こんにちは〜。
寒緋桜が咲きだしました。ここのところ、春の陽気です。
三週間ぶりのご無沙汰です。がんづうかり うらまずたーなー(お元気でしたかー)。vol.426お楽しみくださいね〜。
沖縄本島で『宮古方言を語ろう会(仮称)』の発足へ
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
ある行動を起こす時は、必ず「切っ掛け」や「動機」が存在する。辞書には『切っ掛け』について「物事を始めるときの手掛かりや機会。はずみ」とあり、『動機』については「人が意志を決めたり行動を起こしたりする要因」などとある。行動を成就させるカギは「継続すること」「諦めないこと」「動機と行動を共有し、具体的に行動する仲間がいること」などではないかと思う。
ばー んなまどぅ(私は今)、沖縄本島で「宮古島の方言を語ろう会(仮称)」に向けた準備を進めている。その切っ掛けは昨年11月に開かれた平成30年度「危機的な状況にある言語・方言サミット(宮古島大会)」へ傍聴のため参加したことである。
そのサミットの基調講演で国立国語研究所所長・京都大学名誉教授の田窪行則(たくぼゆきのり)氏が「お金は使えば無くなるが、方言は使えば使うほど残せる」と語ったことに心を動かされた。氏は、方言の敬語が十分に使えないから、あるいは自分は方言が上手ではないからなどといって、話すことをためらってはいけない。使える人が使える範囲でどんどん話すこと、それを若い人に聞かせていくことが大切だと強調された。
奇しくもというか、なんという巡り合わせか、サミットの翌日、一便で宮古から帰り、そのまま浦添市文化協会の文化祭の文芸部会の展示会場で受付をしていた私に、「クイチャーマンさんですよね」と声を掛ける女性がいた。立ち話のなかで、その方は以前から宮古の方言に関する実践を積んでいることが分かり、改めて情報交換のコーヒータイムをつくる約束をし、12月中旬に再会した。
女性は下地トミ子さんという私より一つ年上の方で、平良・下里出身の元小学校教師。彼女は沖縄県教育委員会文化振興課発行の小中学生向けの教材「しまくとぅば読本」の編集発行にかかわるなど幅広く活動している。
年が明け1月7日、下地小・中の同期生で十数年前の宮古方言大会(市町村合併記念で無審査)に、私と二人組で出場し「方言博士」の称号を授かった玉元江美子も加わって準備会が開かれた。トミ子さんと江美子は宮古高校の出身だが、初顔合わせ。100円コーヒーで2時間も粘り、3人の「文殊の知恵」で、だんかー(相談)もまとまった。「ずぅー みゃーくふつばしー あすぱ〜『宮古島の方言を語ろう会(仮称)発足に向けた集い』を1月30日に開くことを決め、実行した。
待ちに待った当日、水曜日の午前10時から12時まで、浦添市てだこホール視聴覚室で開いた「集い」には、呼びかけ人の3人のほかに8人(女性1人、男性7人)、合わせて11人が参加してくれた。参加者の年齢は30代から80代まで、出身地は平良、城辺、上野、下地にまたがっていた。
集いでは、私が ゆなぱふつ(与那覇方言)で趣旨説明をし、方言サミット宮古島大会や田窪所長の話の内容などを伝え、絶滅危惧言語となっている宮古方言について沖縄本島で暮らす私たちが日頃考えていることなど「みんなで楽しくみゃーくふつで語り合おう。そしてみゃーくふつの継承のためにアイディアを出し合って、出来ることから始めていこう」と呼びかけた。
話し合いの中では「忘れた言葉(方言)が多い」「聞くことはある程度できるが、うまく話せない」などの現状が出されたほか、今後の取り組みについて「子どもたちに民謡や宮古の童歌などを教え、大人も学ぶ」「文字の表記のほかに音声記録も必要ではないか」「方言大会や方言カラオケ大会はどうか」「学者や知名氏による講演も」「研究よりも話すことの重視を」「いずれにしても楽しい活動を」などの意見が出され、会の名称などについても話し合われた。
この日の集いの結論としては、活動の意義を確認し、継続して取り組みを進める。次の集いでは出身地も伊良部、池間、多良間などと広げ、広報を強めて参加者を増やし、組織の名称、活動計画、役員、会則などの案をまとめる。その後結成大会につなげていくことを確認した。次の集いは3月下旬に予定している。
冒頭に述べた切っ掛けと動機を大切にして、ふるさと宮古島の皆さんの活動に学び、連携しながら、沖縄本島における取り組みを進めていきたい。
「ずぅー まーつき すきゃきみゅー」(さあ、いっしょに始めよう)
「ちー まーんてぃー あんしすぅー」(さあ、本当にそうしよう)
「ずぅー」と言えば「ちー」と答える、それを合言葉にしたいものだ。
◇あの話をもう一度
與那覇 淳(平良・鏡原出身)
「墓前のピクニックと紙銭」vol.310 2014/2/20
「ジュウルクニツ」という宮古独特の きざい(行事)がある。今年は新暦の2月15日でした。
先祖の神様の正月といわれ、「旧十六日(祭)」と表示される。旧暦の1月16日のことで、現世の正月料理と同じように豚肉や昆布巻き、大根、ゴボウの煮物、天ぷら、揚げ豆腐などを詰めたお重に餅や菓子を墓前に供え、おさがりを共にいただく。その光景は、まさに墓前でのピクニックである。
かびじん(紙銭)、(うちかび(打ち紙)とも言う)を焚くのは他の法事と同様に行う。板紙に銭の形を型押しした紙銭は、今では工場生産されスーパーで売られているが、私の子どもの頃は、四角い穴の空いた古銭の型を一つ一つ打ち込んでいた。
みーにつ(命日)などの法事ともなると、くーてぃ(立方体の木片)の上に黄色の板紙を載せて、棒状の銭の型を金づちで打ち込んで紙銭をこしらえた。この作業を私は小学校の3、4年生の頃から任されていた。銭の形が横の並び縦の列ともに真っ直ぐになるように慎重に打ち込んでいく。
「うちかび(打ち紙)」の言葉はこの作業の形態からきているように思うがどうだろうか。紙銭は中国から琉球に伝わった風習であると伝えられている。中国では、この世とあの世はつながっていて、死者はあの世で生きていると考えているという。
そこで、日常生活で必要なものを準備し、不自由なく暮らせるようにと考え、現世の やーでぃ(家族)らが生活に じゃーか(最も)大事な金銭に不自由しないように紙銭を焼いてあの世に送金する。こうした考え方は祖先崇拝が根付いている沖縄、宮古でもほとんど似たものがある。
日本ではあの世とこの世は隔絶した世界で、金銭など世俗的なものは無関係と考えるようだ。現世と死後の世界の境界にある「三途の川の渡し賃」として、死者に六文銭を持たせる風習があったが、三途の川が最後に金銭を使う場でそれ以降は必要ないとされている。
沖縄の紙銭は硬貨を型押ししたものだが、いま、中国で使われているのは銭の形より紙幣の模造品が多いようだ。また、金色や銀色の箔を貼ったもの、神様の姿を印刷したものがあるという。
以前は紙銭を焚くのにクワズイモの葉などを敷いていたが、今では専用の器が売られている。深さ20センチ、直径30センチほどの金属製の器で底に水を溜め、金網を載せて網の上で紙銭を焼く。丁寧に金属製の箸まで付いている。
子どもの頃は我が家の墓は数カ所にあった。ジュウルクニツには直接、墓前にお供えすることはなく、自宅近くの ぬうーがま(野原)で、んかいのー(遥拝)をした。
先祖の神様をはじめ、主な親戚の神様へ線香、仏桑華、お重などを供え、線香が燃え尽きるのを見計らって、おさがりをいただくのである。
遠い昔から続いているジュウルクニツ。きざい(行事)を仕切っていた父が逝ってから1年余。いつの頃からか三代目の私が仕切るようになっている。きざい(行事)ごとに料理をこしらえ、天ぷらを焼くのが得意の母親は自分の身の回りのことをすることさえ難しくなってしまった。
旅する着物
Motoca(平良・下里出身)
昨年、12月に入ってようやく、娘の七五三の記念撮影をした。娘たうきゃー(単独)での写真とともに、私と夫も着物を着て、3人で家族写真も撮った。夫の着物だけは写真スタジオのものをレンタルしたが、娘と私の着物は どぅがもの(自分の)である。
娘の着物は、私のお下がり。私が産まれたときに、ばんたが んまが かいふぃーた(うちの祖母が買ってくれた)ものらしい。濃い朱色の地に白い花がちりばめられた着物に、同柄のお被布と巾着、下駄の一式。私が今月40歳になるので(きゃっ!)、40年前の着物ということになる。
襦袢や帯紐にはうっすらとシミが見えるが、着物本体はまだまだきれいなままである。自分が着た記憶はさすがにないが、2学年下の妹が着ていたのはうっすら覚えている。そのあとは、年上のいとこたちの家庭を巡って、それぞれの娘たちの七五三やお正月を彩ってきた。旅する着物である。その着物を娘が着る番になったとは、感慨深い。
一方、私が着た着物は、結婚するときに母からもらったものだ。黄色〜緑のグラデーションが鮮やかな訪問着。母が若いときに着ていたものだという。それに合わせた山吹色の帯は、祖母の形見である。母と、父方の祖母、両方のものを身につけることができ、そのふたつが、はじめから合わせたようにぴたりと色味が合っているからまた、ぴるますむぬ(不思議である)。
撮影した写真は、「七五三」の金文字が光る写真台紙に収められ、手元にやってきた。開くと、12月の撮影らしく茅の輪が背景にみえる家族写真(近くの神社でロケ撮影をしてもらった)と、娘単独のアップ写真。だいばん(大きな)写真の中で、3歳児は目をらんらんとかがやかせている。着物をまとってなお、ぼーちら やらび(やんちゃな子ども)の雰囲気が顔から溢れ出している。あんた、着物を着るときはもっとおとなしくするべきだはずよ・・・。
娘は、着物を だいず(とても)気に入ってくれたようだ。時々思い出しては「かみさまのとこ(=神社)できた、おれんじいろのきもの!」と呼びまた着たいと言う。機会があればまた着せたいな、とは思う。
しかし、着物を着せて外出することへのハードルは、たかーたか(高い)!ぞうりで電車を乗り降りさせるのは大変だし、かといって車での移動は、まず幼児用のチャイルドシートのベルトが股も通す形状のため、着物では難しいのである。これがクリアできれば着物へのハードルが ぴっちゃがま(ちょこっと)下がるはず。着物でのチャイルドシート問題、どなたか、良い知恵があれば、ならーしふぃーさまち(教えてくださいませ)! いや、まずそもそも、私が着物の着付けができないことが問題である。あがい、くいまい習いに行かだかならんさいが(これも習いに行かないといけないじゃないか)。
後日、母からLINEで古い写真が届いた。おそらく私が小学校に上がる前後の正月のものだろう。そこには、着物姿の私と妹が並んで写っている。妹は、今回娘が着たあの着物を、私は、赤の地に色とりどりの模様が入った振り袖を着ている。くいまいまた(これもまた)、祖母が んまが(孫)の成長の節目ごとに揃えてくれた着物のひとつ。くいたーまい(これらも)いつか、同じように旅をしてから、うちに巡ってくるべきはず(巡ってくるだろう)。
娘が将来気に入って着てくれれば、母としては、ぷからすむぬ(幸いである)。その着物たちをきちんと活用できるよう、そしてまた受け継げるよう、着物好き親子を目指そう、と心の中でそっと誓った。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
1月もアッという間に過ぎてしまいましたねー。年末から あみちゃーん(雨ばかり)降っていましたが。ようやく晴天が続くようになってきました。昨日は、車の中はクーラーをつけるくらい暑かったです。
畑には、キビ刈りをする姿や、葉タバコ農家の苗植えをする姿がうまかま(あちこち)で見られます。ハーベスターも晴天が続いてようやく作業ができるようです。ガーガーうながりながら、頑張っています。
野菜も宮古産のものがいろいろ出回るようになりました。夏は宮古産のものはあまりないので、冬のこの時季の野菜の多さは、ぷからすむぬ(うれしい)。たまなー(キャベツ)、うぷに(大根)、じゃがいも、ニンジン、ごうら(苦瓜)、ほうれん草、小松菜、ピーマン、ナス、トマトなどなど。ばんたがやー(我が家)の いみっちゃぬ かふつ(小さな菜園)にも、秋に植えたミニトマトと春菊が元気に育っています。
さて、今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー?
クイチャーマンさんは、長い間、方言継承への意識をお持ちですが、今回その思いが、方言サミットをきっかけとして繋がったんですね。「ずぅ」と言えば「ちー」の合言葉、最高ですね。今後、いろいろなことが展開されることでしょう。楽しみです。
今月の20日は、十六日祭です。それにちなんで5年前に與那覇淳さんが書いた十六日祭のお話を再掲載しました。紙銭に型押ししたことや、ぬー(野原)でご先祖様を迎えてやったことなど、懐かしく思い出された方も多かったのでは?あの世のお正月の日。今年もきっと宮古は賑やかです。
Motocaさんの「旅する着物」、素敵なお話でしたね〜。自分が来ていた着物を子どもにというのは本当に感慨深いものがあるでしょうね。またおばあちゃんやお母さんから受け継がれたものを身に着けるというのも・・・。お嬢さんも着物が好きになり大切にしていくことでしょうね。
今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜〜。
(今回も最後までお読みくださりありがとうございました)
次号は、2月21日(木)発行予定です。
きょうも上等な一日でありますように!あつかー、またいら〜。