皆さん、ぞーかりうらまずなー(お元気ですかー)?
台風13号では、農作物への被害があったようでお見舞い申しあげます。vol.82 ぱずみっとー。(始めますねー)
ばんたがやーぬつかふ 6
ひさぼう(平良市西仲出身)
航空写真で見ると、平良の市街地は、北側を左斜めに平良港の埠頭が並び、 周辺を取り囲むように、高校、中学、小学校のグラウンドが位置している。時 計回りで、北中、平良中、宮高、平一小、水高、農高・・と。 北小は、市の まん中、北よりに位置している。
“ばんたがやーぬつかふ” それは、平良港第1埠頭あたりから、この北小に かけてである。やらびぱだ(子供時分)のことは、もう40年も50年も前の ことだから、浦島太郎の心境で、とおーい” 景色 ”を、ふり返ってみる。
平良港、なじみの言い方では、「さんばし」、「張水港」とその一帯の海辺 は、”国の重要港湾指定整備工事”とかで、景色がすっかり変わってしまった。 ”自然”の景色が、いくつもの直角コンクリートになってしまっている。第1、 第2、第3埠頭と名付けられたそのうち、第1埠頭あたりの”消えた海辺”が、 ばが(私の)脳に残る「サッフィ」の浜であり、「ポー崎」、「ブラ崎」であ る。
この二つの岬に挟まれたサッフィの浜は、規則正しく干潮と満潮を繰り返し、 朝、昼、夜と表情を変えながら、特に夕暮れ時、「池間灯台」の光が、射し始 める頃の空と海の景色はきれかった。遠く水平線をはさんで、左に伊良部、右 に池間が見えた。オキナワ行きの船が、別れのテープを曳きながら「灯台」の 方角に小さく点となって出て行き、伊良部島の生活の灯りが、遠く見えたりし た。
「さんばし」からマクラム通りの坂を上がる手前を左に曲がると、「張水ウ タキ」があり、”宮古島の生みの神様”を祀っている。宮古方言を世に知らしめ てくれた、ロシア人、ニコライ・ネフスキーの記念碑が、石畳のあるこの近く に、最近できたらしい。
坂になっている石段を上りきったところに、祥雲寺と神社(市民会館になる 前の旧宮古神社)がある。祥雲寺は、薩摩藩の進言で1611年に、宮古神社 は、”皇民化政策”とかで、1925年(大正14)にそれぞれ建立されたとい う。どういう訳か、子供の時分、この祥雲寺でクリスマスなるものを初めて知 った。行くと、ツリーの飾りがあって、ビガー(お菓子)がもらえた。宮古神 社は、その当時、黒澤 明の「羅生門」みたいに雨ざらしのままで、子供の遊 び場でしかなかった。ともかく”見上げる大鳥居”の印象が残っている。
その鳥居を右に見ながら、東にまっすぐ行くと、途中に「はいから湯」があ って、つきあたりが「北小学校」である。「はいから湯」は、年に一度だけ、 大晦日の夜、おとうが連れていってくれた。毎日の風呂というのは、サッフィ で泳ぐとか、雨降りに外に飛び出すとか、雨水を貯めたタンクの水で行水する とかで済ませていた。
北小の校舎は、その頃は校庭の北側にあって瓦葺きだった。南側正門脇に、 トタン板のダンボール箱みたいな青塗りの図書館があって、どうもそれが今の 市立図書館の前身らしい。入って見ると、ひとクラスくらいの広さだった。今 の市立図書館は、当時は「琉米文化会館」だった。
宮古の小学校創立は、明治15年(1882年)となっていて、北小の校歌 にも歌われている。今の平良市役所の庁舎あたりが、その最初の校舎があった 所で、そこから平良第一小学校(平一小)と平良第二小学校(北小)とに分か れたらしい。
「仲宗根豊見親の墓」は、今は、平良港第1、第2埠頭の間に位置した海岸 近くにある。ばんたが子供時分には、ポー崎を見下ろす高台に「宮古発電所」 があり、ポー崎に下りて行く坂道につながる道を、グショーンツ(後生道)と 呼んでいて、凧あげにはいい場所だった。ポー崎の手前から、「豊見親の墓」 や「さんばし」にかけては、墓があちこちにあった、ポーの実やいちごがその 辺でよく取れたりして、恰好の子供の遊び場所だった。墓も遊び場所で、亀の 甲墓の丸くなった所を転がったり、風化した穴の間から中を覗いたりした。
ついでに、ポー崎という呼び名は、そのあたりでポーがよく取れたからか? そうではなく、元は”パウ崎”(遠くから見ると蛇のようにも見える)で、それ がポー崎になった、という説もある。そうすると、ブラ崎のブラは、ブラのブ ラか? ブラは、方言で巻貝のほら貝のことで、当時は、どこのウチでもよく 見かけた。特に、十五夜ユカニ(桟敷)のうえで吹き鳴らすブ〜ブ〜という音 に合わせて さあ〜、さあ〜と、大声を出した「十五夜の大合唱」がなつかし い。
第1埠頭からさらに北の方にある荷川取港(ンキャデュラ)も、昔の自然の 海岸線が、まるっきり別のものになってしまった景色なわけで、近くで「真玉 ウタキ」と「人頭税石」を見付けたときは、あがいー 生き残っておったか、 という思いであった。人頭税が、宮古・八重山だけに課された”酷税”であった ことは、多くの史料が残されているわけで、その人頭税について思うことは、 知っている宮古民謡の多くが、「まみがぱな」とか「池間の主」とか・・その 優雅さ、明朗さとは反対の人頭税告発の歌になっていることである。約270 年もの間、そういう環境の中でばんたが先祖は生きていたわけで、ちょうど同 じ期間続いた徳川幕藩時代が、その後の日本人をつくったと言われるように、 人頭税下の生き方が、宮古人をつくったのではないか、と考えたりもする。
こうしてみると、”ばんたがやーぬつかふ”には、、当時のオキナワ、ヤマト への”表玄関”である「さんばし」があり・・明治26年、宮古農民代表、平良 モーシーと西里カマの二人は、人頭税廃止をヤマト政府に直訴するため、ヤマ トピトゥの中村十作とウキナーピトゥの城間正安に連れられて、ここから旅立 ったのだった・・・。そして、”宮古の戦国時代”を思い起こさせてくれる「仲 宗根豊見親の墓」があり、又、人間社会の”圧政の象徴”とも言える「人頭税石」 が残ったりしている。 あと、あちこちのウタキ(御嶽)の景色とともに、カ ンカカリャの んまたがみぱな(神願い人のおばあ達の顔)が浮かんで来たり する。
想い浮かんで来たりするのだけれど、自分の脳に影像として残っている”ば んたがやーぬつかふ”は、現実には、もうない。この頃、「にがり」という、 海水を小瓶に詰めた商品が出回っている。料理とか健康用に使うというのだけ ど、手にとった時、エッと思い、とっさに「サッフィ」を思い出した。日の出 前のサッフィに出かけて行って、ウプス(直訳では”大潮”ふつうは海水のこと) を汲んで来るのが、子供の自分の仕事だった。石臼で挽いた大豆が大鍋で煮立 ったところへ、そのウプスを入れると、豆腐が固まってできた。それをすくっ て、醤油をかけて食べると、だいずおいしかった。
ミャークフツ講座 さだらっとー編
松谷初美(下地町出身)
みゃーくふつには、「こんにちは」や「さようなら」など直接的な挨拶の言 葉がない。んきゃーんな(昔は)、小さな集落の中で暮らしていたので、改ま った言葉を使う必要がなかったのかなーと思う。
あすぅが、「さだらっとー(先になろうね・お先に失礼します)」は、立派 な挨拶じゃないかねーと思うさ。
宮古では、よーず(お祝い)や、行事がすごく多く、そんな時はお客さんの 出入りが激しい。みんな決まった時間に来て、決まった時間に帰るわけでは、 ないので、来る人がいれば、帰る人がいる。そんな中、こんな会話が生まれる。
先に来ていたチヨ
「はい、ヨシちゃん、なぎゃーふ みーらいんったんやー」
(あら、ヨシちゃん、長いこと見えなかったねぇー)
後から来た ヨシ
「あしばゆ チヨあんがあ 元気ねー?」
(だからねぇ チヨ姉さん お元気?)
チヨ「あし、元気や元気ゆ。きゅうや ぷかんかいまい いかだからならんにば さだらっとー ぷじ うわー ぬかー ぬか あすぴ ぴりよー また あとぅからいら」
(元気は元気よー。今日は他にも行かなければいけないから、先になろうね。さぁ、あんたは ゆっくり遊んでいきなさいねー。また後でねー)
ヨシ「んー あら」(そう、じゃねー)
で、この挨拶は、来ている全員にするのではなく、近くにいる人だけ、ある いは言っておきたい人にだけ言えばOKである。そして、家の人には「いかっ とー(行くねー。帰るねーの意)」と言って帰る。
と、まぁだいたいこんな風に展開すると思うのだが、最近、ムヤイや、うが なーず(集まり)などで、先に帰る場合、静かに去っていくというのも常識ら しい。
私の友人がタバコを置いたまま席を立った。トイレにでも行ったんだろなー と思っていたら、なかなか帰ってこない。隣りに座っていた友人に聞いたら、 「あれは帰ったさー」と言う。「はぁ?」と言ったら、タバコを置いて戻って くると思わせて、帰るのだという。
理由1.皆がワイワイ楽しんでいる中で、先に帰ると言うと座が白けるから。
理由2.酒飲みが続いていて、もうこれ以上酒を受け付けられないから。など の理由らしい。んー、すっさったん(知らなかった)!
「さだらっとー」も良し。静かに退席するのも良し。狭い社会で生活するに はいろいろな工夫が必要なんである!さて、うわー どっち派?
夏休み
ワタリマリ(上野村出身)
私が勤める児童館は、今夏休みで朝から子ども達が大賑わい。午前中の宿題、 読書、オセロなどその様子を見ているうちに、いつしか懐かしい子どもの頃の 思い出の中に引き込まれていった。
夏休み、すとぅむち(朝)のラジオ体操。子ども達は、6時半に母ちゃんー ばりうくさり(たたき起こされて)、いーざとぅ(西里)組は んつばたがま ぬ(道端の)体操広場に集まってくる。
みーやふくりー、うきどぅ うーがら にゅうういどぅ うーがら すさる ん ぴぱなしー うまからまい、かまからまい うぐなーりきす。(目をはら して、起きているのか、寝ているのか分からない顔をして、あちこちから集ま ってくる)
子ども達だけの朝の時間の始まり。リーダーの上級生は、NHKにラジオを 合わせる。そして、みんなの前に立ち、体操をはじめ、それを追うように下級 生たちも始める。
K美「きゅうや のうゆが すーがまた(きょうは何をするの)」
T子「工作ぅ つふぁだからならんさ(工作を作らんといけんさ)」
K美「バンチキラ(バンチキロー、グアバ)取りには、いついく?」
T子「きゅうや宿題が終ったら ブーキ゜いびよ(サトーキビ植えよ)」
などなど。体操も終わりに近づく頃に、体もしっかり目覚めるのだった。
公民館では、村の子ども達が宿題に一生懸命だ。ここでは、上級生が下級生 の宿題のお世話をしてくれている。先輩はすごいなぁと思い、自分より物知り の後輩には、少々ライバル心を燃やしたりして、宿題は進んでいく。
ここでも大人はいらない、子ども達だけの空間、時間。子ども達が決めた、 その場のルールを暗黙のうちに了解していた。体操にしろ、学習会にしろ バ ンチキラ取りにしろ、その場は子ども達だけが作り上げていく、コミュニティ の場であった。その中で、兄弟、姉妹とは違った縦横のつながりのを経験し、 ケンカしながらも あたらすどぅす(大切な友達)ができあがっていくのであ った。
「せんせい これわかれへん」の声で現実に戻される。
んなまぬ っふぁぬきゃーや なばしいがらいー(今のこどもたちは、どう だろうか)
砂川友弘さん
松谷初美(下地町出身)
「んびゃーいん」「だふ」「まいふか」・・・こんなみゃーくふつを活字で 見たのは、地元新聞の4コマ漫画が初めてであった。1982年のことである。
その4コマ漫画とは んなままい(今でも)多くのファンを持つ「Mr.ガ ラサ」である。ガラサとはカラスのこと。当時宮古では見かけなっていたガラ サを主人公に、くすっと笑えるものからほのぼのするもの、時にはするどい社 会風刺で読者を魅了した。
その「Mr.ガラサ」を書いていたのがウルカ・友さんこと、砂川友弘(195 2年平良市生れ)さんだ。「Mr.ガラサ」は、日刊宮古に1982年から約10年間 掲載されていた。掲載一ヶ月ごろから反響がすごくなり、ネタをくれる人や、 方言をおしえてくれる人が多くなってきた。そしてきょうのガラサは、学校、 職場、友人同士で毎日話題となる。
1992年に新聞廃刊の為、ガラサは読めなくなったが、「ガラサ復活実行委員 会」により、1994年に1冊の本になった。
砂川さんは、中学時代からギャグ漫画を書き始めた。その頃よく読んでいた のは、水木しげるの「河童の三平」や手塚治虫の「鉄腕アトム」など。琉球大 学でも漫画研究会に入った。宮古に帰ってからも仲間と漫画同盟を作り、島で 漫画文化を発展させようと考え、展示会をしたりした。
砂川さんは現在、沖縄タイムスで、時事漫画「時事漫評」を週4日書いてい る。世情をチクリと時にはバッサリと切り取り、一枚の絵のなかに見事に見せ てくれている。書き始めてもう13年だ。最初は、書くのに何時間もかかってい たが、今はだいたい2時間で書き上げるそうだ。夕方、地元沖縄の新聞や、テレ ビのニュースなどを1時間見て、残りの1時間で書き上げる。初めの頃はプレッ シャーもあったが、今はもうあまりないという。
時の首相や知事などが彼の漫画の対象となること多いが、書くとき気をつけ ていることは、「弱い人の立場から書くようにしている。力を持っている人に は厳しく、人格批判はなるべくしない」ことだそうだ。また世界のことを鳥の ように俯瞰して見ることも大切にしているとのこと。「あと鳥には国境がない でしょ。それもいいよね」とも。彼は鳥のように自由に空を飛び、いろいろな ところを見、地にも舞いおり、小さい物へも目がいく人なのだと思う。
2年前には、その漫画が展示される予定だったものが突然一部撤去されると いうことが起きたが、「ああいうことがあったおかげで、その後いろいろなと ころで展示されるようになってよかったさー」と笑って話していた。しかし、 その心境は察して余りある。いつの時代だから検閲のようなことをしているの だろう。このことは当時の沖縄、宮古の新聞などで大きな話題となり投稿もた くさんあった。沖縄文化祭で展示されなかった作品は、その後、佐喜真美術館 や平良市役所ロビーで展示された。
さて、砂川さんは、琉球放送の宮古通信員でもある。普段はテレビカメラを かたみて(担いで)宮古の情報を発信すべく宮古を うまかま回っている。
また宮古野鳥の会の会員でもあり、入会して22年余りが経つ。鳥を見ている 時が一番安らぐそうで、今は、渡り鳥のアカショービンや三光鳥(さんこうち ょう)に夢中だ。時間のある時は、朝早くから大野山林に入っている。これま でたくさんの鳥たちを観察してきたが、宮古の森林が少なくなっていることに 大きな危惧をいだいてる。いつか宮古の鳥たちを撮影したものをビデオにまと めるのが夢だということだ。時間ができたらまた4コマ漫画も書きたいと話し ていた。
モジャモジャ頭にタオルの鉢巻。本人が漫画に出てきそうな風貌の砂川さん は、Mr.ガラサのようにウイットに富み、ほのぼのと温かかかった。きょう も鳥のように、大空から宮古を沖縄を日本を世界を見つめ、するどく切り取 っていることでしょう。今後の活躍も期待してます。
夜光貝
かい(伊良部町出身)
ひららの西里大通りに「金太楼寿司」がある。そこで初めて「夜光貝」と書 かれたお品書きを見た。食べてみたいと注文したら、生憎その日は入荷してい ないという。残念ながら、口には出来なかったが、夜光貝という美しい名前だ けは心に残った。
結婚して那覇に住むようになり、一度は公設市場という所にも出掛けてみよ うかとなった。色とりどりの南国の魚や伊勢エビなどの海産物が並べられてい るお店で、これまで見たことのない大きな貝を発見!ずんぐりむっくりのその 横に、何と夜光貝と書いてあるではないか。これが夢にまでみた夜光貝!想像 していたほどの美しい姿ではなかった(貴婦人のような貝をイメージしていた) が、やっと会えた恋人のようで嬉しかった。しかし値段は大きさにより4000円 から5000円程。んー、貝一つにしては結構高いんだと相場を知り、その日は見 るだけにしておいた。
何年か経って、家族でお寿司屋に入った。テーブル席が空いていないという ことで、私達はカウンターに座った。目の前に、寿司ねたの入ったガラスケー ス。そしてその中に紛れもなく夜光貝。今日こそは食べようと、夫と意見が一 致して刺身にしてもらう。
コリコリしていて、アワビみたい。何年か越しにやっと口にする夜光貝とい うのに、タコとかイカとかの類が苦手な私は、一口食べてお仕舞い。独り占め 出来ると合って、夫は嬉々として箸をすすめる。その日の勘定が、それなりに 高かったことは言うまでもない。お土産に殻は貰ってきた。「食べてもいない のに、殻だけ欲しいという人がいて困るさあ」とは、店の主人の話。ですから 皆さん、夜光貝の殻は食べたときだけにもらうようにしましょうねえ。
殻の生臭さをとるには、カルキ(漂白剤)に1日ほどつけておいたらいいよ などと教えてもらった。殻の内側は、真珠質とよばれるように美しい虹色の光 沢をしている。沖縄の漆器を見たことがあるだろうか。螺鈿とよばれる技法で、 絵柄のなかにきらきらと光沢を放ったものが埋め込まれている。あれが夜光貝 などからとれる真珠質だ。こんな風に伝統工芸に欠かすことの出来ないものだ から、琉球王国時代もさぞ貴重な貝だったことだろう。
沖縄本島の南部の玉城村という所に、奥武島(おうじま)といって、主に漁 業を営んでいる小さな島がある。新鮮な魚貝類が安く手にはいるということで、 那覇から買い出しに出掛ける人も多い。
ある日曜日、私達も出掛けてみた。橋を渡ると、たくさんの人がすでに並ん でいる。なんだろうとつられて並ぶ。息子を偵察に行かせたら、その先は天ぷ らやだった。私達の後から来た人も「これ、何?」と聞きながら、いつの間に か並んでいた。人の心理構造は、だいたい似ているもののようだ。
天ぷらを食べたあとは、お目当ての海産物を買いに小さな市場らしき建物へ。 成る程、安いし新鮮。そしてまたしても夜光貝を発見。値段は、いつか那覇の 公設市場で確認したものの半値ほど。これはもう買うしかない!しかしここで 問題点が発覚する。夜光貝って、どうやってさばくの?お店の人に「買うから、 刺身にして」とお願いすると、「簡単だよ。自分で出来るさあ」とやりかたを 教えてくれた。
ところが、帰ってからがさあ大変だった。夫は30分ほど、貝の前で格闘す るが、うまく身を引っ張り出せない。「せっかく買ってきたのに、私達食べら れるのかなあ」と不安がよぎる。教えられたやり方というのは、こうだ。夜光 貝は放置しておくと、そのうちダラーと身を殻から出してくる。そこをすかさ ず引っ張りだしなさいとのこと。確かにとっても簡単だ、理論的には。
だが実際には、夫は何回も身を引っ張ろうとしては逃げられ、悪戦苦闘して いた。「んじ(どれ)、私がやってみるよ」私は包丁を片手に,貝が延びきる その瞬間を待った。ぐさっ。思いっきり貝の体に包丁を突き刺す。一撃で貝は 体をまな板に串刺しにされた。後は簡単だった。殻の方を引っ張れば、分離で きる。夫は余りにも思いっきりが悪かったのだ。「生き物をしとめる時は、こ んな風に苦しめないように一瞬にやるものよ」私はたまたま一回でうまく出来 たものだから、さも勝ち誇ったように、うんちくをたれるのだった。
夫はそれ以来「夜光貝が食べたい」とは言わなくなった。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
つぎつぎてぃ 台風ぬきしー まーんてぃ やっかいいら。15号が来ている というので、やー(家)に電話をしたら、15号は、じゃじゃーと宮古から離れ ていったようと母ちゃんは話していた。今回は雨だけのようだったので、うむ やすむぬ(良かった)。
ひさぼうさんのやーぬつかふは、まーんてぃ 宮古の玄関と言えるところで いろいろなものが栄えたところでもある。またサッフィの美しさは素晴らしか ったようで、ばがどぅすまい(私の友人も)ことあるごとに、当時そこで遊ん だことをよーく話す。
ラジオ体操は、夏休みの定番だったさねぇ。あの頃はテープもなかったから、 オンタイムで早起きしてやったけど、今このあたり(東京)では、7時半ごろ テープを流してやっている。曲が流れると自然に体が動く。うぶいどぅうー さいが(覚えているもんだねー)
夜光貝は、んなだ ふぁいやーみーん(まだ食べた事がないなー)。それに しても、かいの潔い捌き方を読んで笑ってしまった。私達は やらびぱだ(子 どもの頃)から いきむす(生き物の)捌き方を見て育っているからできるの かもしれんねー。
砂川友弘さんには、お忙しい中お時間を作っていただいて、たくさん話を聞 かせていただきました。また今回、沖縄タイムス宮古支局さんにも大変お世話 になりました。たんでぃがーたんでぃ〜。
さて、くま・かまvol.82 のーしがやたーがら(いかがでしたか)? ご 意見、ご感想、本当に待っています。投稿もぜひお気軽におだしください。 まちうんどーやー。
次号は、9月2日(木)発行予定です。あつかー、またいらー。