂出身)
私は昭和35年(1960年)生まれ。方言札について聞いたことはあるが、その物を見たことはない。小学校のころ、黒板に今週の目標「共通語を使いましょう」というようなことは書かれていたが、方言札はなかった。
昭和33年生まれの兄は記憶がないとのことだが、昭和30年生まれの兄はよく覚えていると言う。カザンミ(うちの集落)にも方言札が一つあってその頃は、24時間、方言札がついてまわったと話していた。
方言札というのは、木に(兄の話によると、横5センチ、縦10センチくらいのものだったらしい)「方言札」と書き、方言を話すとそれを首から下げ、次に方言を使う人がいると今度はその人の首にかけるというもの。大和の言葉、共通語を普及させるために学校や地域で行われていたようである。方言しか使えず、内地で困ったり、差別をされることを心配した親心もあったと思う。
幼稚園の頃までは方言しか話さず、小学生になると共通語を話さなくてはいけないというのは、大変だったらしい。方言と共通語の違いも分からなかったに違いない。
方言札を首から下げている子は、バトンタッチをしたくて、友達に方言をしゃべらせようとする。
後ろから驚かせて、「おごえ!」と言わせるとか、水をかけて「あいじゃ!」と言わせるのは定番。
「歯から血が いでぃゅー(出ている)」
「あ、ひこぼうが 方言 言った!」
「ばがなー(俺が)?」
「また 言った!」
本人は方言とは気づかず言っているというのもままあったようである。先の「いでぃゅー(出ている)」の話は、兄が叔父から聞いた話。先日、くま・かま忘年会で聞いて、うぷあまい(大笑い)をした。
伯父に話を聞くと、傘という言葉がなかなかでてこなくて、往生したことがあったなーと懐かしそうに話していた。ちなみに方言では「さな」と言う。
私の やらびぱだ(子どものころ)には、もうなくなっていた方言札であるが、方言を使ってはいけないという風潮はまだ色濃く残っていた。それでも男子は方言をしゃべる子は多かった。それに比べ、ほとんどの女子は、しゃべることはなかった。私も、しゃべろうと思ったこともなかった。ただ、周りの大人はみんな方言だったので、聞くことができるのは幸いだ。
今「方言札」ならぬ「共通語札」(共通語を使ってはいけません。すべて方言でしゃべりましょう)というのがあったら、首にさげっぱなしになるのは間違いない。
それにしても、方言が失われていくとは・・・、方言が失われることを残念に思う時がくるとは、あの頃は、想像もしなかった。
おしらせ
シネマパニック宮古島
■シネマプロジェクター導入プロジェクト
くまから・かまからをご覧のみなさま、シネマパニック宮古島下地昌伸です。
先日12/10にシネマパニック宮古島にマスコミの皆様においで頂き「日本最南端映画館シネマパニック宮古島プロジェクタープロジェクト」の発表をさせて頂きました。
有限会社が募金をお願いして機器を購入していきたいと言う常識外れなお願いですが、今後シネマパニック宮古島がどのような方向で歩めばよいか、それを共に皆様と考えるためにもこの危機を乗り越えさせて頂きたいと思いお願いをすることとしました。
ホームページ等も協賛いただきました。ぜひご覧いただきますようお願い致します。
「日本最南端の映画館シネマパニック宮古島シネマプロジェクター導入プロジェクト」http://zumi-miyako.com/cp/index.html
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
去った日曜日(15日)は、宮古方言研究会(通称:新里(あらざと)教室)とくま・かまの忘年会がありました。
新里教室はこの12月で8年目に入りました。毎月第三日曜日(8月は夏休み)に渋谷で行われています。前半は新里博先生の忘年会用に準備されたお話、後半は今年の授業を振り返りつつ、ひとりひとりが話をしました。お弁当や先生の奥さん手作りのさたぱんびんを食べながら、楽しい時間を過ごしました。来年も1月から始まります。関心のある方は、くま・かま掲示板で菜の花がおしらせをしますので、ぜひご覧くださいね。
夕方からは、宮国優子さんのお店で、くま・かま忘年会をしました。優子さん手作りの宮古レモンを使ったソーダが美味しかった!やらびぱだ(子どものころ)の話や屋号の話で盛り上がったり、マツカニさん、菜の花の三線コラボで、宮古民謡を楽しんだりしました。それから、新里博先生作詞、マツカニさん作曲の「伊良部町賛歌」も二人で歌ってくれました。本当に素晴らしい詩に、ぴったりの曲です。しみじみ聞き入りました。ご参加くださったみなさん、たんでぃがーたんでぃでした!
さて、今年最後の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
アモイさんの山羊肉忘年会(やき肉と音が似ていますが、ぜんぜん違いますね。)楽しそうでしたね〜。仲間との方言のやりとりがまたなんともいえず、雌山羊の話には、思わず笑ってしまいました。んきゃーん(昔)は、家で山羊を焼くことは普通でしたが、今では焼くことも食べることも少なくなりましたね。それでも山羊を食べる文化は健在。
「あの話をもう一度」、今回はnaicha-shimaの「高千穂幼稚園」でした。この話掲載後、予想もしなかったことが。のりこ先生はなんとクイチャーマンさんの同級生でこの話をのりこ先生にしてくださり、naicya-shimaは40数年ぶりにのりこ先生と電話で話をすることができたのでした。先生もよく覚えていて感動の再会(声だけですが)になったようです。思いがけないことがおこるものですね。
「方言札」について知ったのは、くま・かまを始めてから。今回、叔父や兄に聞いて書きました。学校内だけでの話と思っていたので、カザンミでもやっていたとはびっくり。今度、父にも話を聞いてみようと思います。
宮古での唯一の映画館「シネマパニック宮古島」、これからもぜひ存続していってほしいですね。下地さんの行動に敬服します。一日でも早く目標達成できますように!応援します。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ)
この一年もお付き合い、たんでぃがーたんでぃでした。おかげさまで今年も無事に発行を終えることができました。感謝申し上げます。
今年は4月から「あの話をもう一度」と題して、過去の記事を再掲載するコーナーを設けました。9月19日には300号達成!それを記念して、特集号「うまかまの みゃーこふつ(あちこちの宮古方言)」をお送りしました。それぞれのライターの個性あふれる話も楽しんでいただけたかと思います。
感想メールや掲示板での感想書き込み、バックナンバーページのコメントに、やまかさ(たくさん)力をもらいました。毎回ライター一同励まされています。また、掲示板では方言についての書き込みもやまかさあって、大変勉強になっています。みなさん、まーんてぃ(真に)たんでぃがーたんでぃでした!来年もどうぞよろしくお願いしますね。
次号は、来年1月2日(木)発行、民謡特集を予定しています。お楽しみに〜。どうぞ、良いお年をお迎えくださいね。
あつかー、また来年いら〜。