みなさん、こんにちは〜。くま・かまのお時間です〜。きゅうまい魅力たっぷりのものがだう(たくさん)!です。お楽しみくださいー。
みゃーく んなまずぶん(今ごろ)
さどやませいこ(城辺町出身)
オゴエッ!もう気がついたら四月も半ばね。アティピャーカリャー(あまり にも早いか)。
みゃーくは、朝夕は多少冷たいものの、日に日に夏に ンカイウードー(向 かっているよ)。お天気のいい日はチンチン(城辺の方言で島ひばりのこと。 和名はセッカ)が盛んに鳴いているよ。求愛行動だろうか。知ってる?チンチ ンはヒッ、ヒッ、ヒッと上昇して、チッ、チッ、チッと降りてくるってよ。夏 場は繁殖期だろうか。砂川英喜さんの本「宮古諸島の野鳥」によると、「セッ カの雄は巣を作り、交尾を行った後は他の雌を求めて去る」と書いてあり、複 雑な思いがした。人間の世界でこれが起こるとヤドゥユン(夫婦げんか)にな る。でも、住む家をちゃんと作ってから他の雌に気を移すなら、結構責任感あ るじゃない。人間はこれさえできない人がいる。これを方言で「ボーチリヤマ ヌカン」という。違ったかナー。
それから、何ともほほえましいのは、アマサギの群れ。パリ(畑)を耕す耕 耘機の後からゾロゾロゾロと付いて回る。決してパリシャー(農夫)のファン と言うわけではない、土の中の虫(ごちそう)たちをついばんでいるのだ。ん なまずぶんの風物詩だ。
来週はいよいよトライアスロン(25日、第20回大会)、ンーナ(みんな) ミーガクーヨー(見においでよ)。
ばんたがやーぬつかふ(私達の家の近く)2
クイチャーマン(下地町出身)
私は昭和23年(1948年)10月、宮古下地町字与那覇で生まれました。そこで 中学2年の1学期まで、約14年間過ごし、その後沖縄本島に移住して今日に至っ ています。
私の家は、会場(かいば)と呼ばれていた公民館の60メートルほど北西側 の十字路の一角にありました。当時の公民館は、与那覇で一番大きな建物で、 小学校に上がる前の幼稚園として、また各種の集会場として利用されていまし た。建物の南側には広場があり、幼少年期をその広場で遊んで過ごしました。 会場に行けば誰かが何かをして遊んでいて、その中に入ることで、先輩後輩入 り混じり、異年齢集団の中で遊びを通じて成長していくという自然の仕組みが 出来上がっていました。近年強調されている「地域の教育力」に通じるものだ ったのでしょう。
広場の一角には大人用の鉄棒があり、中央付近には青年達が持ち上げたりし て力比べをする重くて丸い大きな石(方言で まいぱす石、約60キロ)が転がっ ていました。広場の西には砂場もあり、すまとぅりゃ(相撲を得意とする人) たちのダイナミックな技に見とれたものでした。
家から北西の方に約300メートル行くと、いずぬいん(西の海)といって与 那覇湾のちょうど奥のくびれた所があります。緩やかな傾斜を下りていくとあ の遠浅の、干潮時には広大な干潟となる海辺です。そこは与那覇前浜のような 砂浜はありませんが、したんぎー(ヒルギ:マングローブ)が発達していて、 小さな生き物達との触れあいの場所でした。
沖の干潟では、さずぱんびん(エビのてんぷら)にするとおいしい小エビが いっぱい獲れました。12月頃からのアオサの季節にはバーキ(竹の籠)を持っ た姉といっしょに岩場に出かけ、腰を低くしてアオサ採りをしたり、ひざ小僧 まで水につかって歩きながら、つぬがん(ワタリガニ)を足裏の感触で踏んで 獲ったりしました。いずぬいん(西の海)のそばには、昼間でも薄暗いほど高木、 低木が茂った とまりうたき(御嶽)があり、そこで遊びながら かーたぎー (モモタマナの木)の熟れた実や、ざんかにう”(グミ)の実を採って食べた ものでした。その御嶽の植物群は昭和58年、下地町の天然記念物に指定されて います。
湾を挟んで久松の集落の家影も見える ぱまさき(浜崎)を回り、伊良部島が見渡せる場所まで行くとトライアスロンのスタート地点、東洋一の砂浜として名声の高い与那覇前浜ビーチに続くきれいな白い砂浜です。その沖では、さにつ (旧暦の3月3日)頃になると貝がいっぱい獲れたため「ずぅー、すなかじが」 (さあ、貝をとりに行こう)とピクニック気分で誘い合って出掛けました。与 那覇部落に昔から長寿者が多いのは、与那覇湾の豊富な魚介類の蛋白源のおか げだといわれています。寒露の頃の たかばんず(サシバの渡りの季節)では、 与那覇の いずばりやま(西方の山)付近で、つぎゃ(サシバ捕獲用の仕掛け 小屋)を、大人たちは競うように造っていたものでした。そこまでは約1.5 キロメートルです。
旧暦の3月3日当日に、干潟を利用して、ぬーまぴらす(競馬)などが開かれた さにつばま(さにつ浜)は、家から徒歩で5,6分の所にあります。今では宮古広 域圏事務組合主催のサニツカーニバルで毎年賑わっています。昔は さにつば まの上の広場では、与那覇の んま(お婆)たちが円陣を作りクイチャーを踊 っていましたが、今は面影もないのは寂しい限りです。
ばんたがやーぬつかふ(わが家の近所)には、遊び場と海、干潟、御嶽などが あり豊かな自然に恵まれていました。しかし、当時はそのことにほとんど気づ きませんでした。一時期与那覇湾の淡水湖計画が持ち上がったとき、反対運動 がおこり、現状のままとなったことは賢明な判断だったと思います。
わが家のあった場所は今「かふつ」(屋敷に隣接した畑)となっています。最 後まで住んでいた兄が沖縄本島に引っ越してから、もう二十年あまりも過ぎま した。今では父母の眠る墓が与那覇の共同墓地の中にあること、少人数であっ ても親戚がいることで、辛うじて与那覇とのつながりが保たれていますが、ゆ なぱふつ(与那覇の方言)を使い、ふるさとに誇りを持って生きていきたいとい う気持ちは募るばかりです。
ミャークフツ講座 ぴとぅや あらん編
神童(平良市出身)
方言では うつぁだ(親戚)または他人でないことを称して「ぴとぅや あ らん(人ではない)」と言ったりします。過去に聞いたことのある宮古の古典 ネタを1点と15年前に大工の翁(しゅう)から聞いた話を書いておきます。
オジイの話しです。
平良にいくために 50ピーピーのオートバイ(原チャリ)の荷台部分に と ぅづぅ(妻、おばあ)を乗せて走っているとジュンシャ(巡査)がオジイを呼び止 めました。「50CCバイクの荷台に人を乗せてはいけないんだよ、法律で決ま っているんだよ」オジイが速攻で反論します。
「ぷりじゅんしゃがま、うりゃー ぴとぅ あらん ばがみどぅん」 (アホなおまわりだなー これは 人(他人)じゃないよ おいらの妻だよ) 立派な道路交通法違反です。
大工の話し
ある日、お祝いがあってピンザヅー(山羊汁)を作るため久松に山羊を買い に行きました。オジイは買い付けた山羊を原チャリの荷台に積み込みました。 生きたままです。丹念に山羊を縛り付けて久松から自宅に戻りました。途中で 山羊が暴れるのでカママミネ公園の付近で山羊を縛りなおしました。アツママ ウタキにさしかかった付近で後方のパトカーから注意されました。
「前の原付止まりなさい」オジイはわけが解らずバイクを停車させました。 オジイは二人乗りで捕まったのです。巡査の言い分は、山羊が生きていること から二人乗りとの解釈らしいです。道路交通法に書いてあるんだろうか。
ぱなすがまお(小話を)ひとつ、ふたつ
ひさぼう(平良市西仲出身)
かぬやあんにゃ しゅうがまとう んまがまとう どう うたず つあ あってい しゅうがまあ ぱりんかい んんかじが てい んまがまあ かあ んかい みっつう ふうんが てい ぴずたずつあ あってい んまがまが みっつう ふまってい すっつかあどう やあ ありゃあみーん かぷがぬ ぴーゆ ぶううう てい ぴすたず つあ あつかあどう ぱりんうたず しゅうがまあ やあ んんむ かじだな ふさかたず(ふそおかずたず)つあ
(訳)
あのな じいさんと ばあさんと いたんだと それで じいさんは 畑に いもほりに ばあさんは川に 水汲みに行ったんだと それで ばあさんが 水を汲もうと すると これまでひったこともないような おおきな おならを ぶうう と ひったんだと そうすると 畑にいた じいさんは な いもを ほらずに くさかった(草刈)んだと
んな ぴ ていーつ
かぬやあ んにゃ うぷかじぬふく ゆさらびんどやあ みどうんうう”ぁが まぬ みーんふ なずたずつあ んんなしー とみまあずたず すうがどやあ のおっしゃあまい とみらいんたずつあ あっていやあ かぷぎぬ かずまぎー ぬ すたんどう うぬ みどうんうう”ぁがま ぬ ふみゅうたず あっつあが ま ぬ うかりうずたずつあ ういから なんじゅうねん てい たちってい から やあ うぷかじぬふく ゆさらび ん やあでいぬきゃあ ぬ うぐな あり ゆず ゆ ふぁいうつかあどう やあ とおがらあが やあぬ ぷかん うずぎなり うずつあ みいつかあどう やあ かなまず ぬ っそおっすう ぬ いみっちゃぬ んまがま が たちうず つあ とおりゃあうう”ぁあ てい あずつかあど やあ うぬ んまがまあ ばあやあ くまぬ っふぁ どおや てい あずたず つあ うどうるき ぷうっち ぬうりくう てい あずつかあ どうやあ んにゃ じょうぶん んんなが みぱのお みいたず ば じょうぶん てい うぬ んまがまあやあ かじぬふく ゆさらびぬ な かんかい ぴずたず つあ ういからあ やあ うぷかじぬ ふく ゆさらび ん なずつかあ やあ いみ んまがま がど きす てい あずよーん なずたず つあ んにゃ うすか
(訳)
もうひとつ
あのな 大風の吹く夜にな 女の子が いなくなったんだと みんなして 探し回ったんだけどな どうしても見つからなかったんだと それでな 大きなガズマ木 の下にな その女の子がはいていた下駄が 置かれていたんだと それから 何十年とたってからな 大風の吹く夜 家族そろって 夕飯を食べているとな だれかが ウチの外に いるようなんだと 見るとな 頭の白い 小柄なばあさんが 立っているんだと あんたはだれ と聞くとな そのばあさんは わたしは ここの子供だよ と言ったんだと おどろいて 早くあがっておいで と 言ったらな もういいよ みんなの顔を見たから もういいよ とそのばあさんはな 風の吹く夜の中に 行ってしまったんだと それから 大風の吹く夜 になるとな ちいばあさんが来る というように なったんだと ハイ おしまい
参考:『遠野物語』昔の人 八番より
編集後記
松谷初美(下地町出身)
さどやませいこさんが「んなまずぶん」で書いている ひばり(うちらのと ころでは「ガイチン」と言う。)の声を私も先月帰省したときに聞きました。 チンチンというあのかわいらしい声を20年ぶりくらいに聞いて、あまりの懐か しさとうれしさで、誰にたいしても、「ガイチンが鳴いているね」と言って回 っておりました。あがいー、あたらす(かわいい)ガイチンがまー。
帰省すると毎回宮古関連の本を入手するようにしています。今回は、与那 覇ユヌス著『ミャーク方言辞典』、『いらぶの自然・植物編』、『いらぶの自 然・動物編』、『WANDER(ワンダー)?6』『ぱいぬ島文芸 第3号』『下地 町の民話』などなど持って帰りました。どれも読み応えがあり。特に『下地町 の民話』(昨年5月発行)は、各部落の成り立ちや伝説、人物伝など昭和51年 から地元の人に聞き取り調査をして書かれたもので うかーす うむっし(す ごく面白い)。
宮古にはこういった、各地域で出されている地元関連の本というのが結構あ る。あまり食指が動かなかった人も一度読んでみてください。
旧暦の3月3日も やがてぃがまやー(もうすぐですね)。クイチャーマン さんの「やーぬつかふ」に出てきた与那覇湾では、浜下りをする人たちで賑わ っているでしょうか。
今回のくま・かまはいかがでしたでしょうか?皆さんからのご感想をお待ち しています。
さて、次号(vol.75)とvol.76では、「遊び」特集を予定しています。
投稿、まだまだ受付していますので、うくりふぃーさまちよー(送ってくだ
さいねー)。まちうんどー(待ってますよー)。
次号は、3週間後、5月6日(木)発行予定です。お楽しみに〜。