春が来ているようで、真冬のようで、何だか落ち着きのない二月。みなさん、のーしーりゃー?(いかがお過ごしですか?)vol.45 お送りします。
「学校がない 宮島小学校編」
神童
さてさて、教室は何とか完成した。しかし、完成したのは教室のみで、教室のある建物周囲は、整地された状態のままである。従って午後の授業の大半がカットされ、全校をあげての庭造りが始まった。分校時代は沖縄県内の校内緑化賞の常連校であったので、熱の入り方、力の入れ方が違う。
まず、花壇を作るため花壇の周囲にブロックを2段ずつ積んだ。それから花壇へ土を人力で入れ花を植えるのだが、その前に生徒は1人につきバケツ2杯分の肥料を提出せよとのことである。それも「ふっふぁい」(堆肥)だ!分校時代にもその制度はあったのだが、そのたびに神童は大変な難儀をしたのだった。「ふっふぁい」というのは、ぴんざ(山羊)、わー(豚)、うす(牛)、ぬーま(馬)の糞と草などが半年くらいの時間をかけて発酵したものである。神童宅にいきむす(家畜)はおらず、堆肥提出のたびに親戚にもらいに行ったのだった。
また、芝生の提出というのもあった。花壇ではない土の部分を緑化するためである。村から約1kmくらいの海辺に芝生が生えていたのだが、全校生徒135名分はなかった。結局狩俣の西平安名崎まで行くしかなかった。
さて、分校時代のように校内緑化大賞を取ろうという、およそ教職員組合の考えそうな伝統を守るという大義名分のもと、校内緑化が始まったのである。校内緑化の前には、授業や放課後などあってないようなものだった。この学校の先生たちの頭の中には生徒の学力などという言葉はなかった。ひたらすら連日のように作業をさせられたのである。その結果、神童の級たちは、建築、土木関係の職へと進むのが多い結果となった。
どうしてくれるんだ、教育委員会!3Kだぞ!
「宮古のことわざ」
[ 借金とぅ病気 むばぁ 隠な ]
ウカトゥヤム
ムバァ カッフィナ
借金と病気のことは恥ずかしいと隠しているよりみしろ周りの人たちに話して知恵を借りることだ。
『んきゃーんじゅく』 佐渡山政子/編 より
「ミャークフツ講座 赤編」
松谷初美
- あか ぞうむぬ = ざまぁみろ。
- あか てぃん = これっぽっち。少しだけ。
- あか んば = 絶対嫌だ。
- あか ふす = 直訳すると「赤い糞」だが「あかんべぇ」という感じ。
- あか だらか = 大嘘。
- あか んなま = たった今。
- あか ぱぎ = 肌がすりむけて赤くなっている場所。
- あか んが = 赤ちゃん
- あか つ = 血。
「バダはどこへ行った ?2」
アモイ
バダは02年6月頃から現在(02年12月)まで工事中である。
バダの工事がどんな目的なのか、地元の宮原自治会発行の「広報 みやはら第一巻 24号」によると、98年の自治会活動目標に「明るく、すみよい、村つくり」スローガンの元に、公園作り、緑豊かな集落、宮原排水路整備による農地の保全、等が掲げられており、工事全体は「宮原排水路整備工事」との位置づけで、その中にバダが含まれている。農地や農地周辺からの土の流出を防止し農地を保全するのが目的となっている。
工事は川底を掘り下げ石を石畳のように敷いている。水が少ないときはその石の隙間に水が入り込む為、ざうかにのお袋さんは、水が石の下を流れるというようなちょっと大げさな宮古方言的表現をしたようだ。今後、バダがどのように変わっていくのか?川底は綺麗になり両側は石が積み上げられ上の方には遊歩道が出来て散歩が可能になり、開かれたバダとして生まれ変わるようだ。しかし「ばだじゃねーよ」と聞かされた後は、「バダはどこへ行った?1」に書いたバダの光景が目に焼きつき、改めて大切なものを失った寂しさが残る。
工事を受け持つ沖縄県宮古支庁農業水産整備課に電話で話しをきいてみた。工事名は平良市側が「宮原地区排水路整備工事」城辺町側の方は「長南地区排水路整備工事」として同時進行しているとの事、そうすると川の全体名称は「宮原排水路」「長南排水路」となる。
やっぱり統一した夢のある名前が欲しい、バダぞん川、バダら川、イミシッピー川、宮ー子江、ナイぬ川、いみいっちゃ川、まるっちゃ川、あらら川、いきゃら川、等等考えて見ると楽しい。
さらに工事の経緯と概要も聞いてみた。工事は平良市側は地元(宮原自治会)の要望の元に計画があがり予算化され現在の工事に至っている。また城辺町側の方も同じように工事を進めており、工事の目的はどちらも住民が要望した内容に沿って行われている。平良市側は2002年度の予算に組み入れてあるので、2003年3月には終わる予定となっている。幹線部(メーン排水部)としては12月末現在、大方の部分が終わっておりあとは部分的な整理という状況にある。枝葉(支流)については3月以降も引き続き整備していく予定である。
川の底の部分はマットを敷いており、土が浮き上がって流れ出さないように工夫してあり、既に工事が済んでいる排水路途中の何箇所かの部分には浸透池を設けてある、その浸透池には魚も住み着いている。基本的に森の中はあまりいじらない様にする。赤土の海への流出を防止する。等の説明をしてくれた。最近問題の赤土流出による珊瑚の死滅の防止や総合的な環境保全に配慮してあることを知ってほっとした。
去年のお盆に帰省した際にまだ工事の済んでない土の部分の水溜りのところにいってみた。暑い日で水温も高い、その水の中を木の枝で突っついて見ると、5cm位の海老が「ぴしゃっ」という音をたてながら逃げていった。あば、さすぬどぅうーさいが、(おー海老が居るな)
今現在(02年12月末)あの海老はどうなっただろうか、気になりお袋に工事の進捗状況を電話できいてみた。現在はバダの橋(正式名は山田橋というようだ)から西側の昔の田んぼの方面へ進んでいるとの事だった。もう海老のいた場所は終わっていた。はたして海老は生きてるだろうか?そしてお袋曰く「んなまーがたどぅ、工事ゆーっしうーにせいたが、”うなぎぅすう、ふたからとぅすたーば、にいふぁーっちゃー なびゅーからしふぃーる”てぃきしうーたーば」(数日前に工事中の兄さん達が、鰻を2匹とったので煮て食べるから鍋を貸してくれ、と来ていたよ)とのことだった。それを聞いて私は自分だけしか知らなかった隠れ家をみんなに知られてしまった子供の頃の悔しい気持ちを思い出していた。
昔のバダが消えても以前の生態系が維持され、魚や鳥がずっと住みいてほしい、次の帰省時は真っ先に新しいバダの遊歩道を歩きながら魚がいるかどうか確かめてみようと思う。
「あららがま精神はどこへ行く」(投稿)
那覇在住 かいさんより
先日ある集まりでの会話。
画家であり詩人でありエッセイストであるいう、多彩な肩書きを持つ、宮古出身のH氏が言う。「僕はいまあららがま精神について、エッセイを書いているんだが、最後にきて行き詰まっているんだよ。ぼくたちの時代は、干ばつや歴史に残る大きな台風に打ちのめされながらも、「あららがま」と言って立ちあがってきた。しかし、今ではもう地下ダムが出来て水の心配もなくなった。台風も以前ほど大きなものは来なくなったし,家もコンクリートだから被害もほとんどない。そうすると、昔のように「あららがま」と自らを鼓舞する機会が無くなってきたんじゃないか。本来のあららがま精神そのものが消ていくのではないかと危惧するんだよ」
これに答えて、同じく宮古出身のK氏。K氏は30年以上、保護司をなさっている方で少年犯罪の当事者やその家族と関わってきている。「今、年間3万人以上の人が自殺する時代になっている。私が関わっている少年たちをみていても、豊かさが必ずしも幸せにつながるとはいえない。個人の抱える問題が大変複雑になってきていて、従来の取り組みかたでは解決出来ないことが増えてきている。だから「あららがま精神」も昔とは違った、より質の高いものを求められてきているのではないかと思う。形を変えてずっと存続するものだと思う」
話は、この「あららがま精神」が自分一人だけのために発揮されるのではなくて、周りのため、ひいては世界の平和のために発揮されたらいいね、と結ばれたのでした。
皆さんは、「あららがま精神」についてどう考えますか?
※私は、力をこめた「あららがま!」より、肩の力を抜いて「あららがま?」と言って困難を笑いとばせたらなーとこの頃思います。
「お便りコーナー」
那覇在住 砂川さんより
vol.44の「正月の思い出」を懐かしく読ませていただきました。
確かに即興の歌詞で歌っていたのを思い出します。私の家でも父の友人が泡盛を持参してよく飲んでましたが、飲むほどに交代で歌を歌ったり、父の「浪花節」が出たりで、賑やかでした。
もう一つ必ず興じていたのが、「サムイ」で、箸を2人の真中に置き、双方が拳を畳の上に出したまま、同時に指を出して、合計を競うもので、合計が当れば一本ずつ箸を取っていき、相手が勝ったら真中に戻す、という遊びで、四本取った方が勝ちになります。リズミカルなやり方に興味津々と見ていたものです。
最初に、一緒に「ニャーンド」(ゼロの意)と握り拳を出し、それから始まるのですが、ティーチナ(一つ)フターツ(ニつ)ミツミツ(三つ)ヨツ(四つ)イツツ(五つ)ンーツ(六つ)ナナーツ(七つ)ヤツヤツ(八つ)ククノツ(九つ)タライ(十)ニャーンナ(ゼロ)という風に、大声で楽しんでました。今思えばストレス解消には絶好な遊びだったと思います。
※サムイをするお父たちの姿は、腹の底から くいゆいだし(声をだし)真剣そのもの。子どもたちもその周りを囲み、なごやかな空気が流れていましたね。
「編集後記」
松谷初美
去った2日は節分でしたが、皆さん「豆まき」をやる習慣ってありますか?私は、宮古で「豆まき」というのをやったことはなく、上京して子どもができてからやるようになりました。なので、その日のいつやればいいのかも分からず、(朝なのか、昼なのかそれとも夕方か?家族の者も分からないというし・・)その日の都合で適当にやっている。それにしても神社での豆まきは見たことあっても、近所で豆まきしているのは見たことがない。みんなひっそりとやっているのかなー。
アモイさんの「バダ」の話いい具合に、残されていくといいですね。昔の「バダ」だった頃に行ってみたかった。
ふっふぁい(堆肥)を自分の家で作ってところは、年々減っているでしょうね。やらびぱだぁ(子どもの頃は)あの匂いがたまらなく嫌だったけれど、宮古をずっと離れていると、その匂いすら懐かしく、嗅ぎたくなってくる。ぴんなむぬやー(不思議なものですね)
皆さんからのご意見、ご感想、まちうんどー(お待ちしています)どうぞ、お気軽にお寄せください。
次回は、2月20日の予定です。あつかーまたやー。