みなさん、ノーシーリャー?(いかがお過ごしですか?)宮古には、アカハラダカが飛来したそうです。秋の到来ですね。くま・かま vol.36 お送りします。シマイガミ(最後まで)おつきあいください。
「十五夜」
松谷初美
今月の21日は、中秋の名月、十五夜だ。東京で見る十五夜のツキ゜(月)は、宮古と違うなーと思ってていたら、それは夕月を見ないからだと気がついた。高い建物が多い中で、東の空から上がって来る夕方の月を見るのは難しい。しかし宮古では、ティダ(太陽)が沈むとアガズ(東)の空から大きなオレンジ色をした月がゆっくりと顔をだしてくるのを見ることができる。それは本当にミグゥトゥ(見事)な夕月で、そんな月に出会えた時は、立ち尽くしてぼーっと見ていたものだった。
さて、ンキャーンヌ(昔の)宮古の子ども達にとってこの十五夜は、特別な日だった。地域によって、違うとは思うが、私の住む下地町の高千穂では、この日は、夜遅くまで遊んで良い日となっていた。小学生から中学生までのヤラビ(子ども)たちが、月夜の晩に大騒ぎをするのである。なんとも楽しい行事・風習だった。
この日、ビキヤラビ(男の子)は、チョーチンガー(麻袋)やバソウ(芭蕉)の葉でシーシャ(獅子)を作って暴れ回ったり、爆竹を鳴らしたりして遊ぶ。ミドゥンヤラビ(女の子)は、にわか舞台の上で歌ったり、踊ったりするのだ。そしてこの十五夜のためにみんなでお小遣いをだし合い、平良までお菓子や、ジュースなどの買出しに行く。(これも楽しみのひとつだった)煌々と照る月明かりの下で、それらを食べながら飲みながら、歌ったり踊ったりして過ごすのである。この日に関しては、一切、大人は入ってこなかった。ヤラビの為のヤラビによる遊びである。
ミドゥンヤラビ達の踊りは、代々先輩から受け継がれてきたもので、夏休みの頃から練習が始まる。中学生のネーネーの家に呼ばれ、練習するのだが、その出し物が、今思うとすごいものであった。
いくつかの踊りがあったと思うが、私が記憶しているのは、ディックミネが歌っていた「人生の並木道」だ。♪泣くな妹よ、妹よ泣くな? 泣けば幼い二人して 故郷を捨てたかいがない?♪ それである。この歌がヒットしたのが1937年だというから、1960年代の私たちのころまで引き継がれてきたということなのか、はたまた宮古でヒットしたのが遅かったのか、定かではないが、私達は、二人一組となって、この曲に合わせて踊ったのであった。民謡がでてきてもよさそうなものだが、なぜか私達の時代は、懐メロであった。
私が小学校高学年頃までこの行事は続いたように思うが、テレビが普及し、月夜の晩に、楽しみを求めなくなったのか、十五夜の踊りもやらなくなっていった。
アスゥガ(しかし)シーシャ作りは、今のヤラビ達もやっているようで、十五夜の晩には、「シーシャガウガウ」と言いながら家々を回り、お駄賃をもらっているようだ。ヤラビにとって十五夜は、やっぱり特別な日なんだなー。
今年は、東京で夕月が見られる場所を とぅみみーでぃーびゃー(探してみようかな)
「宮古のことわざ」
〔 真向からぬ 敵や 親友ん 勝いす友 〕
マムティカラヌティキヤ
ウツドゥスンマサイスドゥス
真正面から立ち向かう敵は親友より以上のもの。堂々と渡り合う相手に悪意はないはずだ。
『んきゃーんじゅく』 佐渡山政子/編 より
「んまりのうす(生まれ直す)」
菜の花
患者さんと本気で おーやー(喧嘩)したことがある。それも病室で。しまいには私は、うぷぐいしー(大声で)怒られ、「死のうとどうなろうと俺の勝手だ!放っておいてくれよ!」とみーぴかりて(目を光らせて)ゆがみー(横目)で睨まれてしまった。
彼と私は同い年。糖尿病をすてぃーうたーくとくしー(放置していたのが原因で)左ぱず(足)は、ういびぬぱた(指先)から、ふさりにゃーん(腐ってしまった)ぬつでぃーぶいぴとぅぬ(生きている人の)どぅ ぬさりーぴぃむぬや(体が枯れていくのは)みーぶらばんまい(見ていても)うとうるすむぬ。(怖いものだ)
まいぬぴかずんな(数日前には)うぬぱずしい(その足で)どうゆむっち、(体を支え)んざんかいまい(どこへでも)あい゜っちぶたい゜すぅが(歩いていたけれど)ベッドのわーら(上)の彼は、ふさりぱずぬ(腐った足の)やんさ(痛さ)に耐え、「切断か死か」といった現実につむやん(心を痛く)していた。
彼にはあんな(母)うや(父)まい、兄弟まいみーん(兄弟もいない)答えは、うまんどうあたー(そこにあった)「ぬつでぃーぴりよー(生きていってほしい)」と説得し続ける私は彼にいざいーばーき(怒られてばかり)うぬぬつや(その命は)あーむぬやあらんすが(私の物じゃないけど)まいにつ(毎日)ぴとうぬ ぬつうみー(人の命を見て)ぱたらっちぶい゜どお(働いている)なまらん(止まらない)時のむゆつ(動き)にあーっし(合わせて)患者のぬつ(命)の時計も動いていることを感じとる。
ふさりーぴーぱず(腐っていく足)の治療をしながら、さりげなく彼の生活を聞いた。糖尿病は、すんやん(死ぬ病気)じゃなく、付き合う病気であることも話した。間もなく彼は手術を決意した。つぐす(膝)から切断されたぱず(足)は、荼毘にふされ、何十年とひとつにあった足を彼は葬った。にーんぱず(ないはず)の足を痛がりながら、断端を見つめる目には、なだ(涙)がいっぱい・・・。
うりかーや(それからは)んまりのうすたーにゃーしー(生まれ直したように)リハビリに必死だった。数ヶ月後彼は、ふたぱず(両足)で会いに来た。驚く私に「お世話になりました」と義足を見せて、ばらい゜ーばらい゜(笑っていた)まーんてぃんまりのうすたーどお(ほんとに生まれ直したのだ)。
彼は、あれからも、病院に来るたび必ず会釈をして帰る。歩く姿に違和感は無い。どれだけリハビリに懸命かが見て分かる。ワイドー!とエールを送らずにはいられなくなる。ただ生きることと、生きることに努力することとは意味が違う。彼を見ていつもそう教えられる。
「ミャークフツ講座 木の実編」
松谷初美
- バンチキロー = グァバの類。
宮古には宮古原産(中が赤い)のものと外来種(中が白)物がある。子どもの頃は、夏になると山(雑木林)に行って競って採ったものだ。食べ過ぎると便秘になる。 - バンキ゜ = 桑の実。
最初は、薄い緑色からだんだんと紫色に熟していく。茎が少しあるので、パンキシ(切って)食べる。食べたあとは、歯、手、服 が紫色! - ザウカニ = グミの実。
オレンジ色の実は、甘酸っぱい。種がギザギザしていて愛嬌がま。木にスダリテ(たわわに実って)いる様はキチギどーや(きれいだよ) - ポー = 正式名称はノーティガ アズ?(何ていうの?)
黒くてブルーベーリーを小さくした感じ。今では、ほとんど見かけなくなった。あてぃどぅふぉーぶすむぬ(すごく食べたいものだ) - ムン = 桃。
宮古の桃は、イミッチャガマ(小さい)。内地のダイバン(大きい桃)にはびっくりしたどーや。 - フニス゜ = みかん。
宮古でできるみかんは、あまり黄色くはならず、おーおー。(青々としている)
「編集後記」
松谷初美
去った9月15日は、敬老の日でしたね。この週の宮古の新聞は、各市町村、あるいはそれぞれの部落(地域)で行われた敬老の日のお祝いの様子を掲載していました。
ところで、今や「オジィ」「オバァ」という呼び名は全国区となっているけれど、私は、これにピッチャガマ(少し)「なんでよー」という気持ちがある。家族や、知り合いがそう呼ぶのは良いとしても、全くの他人が、そう呼び捨てで呼ぶのは失礼じゃないかーと思うのである。
最近こそ、慣れて(慣らされて?)きたけど、、2?3年前、東京の新聞で、「沖縄のオバァ」と紹介されているのを見たときは、「なんで、自分の身内でもないのにオバァと書くわけー?」と思っていた。実際、沖縄の人、皆が皆、「オジィ」「オバァ」という呼び方をしているわけではない。宮古では、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んでいる孫も多い。特に今の子ども達は、そう呼ぶのが多いと思う。ということは、「オジィ」や「オバァ」と呼ばれたくないと思っている人もいるってことじゃないかなー。
今や「オバァ」(あ!最近は、オジィも頑張っているさいが)に関する書籍もヤマカサ(たくさん)だけど、それらにドゥマッサリー(惑わされて)知らない人を簡単に「オジィ」「オバァ」と呼んでほしくないなーと思ったりするのです。ウワー ノーシィガ ウムウ?(あなたはどう思いますか?)
皆さんからの、甘口、辛口意見、まちうんどー。投稿も待っています!
季節の変わり目です。みなさん、体調崩しませんように。
次回は、10月3日の予定です。あつかー、また。