みなさん、こんにちは〜。すとぅがつやー(お盆ですねー)。うとぅざ んーな うがなーり(親戚みんな集まって)、賑やかなことでしょうね。みんなで回し読みするのもお薦めのメルマガです。
vol.106お届けしますー。
戦後60年 母ちゃんの記憶から
菜の花(伊良部町出身)
戦争が終わってたった15年後に私は生まれた。
これまでに、お父、母ちゃんから会話の端々に戦争の話を聞いたことはあるが、詳しい体験話は一度も聞いたことがない。というより話したがらなかったというべきかも知れない。
8月。今月は終戦記念日があり、新聞やテレビでは「戦後60年」という見出しが目立つ。私も母が元気なうちに母の体験した戦争の話を聞いておこうと思った。何回か電話で聞き取りをしたが、途中で声が詰まり話続けることが出来ず、電話が切れてしまうこともあった。それでも、母の気持ちが落ち着いているのを確認しながら何とか話してもらいまとめてみた。
戦争当時、母は8歳。だいたいのことは覚えていると言った。以下は母の記憶から。
海の方向からブーンという飛行音が聞こえてくると、人々は騒然となり各々の防空壕に逃げ隠れた。私(母のこと)は、両親、まだ嫁いでない姉、親戚家族の2世帯で壕を使っていた。壕は井戸を掘るような感じに掘られていた。正月用に作ってもらった着物があって、あんな(母親)は、着物をしまっておいても仕方ない。死ぬかもしれないならきれいな着物を着せておこうねと、着物と帯を出して着せてくれた。嬉しくていつも着物を触っていた。壕の中は狭くて、お尻でずって移動するので着物のお尻の部分は破れ、ほんとうに哀しかった。
空襲がひどくなり、防空壕も危険になってきたので家族は避難場所を墓に移した。人骨をどけてひと山にして筵で覆い(当時は土葬のため人骨はそのまま残っていた)空いた場所に一族で座った。うや(父親)は死ぬならみんな一緒だ。一族の墓だから、ここがみんなの墓になるべきと話していた。みんな一緒だったので怖くはなかった。
いつからか、空を飛ぶ飛行機の数が増え、飛行音がしたかと思ったらすぐ頭上にきていて、逃げる間もなかった。人影がちょっとでも見えると、すぐに機関銃の弾が空からこぼれるようにたくさん飛んできた。壕に逃げようとした赤ん坊を抱いた母親の頭にも弾が突き刺さり、「あえっ〜」という悲鳴と同時に赤ん坊をかばうように、ぎゅっと抱きそのまま死んでいた。腕の圧迫に泣く赤ん坊を母親からはずそうとしても、母親の両の手はきつく子どもを抱き、男の人たちが何人もかかってやっとの思いで赤ん坊を母親の腕からはずした。
畑から帰ったばかりのおじいは(部落内の知人)、耳が遠くて飛行機の音が聞き取れず、水瓶からシャコ貝に水を汲み手を洗おうとしたその瞬間に、機関銃に撃たれて腕が肩から吹き飛んだまま死んでいた。(当時は大きな水瓶が各家庭にあり、天水や井戸水を溜めて生活用水に使っていた。直径50センチくらいのシャコ貝もあり、洗面器代わりに使われていた)
子守をしていた時、飛行機と機関銃の音がした。背中に赤ん坊をおんぶしたままだし、自分たちの壕までは遠くて、近くの壕に入ろうとした。そしたら、壕の中から「入ってくるのが敵に見つかったら爆弾を落とされる。くるな!」と叱る声が飛んできた。仕方がないから、壕の入り口で小さくなって飛行機が遠くなっていくのを息もしないでじーっと待った。んなみまい うぬくとう ばっしらーいんどー(今でもそのことを忘れることができないよー)。
終戦当時の様子や、日本兵のことなども聞こうとしたが、母は電話などで話し尽くせるものではないからと言ってまた電話を切った。当時たった8歳の母の記憶ですら言葉を失うものがある。一部始終を記憶として保っている人たちにとってはどれほどのものであろうか・・・。
母の話を聞きながら、赤子を抱いたまま息絶える母親の断末魔が聞こえてきそうで戦慄さえ覚えた。戦争という「殺戮」はどんな言葉でも表現しきれないほど残忍なものであることを感じた。近隣同士でも、親戚であっても、「死」を賭けた場面では例え小さな子どもの生さえをも、拒まなければならない状況がうまれてくる。死の恐怖、自らの生に対する人間の心理がそうさせるのであり、一人の子どもをかばうことで大勢の人が死ぬかも知れないという状況では、その反応は責められるものでもない。
あれから60年。その間には戦争について一言も語ることなく逝ってしまった人もいることだろう。青い海、青い空、島に注ぐ太陽の光は戦争という惨い過去などなかったように感じさせる。しかし、確かに島は戦場であったのだ。
初めての憲法 (投稿)
平良市出身 長野県在住 武島玄正さんより
1935年生まれの私たちは『あたらしい憲法のはなし』という本で初めて日本国憲法を学びました。
今でも覚えているのは「戦争放棄」というるつぼに戦車や軍艦、戦闘機を入れて溶かし、電車や船や消防自動車が出てくるイラストです。手元に新日本婦人の会が復刻発行した『あたらしい憲法のはなし』(2004年発行)があります。
本の中の 6、戦争放棄 には、次のように書かれています。(抜粋)「皆さんの中には、今度の戦争に、おとうさんや兄さんを送り出した人も多いでしょう。ご無事にお帰りになったでしょうか。それとも、とうとうお帰りにならなかったでしょうか。・・・・・いまやっと戦争が終わりました。二度と、こんな恐ろしい、悲しい思いをしたくないと思いませんか。・・・・・戦争は、人間を滅ぼすことです。・・・・・そこで今度の憲法では、日本の国が、二度と戦争をしないように二つのことを決めました。その一つは、およそ戦争するためのものは、いっさい持たないということです。・・・・・もう一つは、よその国と争いごとが起こったとき、けっして戦争によって相手を負かし自分の言い分を通そうとしないことを決めたのです。」
沖縄でも内地でも戦争でひどい目にあった人なら共感をする文章です。旧制の中学がなくなり、新しく義務教育になった中学1年生が1935年生まれの私たちです。その私たちの先生はデモ・シカ(先生にでもなるか、先生にしかなれないのか)先生とか、宮古ではムーガー(いもも満足に買えないほどの安月給)教員といわれながら、年配の先生は教え子を戦地にやった悔しさ、若い先生は同年の人たちが戦争で命を失った悔しさから私たちに期待を寄せ、自分たちの夢を私たちに託して、思う存分に羽ばたくように指導されました。
とくに宮古高校受験組を担当された先生方はそうだったと思います。南中で担当された下地明増先生、北中で担当された宮国恵上先生(当時は、平良第一小学校、平良第二小学校があり、それぞれ平良南中学校、平良北中学校がありました)については関東南秀同窓会50周年記念誌に赤崎多喜夫、下地恒毅両君が書いているのでご覧ください。
復刻版『あたらしい憲法のはなし』の前書きにこの本の発行されたいきさつが書いてあります。
「憲法が施行されてまもなく憲法の普及を目的として新しく義務教育となった中学校の1年生(この1年生が私たち1935年生まれです)向け社会科教科書(副読本)として文部省が発行したものです。・・・・・政府が国民に対してあきらかにした公式の憲法解説書といえます。・・・・・しかし1950年朝鮮戦争、その翌年のサンフランシスコ講和条約調印など日本はアメリカよりの路線をとる中でわずか2、3年しか使用されなかった”受難”の本です」とあります。
「中学校の1年生の・・・・・」 について、私は中学校1年の1学期の途中から長欠して働き、2年1学期に編入してもらいましたので、級友達が1年のとき、この「あたらしい憲法のはなし」を学んだかどうか知りません。当時はアメリカ軍政下にあり、アメリカは日本との交流を嫌っていましたから教科書が満足に入ってきていたかどうか分かりません。
はっきりしていることは宮古高校入学試験に向けて、憲法とは、民主主義とは、基本的人権、三権分立など特に憲法前文については虫食い問題が出るのではないかと思い、暗記したことです。
この本については忘れられない思い出があります。もう何年も前のことで時効だと思うので白状しますが、この大切な『あたらしい憲法のはなし』を紛失してしまいました。仕方がないので当時1年先に卒業して給仕をしていた女性に頼んで書庫からその本を持ち出させました。もうひとつ、理由は忘れましたが、罰として職員室で神妙に反省するよう申し渡されていたのに、この女性から飴玉をもらい口に含んでいたのを先生に見つかりひどく叱られたこともありました。
『あたらしい憲法のはなし』を学んだ私たちにはアメリカ軍の傍若無人の振る舞いを許すことは出来ませんでした。私たちは日本人だ。日本国憲法が適用されて当たり前だ。と祖国復帰運動が起こりました。いろいろな方法で沖縄の実情が内地へ伝えられ、内地でも沖縄返還運動が大きく取り上げられ「沖縄を返せ」の歌は全国で歌われるようになり、運動は成功して私たちは、日本政府とアメリカ政府から日本国憲法をもぎ取ることが出来ました。
人を悪魔にする戦争の出来る国を自分の子供や孫に残してはならないと私は考えています。
お店紹介22 《茶房 とぅんからや》
松谷初美(下地町出身)
「茶房とぅんからや」は、上野村新里の海が一望できる高台にある。周りは、緑がいっぱいで、落ち着いてゆったり過ごすのに、上等の場所だ。お店をやっているのは、くま・かまのライターでもお馴染みの佐渡山政子さん。
「とぅんから」というのは、宮古の方言で「親しい女友達」という意味だが、(とぅんがらとも言う)親しい友達同士、また大切な人と一緒に気軽に来れる場所にしたいという思いで付けたのだそう。
その名の通り、お店には、宮古の人から観光客の方たちまで、家族や友達同士で、たくさんの人が訪れている。木のぬくもりのする店内は、明るくて、なんといっても、目の前に広がる海が っずみ(素晴らしい)!
お薦めメニューは、ランチの「もずく入りハンバーグ」や「薬膳そば」など。それから手作りケーキセットも んまーんま(おいしい〜)。特に「とーふのケーキ」は、最高です。
この「とぅんからや」のある敷地は、だいず広くて、もともとは、ご主人の佐渡山安公さんが、やきもの工房「太陽が窯(てぃだががま)」を開き、その隣りに「とぅんからや」ができた形だ。それが2000年2月のこと。
そして、今年の7月には、長男の亮太さん(28歳)が、同じ敷地内に「南国雑貨 ティダ」をオープンした。タイやインドの雑貨(クリスタル細工やネックレス、バックetc.)やネパールの民族衣装の生地を使った洋服などを扱っている。亮太さんは、タイを訪れた際、クリスタル細工に魅せられ、その勉強もしてきた。亮太さんの夢は、自分で作ったクリスタル細工を置くことだそう。
「太陽が窯」では、次男の公平さん(26歳)が、安公さんと一緒に、焼き物を焼いている。体験陶芸教室も開かれていて、オリジナルシーサー作りは、観光客に人気だ。いつでも受付しているとのこと。
安公さんと政子さんご夫妻は、お店以外にもいろいろなことをしている。安公さんは、大学卒業後、「宮古民話の会」を発足させ、たくさんの民話を収集してきた。(『みやこのみんわ』、『ぴるます話』、『どうぶつの昔話』など発行)また、「宮古島の神と森を考える会」は、今年12年目を迎える。
お二人は、長年、宮古の民族に関わってきて、その集大成ともいえる、「民族資料館」を2〜3年後に造りたいと思っているそうだ。これまで撮った祭りのビデオを上映するシアターや、写真、本なども展示する構想だそう。
「とぅんからや」の中にも、民話の本がたくさんあり、興味のある方には、お話を聞かせてくれるそうですよ。
おいしい食事と素晴らしい景色を眺め、「太陽が窯」や「南国雑貨ティダ」でも楽しめます。「茶房 とぅんからや」いきみーるよー(行ってみてね)。
《茶房 とぅんからや》
場 所 | 上野村新里1214番地 |
電 話 | 0980-76-2266 |
定休日 | 月曜日 |
ばんたがやーぬつかふ14
マツカニ(上野村高田部落西青原)
上野中学校に接する高田部落の西青原(イス゜オーバリ)支部がなつかしの我が古里である。
南側は、まいぬやま(前の山)、西側に高山と呼ばれた宮古特有の雑木林があり、里のいたるところに、フクギやガジュマル、ヤラウギー、ショウジギーなどなど様々な木々をみることができた。
んきゃーんな(昔は)、里で やーふき゜(家を建てること)があると、西青原共同の里山へ行って、各家庭に割り当てられたカヤを刈り集めたそうである。男手の無い家や、若者のいない家庭では、なかなかの重労働だったらしい。
まいぬやまや高山は昭和30年代、40年代は家畜のえさを調達する為、我々子供達の文字通りの草刈り場でもあった。やーふき゜も家畜の飼育も様変わりした現在は、整備事業によってサトウキビ畑に変わってしまっている。得るものもあった反面、失ったものもまた大きかったような気がする。
さて、自然の山々と同様、里の人々に多大な恩恵をもたらした人工物が、ばんたがやー(我が家)のすぐそばにある。カーズクと呼ばれるため池がそれだ。
柵も何も無い道路のそばのため池だが、我々子供達のかっこうの遊び場でもあった。ろ過装置の役目の小さな池があったが、水はたまりっぱなしのため相当汚かった。それこそプランクトンの宝庫だったに違いない。しかし、里の人々にとっては生活の拠点といってもいい場所だった。
洗濯はすべてここで行い、当時の主食であるサツマイモの泥落とし、農作業後の馬洗い、きざす゜(祝い事)には、わーやき゜(豚焼き)、ぴんざやき゜(ヤギ焼き)、ぬーまやき゜(馬焼き)などなどもした。テレピアという淡水魚もいたので、なんと釣りまで楽しめたのだ。(そして、から揚げにして食べた!)
夏になると我々のプールでもあった。僕も泳ぎはここで覚えた。先輩に突き落とされて必死になっていぬかきを覚えた。もぐってどこまで行けるか競走もやったが、もぐりすぎて底のヘドロを掻き分けてしまうと、水面まで真っ黒くなり特有のにおいを発した。浮き上がると同時に、ごくりと飲み込む事もしばしば。(オエ!)今考えると寒気がする。しかし毎日のように泳いでいたのだ。
水道電気とライフラインが整備され、無用の長物となった現在、思い出深い我がカーズクは、危険防止の金網が張り巡らされ、予算がつき次第埋め立てられる運命にある。
おしらせコーナー
松谷初美(下地町出身)
◆「アララガマフェスタ“あぱらぎミュージックpart3”」東京上野で開催
今年で3回目を迎えるアララガマフェスタ、出演者も豪華です。実行委員会では、やまかさ(たくさん)のご来場を呼びかけていますよー。
日 時 | 2005年8月28日(日)午後2時会場 2時半開演 |
場 所 | 上野水上音楽堂 (上野公園不忍池・湯島口 03-3828-9168) |
出 演 | 国吉源次、下地暁&どぅぐりーず、下地勇、仲本光正&クイチャーパラダイス、 かぎ花バンド&YHO天海、パニパニ、東風 |
司 会 | 垣花譲二、金子育子 |
問合せ | アララガマフェスタ実行委員会 豊島区駒込2-14-7(琉球センターどうたっち) 03-5974-1333 |
チケットは下記まで
琉球センターどうたっち | 03-5974-1333 |
銀座わしたショップ | 03-3535-6991 |
宮古郷土料理ラッキー | 03-3682-9676 |
編集後記
松谷初美(下地町出身)
くま・かまで、戦争に関わる話を掲載したのは、今年が始めてです。今までは、それに触れるのは、心が重いというのが正直な気持ちでした。
今回、武島さんから「初めてシリーズ」に、戦争に関わる話が送られてきました。前号の疎開の話も、今回の憲法の話も身近な人からは聞いたことがなかったので、本やマスコミから知るそれとは違い、すごく現実感がありました。身近な人の話を聞くことの大切さも感じ、今回のミニ特集となりました。武島さんの若い人へ伝えたい思いも、つぅーつぅ(強ーく)伝わってきたことと思います。武島さん、2回に渡り、ありがとうございました。
菜の花のお母さんの話は、何の罪もない一般の人が犠牲になる恐ろしさ、生と死が隣り合わせの当時の様子がありありと伝わってきますねー。あがいー、まーんてぃ あんちぬくとぅぬ ありゃーならんー(本当にそんなことがあってはいけないー)。菜の花のお母さん、お話たんでぃがーたんでぃでした。この話、ばんまい ばっしんようんすぅでぃ(私も忘れないようにします)。
「ばんたがやーぬつかふ」は、久しぶりの登場です。マツカニの生まれ育った高田部落も、その中でまた、支部に分かれているんですね。味わい深い方言の地名は、そのような小さく分かれたところに多いような気がします。カーズクでの光景は、まさにあの時代(昭和30〜40年代)の宮古ですね。
佐渡山政子さんの「とぅんからや」は、宮古に帰るたびに寄っています。ウチの息子がまた、ここのケーキの大ファンでからさー、全部の種類食べているはず。来年もまたおじゃまします。
さて、今号は、のーしがやたーがらやー(いかがでしたかー)?みなさんからのご意見、ご感想、投稿、まちうんどー。どうぞ、お気軽にお寄せくださいね〜。
それから、9月15日発行のvol.108では、敬老の日が近いことにちなみ、宮古のおじぃ、おばぁについての特集を考えています。元気な、おじぃ、おばぁ。うむっし、おじぃ、おばぁをぜひ紹介してください。さぁ、私達もあやかって がんずぅー(元気)でいきましょう。投稿お待ちしています!
次号は、9月1日(木)発行予定です。しまいぎーゆみふぃーさまい(最後まで読んでくださり)たんでぃがーたんでぃでした。すとぅがつ やーば(お盆なので)宮古に向って、とぅとぅーい(合掌)。