みなさん、こんにちは〜。
大型の台風9号が石垣、宮古に近づいているようですが、大丈夫べーやー?みなさん、どうぞ、お気をつけくださいー。
vol.105ゆ とどぅきっちゃ ゆみふぃーさまちよー(vol.105をお届けします。読んでくださいねー)
シネマパニック宮古島
松谷初美(下地町出身)
3年半ぶりにいよいよ宮古に映画館ができる。奄美大島や石垣島で映画館を経営している「シネマパニック」(川上富久オーナー)が「シネマパニック宮古島」(下地昌伸支配人)を6日オープンさせる。
かつて宮古には、国映館、沖映館、琉映館などの映画館があり、映画が娯楽の時代があった。映画を見て、宮古そばを食べて、田舎の人は、映画バス(映画が終った時間に合わせて出る最終バス)に乗って帰るというスタイルがあっった。
ビデオで簡単に映画が見えるようになったこともあり、映画館は、1館、1館と減っていき、最後に残っていた国映館も2002年に閉館となった。
支配人の下地さん(40歳)は2年前、シネマパニックが、まてぃだ劇場で移動上映会をした時に関わり、川上富久オーナーと知り合う。宮古で映画館を造りたいと考えていた川上さんから今年の春、一緒に映画館を造らないかと声をかけられた。
下地さんはもともと映画や演劇が大好きだった。(彼は、高校卒業後、東京芸術座でずっと俳優をしていたそうだ。2000年に帰島)映画館がなくなってしまったのを常日頃残念に思っていて、移動上映会などを実施したが、ある高校生が「上映会のその日はバイトがあるから見に行けないよー」というのを聞き常設の映画館があることの必要性を感じたという。
下地さんの映画館への想いに賛同して、多くの人がボランティアでこの映画館造りに参加している。設計、椅子の設置、ポスター作り、Tシャツ作成、チラシ配布などなど。下地さんを応援する気持ちと宮古に映画館をの想いがそこにある。
映画館は、座席116席。ほとんどの椅子にカップホルダー(飲み物置き)がついている。スピーカーは前に7つ、横に8つ。入場は、1回終了ごとにお客の入れ替えを行う、完全入れ替え制となる。料金は、大人が1600円、大学・高校生が1300円、小・中学生が1000円、幼児(3歳以上小学生以下)700円、シニア(60歳以上)1000円。友の会会員(年会費3000円)になると、1本1000円となる。売店には、ジュースやポップコーンなどのほか、ビールサーバーもある。
スタートとなる映画は、S.スピルバーグ監督の「宇宙戦争」。13日(土)からは、なんと、全国一斉ロードショーのアニメ「マダガスカル」が、上映される予定だ。夏休み中の やらびたち(子どもたち)に楽しい時間を提供すること間違いない。
下地さんは、「見た映画の内容も記憶に残るだろうけれど、誰かと一緒に見た、あるいは一人で見たというのも、のちのち豊かな時間だったと記憶に残ると思う。映画館は、自分を創る場所でもあるので、ぜひ足を運んでほしい」と話していた。
映画館のある風景がまた宮古に戻ってきた。宮古を離れていても、だいずぷからす(すごくうれしい)ニュースだ。経営維持していくことは、まーんてぃ(本当に)大変なことだと思うが、頑張ってほしいと思う。
那覇に住んでいる友人は、今度からは宮古に帰るたびに、映画を見るというのも上等だねーと話していた。さぁ、ばんまい(私も)宮古に帰ったら、家族や友人を誘って行かでぃー。
うわまい行きみーるよー(あなたも行ってみてね)。
「シネマパニック宮古島」
場 所 | 平良市西里261-2 |
電 話 | 0980-75-3215 |
支配人 | 下地昌伸 |
定休日 | 木曜日 |
ミャークフツ講座 ミャークフツの始まり編
ひさぼう(平良市西仲出身)</p
ものごとの始まり、というのは、誰も関心あることだと思う。人類の誕生はいつかとか、日本人はどこからやって来たかとか。そこで、ミャークフツに関心ある者として、「ミャークフツの始まり」をテーマにしてみたい。もちろん、素人であるから、戯言(たわごと)にちがいはない。
「宮古の歴史」を調べていて、あまりのことに笑ってさえしまうのは、その「石器時代の長さ」である。ピンザアブ人がいたといわれる2万6千年前の「旧石器時代」から、なんと、鎌倉幕府ができるあたりまで、つまり、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、と全部通して、宮古島は「石器時代」だったというのである。その間、鉄はない、農業は知らない、自然採集の「貝塚時代」だったというのである。宮古島は、実に、1千年は、日本本土の歴史から遅れた。
つくづく「島」の環境で生きる、ということが、如何に厳しいものであるか、を思うわけである。厳しいというのは、先ず、どこかから、海を渡って来なければならない。又、その後の、外との交流も容易ではない。次に、食糧である。「石器時代」というから、そこに自然のままあるものをとって食べる生活である。その上、面積が狭いから、食べるための生き物、果実、植物には、限りがある。そんな中で、世代交代を繰り返しながら生存していくのというのは至難の業というしかない。
現在、宮古にある遺跡の数は80数箇所で、そのうちのほとんどは、12、3世紀以降のものだという。「遺跡の数」から人口を推計する、という考え方からすると、ピンザアブ人以来、2万何千年の間、宮古島に人間がずっと継続して住んできた、という可能性はほとんど無いのではないか。つまり、人口が途中で、何度か、途絶えたのではないか。
この点、沖縄本島諸島、八重山諸島も、「島」という条件は同じで、「石器時代」はとてつもなく長い。ところが、宮古、八重山とオキナワでは、地理的条件が、その歴史を変えてしまう程に違うことがある。九州から、海を渡って南下して来るとき、沖縄本島までは、次々と島影を見ながら、航海できる。ところが、そこから宮古島までは、宮古凹地(みやこぼこち)と呼ばれる300キロの距離と、1千メートルといわれる深海がある。これが、結局、宮古・八重山を、沖縄・奄美文化圏とは、違ったものにしてしまう。すなわち、沖縄・奄美圏は、九州・本州の縄文・弥生文化の影響を受けたのに対し、宮古・八重山には、それが届かなかった。また後々、あの過酷な「人頭税」は、宮古・八重山の庶民だけに課されるという”離島差別”につながることにもなる。
ついでながら、隣の”巨大な島”台湾の歴史はどうなっているかというと、これも又、信じがたいほどに、1600年代に中国の清が支配するまでは、どこの国の領土でもなく、”多くの部族が住む石器時代の島”だったらしい。その代わり使っている言葉がすごい。「オーストロネシア語(マレー・ポリネシア語)」と言われて、東は、イースター島から、西は、マダガスカル島まで、北は、ハワイ島から、南は、ニュージランドまでの全領域、親戚関係にある言葉らしい。その中で、台湾民族の言葉が最も古いのだという。地理的には、宮古、八重山は、こっちの方に近いから、ミヤークフツも、この「オーストロネシア語」になっていてもおかしくないのに、結果的には、そうはならなかった。
宮古の歴史が、いろいろな人物が出てきて、歴史らしくなるのは、12、3世紀以降、農業が始まって、人口が激増し、やがて「階級社会」ができあがる「グスク時代」からである。そしてさらに、宮古、八重山が、沖縄本島文化圏に入るのは、15、6世紀以降、琉球王権下に入ってから、ということになる。
さて、ミャークフツ、のことである。分類からすれば、宮古方言は、日本語の中で、沖縄方言、八重山方言とともに、「琉球方言圏」の中に入る。そして、その?正体”は、九州に住んでいた人間とともに、いつの頃か、琉球列島に渡って来た、ということになるらしい。
日本の歴史で、初めて具体的な人の名前が出てくるのは、あの邪馬台国の「卑弥呼」である。宮古の歴史で、初めて出てくる人物といえば、13世紀はじめの「保里天太」(ふさとてだ?)だろうか。『宮古島在番記』による「宮古の豊見親および間切頭 年代表」のトップに出てくる名前である。あと、糸数按司、佐多大人、目黒盛豊見親、与那覇勢頭豊見、大立大殿、のちで盛大親、仲宗根豊見親と出てくる。邪馬台国の卑弥呼は、どういう言葉をしゃべっていただろうか。
昔の人が、どういう日本語をしゃべっていたかは、録音機が無いから、「文字」に頼るしかない。で、残っている一番古い書物は、「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)「万葉集」(770年)等である。ミャークフツに、古い日本語が残っている、というのは、こういう書物に、ない(地震)、とか、つと(土産)、うごなわる(集まる)などのミャークフツと同じことばが出てくるからである。また、日本の書物ではないけれども、日本に来た外国人が日本のことを書いた書物も頼りになる。「卑弥呼」のことを書いた「魏志倭人伝」とか、あるいは、1317年に中国沿岸に漂着した、宮古人と思われる「蜜牙古人」のことを書いた中国の「元史」等である。
宮古の、今から5〜600年前の「天太」や「按司」、又「豊見親」などは、どういうミャークフツをしゃべっていただろうか。当時、外部からの影響というと、オキナワとの交流が始まった時代だから、同じ「琉球方言」の中でのことで、この600年の間に、大幅に変わったとは考えにくい。大体、今の宮古人がわかるミャークフツだったのではないか。
外間守善さんは、「琉球語」が、九州・本州から、いつごろ分かれたかについて、「・・・今のところ、二、三世紀から六、七世紀頃にかけて、日本祖語から本土に広がっていく日本語と、九州を経て南の島々に渡って行く沖縄語に分岐したのであろう」と述べている(『沖縄の歴史と文化』中公新書 )。二、三世紀というと、邪馬台国の時代である。この時代に九州から、琉球列島に人々が渡ったとなれば、琉球方言の元祖は、卑弥呼がいた時代の”邪馬台国語”ということになる。オキナワでも宮古でも、本土のことを、ヤマトとよぶのはこの、ヤ マ タ イ からきているのかどうか。
2、3世紀の時代、オキナワと日本本土との交流は、いわゆる「貝の道」で盛んに行われていたという。北九州や瀬戸内・近畿地方あるいは日本海から北海道にわたって見つかる「オキナワ産の貝」で証明されるらしい。宮古産の貝は、「宮古凹地」にはばまれて、このルートには乗っていない、と言われる。
ここで、疑問が出る。「貝の道」が開かれたという2000年前、宮古は、どうなっていたか、ということである。その頃の宮古の遺跡に、城辺町にある、長間底(ながますく)、クマザ、浦底(うらすく)、アラフの四ケ所、がある。
アジクヤ(シャコ貝)製の貝斧(かいふ)、貝の刃物、サメの歯でできた飾り、あと、炊事用の焼き石などが見つかっているという。それで問題は、「貝の道」に、宮古産の貝が、参入していないということは、これらの遺跡を残した宮古人は、どこからやって来たか、ということである。「宮古凹地」を乗り越えて、ヤマトからやって来たのか、それとも、南洋諸島からやって来たのか。結果論から言えば(古い日本語をしゃべっているという)、宮古にも”縄文人”が住んでいて、その後、波状的にか断続的にか・・・なにしろ、オキナワ本島の最古の遺跡は、6600年前、宮古・八重山は、3800年前、という長さである。その間に、九州から、大陸の影響を受けた人々が渡来してきた。
「歴史人口学」というのがあって、それで見ると、縄文時代の人口は全国で、10万人から20万人台、弥生時代が60万人程度になっている。これから、当時の宮古の人口を推計すると、100人台からせいぜい1000人まで、2000人いたかどうかである。子供を生んで育てて、人口を維持しながら、1000年、2000年と宮古で生きてきた人々がいた。自然採集生活の中でである。その人たちが、ミャークフツを維持してきた。
#参考資料:『宮古の歴史をたずねて』仲宗根将ニ 著「宮古毎日新聞」連載
『宮古島庶民史』 稲村賢敷 著
『人口から読む日本の歴史』 鬼頭 宏 著 講談社学術文庫
ご無礼なハガキと友情の手紙
アモイ(平良市出身)
今のようにEメールや携帯電話ができる時代がやってくるなんて、想像ができたのはいつのことだったろうか?そんな遠い昔ではない、しかし今はそれがないともはや生活や仕事が成り立たないと言えるほどの存在となっている。そのメールの便利さ故か送信ミスや早とちり送信等に悩まされる事もある。しかしながら、昔のハガキや手紙のやり取りでもそれと似たような経験をしたものだ。
高校を卒業して神奈川県の会社にクラスメートのSS君と2人で入社した。会社にもちょっと慣れた頃だった、会社の帰りの店で絵葉書を売っていたので何気に購入した。会社の寮に帰ってから、SS君と2人で学校や先生方にはお世話になったし、お礼のハガキでも書こうか、と言う事で2人で書く事になった。
文の内容を2人で考えて、「在学中は大変お世話になりました。校長先生をはじめ、先生方や後輩のみなさん、在学中は・・・」と、まーんちゅぎなり、(立派になったようなふりで)書いて、あがい ずみやー(ほー、いいねー)。まだ、よちよちな社会生活をしている割には、文書の内容は嘘に近いほど立派に書けた。
書き終わってからも僕はハガキを読み返しながら、そうか、これは絵ハガキだから切手を貼らないとならないんだなー、と思いつつ眺めていた。広告や案内のハガキの切手欄によく書いてある、「このハガキは切手は要りません」という文字を思い出しながら、切手の欄に手書きでそれを真似て書いてみた、SS君はその事は知らない、どうせ出すときに切手を貼るんだし、隠れるから、しわーにゃーん(心配はない)。
翌日の昼休みの会社でのSS君との会話。僕「はい、かぬぅハガキゃーいだすでぃすたーなー(ね、あのハガキはもう出したの)?SS君「いだすでぃすたー(だしたよ)」僕「あんちーなー(そうか)、あってぃ、切手ょーばー ぱすでぃすたーだら(それで切手は貼ったでしょう)?」SS君「あーい、あにぎなどぅいだすたー(いやそのまま出したよ)」僕「えっげーい しまいだら(いやー大変だ)、実はな、これこれしかじかこうなんだよ」SS君「うわーぷりむぬ、のーてぃがあんちぬくとぅー書きすたりゃー、んにゃ、はじやらんなー(おまえはあほうか、なんでそんな事を書いたんだよ、恥さらしだよ)」
あとの祭り、とはこのことだろう、切手欄に何も書いてなければハガキは戻ってくるはずだ。しかし、ハガキは戻ってこない。ハガキの所在がわかればとめる事が出来るかもしれないと考えもしたが不可能な事だ。なんてこった1週間後には恥を書く事がわかっていながら何ともできないのか、親切な郵便屋さんはこのハガキをしっかり母校に届けることだろう。
そして、半年以上過ぎて くま・かまでも有名な後輩のMKから聞いたところによると、朝礼で校長先生が全校生徒を前に、今日は先輩からのお礼のハガキをみなさんに紹介します。と言ってハガキを読んだそうだ。読んだ後でやはり、切手の件についても触れたそうであった。このハガキは着払いで学校で切手代を負担させられたものだ。校長先生がその後何とコメントしたのか??MKはうろ覚えで、正確な事は教えてくれなかったのだが、きっと、先輩は切手代にも不自由するほど貧乏だ、などとチクリとするブラックジョーク的な事を言われた事はまちがいないであろう。
そのMKとも本土と宮古の間で何度か手紙のやりとりをしたのだ。僕が本土に就職してちょうど半年過ぎたころであった。遠慮のない会話のできる間柄では何でも思いのままを書いたり、ちょっと捻ったり、かっこをつけたりして、ちょっとユニークな文書を書く事がよくあったのだった。
MKの手紙には宮古島の近況や自分の将来の夢が書いてあり、僕は手紙を読みながら、宮古島の9月はまだ暑いんだよな、そして将来の夢の中に入っていった。そうか・・・前とはちょっと違う夢だな、しかし器用なMKらしい夢だなー、きっと実現してほしいなー、と思いつつ。いよいよ手紙のラストシーン(結び)へと読み進んでいった。「アモイは元気と思うので、身体には気をつけなくても良い、それじゃ。」と書いてあった。そうか、宮古島で一緒の時は身体には気をつけなくてもいい位、元気があったもんな。昔がなつかしいなー、持つべきはやはり良き友達だなー、とジーンとなっていた。
しかし、私はそのMKにとってちょっとショッキングな内容の手紙の返事を書いてしまったのだった。俺の方が先に自分の近況報告をしておけばよかったなー。MKに書いた私の返事はこのような出だしだった。「MKへ、俺は今この手紙を病院のベットの上で読んでいます。ちょっと身体を悪くして入院しています」と。そしてその手紙を受け取ったMKは、ほんとにショックを受けたようであった。30年過ぎた今でも時々この手紙の事が話題になるが、MKには苦い思い出として残っているとの事である。
先日MKに電話した、あの話を書いてもいい??「いいよ、だけど俺は今でもトラウマ(心的外傷)として残っているよ」と。僕は友情の手紙の証、として思い出している。のーてぃがやーつかー、んきゃーんから、きゅうがみまい うつーうつぬ、どぅす、んなまからまいかーらっちゃー。(なぜなら、昔から今日までも気心の知れた真の友達で、これからも変わる事は無いのだから)
初めての宮崎 (投稿)
平良市出身 長野県在住 武島玄正さんより
平良第二国民学校(現在の北小)3年の夏、戦争遂行の邪魔になる住民は移動させる方針に沿って「学童疎開」があり、高等科2年(最上級生)の姉と総勢20人で下地明増先生の引率で宮崎県小林国民学校へ転校した。
船で行き、敵(米軍)の潜水艦の攻撃に備えての訓練もあったが、見るもの聞くものが初めてで好奇心の塊のような1年半の「学童疎開」だった。
一番印象に残ったのは鹿児島駅での案内の放送だった。当時、宮古にマイクがあったかどうか知らないが、男性の声で「くりのー はやとー みやこのじょうゆきー」という声がどこから聞こえてくるのか不思議だった。
「雪降り」にはもちろん感動したが、「アカギレ」「シモヤケ」には参った。列を作って登下校するのだが、ある朝、霜柱に足をとられ、ひざをすりむいて泣く私を見かねた姉はおんぶして登校し、級友に冷やかされた。
「標準語励行」のおかげで言葉に不自由はしなかったし、引率された明増先生と奥さんの文先生のご指導と庇護の下でいじめや差別は感じなかった。
4年の1学期に大分県よりの西郷村田代小学校へ転校した。一般疎開で伯母の家族が来て引き取ってくれたからだ。「うう”ぁたが うやからどぅ てがみぬ きし ふふぁぬきゃーや のーばしが うずが みーきしふぃーる(あなたたちの親から手紙が来て、子供たちはどうしているか見てきてくれないか)と言われたので、空襲でやられた富高(現 日向市)で切符を買うのも列を作り、小林(現 小林市 学童疎開先)へもなかなかつかなくて大変だったサー。あがい!ツル(私の姉の名前)が からっざ ぷきーぷきしー つんだらーすかりばどぅ(髪の毛が(栄養失調で)パサパサしてかわいそうだったから)、嫌がる明増先生を拝み倒してつれて帰ったさー(明増先生は、文先生と結婚したばかりで上級生である姉は頼りにされていた)」と しゅうーやーぬ ゆみ(祖父の家の嫁)の春姉さんは言う。
当時、男手を戦争にとられて小学4年生でも田舎では結構役に立った。配給の米は満足にこないので農家の手伝いをしてお米をもらった。田植えから、草取り、刈り取りまで手伝った。田植えが終わると「サナブリ」という田植え祭りがあり、無礼講で酒を小学4年ではじめて口にした。干し柿が隣の土蔵の軒につるされて一口でも食べたいなーとうらやましかったが果たせなかった。干し柿を口にしたのは与那国島で台湾商人が密輸した物をつまんだのがはじめてである。
北中1年に長期欠席して当時密貿易の盛んだった与那国へ働きに行った。兄の船大工の手伝いということで行ったが、造船所にとまる台湾商人の水汲みや薪取りが仕事だった。カジキをはじめて食べたのは与那国島だったが、私のような「つかいびー(下男)」は、ご飯が最後になりカジキの皮しか食べられなかった。
宮崎では、こんにゃくもはじめてだったし、秋になって、さつまいも(宮崎ではからいもといった)を煮て乾かして保存し(高温の宮古では考えられない)甘味の少ない当時この芋干しで作ったぼた餅の味も忘れられない。
もう1つ、ツクシの親をスギナというが、モクマオウのはに良く似ていて茎を引き抜いてさし「継ぎ目はどこや」と継ぎ目を当てる遊びも初めてだった。
私たちの「学童疎開」については、引率された下地明増先生の手記が「沖縄県史第10巻」340ページにある。
帰省中の あんちかんちぬ くとぅ(あんなこんなこと)
松谷初美(下地町出身)
先月の23日から30日まで沖縄、宮古に家族で帰ってきました。やらうぎー(テリハボク)のすそーすそぅぬぱなとぅ(白い花と)、ハマオモトのすそーすそぅぬぱながあちこちで見られ、懐かしかったぁー。トンボもだいずやまかさ飛んでいたねー。
23日には那覇で、27日には宮古でオフ会を開き、読者のみなさんやライターのみなさんと楽しいひと時を過ごしました。ご参加いただいたみなさん、たんでぃがーたんでぃでした。いろいろな話に花をさかせ、クイチャーゆぶどぅり(踊り)、民謡を聞かせてもらい、またみなさんからくま・かまを応援する言葉をいただいて、感激しました。初めてお会いする方も何人かいて、ぷからすむぬやたーどー。
また、取材でも多くの方にお世話になりました。感謝申し上げます。それにしてもさ、くま・かまの取材で、いろいろな人に会えるというのは、ラッキーだよね。ある出来事やある人に興味があっても、なんとはなしに会えないさー。くま・かまをやっていて良かったーと思うことのひとつです。
宮古に帰ったら、なるべく方言だーけでしゃべろうと思うけど、なかなかでないさね。でも、おばぁや母ちゃんとは今回結構しゃべったかね。相手も私の方言に違和感なく、返事をしてくると、通じているぞと心の中でニンマリ。
あんまり やーんなかもーん(家にいない)不良娘は、すぅとぅむてぃしゃーかうきー(朝早くおきて)、母ちゃんたが まうがん(個々を守る神様)にたちょー(お茶をあげること)をして、罪滅ぼし。
そういえば、今回初めて知ったことがあった。
うちの家の周りでは、夜になると灯りを求めてやってくる虫(ふさむす(黒くて臭い虫)や、やうさら(カナブン?)など)がたくさんいるけど、この虫なんかは、夜9時を過ぎたらやってこないらしい。(お父の弁)最初は、まーた だらかーしー(ウソついてー)と思っていたけど、まーんてぃぬぱなす(本当の話)でした。虫は9時が門限な!?
今回、ほとんど毎日海に行き、シュノーケリングを楽しみました。
はい、まーんてぃ みゃーくぬ いんな きつぎどー うばいがうばい(ねぇ、本当に宮古の海は、きれいだよー 素晴らしいねー)。ばんまい どぅき゜いんぬなかん ぱずてぃぬくとぉー 去年がみ っしみーったんすぅがどぅ(私もほれ、海の中に入るということは去年までもしたことはなかったけれど)ばが 義姉ぬ かんちーてぃ うすみばどぅ っすやすかーてぃならーしふぃるば っししみーつかー まーんてぃ でぃきたーだら(私の義姉がこんなふうにしゃがめば やりやすよーと教えてくれたから してみたら 本当にできたんだよ)。うんからさい んにゃ いんぬ かぎさぬ ばっしらいでぃがー (それからというもの海のきれいさが忘れられないんだ)。あしば くとぅすっさ いんぶりっしゅーたーてぃぬばーだら(だから、今年は海に夢中だったというわけさ)。
してから一週間は、アッという間に過ぎ、東京に戻って、くま・かま発行がきて、いつもの生活です。また、さーてぃ がんばらっとー(また頑張りますねー)。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
vol.105 しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜。のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)。
武島さんから、戦争に関わる話を二つ(「初めての宮崎」と「初めての日本国憲法」)投稿いただきました。8月は、終戦記念日があるので、今月にふたつ紹介したいと思います。戦争を体験していない世代が増えていく中で、このような話が聞けるのは貴重ですね。「初めの憲法」は次号で紹介します。「初めてシリーズ」でこのようなことがあるとは、想像していず、そういう初めての経験もあるんだと思いました。好奇心いっぱいの武島さんと子どもを しわ(心配)する、親御さんや親戚の方の気持ちがなんとも言えないですね。みなさんの中にも、戦争に関する話がありましたら、ぜひ投稿をしてくださいね。お待ちしています!武島さん、どうもありがとうございました。
みゃーくふつの始まりはいつ?そして、宮古の人は、いったいどこから?地理的なことも含め、大変興味深い内容のひさぼうさんの「みゃーくふつの始まりの編」でしたねー。今使っている言葉を、あがた んきゃーんぬ(遠い昔の)みゃーくぴとぅ、あるいは日本人がしゃべっていたかと思うと、脈々と繋がれたみゃーくふつの凄さを感じますねー。
だいず、おっちょこちょいの私は、メールの宛先を間違えて、違う人に送ったこと数回。切手を貼らずに送ったことがあるというのは、多くの人が経験しているのではないでしょうか。ポストに手を突っ込んで取り返したいと思ったことは、1度や2度ではないですね。MKさんとの厚い友情、端からも分かりますねー。アモイさんのエッセイにいろいろなことを思い出した方も多いのでは?
シネマパニックの下地昌伸さん、ぱんたーぱんたのところ、快く取材に応じてくださり、たんでぃがーたんでぃいらー。くま・かまでは、これからも応援していきたいと思っています。体に気をつけて頑張ってくださいねー。オレンジ色のTシャツ、下地さんの顔をした太陽も魚も っずみ!です。
vol.105の貴方の感想をぜひお聞かせくださいね〜。すたぬ(下の)メールアドレス、または、掲示板での書き込み、お待ちしています。
次号は、8月18日(木)発行予定です。あつかーまたいら。がんずぅやしー、うらあちーよー(お元気でー)。