パンパカパーン!くま・かま、ついに100号の発行です!パチパチパチ〜
皆様、たんでぃがーたんでぃ〜〜。
100号繋がったということで、「繋がり」が今回のテーマとなっています。
そして、もうひとつのメインは、読者の皆さんからの100号記念投稿!!
中身ぎっしりの100号です。感謝の気持ちを がふー(ぎゅー)っと詰めて、あつかー ぱずみっとー(では、始めましょうねー)。
上野村のある“おじい”の話
マツカニ(上野出身)
宮古島が、まだまだ貧しく日々の暮らしに困窮していた昭和5年、わずかな畑しかない農家の、4人兄弟の長男としてその男は生をうけた。
うや(父親)が次男で、ぱす゜でぃやーがま(分家)だった為、分け与えられた畑だけでは、良い暮らしは、望むべくもなかった。主食である薩摩芋や野菜、味噌や豆腐をつくるための大豆や麦、赤豆(小豆)などに、畑の多くが占められ、残りの部分には、貴重な現金収入を得る為のさとうきびが植えられたのだった。
彼は中学校に進学したが、学費に窮して2、3ヶ月で退学して うやの手伝いをしていたが、終戦後の昭和22年、ちっとも埒が明かない暮らしを打開すべく西表島へと渡った。下地町から移民して成功した人達も住んでいたので、自分も田んぼを買って米を作り一旗揚げようと夢見ていた。しかし雇ってくれた主が田んぼで牛に襲われ数ヶ月入院したことと、資金不足もあり、挫折して那覇へと渡る。
昭和24、5年頃、まだサイレント映画と呼ばれた無声映画も上映していた那覇琉映館に就職した彼は、映画技師として頭角を現し、そのころ活躍していた無声映画の弁士(映画の説明をする人)に就いて、弁士としても修行していたが、トーキーとよばれる現在のような映画がほとんどを占めるようになり、弁士という仕事は姿を消していった。
そんなある日のこと、「ハワイの夜」という鶴田浩二、岸恵子主演の映画の上映中に映画館が火事になった。200人以上の観客が入っており、中には多くの子供達も含まれていた。消防や警察それにたくさんの野次馬が加わり大騒動のなか、2階の客は子供を中心に窓から投げ落とす事になった。タタミや毛布、布団などが窓のしたに敷き詰められ、2階で上映中だった彼は、チョウチンガー(麻袋)を被り、窓の下の布団にねらいをさだめ、次々と落とした。結果一人のけが人もださずにすんだ。曰く「たみーたみがましい っさぴき きしゃあ うとぅす うとぅす全部たすきたあさい。表彰がみ しらいたーゆ(注意深くねらいをさだめて、次々落とし助けたんだよ。表彰まで されたんだ」。
映画館は、全焼してしまった。火事の原因は映画館で雇われていた絵師(映画のポスター書き)が点けていた電気のコードがショートして絵の具を溶かすためのガソリンに引火したためだった。那覇琉映館が大宝館に改めて再出発するのには1年の月日をようした。
さて、宮古で残されてた うやは音沙汰の無くなった息子を必死で探していたが、噂を聞きつけて うやの親友と二人で那覇までやってきた。「あととりが親の手伝いもしないで那覇くんだりでなんて事をしているんだ。」と二人に説教され近いうちに戻ることを約束した。その時、迷惑をかけた分として結構な現金を渡し、宮古へ帰る約束もしたため喜んで帰ったという。
25歳の時、宮古へ戻る決意をした男は16mmの映写機や機材、フィルム等をタダ同然で譲り受け宮古へ戻った。芝居しか見た事の無かった宮古の人たちにも映画を見てもらおうと当時の立法院議員(米軍統治下の琉球政府の議員)にトラックを借り受けて、映画キャラバンよろしく、上野小学校、城辺小学校、下地小学校、伊良部、それに自宅近くの野原で上映して大好評をはくした。
その時、下地小学校で「カナ」という女性に出会い結婚することになった。それを機に映画から足を洗う。5人の子供に恵まれ、農業に精をだすが相変わらずの苦しい暮らしの中で、酔ってたびたび やどゆん(大暴れ)をする。今考えると立派なストレス解消になっていたような気がする。家族にとっては大迷惑な話であるが。
息子が中学に入る頃になると、そういうこともなくなり、農業の傍ら水道や電気の工事、流行りだした湯沸かし器の取り付けなどをして祖国復帰へと向かう時代の流れとともに、少しずつ暮らしぶりも変わっていく。
元来おしゃれだった彼は貧しい中、ずみぎ(上等)背広がまを買っては「カナ」にヒンシュクを買っていたが、若者にも一目置かれる人気のあるおじいになっていく。平成5年から13年まで行政相談員を務め、並行して平成8年からは上野村の選挙管理委員を8年、今年の3月までの6年間は老人クラブの理事、会計、会長をそれぞれ2年計6年忙しくも楽しく務め上げた。
すべての役を辞した75歳の今は、ぶーき゜(サトウキビ)のしゅわ(心配)と、たぶん長男が内地から戻るのを夢見て過ごしているが、肝心の長男はいまだ具体的な展望が開けずにいるのである。
んまが(孫)の話
さどやませいこ(城辺町出身)
私は52歳で待望のおばあになった。あの感動はおばあのもの、おじいには解らないだろう。分娩室で嫁の悲鳴を聞きながら、生まれてくる命のことを考えると一緒に んくみて(力んで)いた。第一声を聴いた時、安堵で全身の力が抜け、気が付くと自分が出産したかのように体の節々が痛んでいた。赤子が取り上げられた時、まず、気になるのは五体満足かどうか。五体不満足だったらどうしよう。大丈夫だった。うむやすむぬ(安心する)。
誕生の感動も束の間、一月もすると んまがと嫁は男親(実は私の息子)の待つ福岡へ。身を裂かれる思い。こんな切ない思いは何年ぶりだろう。許されることなら一緒に付いていきたい。毎日写真を見ながらさめざめと泣く私を夫は「おまえは阿呆か」となじる。おじいには解らないんだよ、この思いは、と八つ当たりしても気は収まらない。気持ちはいつも んまがの住むヤマトへ。とうとうある日、おじいを残して一人で福岡へ。孫と過ごした三泊四日の至福の時。別れの切なさ。「たんでぃやりゃー(お願いだから)帰っておいでよ」と言い残しまた身を切られる思いで帰ってくる。
私の思いが通じたのか、半年後、息子家族は帰ってきた。宮古に住むという。天にも上る思い。んまがはもう、2歳になっていた。片言のことばが何ともかわいい。食べたいくらいかわいい(おばあは人食い人種?)。帰ってきた家族を歓迎するパーティーで、んまがは三線を聴き狂ったように踊りだした。私は笑いながら泣いた。「おまえのDNAには、確実に島の血が流れている」と。以来、んまがは民謡が流れるとどこでも踊りだす。ぱずかすさ(恥ずかしい)。
ある日、遊びに夢中になっていた んまががいきなり「うんこ」と言った。私が慌ててトイレに連れて行くと、自分でさっさとズボンとパンツをいっしょに脱いだ。そして、便座に座らせろという。大人用のそれに全身で座ると、両こぶしをしっかり握り、力を込めた。ウッといううめきと同時にバナナ大のうんこがするりと落ちた。それを確かめた孫は、私を見てニッと笑った。その目には涙が滲んでいた。あてぃ かなっさ(愛しい)!
来る6月には、三人目の んまがが産まれる。この極上の ぷからす(喜び)を他の人たちにも ばきふぃーばーやー(分けてあげたいな)とバババカは思うのでした。
んーぶ(へそ)の先の先は、ご先祖様。何の因果か、繋がって、繋がって、今、私がいる。そして息子がいる。んまががいる。この小さき者たちを守っていくために何をしなくてはならないのか。おばぁは日々考えているのです。繋がることは続けること。わいてぃ日々を積み重ねるだけです。100号達成おめでとう!
んじ 手をつなごう
宮国優子(平良市出身)
宮古ふつに「かふたき゜」という言葉がある。大事なものや子供を抱きしめる、という意味だと思う。でも宮古ふつで言われると、より密着感があって、精神的にひしっと抱きしめるように聞こえる。私はうまく発音できないので、普段の生活ではまったく使わない。でもその言葉を耳にするとき、私の心に何かがよみがえる。幸せの記憶というか、生命力のある柔らかな安らかな、「繋がる」そんな感じのもの。
私は、0歳の次女を かふたくと、2歳の長女に かふたかられると、たまに自然になだ(涙)が さらさらとこぼれてきて、自分でも驚くことがある。きっと母ちゃんに かふたかれても今でも泣くはず。
先日、宮古出身の池間哲郎さんの『あなたの夢は何ですか?私の夢は大人になるまで生きることです。』という本を読みました。今年一月には「金八先生」でドラマの中に登場したようで、知っている方も多いと思います。アジアの貧困地域の子どもたちを支援する「NGO沖縄アジアチャイルドサポート」の活動をなさっている池間さんが書かれた本です。この長いタイトルは池間さんのこの言葉から来ています。
ー「フィリピンのゴミ捨て場である「スモーキーマウンテン」の中で知り合った子どもたちに「あなたの夢はなんですか?」と聞いた時に、一人の少女から返って来た答えが「私の夢は大人になるまで生きることです。」でした」ー
活動を始めるきっかけになった少女の言葉だそうです。
そして、そこの子供たちを連れてピクニックにでかけた池間さんがお弁当(子供たちにとってはすごいご馳走です)を差し出すと、子供たちは大喜びしました。「さぁ、食べよう」と池間さんが呼びかけると、子供たちはお弁当のふたを閉じたそうです。わけがわからなくなった池間さんに女の子が言いました。「おじさんにお願いがあります。こんなごちそうを私だけで食べることはできません。お家に帰って、お父さん、お母さんと一緒に食べていいですか?」他の子供たちも同じ思いのようだった・・・と書かれていました。私はこのくだりを思い出すだけで今、なだだだだだです。自分も今すぐにでもおなかいっぱい食べたいだろうに。小さきものが弱きものを守ろうとする、その心の かぎさ(美しさ)に私は言葉をなくします。
そしてそれに衝撃を受けた池間さんがちゃんと行動に移したこと。他の話も淡々と書かれていて、正直、脱力でした。私は今まで気取っていたなぁ、ぐどぅん(馬鹿)だったなぁと。いつも「なんで戦争があるかよ、国が悪い、社会が悪い、自分の力ではなにもできない」と言い訳していました。でも、自分にできることだけをすればいいんだよね。
本当にちっぽけな思いです。頭脳明晰でもなく、行動力もないので、人様に理解していただくように活動は無理だと思う。それでも私なりに何かしようと。世界のどこかで子供を亡くした母親がいて、親を亡くした子供がいて、子供を生かすために子供を捨てる親がいて。もし私がそうなったら。悲しみの重さに差があるはずがない。
思い切り受身で、なまだん(大怠け者)の人生ですが、ひとつだけ、これだけは能動的につながねばいけないと思う。私たちの豊かさは、世界の貧困や諍い、自然破壊とは無関係では無いんだはず。実感しにくいけれど。
かふたき゜勢いで守るのはまずは自分の子供だと、親だと、家族や周りだと思う。でも少しだけならほかの人のために何かやれるはずよ〜。同じ時代に生きる大人は手をつないで、平和で明るい世界をつくっていかなくてはいけないはずさいが。つないだ手の温かさが一人でも多くの子供たちに伝わるように。 んじ(ねぇー)、手をつなごう。
100号記念投稿
武島玄正(平良市西仲出身 長野県在住)
「くま・かまとのおつきあい」
昔、私たちの小さいときはやった「影か柳か勘太郎さんか 伊那は七谷糸引く煙」と歌う「勘太郎月夜」の伊那盆地に住んでいる。東は甲斐駒ケ岳、西は木曾駒ケ岳、中を流れる諏訪湖を源流とする天竜川の河岸段丘に発達した13000人の長野県南箕輪村で、保育園から上伊那農業高校、信州大学農学部のある教育環境も自慢の一つである。
「くま・かま」とのおつきあいは、「読めば宮古」のHPに書き込んでいたら「くま・かま」を紹介され、02年11月21日付け40号配信からのお付き合いである。
「ばたがやーぬつかふ」は書き手の思いが伝わって、宮古をより身近に感じさせ訪ねてみたい気分にさせる。「どぅかってぃ宮古民謡の解説」も楽しみにしている。「掲示板」は異世代の人たちに自分の来し方を伝え交流する場として有難い。「ノーハウ」の書き込みもあって大いに得をしている。最近では、「国土地理院」のHPで三角点の等級が手軽に分かり大助かりだ。思わぬ友人も出来てうれしい。
「継続は力」といいます。大いに協力するのでがんばってほしい。
高橋正勝(ハンドルネーム:マサ)(出身、在住地:神奈川県横浜市)
「応援しています」
生まれも育ちも横浜の浜っ子です。一時期仕事の関係で、名古屋に住んでおりましたが、現在はもとへ戻り、横浜市在住です。横浜と言っても海には程遠くよこはま動物園(ズーラシア)の近くの緑が多く残るのどかな地域です。
僕のくま・かま歴はまだ浅く、今年の6月でようやく一年が経つでしょうか。最初は下地勇さんをきっかけに、くま・かまと出会いました。最初のうちは、なかなか書き込む勇気がなく、皆さんの書き込みを楽しく拝見しておりましたが、最近では時々書き込みをさせていただくようになりました。
宮古島へは以前の仕事の関係で9年程前に初めて訪れました。が、その後はしばらく訪れる機会がなかったのですが、「くま・かま」や勇さんの唄を通して、宮古の素晴らしさを再認識するようになりました。
みゃーくふつも、奥が深すぎて、まだまだ理解をすることはできませんが、最近はヒヤリングの方は少しずつできるようになってきたかな?と感じるようになって来ました。(ちょっと嬉しい・・・)まだまだ勉強が必要ですけどね。
また、くま・かまを通し、多くの方々とも知り合うことができて大変嬉しく思っています。いろいろな刺激を受けたり、元気をもらっています。
今年の3月に9年振りに宮古へ行ったのですが、あまりの寒さにビックリしました。今度は、是非暑い宮古へ行くぞっ!!と計画中です。皆様、とっておきの情報がありましたらお願い致します。
100号を迎えるに当たり、これまでも様々な苦労があったことと思いますが、これからも200号300号と目指して頑張ってくださいね。これからも、応援していますよ〜!!皆様、今後もどうぞ宜しくお願いします。
なんちゃってあぱらぎみどぅん(出身、在住地:東京都 心の故郷:宮古島)
「様々な視点や観点に共感」
「くま・かま100号記念」おめでとうございます。これからのますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。
私が「くま・かま」と出会って、二年ちょいですが、何だかもうずっーと以前からのお付き合いの様な気がします(笑)
この「くま・かま」のおかげで方言はもちろん、宮古の歴史や旬の宮古情報を知る事が出来るのは、今まで以上に宮古を身近に感じる事が出来、私にとって、とても嬉しい事であります。
また、宮古の事に限らず、感性豊かなライターさんの様々な視点や観点から捉えた投稿にも共感するものも多く、いつも泣いたり、笑ったりと勉強になる事もたくさん。
そして、この「くま・かま」を通して、たくさんの素敵な方達に出会えた事が私にとって何よりの宝物かな・・・。この素晴らしい出会いをいつまでも大切にし、今後の更なる素敵な出会い?に大いに期待したいと思いますので(笑)皆様、今後とも末永くよろしくお願いいたします。
みやこビト(出身地:北陸 現住所:京都)
「くま・かまと歩いた時間」
くま・かま100号、おめでとうございます。
海の美しさに魅せられて宮古島を訪れ、偶然に下地勇さんのライブを聴いたのが縁で、ミャークフツを知ろうとして辿り着いたのが、くま・かまでした。
くま・かまは宮古について知り、ミャークフツについて学び、下地勇ファンクラブ的要素も兼ねる、私にとって極めて居心地が良く、なくてはならないものになりました。
くま・かまと出会ってまだ2年なのですが、はるか以前から知っていたような、そんな錯覚を抱いています。それだけ、くま・かまと歩いた時間は濃密でした。
くま・かまでいつも感じることは、多くのライターの方が、島を離れてからの時間の方が圧倒的に長いはずなのに、島で暮らした幼い日の出来事や思い出を生き生きと書かれている点です。下地勇さんの曲にもあるように、まさに「宝の時」を過ごされたのでしょう。くま・かまと歩いた時間は、くま・かまを通してその宝=元気の素を分けていただいた時間だったと思っています。
今後のますますのご発展を楽しみにしています。
ビートルズ世代のサラリーマン(平良市出身、さいたま市在住)
「祝!100号記念」
100号記念おめでとうございます。
「くまから・かまから」の主宰者である松谷初美さんをはじめ、毎回独特な切り口で楽しませてくれる個性的な執筆陣の皆さんの素晴らしいチームワークによって達成された偉業にこころから拍手を送ります。
「くま・かま」の素晴らしさは、メルマガの発行だけではなく、去年「ちむや」で行われた「新潟地震の被災者支援のチャリティーコンサート」に見られるような活動も見逃すことは出来ません。
また、「くま・かま」を通じて広がる「掲示板」の輪は「宮古びと」だけでなく多くの「大和びと」をも取り込んで、途切れること無い話題で今日も賑わっています。まさに「くまから・かまから」人々が集い、日々新しいキャラクターが加わっていきます。
私は「くま・かま」と出会って2年ほどですが、「くま・かま」を通して幾度と無く「いず°(元気)」を「ぷからさ(楽しさ)」をもらいました。
たんでぃがーたんでぃです。
これからも「くま・かま」益々の御発展御活躍を期待しています。
あつから、ばんから うとぅーす°がまゆ まーさっとぉー(では、私から100号を記念して、オトーリをまわしますよー)「100号記念!かんぱーい!」
酒井涼子(宮古出身 沖縄市在住)
「母との貴重な時間」
はじめまして。
「くま・かま」100号を迎えられるとのこと、おめでとうございます。いつも楽しく読ませてもらっています。
「下地勇さん」がブレークする直前、宮古島好きの会社の上司が松谷さんが作るこのメールマガジンを見つけ、教えてくれました。なので、私が、くま・かまを読み始めて3年余になりました。
私は、小学4年生の時に北小学校へ転入し、宮古高校を卒業するまでの9年間を平良市で過ごしました。そういう状況で故郷は「宮古」とは言えないかもしれませんが、胸を張って「宮古出身」と言っています。両親は、下地町の出身です。一昨年、父が亡くなり、この4月1日に母が亡くなったので、今では実家がなくなってしまいました。
最期を迎える時って、話す言葉が小さい時に使っていた言葉に戻るということを誰かから聞いていたので、父の最期では、枕もとで宮古の民謡を流し(寝たきりの父が張水のクイチャーの音楽に合わせ手足を上げて踊ったのにはビックリ!)、母が亡くなるときは、このメールマガジンを使わせてもらいました。
みなさんの書いた話を那覇の病院のベットサイドで母に読んであげながら、方言の話せない私はイントネーションをならう時間を作り、母に宮古方言を使わせました。
「ばんたがやーぬつかふ」の母バージョンも聞き取りました。こんな話、母としたことがなかったな、と思いながら。若いみなさんが方言と向き合ってくれていることに母は大変喜んでおり、私の読む皆さんの話を楽しみにしていました。
5月19日は、母の四十九日にあたります。おめでたい日に相応しくない話かもしれませんが、お知らせしたくて書かせてもらいました。
このメールマガジンで母との貴重な時間を作らせてもらいました。本当にありがとうございました。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
まーんてぃ、んーなが うかぎん(皆さんのおかげで)100号を迎えることができました。改めて、みなさん、たんでぃがーたんでぃ〜。
今回は100号繋がったということで、「繋がり」をテーマにしました。自分と一番深い繋がりのある親のことや、自分の先に繋がった孫の話、あるいは、子供との繋がり、人と繋がっていこうというお話。のーしがやたーがらー(いかがでしたか)?「繋がり」「繋がる」ことの意味は、深いですねー。それぞれ、想いの だう(たくさん)詰ったコラム、味わっていただけたと思います。
そして、みなさんの投稿を読んで、もう胸がいっぱいです。お一人お一人の言葉がとても温かく、みーまい ぱなまい(目も鼻も)、ゆるみっぱなしです。どぅたが(自分たちが)楽しんでやっていることが、こんな風に読まれ、役に立ったり、大切にしてもらっているかと思うと、やってきて本当に良かったなぁーと思います。
武島玄正さん、高橋正勝さん、なんちゃってあぱらぎみどぅんさん、みやこビトさん、ビートルズ世代のサラリーマンさん、酒井涼子さん、たんでぃがーたんでぃ!!酒井さんのお母さんはきょうが四十九日とのこと。酒井さんとお母さんに少しでも楽しい時間を作るお手伝いができたかと思うと、こんなにうれしいことはありません。ご冥福をお祈りいたします。
メールマガジンは、ほんの思いつきで始まりました。みゃーくふつを残そうとか、大仰なことではなく、今、その言葉を大切にしよう、ばっしうたー(忘れていた)言葉も思い出しながら、楽しもうと。そして、ライターそれぞれの自身の言葉で、想いが伝えられたらと思いました。普通の人たちの生きてきた小さな歴史も大切にしたいとも。
メインのライターのみなさん、投稿していただいたみなさんによって、幅広い内容のものがお届けできたのではないかと思っています。
やっていて思うのは、やっぱり、ばんたー(私達は)いい所で育ったんだなーということ。宮古の自然も、人との関わりの深さも、角度を変えて見れば、なんと豊かなことか。(若い頃はその良さが分からなかったんですねー。)改めて宮古の良さを知り、みゃーくふつの奥深さを知り、みゃーくぴとぅであることの誇りを実感するようになりました。
創刊号からこれまでたくさんのコラム、エッセイを書いてくれたライターのみなさん、投稿してくださった皆さんに感謝申し上げます。皆さんが書いてくれなければ、ここまで来ることはできませんでした。まーんてぃ たんでぃがーたんでぃ!!
みなさんそれぞれの だすーだす(だしの効いた)コラム、エッセイはご存知のとおりです。その滋味深い原稿を一番最初に読める役得を幸せに感じています。ピース。
それから、読者のみなさんからの感想は、あてぃ ぷからすかいば(すごくうれしくて)、何度何度も読み返して、次への活力にしてきました。感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも1号1号を大切にライター、一同力をあわせてやっていきたいと思っています。ながーながぬ(長ーい)おつきあいをよろしくお願いします。そして、みなさんからの感想が私達のカンフル剤。あなたの心に ポッと火がともったら、また あまいぶりしー(笑いすぎて)、心のマッサージができたなら、あったかいうちにどうぞ感想をお寄せください。首を ながーながしーまちうんどー(お待ちしています)!
次号は、6月2日(木)発行予定です。
100号お祝いのオトーリが回ってきた〜。ぬまっとー(いただきますねー)。
あっがいたんでぃ!ぷからすむぬ〜。ハイ、ニノヨイサッサイ、ヒヤサッサ〜。
あつかー、またいら〜。