こんにちは〜。
今年も残すところ、んな ぴっちゃとなりました。
ぱんたーぱんたの(忙しい)毎日だと思いますががんづぅかり うらまずなー(お元気ですか)?
今年最後のくま・かまお届けです。お楽しみくださいね。
未来を託す 〜「結の橋学園」校歌〜
菜の花(伊良部町仲地出身)
平成30年11月24日16時。私は、かつては伊良部島からの船の発着ターミナルだったビルの2階にいた。会議室では、来年開校予定の伊良部島小中一貫校「結の橋学園」の校歌公開の準備が進められていた。伊良部の子ども達を応援したいとの一心から生まれた校歌が、ようやく公開される日を迎えた。これまでの事が頭の中を駆け巡った。
宮古島市教育委員会から、校歌作成の話があったのは平成29年の年明けだった。普段いろんな事を考えるが、校歌を作詞するなど いみんまい うもーん(夢にも思わない)。かんがいまい しん(考えたことも無い!)やな じょーだん(悪い冗談)だと思ったくらいだった。あてぃぐとぅぬ(あまりの)荷の重さに断り続け、その都度説得された。
伊良部の未来を担う やらびぬきゃー(子供たち)の事を考えているうちに、私も引き受ける覚悟を決めたはずだった・・・が、正式に校歌の歌詞制作依頼書が届いた時は、私で良いのだろうか?大役が果たせるのだろうか?と、震えながら自問した。
教育長から届いた資料には、伊良部小中学校と佐良浜小中学校の教育理念や目標、校章や校歌のコピーなどが同封されていた。どの学校にも長い歴史があり、地域の たーら(宝)でもある。その学校が統合して ぴてぃーつ(一つ)になるのだ。歴史が残され、また新たな歴史が始まろうとしていることを感じた。しかし、校歌制作という重圧は重く、歌詞も思いつかいまま二カ月が過ぎた。とにかく伊良部へ行こうと思い立った。
空港で迎えてくれた関係者の案内で、宮古島市教育委員会を訪れた。教育長さんや担当関係者の方々と校歌について話合った後、佐良浜小中学校へ向かった。職員室の前には海の民を象徴するように、かぎーかぎ(色鮮やかに)塗られたサバニがあった。漁具も置かれている。いかにも海洋民族の佐良浜らしいと思いながら、目を閉じて校庭や運動場に吹く風を探した。都会には無い潮の かざ(香り)が漂っていた。
次に私の母校である伊良部小学校を訪れたが、記憶に在る大好きだった図書館や校舎は無く、校庭は様変わりしていた。懐かしさより知らない学校へ来た感を抱いた。小学生の頃は、大きな運動場を走るのは大変だったが、眺めた運動場は意外にも小さかった。次に伊良部中学校に向かった。校門を入るとデイゴの樹には あはーは ぬ ぱな(赤い花)が昔と同じように咲いていた。大きなアコウギーは同じ場所にあり、更に巨大化していた。長い年月が過ぎたことを物語っていた。昼休み時間に木登りして食べたバンツギー(桑の木)は消え、代わりにナンヨウスギの大樹が枝を広げていた。職員室や教室には学校独特の雰囲気が溢れていた。
あんまい(私・吾も)いらうずま ん んまりぃ(伊良部島に生まれ)、島の学校で学んだ。時間に逆戻りは無い。常に未来に向かって流れ続けているが、記憶にある思い出の学校は、現実にどう様変わりしていようと消えはしない。それは私の ぬつ(命)が尽きるまで心に在る学校なのだと思いながら、母校を後にした。
神奈川の自宅に戻ってからは、伊良部を想う心の旅が始まった。それは私の子ども時代に遡る時空の旅でもあり、伊良部の子ども達との未来への旅でもあった。「おもろそうし」「琉歌」「万葉集」「古事記」と頭に浮かぶ本を読み、言葉探しもした。「伊良部村史」からは改めて各集落の歴史を学んだ。
また、佐良浜と伊良部小中学校の校歌の意味と、作詞者の胸中を探った。毎日伊良部の事を考えていると、校歌制作の事も忘れ不思議と気持ちが満たされていく。知らない伊良部を発見すると楽しくもあったが、時には「自分の母校がなくなることに賛成か?」との電話もあった。地域の歴史は守るべき、学校統合はしない方が良いとの意見を聞くこともあった。それもまた大切な思いである。
私の内には「賛成」も「反対」も無く、伊良部の子ども達が向かう未来が明るいものでありますように、との思いだけだと答えた。少子化の問題も忘れてはならないことだと加えた。
数年前、東京の代々木体育館で開催された春高バレーボールの試合に、沖縄県高校生代表として、伊良部島の子ども達が出場した。もちろん、私も応援に駆け付けた。いみーみぬ(小さな)伊良部島からやってきた選手達を見ただけで、胸が一杯になり なだ(涙)が溢れた。佐良浜地区、伊良部地区の子ども達の力が結集されたチームだった。他の高校は交代の選手も多く、選りすぐりの選手ばかり。伊良部の子ども達は限られた人数で試合を展開していた。そんな状況下にあっても、伊良部島の子ども達の活躍は素晴らしかった。今でも思い出すと熱いものがこみ上げてくる。あの時のように、伊良部の子ども達の力が、一つにまとまる日をまた見てみたいものだと思う。
子ども達に受け継がれる島の未来も、今を生きる子ども達の毎日も、どちらも輝いていてほしいとは誰もが願うことである。夢と希望は生きる目標であり、勇気となる。子どもの力は未知数に溢れている。それを信じて支えることが、大人のすべき事であり、子ども達の成長に繋がることだと思う。私も二人の子育てで、悩んだり躓いたりした経験があるからこそ分かったことでもある。そんな思いを歌詞にも込めた。
「結の橋学園校歌」 作詞 高橋尚子 1 珊瑚の島に 陽光降る さんごのしまに ひかりふる 翠の伊良部 輝きて みどりのいらぶ かがやきて 希望の扉 今開き きぼうのとびら いまひらき 我等は歩む 結の橋 われらはあゆむ ゆいのはし 2 豊穣の旗 なびかせる ほうじょうのはた なびかせる 碧き海風 吹き渡り あおきうみかぜ ふきわたり 大海原の 道標 おおうなばらの みちしるべ 魂の火灯す 結の橋 たまのひともす ゆいのはし 3 常盤の杜に 深き知恵 ときわのもりに ふかきちえ 真紀代の訓え 永久の声 まきよのおしえ とわのこえ 睦みの精神 胸に抱き むつみのこころ むねにだき 明日を創る 結の橋 あしたをつくる ゆいのはし 4 昇る真太陽に 夢染めて のぼるまてぃだに ゆめそめて 凛たる希望 空高く りんたるきぼう そらたかく ペンの翼を 羽ばたかせ ぺんのつばさを はばたかせ 未来に翔ける 結の橋 みらいにかける ゆいのはし
校歌の1番には、昔から緑に覆われた美しい島と言われている伊良部島と、これまでの小中学校の長い歴史を称賛し、新しい「結の橋学園」が子ども達の希望の学園となりますように、いつまでも栄えあれという意味を込めた。
2番は、海洋民族である佐良浜の、遠洋漁業の歴史に併せて作詞した。大海に船出するには強靭な肉体と強い精神力が必要である。また、洋上に浮かぶ小さな島(伊良部島)は、嵐の風よけや休憩地であり、航海する船の道標にもなる。子ども達が学園生活やこれからの人生(大海原の航海)を力強く歩んでいくことをイメージした。
3番は、伊良部島の南区(いらぶ地区)を表している。南区には各集落にウタキがあり、古くから多くの訓えが残されている。子ども達が先人の知恵を理会し、文化を大切にしながら、一年中葉が枯れることのない常盤木のように、のびやかで心豊かに成長しますようにとの願いを込めた。
4番の歌詞は、全ての子ども達へのメッセージである。子ども達は万物を照らす太陽の様にエネルギーに満ち溢れ、未知数の可能性を持っている。様々なことを学び、それぞれの翼を広げて大きく羽ばたいていきますように!心からそう願う。
今年8月、曲が付けられた校歌の試聴会が、城辺にある教育委員会内で行われた。教育長から校歌の作曲担当の宮国貴子先生を紹介された後、関係者全員で完成したばかりの「結の橋学園校歌」を聞いた。子ども達の活き活きとした歌声を耳にした途端、歌詞に命が吹き込まれた!と、私の中で湧き上がるものがあった。校歌を聞いた後、教育長さんから「校歌完成」の言葉を告げられた時、感情よりも先に涙がこぼれ止めることが出来なかった。様々な思いが混ざり合い、言葉がうまく出てこなかった。
貴子先生も、作曲の話があった時は大役過ぎて直ぐには引き受けられなかったと言う。伊良部島に音楽教師として赴任した時期があり、歌詞から伊良部の風景が広がったこと、伊良部島の教え子の子ども達を教えるという、二代に渡る関わりを思い出したこと、伊良部島への恩返しの意味も含めて、作曲してみようと思った、との話があった。貴子先生の話から、歌詞の細部にまで気を配り、伊良部島や子ども達の事を考えながら作曲した事が伝わってきた。初めて会う貴子先生だが、同じ心境であったことを共有しながら、作詞と作曲が一つになって、校歌が完成したことを喜びあった。
校歌公開式は進み、会場のスクリーンに伊良部島の映像と校歌の歌詞が映し出された。子ども達ののびやかな歌声と、ピアノの澄んだ旋律が響く。音楽の世界とは無縁の私である。歌詞制作は未熟なものであるが、安堵の気持ちと歓びで感無量だった。改めて、伊良部の事を深く考える幸せな時間が持てた事や、光栄な仕事をさせて頂けた事に、心から感謝するばかりであった。
校歌公開の記者会見も終わり、外に出ると11月だというのに太陽が燦々と照り、いんかじ(海風)が心地よかった。かつて船で渡った伊良部島に架かる橋が見えた。未来に翔ける「結の橋」・・・思わず口ずさんだ。
◆あの話をもう一度
なー坊(上野村出身)
「さやふ(大工)なー坊」vol.103 2005/7/7
かながい、あぐぬ克坊ーぬ スラブうつぬ あーたー(このまえ、同級生の克坊の 棟上式があった)。
当日っさ、あみまいあかりー、じょうとうぬスラブうつぴかず(当日は雨もあがり、とても良い棟上式日和)。すとぅむてぃから やまかさ、かしーぐなまい うり、じょうとう(朝からたくさんの手伝いをする人もいて上等)。
ぱんびんぬあぎぐな、わーゆ、ゆーでぃー につけすーぐな(克ぼーや うやきかいば、わーやあらだな うすやたー)、いずゅー あうわんかい あぎぐな、さしみゆー きざんぐなてぃー どぅすから うつぅざから んーな かしーしー準備まい万端(てんぷらを揚げる係、豚を茹で煮付ける係(克坊は、金持ちだから豚ではなく、牛だった)、魚を油で揚げる係、刺身を切る係と、友達から親戚までみんなで加勢をして準備も万端だ)。
また、克坊ぬ奥さんぬ実家 みゃーぐんぬ、しきたりんどぅ「せんびょうー、まんびょうー」てぃ カリーな、ぶどぅずぬありってぃ うりゅー ぶどぅずくとぅん なずたー(それから、克坊の奥さんの実家 宮国部落のしきたりに、「千俵、万俵」と言う、めでたい縁起のいい踊りがあって、それを踊ることになったんだ)。たらきぬ、ぶどぅらだかーならんてぃー ばんたがあぐぬ、6名しーすったー(同年代が踊らなければいけないということで、オレたちの同級生が6名でやった)。
まず、マーニぬ ぱーゆ とぅいきし、かなまずとぅ くすん まきー、きーぬ棒ん まずとぅ まーすとぅ くんぶー 結びー ふたーす゜しー かつき゜(マーニ(クロツグ)の葉を取ってきて、頭と腰に巻き、木の棒に米と塩と昆布を結んで二人でかつぐ)。あんってぃ「せんびょう、まんびょう」てぃくいゆ かき、ぶどずがつな 克坊が やーんかい。(そして、「千俵、万俵」と声をかけ、踊りながら克坊の家へ)。玄関な やーぬすぬ みゅうとぅらしー んかい(玄関では家主夫婦が迎える)。床の間ぬ まーまずんかい いきー「ばんたや ぱいぬすまからきすたー かんどー。くぬやーぬ せんびょう、まんびょうてぃ もうき栄いよーん んーなし きすたー」てぃ あっず。あんってぃ オトーリゆまーすがつな ぶどずだら。(床の間あたりへ行き、「我々は南の島から来た神様です。この家が千俵も万俵も儲け栄えるようにと来ました」と言う。そしてオトーリを回しながら踊るんだ)。
あすがどぅ、11時からオトーリまい まーらーしー、気合いずぃー準備しーるばどぅ、あがいたんでぃ 本番な午後2時(しかし、11時からオトーリを回して気合を入れ準備したら ああ、本番は午後2時)。
やまかさ さきまい ぬみにゃーん(たくさんの酒も飲んでしまった)。あんってぃ うぬ ぶどずんな、純粋ぬ さきゅー ぬまだかーならん(そして、その踊りの時は、純粋の酒(水で割っていない泡盛)を飲まないといけない)。ゆるぎーぶどぅりー、のーがらすさいん(揺れながら踊って何がなんだかわからない)。
案の定、本番ぬ よーずや びゅーいーにゃーん(案の定、本番のお祝いでは、酔っ払ってしまった)。また、のーしー やーんかい いきぃたーがらうぶいうらん ぴるます(また どうやって家に帰ったのか覚えていない不思議だ)。あすぅが、やーぬすまい ぷからさー ししゅーたいば 良かった。(でも、家主も喜んでいたから良かった)。
みゃーくぬ スラブうつゃ だいず(宮古の棟上式は大変だ)。さきまいつぅーふぁっにゃーだかー やーまい ふかいん(酒も強くなければ家も作れない)。
銀色に輝くキビの ばらん(尾花)
松谷初美(下地・高千穂出身)
今年の冬は、気温がなかなか下がらず、冬らしい感じがしないのだが、キビの ばらん(尾花)は、んなまど ばんず(今が旬)とばかり、咲き誇っている。まっすぐ天を向き、ふわふわの ばらんは銀色に輝き まーんてぃ かぎむぬ(本当に美しい)。
キビは収穫まで1年半かかる。ばらんが咲くということは、植えてから1年半が経ち、収穫時期を迎えたということ。(最近は、ばらんの咲かない品種もあるらしい)
宮古でキビの栽培がおこなわれるようになったのは「明治36(1903)年1月、新税法の施行に伴い現物納税(粟・反物)から貨幣納になると、粟に代わって甘蔗が高価な換金作物となった。大半の農家が粟栽培から甘蔗栽培へ転換し、明治42年(1909)年には宮古郡砂糖同業組合が設立された」(『ひらら』ー 村・町・市 ー 行政97年 より)
実家は農家を生業としている。祖父母は、ともに明治生まれなので、結婚当初からキビ栽培していたかもしれない。キビ刈りは重労働で、キビの先端(ばらんの部分)を切り落とす人、キビの根っこを斧でカットする人、キビについた ぱーがら(葉)を落としきれいに並べ、綱でゆわく人と分担作業だ。
次々と並び揃えられたキビの美しいこと。葉がきれいに落とされ、スルスルとした肌を出し、台風などの影響で、ゆがゆが(くねくね)としている部分もあるが、キビをねかせながら右に向け左に向けとバランスを取り、整っている。
縄でゆわいたキビは、ベルトコンベヤーでトラックの荷台に積まれ製糖工場まで運ばれる。このやり方は私が やらびぱだ(子どもの頃)の話しで、父(昭和5年生まれ)が子どもの頃は、製糖工場まで線路(トロッコ用)が敷かれ、それで運んでいたそうである。
線路はかなりの長さあったようで、大野山林方面から下地のうちの実家の近くを通り、沖縄製糖工場まで通っていたようだ。沖縄製糖の西側にある咲田川の河口付近には、当時のレールと思われるものが残っている。
宮古でキビの栽培が始まって100年余り経つことになる。今では、県内一の生産量とのことだ。
現在、手刈りをする農家は、いきゃらふ(少なく)なり、ほとんどの農家がハーベスターでの収穫だ。ガガガーと刈り取ったかと思ったら、キビは、アッという間にカットされていく。何という早業。こういう機械がでるとは子どもの頃は夢にも思わなかった。
うちの前の畑のキビも、ばらんが咲き、収穫時季を迎えている。夏に台風が来た時は、風で横倒しにされたが、少しずつ起き上がり、ばらんは真っすぐに伸び咲いている。
台風が来たり、干ばつになったり(現在は、地下水を利用したスプリンクラーが設置されているところが増え、干ばつの被害は少なくなっている)キビが育つ環境は厳しいが、そのたおやかさと言ったら。見習いたい限り。
今、宮古の うまかま(あちこち)で、銀色に輝くキビのばらんが美しい。少し寄り道をしながら、冬の風物詩を楽しんでいる。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
雨が長く降り続いていましたが、ここ2、3日、穏やかに晴れています。昨日の与那覇湾は、波もなく凪いでいて、海面に島影が映り、かぎむぬやたむ(きれいでした)。
与那覇湾と言えば、今年もクロツラヘラサギがやってきました。来年の4月ごろまでいることでしょう。他にも鳥たちが やまかさ(たくさん)いてとても賑やかです。
さて、今年 しみゃー(最後)のくま・かまぁ のーしが やたー がらやー?
菜の花は「一粒の種」の作詞でも知られていますが、今度は「結の橋学園」の校歌の作詞です!これまでのいきさつや作詞することへの想いがたくさん伝わってきました。伊良部の自然が子ども達を包み込んでいるような応援しているような素晴らしい詩ですね。作曲は、長いこと子ども達に音楽の指導をされている宮国貴子先生とのこと。子どもたちが生き生きと歌う様子が目に浮かぶようです。来年の開校が待ち遠しいですね。
あの話をもう一度は、久々のなー坊の登場。上野村出身も懐かしい響き。2005年は、まだ市町村合併されていなかったんですね。当時の雰囲気を残したく、そのまま上野村出身としました。それにしても、昔ながらのすらぶ うつ(棟上式)の様子、いいですね〜。残したい文化です。
これまで、何度、キビについて書いてきたかわかりませんが、この時季になるとやはり、気になります。年を取れば取るほど、キビへの愛着度が増すのかしらん!?(笑)今度も豊作でありますように願いを込めて。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。投稿もぜひお気軽に。
この一年も、たかさーしーふぃーさまい(ご愛顧くださり)たんでぃがーたんでぃ。私事ですが、今年は、2月に父が亡くなり、メルマガを2ヶ月休みました。(休みは、創刊以来初のこと)その後はおかげ様で、今日まで発行することができました。感謝申し上げます。
そして、皆さんからの感想が何よりの励みとなりました。くま・かまライター一同、心より御礼申し上げます。まーんてぃ たんでぃがーたんでぃいらー!
次号は、年明けて、1月3日(木)発行予定です。
どうぞ、かぎ正月をお迎えくださいね。がんづぅかり うらあちよ〜。あつかー、またいら〜。