皆さん、こんにちは〜。早くも8月ですね〜。 がんずぅかり うらまずなー(お元気ですか)?
今回も いろいろな ぱなっすぅ(話を)お届けです。 お楽しみくださいね〜。
んまーんま(美味しい)のマンゴーが ダウ(たくさん)!
キムキム(平良・西里出身)
お中元の季節がやって来た。我が家は、習慣的に毎年贈り物をする人はなく、その時々で、お世話になった人に旅行先の土産を贈ったり、兄弟や親戚に地元の特産物を、旬の時期に、贈ることがほとんどだ。
やらびぱだ(子どもの頃)夏休みに、叔父の家に遊びに行き、裏山の木にバナナが すだりて(たわわに実って)ぶら下がっていたので、「叔父さん家のバナナは、いつになったら、食べごろかね?」と、何度も母ちゃんに確認して楽しみにしていたが、いつも、食べごろを逃していたらしい。叔父の家のバナナを一度も味見したことがないから、今年こそは!と、先日、叔父の墓参りで話してみたら、「あれは、バナナじゃないさ、芭蕉さいが」と従兄弟に笑われ、長い間、待ち焦がれた「私の宮古バナナ」味見は儚く消えた。
近所の“まんじゅう(パパイア)の木”にも、深緑色の実が実り始める季節には、「黄色く熟したら、甘くなるからパパイヤにしてから食べようね」と言われ、パパイヤ色になるのが待ち遠しいものだった。ところが、ある日の夕飯に、まんじゅうの炒め物が出てきて、母ちゃんが夕飯のおかずが足りなくて、パパイヤをまんじゅうにして夕飯に出した事を知った時のショックといったらなかったさ。(うちでは、まんじゅうと言うと野菜で、パパイヤと言うと果物のことだった)
暑い夏の日に、あがにゃー(東の家)の叔母さんが、「田舎からたくさんもらってきたから、食べてね」と言って、大きな冬瓜を持ってきた。母ちゃんも知り合いに冬瓜をもらって帰ってきたから、「もったいないから、いぃにゃー(西の家)のおばぁに持って行って」と、近所中で食べ物のおすそ分けは当たり前だった。
翌日、いぃにゃーのおばぁは、冬瓜を半分、返しに来た。「は〜ぃ、んまーんまー、あまーあまーのスイカどうや。ふぁいみーる(おいしい甘いスイカだよ。たべてごらん)」と。皮に筋のないスイカを始めて食べた日だった。
昔は、店で買う果物は、贅沢品だったから、病気の時に、見舞いに行くときしか買わなかったけど、近所の庭から、親戚の畑から、美味しい果物を分け合って食べることがほとんどで、お盆が終わる日に、おばぁが持たせてくれる「神様のおすそ分け」の果物は、最高だった。
マンゴーが宮古の特産物になったのは、いつごろだろうか?ばんたがやらびばた(私たちが子ども)の頃には、マンゴーはなかったはずよ。調べてみたら、1980年代から本格的に栽培が始まったというから、やっぱり私が高校を卒業して、宮古を出るまでは、なかったさいが。
母が、送ってくれたマンゴーを、初めて食べた時は、食べなれないせいか正直、ぴんなぎ味で、んまっふぁにゃーん(変な味で、おいしくない)果物に感じた。今では、いくらでも食べられる んまーんまの(美味しい)果物である。
今年は、宮古に単身赴任中の弟のおかげで、宮古からマンゴーがたくさん送られてきた。毎年、娘達の嫁ぎ先や近所の楽しみにしてくれている方々におすそ分けすると、私と夫が口にする分はほんの少しだけ。今年は、贅沢さいが。
この1週間は、毎朝、食卓に並ぶ。マンゴー効果でパワフルな夏を過ごしている。
◇あの話をもう一度
宮国勉(城辺・西城出身)
「かやふきやー(茅葺家)の思い出」vol.131 2006/9/7
昭和30年代の ばんたがやーぬ ままあぃずんな かややーふき ぬどだうやーたー(私たちの家の周辺では茅葺きの家を建てるのが多かった)。それに、毎年5〜6回は台風に見舞われるので かやふき(屋根修理の茅葺き)はもっと増えて、その為に茅を植えていたほどであった。
そのススキの茅場で ぎすきぃばらん(ススキの根の※虫こぶ)を採って食べたことも懐かしい。その虫こぶは黒に赤の斑点がある びきやーんぷ(直訳は雄の蛍)に成るが、蛍とは異種の発光もしない昆虫である。
パドラ(雀)は茅葺きの家が好きらしく朝から晩までチイチイ パッパと宙に舞い、棟にぶつからんばかりに飛び越え楽しそうに遊んでいた。夕方になると茅葺き家の んきばな(軒先)に泊るので、夜中に懐中電灯で照らし手掴みで捕まえた。
鳥は鳥目と云うぐらい暗いと、すばしっこいあのパドラでさえも置物のように捕らえることが出来るのである。かなり捕ったが暖かい体温の感触と羽の色や模様を観察すると逃がしてやった。他のマチャ(小鳥)は食べてもパドラは食べる習慣が無かった。パドラと云う響きはギリシャ神話のパンドラに似ていて、私はいつもパドラとパンドラが同時に思い浮かぶ。
当時の夜はランプ頼りでマッチと灯油の欠かせない生活だった。夜になって誰も家にいないときは手探りでマッチを探しランプを点けてほっとするのであった。
ランプは油壺、ほや、かさ、吊し金からなり、ランプの芯はその辺の木綿の布を引きちぎって付けたような緩くてお粗末であった。何かの拍子に立ち上がると頭でランプを持ち上げ、顔が上向きになり、その瞬間に口の中へ灯油がドバッと入り込んで味見をした覚えがある。今思い出しても口の周りがぬるぬるとした感覚を思い出す。意外に味はないが灯油が腹に入ったと云う意識が気持ち悪さを引き起こしていた。あんちーどぅ さきふぁやんかい なりにゃーんだら(そんな訳で酒飲みに成ってしまったのだよ)。
あの頃、太陽が三日月ほどに小さくなる日食があった。木の葉っぱの陰も細く三日月形になり、陽ざしも弱くなりその時の不安な心境は石器時代の原始人と同じようだった(暗黒の世になってしまうかと心配で)。
兄が欠けた太陽を観察しようとランプの笠を持ち出して来た。それは意外と観るのには最適であったが割ったら今夜は闇の世界であるのは云うまでもない。透明ガラスを炎で煤けさせて黒い処を使う方法もあったが、眼の周りが黒くなりパンダ状態になった。
ランプの光は やーんぷ(蛍)より明るかったが、目の悪いお年寄りは うわぁとーりゃー(あなたは誰)と顔を近づかせたほどである。また、あの頃は、やーんぷ(蛍)がいっぱい居り、捕まえて、その明かりで字が読めるか試したことや、蚊帳の中に放して遊んだ思い出も昔懐かしい。蚊もいっぱい居り、朝になると10匹ぐらいは腹を大きくしているので蚊帳の片隅に集めて叩きつぶし、夕べの仕返しをするのが朝の目覚めであった。
私の母は5人兄弟のいちばん年上の長女で、早くに両親を亡くし親代わりに兄弟を気遣って生きてきた。その母の兄弟がすぐ隣に茅葺きのこぢんまりとした家を新築して引っ越してきた。それは親戚がすぐ隣に住む ぷからす(嬉しい)出来事であった。引っ越して2〜3年経っていちばん末っ子で私と8才ちがいの あざ(兄さん=叔父さん)が一人で住む事になった。私はあざと泊まるのが日常、いや寝床がそこになってしまった。
ある晩、頭の上にロウソクを点け、ゆらりゆらりと幻想的な炎を見ながら寝た。そこへ、ただならぬ母ちゃんの怒声で起こされた。「うわたーんにゃ(おまえ達はもう)・・・」と。何がなにやら理解するまで間があった。うどるき うきつかー(びっくりして起きたら)ボヤ(小火)になってしまっていたのである。
何かの拍子にロウソクを びらかし にゃーんだら(ひっくりかえしてしまっていた)。被っていた毛布も少し焦げ、きんど(間仕切りの戸)が燃え始める寸前であったのだ。夜中に二人して母ちゃんに説教、やっと解放されてもう一度寝ることになり、いつもの爽やかな朝が来た。
朝食の時、家族みんなの前でその話を持ち出され、ぱずかすむぬ(恥ずかしさ)で凹むやら、ほんとに母のタイミングに救われたことに感謝せずに居られなかった。二人は茅葺きの家もろとも、一溜まりもなく燃え尽きるところであった。
かあちゃんぬ みーが いかすたーくとぅ うれえ かんぬたすきどぅ やりうきぃどぅ(母ちゃんを見回りに行かせたのは神の助けだったかも知れない)。うんみづう やらびぱだどぅ やーたーぱず(運の強い子供時代であったようだ)。
※「虫こぶ」とは、植物の芽や茎、葉、蕾、花、実、根などに虫が寄生し、一部異常成長した処のことです。虫えいとも呼びます。
『第52回たぶろう展受賞報告会&交流会』
松谷初美(下地・高千穂出身)
7月30日(日)、宮古空港近くにできた宮古島市スポーツ観光拠点(JTAドーム宮古島)の会議室にて「第52回たぶろう展受賞報告会&交流会」が行われた。
「たぶろう展」とは、たぶろう美術協会(昭和40年設立)が主催している全国公募美術展のこと。(ちなみに「たぶろう(tab lau)」とは、フランス語で完成された作品、絵画・絵と言う意味なのだとか。人の名前かと思っていた私)52回目の今年は、6月14日から26日まで国立新美術館で開催された。
その52回目の「たぶろう展」において、宮古から金城芳明さん(二季会会員)の作品「脱皮」(油絵100号)が協会大賞を。西里恵子さん(アートスペース「アキュリア」主宰。二季会会員)の「遺伝子のコンチェルト」(油絵100号)が協会長賞をそれぞれ受賞した。宮古から二つも受賞したとはなんとも やぐみくとぅ(素晴らしいこと)!
受賞の報告会&交流会には、受賞、入選作品が展示され、関係者の皆さんが やまかさ(たくさん)お祝いにかけつけ、受賞を共に喜んだ。
金城さんは、作品「脱皮」について「裸婦の絵ですが、これは象徴で、いろいろな渦巻く感情から常に脱皮したいという想いです」と語った。美しい女性の後ろには、いろいろな感情が交錯しているかのよう。
西里さんは、時空を超え、様々な遺伝子が繋がっている世界を緻密に表現。「描き始めるまでは長いのですが、イメージができたら仕上げるまで早いですよ」とのこと。今回は「第49回たぶろう展」で、大会賞を受賞した作品「ウィトルウィウス的年輪図」(油絵100号)も宮古で初公開された。圧巻であった。
又、今回は大濱忠市さんの「労る」(油絵30号)、伊良部映里さんの「アクア・ヴィテ」(油絵50号)、宮城敏郎さんの「南風(ぱいかじ)」(油絵100号)の3作品が入選した。
大濱さんの「労る」は、2羽のクロツラヘラサギの仲睦まじい姿が描かれ、大濱さんのお人柄を表しているよう。伊良部映里さんの「アクア・ヴィテ」は、深い森の中が描かれ、伊良部さんの思慮深さが映っているようだった。宮城さんの「南風(ぱいかじ)」は、南国の光と風がさわやかに描かれ、陽気で明るい人の良さが出ているように感じた。
私は絵について何の知識もなく、それについて書くことは、恥ずかしい限りだが、絵の表現の多様性とその人らしさ、その人でなければ描けないことがあるということを実感した。
この日のために、琉球交響楽団のフルート奏者、森本真由美さんも沖縄本島からかけつけ、お祝いの演奏を披露した。絵画とフルート演奏のコラボ、何とも素敵だった。
また、宮古島市文化協会の大城裕子会長は、皆さんのそれぞれの絵の素晴らしさを称え、今後の活躍にも大いに期待していると祝辞を述べた。
会場の各テーブルには、宮古の植物などを使った緑を基調にしたフラワーアレンジメント作品が飾られ、また「じゃからんだ」の見目うるわしく味も素晴らしい創作料理も並び、だいず、心満たされる会であった。
宮古には素晴らしい絵を描く方たちがたくさんいる。ある美術関係者に宮古には絵を描く人が結構多いんじゃないですかと聞いたところ「多いという程はいないが、少なくもない」と話していた言葉が印象的だった。
皆さんの次回の作品が楽しみだ。
おしらせ
■大正時代・ミャークぬ写真展〜ロシア言語・民俗学者ネフスキーが見た宮古の風景〜
日 時 | 2007年8月1日〜31日 |
場 所 | 宮古島市総合博物館企画展 |
内 容 | 天理大学図書館所蔵、大正末期から昭和初期のものと思われるネフスキーが撮った写真(宮古では未公開)を展示しています。当時の写真の場所と現在の場所を検証し、より近いアングルで撮影した写真も展示。多くの来場を呼びかけています。 <関連講話> 日 時:8月26日 午後3時 講 師:エフゲーニ・S・バクシェエフ氏 |
問合せ | 宮古島市博物館(0980-73-0567) |
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
先月末は、台風が3つも発生し、しわ(心配)しましたが、2つは日本への影響はあまりありませんでしたね。あすが(しかし)、5号は迷走中。今後の動きに注意が必要ですね。進路にあたるところは気を付けましょう。
7月22日、23日に「宮古島まつり2017」が行われました。私は23日の大綱引きだけ見に行きましたが、やぐみ(すごい)人でした。毎回思うのですが、まつりの賑わいをみて「宮古にはこんなに人がいるんだ」と実感します。(笑)今年の綱引きは西軍が勝ったので「大漁・豊漁」が約束されました。綱引きに使われた綱は、終わった後は、まるっちゃ(短く)切って持って帰ってよく、この綱には福が来るというので、皆さん持ち帰っていました。私も昨年に続き持って帰りました。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
キムキムさんの宮古のマンゴー効果、分かりますね〜。あの香りといい味といい、幸せ〜な気分になりますね。今年は豊作のようで、うまかまん(あちこちで)売られていますよ。宮古島が誇る、マンゴー。まだ食べたことのない方は、ぜひお試しあれ〜。
あの話をもう一度は、宮国勉さんの「かやふきやー(茅葺家)の思い出」をお届けしました。今では、見ることもなくなった「かやふきやー」についてのお話し、とても貴重ですね。お母さんの最後の言葉がグッと胸に響きました。
「第52回たぶろう展受賞報告会&交流会」は、実行委員会のメンバーで手作りで行われ、センスの良さとおもてなしの心がいっぱいあふれた会でした。私は司会をしましたが、とても心豊かな時間を過ごせて、ぷからすむぬやたん(うれしいことでした)。
宮古島市博物館で開催されている、ネフスキーが撮った写真展、ぴゃーかり みーぶすむぬ(早く見たいものだ)。くま・かまライターのさどやませいこさんは見に行ったそうで、とても素晴らしい展示だったと話していました。行ける方はぜひ!
貴方はどんな感想を持たれましたかー?よろしければ感想をお聞かせくださいね。
掲示板投稿まい まちうんどー(お待ちしています)!お気軽にどうぞ〜。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ!
(きょうも 最後まで 読んでくださり ありがとうございました!)
次号は8月17日(木)発行予定です。
夏バテしないように気を付けましょうね。よい一日を。
あつかー、またいら!