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宮古島方言マガジン「くまから・かまから」
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くまから・かまから vol. 312

2021 5/17
メールマガジン
2014年3月20日2021年5月17日

こんにちは〜。
春の便りがいろいろと届くようになりましたね〜。がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
悲喜こもごもの春。vol.312お届けです。

目次

宮古んかい(へ)

松谷初美(下地・高千穂出身)

夫が早期退職をし二人して宮古に帰ることになった。夫は東京出身だが、宮古が大好きで、いずれ宮古にという話は以前からしていた。私も宮古に帰ることが夢で、ノートにはいつも、宮古に帰ったらやりたいことを箇条書きにしていた。

しかし、いざ宮古に帰ることが決まった時(昨年6月)宮古に帰れる喜びとここでの生活がなくなることへの寂しさが同時に押し寄せ、心は千々に乱れた。

図書館の仕事もまだ続けたい。くま・かま仲間に、新里教室、郷友会、三線も習い始めたばかり。親友、友人、知人との別れ。たうきゃー(ひとり)残していく息子(25歳なので、一人で暮らすにはぜんぜん問題ないのだが)のことなどなど。いろいろな事が頭をよぎる。考えれば考えるほど、気持ちは揺れにゆれた。帰りたい、まだここにいたい。

複雑な想いを胸に、お盆に帰省した。両親に帰ることを告げると大喜び。両親はともに80代。年々老いが目立ってきた。特に母は、もの忘れが出てきて、ゆぬぱなす(同じ話)を何度もしたり、料理ができなくなったりしている。認めたくないことだったが、目の当たりにすると認めざるをえない。そして私を頼りにしていることがひしひしと伝わってくる。

母は、私を縛る人ではなかった。いつーまい(いつでも)自由にやりたいことをさせてくれた。私が内地の人と結婚するのを父をはじめ周囲が反対する中、盾となり、かばってくれた。自分だって反対したかったろうに。

それが んなまー(今は)小さな子どもが母親を恋うるような目で私を見る。東京に帰ろうとする私に、もうこのまま宮古にいてもいいんじゃないと言う。そして玄関でじっと見送る。

「宮古に帰ろう」その時 つぅーつぅ(強く)思った。これは帰りなさいということだねと夫と話した。私に自由な人生を歩ませてくれた母に今度は私が応えよう。大層なことができるわけではない。ただ つかふ(近く)にいる。まーつき(一緒に)話をする。歌を歌う。散歩をする。かふつに野菜を植える。美味しいものを食べに行く。買い物に行く。娘が近くに住んでいたらたくさんできたであろうことをゆっくりやっていこう。

東京を離れがたいということは、それだけ幸せな時間を過ごしてきたということだねとある人が言った。まーんてぃ あんちー(本当にそうだ)。23歳で上京し、家庭をもち、たくさんのことを経験をし、泣いたり笑ったり怒ったり、大いに学んだ。一生の友も得た。メルマガを通じて多くの出会いがあった。みなさんには感謝の言葉がいくらあっても足りない。上京から30年。いいことばかりだったとは言わないけれど、総じて幸せだった。

今度は親元に帰れるのだ。これを幸せと言わず、なんと言おう。寂しさがないわけではないけれど、ここで得たものがまた私を支えてくれる。そして、宮古には、くま・かま仲間も親友も あぐ(同級生)達もいる。

まだ仕事を辞めたくないと言った私に息子は「図書館員である前に妻でしょ」と言った。夫と一緒に宮古に帰るのが当然だと。夫は宮古でマスオさん(サザエさんの)をやるさと ぬかーぬか(のんびり)言う。

来る3月25日に宮古に帰る。宮古の皆さんよろしくお願いします。
内地の皆さん、本当にお世話になりました。今度は宮古で待っています。
宮古に帰る(来る)時は、かならーず連絡ください。すでぃがふー!

◇あの話をもう一度

クイチャーマン(下地・与那覇出身)

「下宿屋と甲子園物語り」( vol.193 2009/4/2)

んにゃ、かなーげーぬ、んきゃーんぬ ぱなす やっすぅが・・・。(もう、ずいぶん昔の話だが・・・)あんすぅが、また くぬずがたぬぱなすめー やーどぅっす。(しかし、また、先日の話でもあるのだよ)

42年前の高校3年生の頃、私は那覇市内で下宿していた。中学2年生の時に下地中学校から那覇の学校に転校して下宿生活を始めた。一年後には少しでも生活費を切り詰めようと、兄やいとこの男同士で自炊生活を始めることにした。

間借り先を見つけ、離れの納屋で炊事してもよいと了解を得て、平和通りで和倉カマドを購入し、たむぬ(薪)でご飯を炊く準備をした。一泊して、翌日間借りの契約を交わす段階で「宮古の人には貸さない」と断られた。みゃーくぴとぅ(宮古出身者)への偏見と差別。人生で初めて体験する屈辱であった。

仕方なく急いで別に間借りして、今度は電気コンロで自炊した。しかし、毎日まみな(もやし)と豆腐と魚肉ソーセージのチャンプルーだけという生活で、栄養不良による病人が出たため、自炊を諦めた。

高校入学のときは学校の近くで再度下宿。その年に東京オリンピックがあったが、下宿屋にはカラーテレビがなく、隣の家で見せてもらったりした。そのうち私の部屋に見知らぬ男の人が転がり込んできた。下宿屋としては、詰め込んで儲けようという魂胆であるが、3畳に二人詰め込まれ、私はたまらなくなって、隣の部屋にいた八重山出身の1年上の男子高校生と だんかーばしー(相談して)、間取りの少し広い別の下宿屋に2人相部屋を条件に転居した。

「下宿あります」と書いて軒下に貼り紙してある家を探して方々歩き回ったのは辛い思い出だ。貧乏学生にとっては、下宿賃、部屋の間取り、食事の内容など、条件に叶うのを見つけるのは容易ではなかった。ところが、安堵したのも束の間、八重山の同居人は、一緒に生活してみると日常的にたばこを吸っていた。私は彼を許すことができず、新しい下宿を探して別れることにした。

こうして4軒目の下宿に移ったのは高校3年のときである。自炊も含めると、4年間で住居を6箇所変わったことになるが、ようやく満足できる下宿屋にたどり着いた感があった。下宿賃はそれまでより割高だったが、あんさーめーじょうぶん(それでもよい)と納得のいくものだった。

下宿屋の経営者の夫婦は宮古島出身で、主人は定年間近の警察官。奥さんが食事の世話をしていた。夫婦には、私より一つ年上の長男を頭に3人の男の子がおり、ほかに私を含め男子高校生4人、大人の男性1人と5人の下宿人がいた。

奥さんは「私をあなたたちのお母さんと思ってねぇ、何事も遠慮しないでよ」と話し、自分の子どもと私たち下宿人を兄弟のように平等に扱った。10人の大家族で賑やかだった。商売とはいえ、毎日食べ盛りの男たちの食事の世話をするのは大変なことだったにちがいない。

高校生4人はいずれも宮古出身で、通う高校はそれぞれ違っていたが、方言も通じるし、すぐ仲良くなった。私と同年のIくんは、甲子園をめざして宮古の中学から興南高校に進学し野球部で頑張っていた。

その年、1966年の夏の甲子園の沖縄県代表に創立3年目の興南高校が初出場を決め、県民の期待を背に旅立った。鹿児島までは全日空の便で、さらに列車とバスを乗り継いで甲子園入りしたという。私たちは、夏休みのひと時、水揚げポンプのついた井戸端にタライを並べ、洗濯しながらトランジスタラジオの実況中継に耳を傾けて応援した。当時は、県内ではまだ高校野球のテレビ放送は行われていなかったと記憶している。

興南の対戦相手は茨城県立竜ヶ崎一高。延長10回の熱戦の末、興南は5対6で惜敗し、初戦を飾ることはできなかった。Iくんはショートを守り、8番打者として3回打席に立ったが、いずれも凡退してしまった。しかし、興南の初出場に貢献し、甲子園でプレーしたIくんは、私たち大家族の大きな誇りであった。

その2年後、1968年の第50回記念夏の大会で2度目の県代表になり、快進撃で4勝し「興南旋風」を巻き起こしベスト4入りを果たしたのは、今でも県民の脳裏に焼きついている。この興南の活躍はその後沖縄の球児たちの夢と希望を大きく膨らませ、指導者ら関係者の長年の努力も実り、沖縄尚学の2度のセンバツ全国制覇、沖縄水産の夏の大会2度の準優勝などに繋がったといえよう。

今年の第81回センバツに26年ぶりに興南高校が出場することになった。私は3月末で定年のため、その記念に興南の初戦の応援ツアーに参加することにした。Iくんも宮古島で定年を迎えることを思い出し、一緒に甲子園に行きたいものだと彼の連絡先を調べて電話した。

「俺も行くつもりで、別のツアーに申し込んであるよ」彼の声は昔の面影を漂わせていた。

3月26日、朝の甲子園球場。互いのケイタイで連絡を取り合い、42年ぶりにIくんと感激の再会を果たした。声と違って、みぱなー(顔は)すっかり変わっており、通りすがりに出会っても、互いに気がつかないと思われた。

私たちは抱き合うように握手を交わし、3塁側のアルプススタンドの高い位置に陣取り、懸命に応援を続けた。延長10回、興南は富山商業に逆転を許し惜敗した。しかし、私たちは19個の三振を奪った島袋投手をはじめ選手たちの健闘を称えて大きな拍手を送った。

宮古島の高校で野球に打ち込む球児たちの甲子園を目指す挑戦が続いている。八重山で出来たことが、宮古で出来ないはずはない、と。かつて島を離れて沖縄本島で下宿しながら甲子園を目指し、その夢を実現した先輩は、今ふるさとに住み、後輩たちに熱い期待を寄せている。

なつんけーばしーや、のーぬにゃーんが かーずがらいら。うりがどぅみーむぬさーい。<夏(の甲子園)に向けて、どれほどの 変化(成長)を遂げるか、それが 見ものだね。>

※備考:「興南旋風」のとき、主将で4番打者として活躍したのが我喜屋優(まさる)氏です。我喜屋氏は2007年から母校の監督に就任し、2010年には興南を夏の甲子園県勢初制覇と、史上6校目となる春・夏連覇の快挙に導きました。同氏は現在、学校法人興南学園の理事長、興南中学・高校の校長、高校の野球部監督を兼任しています。

初美、宮古に帰る

菜の花(伊良部町仲地出身)

宮古を故郷とする、くまかま関東組の仲間たち。まるで んきーん(昔)から近所に住んでいたような、親戚のような ぬふさ(温かさ)を常に感じる。

大和に住むくまかま仲間のほとんどが、高校を卒業と同時に島を離れている。皆の ぱなす(話)からは、「若さゆえ恐れるものは何もない!」かのように夢や希望を、心の中にも、ボストンバッグ(古いですね〜)にも、入りきれないほど持って、島を後にしてきたことが分かる。

のーまいにーん(何もない)いみーみ ぬ(小さな)宮古島では、未来が描けなかった・・・。私もそうだった。だから島を離れることは、大人になっていく過程では当たり前のことだった。

くまかま仲間が集まると、必ずふるさと宮古の ぱなす(話)になる。距離や時間の隔たりを感じさせない程、鮮明に語られる んきーんぬぱなす(昔の話)に ばた(お腹)を抱えて笑った。宮古人気質に改めて感動しては聞き入った。

仲間の数だけの宮古の あず(味)があり、しかも話は尽きることがない。遠く離れた大和に住んでいても、宮古はいつもすぐ側に在った。んなみまい(今も)もちろんそうである。

近頃は島に残る うや(親)のこと、自分たちの第二の人生や老後の話題に変わってきた。「いつか宮古に帰りたいね〜」それが皆の口癖でもあった。実際に、くまかま仲間は、ひとり、またひとりと宮古に戻っていった。

ならかってぃ(私勝手)に、すぐには島に帰らない候補に挙げていた初美も、宮古に帰ることになった!話を聞いたときは驚いた。初美の両親のためには良いことだと喜んではみても、初美が宮古にUターンするという現実味はなかった。

それでも、初美と会う度に宮古に帰る準備が進んでいることを知り、何とも微妙な心境になっていく。

伊良部島に住む私の母ちゃんも、いつか私が帰ってこないものかと口にする。島に残る母ちゃんを見てやりたいという思いの中で、初美の気持ちと併せてみる。初美の あんなうやまい(父母も)、娘が帰ってくるのがどんなにか嬉しく、待ち遠しいことか。それを思うと私まで うむやすむぬ(安心する)。

その反面、高校生の頃からずっと近くにいて、側にいるのが当たり前すぎていた大切な あぐ(友だち)が、遠く離れていくようで何ともいいようのない寂しさを感じた。何かが欠けてしまうかも知れない・・・そんな感じ。

初美にしても、家族と思い出を残して島を離れた若い頃と違い、大和で生活した分だけ、今度は置いていくものの方がはるかに多く、大きいのだ。ふるさとへのUターンは、ぷからすこと(喜び)ばかりじゃないのだ。

もうすぐ、初美は様々な思いを抱えて宮古に帰る。大和から宮古のあれこれを発信してくれた初美。くまかまという媒介を通して、私たちはふるさと宮古と繋がっていた。おかげで傍らにはいつも宮古を置くことができた。それは宮古を離れた者たちの心の拠り所であり、支えでもあった。

今度は地元宮古からの発信だ。大和に住んだ初美だからこそ分かること、初美にしか出来ないことがあると思う。初美が宮古にUターンすることで、宮古はもっと近くなるはず。そう思う。

くまかま関東組の つむ(心)は、いつも宮古に向いているから。いつでも初美を応援しているから。ワイド!(がんばれ)初美。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

宮古の宮島小学校では、18日、田植えをしたと宮古毎日新聞に載っていました。最高気温も24度あまりもあったそうです。初夏ですね〜。宮古では今、ほとんど米は作られていませんが宮島小学校では学習体験の一環として取り入れているそうです。子どもたちにとって自分たちが食べる米について田植えから知ることは上等な経験となりますね。

さて、今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー?

家の事情を書くのは、どぅぐりな感じですが、予定より早く宮古に帰ることになり、とまどいがいっぱいありました。ご報告がてら、今の自分の気持ちを書けたらと。

春の選抜高校野球大会が間もなく始まりますね。くま・かまで野球と言えば、クイチャーマンさん。掲示板の書き込みでもおなじみです。甲子園との繋がりが下宿生活の頃にあり、今日まで続いているんですね。やらばど(それ故)いろいろなことをご存知なのだと納得。

菜の花にはこれまで やまかさ(たくさん)支えてもらってきました。最初、今回の原稿を全部読むことができませんでした。心を落ち着け、ゆっくりと目を通し、彼女の言葉のひとつひとつに胸がいっぱいに。応援を力に前に進みます。

宮古で暮らした日々と内地での日々の長さが逆転すると知った時、足元がグラつき、自分が宮古の人であることにこだわるようになりました。そして宮古方言のメルマガを始めたのでした。遠くから宮古を見て、離れた立場でやってきたくま・かま。丸13年が経ち、14年目から宮古からの発信となります。何ができるのか、どう変わるのか、分かりませんが、自分なりにやっていきたいと思います。今後ともお力を貸してください。どうぞよろしくお願いします。

貴方の感想もお寄せくださいね。
掲示板での書き込みもお待ちしています。
どうぞお気軽にご参加くださいね。まちうんどー(待っています)!

今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい、すでぃがふー!
(最後まで お読みくださり、ありがとうございました!)

次号は、4月3日(木)発行予定です。
次号がみ、ぱだーぱだ うらあちよー(お元気でいてくださいね)あつかー、またや〜。

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