みなさん、こんにちは〜。
きょうは、二百十日だそうで、やはりこの時季は台風なんですねー。台風13号が大きな爪あとを残しませんようにと祈りながらvol.107 うくらっとー。(お送りします)
かじふき(台風)
神童(平良市出身)
みゃーくずまゆ ぷだ ふたゆー うぷかじし そぅっふぃたー かじふきかたぱがまぬ ぴりってぃ ながた(8/5)んつぬ そーっずぅ っすぅたー。(宮古島を二昼夜、暴風雨にさらした台風が通過した翌日(8/5)道路の清掃を行った。)
そーっずぁ んつん とーりゅー もくもーぎぃなぎゅう ぴゃーぴゃーてぃ んなさだかーならん。(掃除は、倒れているモクマオウなどを迅速に片付けなければならない。)
ぴさらぬ んつー んーんなやーば ぴとぅー 二つん ばきー っすぅくとん ないたー。(平良の道、全部だから 作業班を2班編成した。)ばんたが班な 荷―ゆ うーす 車ぬ にゃーんにば トヨタぬ ジープんぎ 車ん 機械ノコー 積みぃ みたーいぬ にんじゅ。(当方の班は作業用の運搬車両がないため、ジープのような車にチェーンソーを積み、3名の班員。)
んみ ぴとぅ班な 東アジアくぱりゃチャンピオンぬどぅ番頭 っしゅぅ2トン車班。くいたまい みたーいぬ にんじゅ。(もう1班は、東アジアくぱりゃ(不器用)チャンピオンを中核とする2トン車班 彼らも3名の班員。)
かじふき あとぅぬ うぷあみ やなわーつきんなかん んまかまぬ んつん とーりゅー もくもーぎーゆ 機械ノコし ばっつぁい やまんかい てぃっふぃ んなす。(台風のあとの大雨、悪天候の中で あちこちの道に倒れている モクマオウの木をチェーンソーでぶつ切りにし、撤去していく。)そーっずぁ ゆさらび5時ままいんど 終わいたー。(作業は、夕刻5時前に終了した。)
ばんたが班な 終わりゅーすぅが 2トン車班な のーしがらや?(オレらの班は終っているが、2トン車班はどうだろう?)まさか、車そぅい んざがらーん ぶりんきぃ うらんぱずやー?(まさか、車ごとどこかで脱輪していないよね?)かぬ くぱりゃーや 2トン車ゆ ぶりんかしゃー みゃーくいつやーば!(あの不器用な奴は2トン車を脱輪させるのは宮古一なんだから!)ぼーりんぐぅや ならんすぅがさい!(ボーリングはダメだけどさ!)
会社ん むぅどぅり かぱゆ んぎぃ かーらかさってぃ うりばどぅ 携帯んかい 着信。(会社に戻って合羽を脱ぎ、乾かそうとしていると携帯に着信。)あしどぅす!2トン車ゆ ぶりんかしぃにゃーんっつぁ。(あにはからんや!車を脱輪させただって。)ジープし ぴきぃふぃーる てぃぬ ばー。(シープで引き上げてちょうだいとのことだ。)えげーーっ 残業な!またんどぅ かぱー きぃしぃ 現場んかい。(ちっ、残業かよ!再び合羽を着て現場に向かう。)
現場ぁ 植物園ちびなぎぬぅ大野山林。(現場は植物園後方の大野山林)大野山林ぬ なかんどぅ ばっつぁいたー 木ぃぬぅきゃーゆ うつきゅー とぅかま(ヤード)ぬどぅ ありゅー。(大野山林の中に倒木等を一次仮置する所(ヤード)がある。)電話ー うぬ つかふからどぅ かきらいゆー。(電話は付近から発せられている)あっすがどぅ っすぁいん。(しかし、解せない。)普通や 車ぁ ぴらさん んつやーすぅが?(普通は、通行しない場所なんだけど?)
現場ん いきぃばどぅ ちびぃ しーぬぅ 2トン車ぬぅ みーらいどぅ。(現場に行くと 後ろ向きの2トン車が見える。)ぶりんきゃー うらん。(脱輪はしていない。)ぴんな むぬぅ のーてぃぬぅ ばーいりゃー?(変だ、どういうわけだ?)
んじぃ のーてぃまい あぃしぃ。っすぅきぃ みーっちゃー。(さぁ、何でもお言い。聞いてみるからさー。)「ヤード入り口に水が溜まっていたので、別ルートで帰ろうと考えました。大雨なので視界が悪く冠水している道路を通り抜けようとしました。ところが走行中にエンジンが停止しました。」
んなんな あんしぬぅ くとぅまい ありさいっ。(ふむふむ そういうこともあるな。)2トン車や ちびー っしゅうーばぁ ジープし ぴぃかいん。(2トン車が後ろ向きなので、ジープで引くことができない。)ジープしー まーつぁき きぃすたー ボギー正邦んかい ジープぅ まーらしぃくぅーてぃ ぴらすたー。(シープで一緒に来たボギー正邦に2トン車前方に移動するよう指示した。)
ボギーが ぴりからー うぬぅ くぱりゃー かかみきぃぬ電話。(ボギーが行ってから この くぱりゃーは、大急ぎで電話をかけた。)「2トン車前方は水深が1m以上あるから無理です!引き返して下さい。」んなまー まちぃ!のーってぃ まうきゃーぬ 深さー 1mてぃ っしゅぅ くとぅが?(ちょっと待てー!なぜ、水深が1mだと解るんだ?)
まーんてぃぬう ぱなっすぁ かんちぃぬぅ ばー。(真相はこうだ。)2トン車や みっずぁ だーぶだーぶてぃぬぅ とぅかまがみ いきぃ バッテリーぬ みずんかい つきぃ 止まうたーっつぁ。(2トン車は、水がだぶだぶしたところまで行ってバッテリーが水につかって止まったのだ。)やらばん あしぃ!(そうだろ!)(倒置法))
っしぃてぃ ふたーいしどぅ 2トン車ゆ うしぃ きぃすたーっつぁ。(そして 2人で 2トン車を押してきたんだと。)みーるばどぅ たーっふぃ うーさいが。(見てみると死の一歩手前のようだ)あっすぅがどぅ のーしぬぅばーやしぃー かなまいから ぱぎぃがみ ざうんみぃんなりゅーが?(でも、どういうわけで頭から足までずぶ濡れになっているんだ?)
くいたー1mばかーいぬ みずなかん びらきぃ、むどぅり きすたー 2トン車ん うすつみらい うふき すなってぃ すたーぎ どーり。(彼らは水深1メートルくらいの水の中で転び、戻ってきた2トン車に轢かれそうになって死にそうになったらしい。)まーーーんてぃ どーりゃーにゃーん んまりぬきゃー!(まーーーったく、どうしようもない奴らだー!)1mん ないがみ 車ゆ ぴらす ぴとぅまい うりゃー?(水深1mになっても車を走らせる人がいるかー?)車ぁ ふに びゃー?(車は船か?)
2トン車ぬ 修理代ゆばー どぅーし ぱらい!(2トン車の修理代は自分で払え!)あらだかー うわぁが てぃまーから ぴかっちゃー!(そうでなければ、お前の給料から引いとこうね!)
画家 久貝清次さん
松谷初美(下地町出身)
帽子と髭が良く似合う久貝清次さんの姿は、先月から新聞などでご覧になっている方も多いことでしょう。久貝さんは先月6日、受詩受画『おかあさん』で第28回山之口貘賞を受賞した。
久貝さんは、宮古は鏡原七原の出身。上京してから50年が経つのだそうだ。久貝さんは、自身の絵を、受画と呼ぶ。例えば、一色の絵の具を塗り、そこを見つめるうちにいろいろなものが見えてくる。そのイメージを受けたまま描くのだという。半具象化された絵は、見る人にもいろいろな想像をよびおこさせる。昨年、「音楽・ダンス・絵画のコラボレーション」で展示されていた絵を見に行ったが、圧巻だった。
久貝さんは、いみっちゃぬ とぅき゜(小さい時)から絵が好きだったが、自分が上手だと思ったことはなかったそうだ。小学一年生の時、学校の授業で描いた絵が賞をもらった。全校生徒の前で校長先生から名前を呼ばれ、表彰されたことで、自信を持った。「子どもは褒めて育てるものだねー」と久貝さん。
家で算数や国語の本を開くとすぐ にうたーにうた(眠ーく)なってくるが、絵を描くと一晩中でも起きていられた。「母はそれに対して不思議と止めなさいとも言わなかったねー」
高校生の頃、映画館の看板を描いて学費を稼いだ。それまで大きな絵を描いたことはなかったが、ポスターに罫線をいれ、看板にも同じようにして、描いたらうまくいった。自分自身で考えた苦肉の策だったが、高校卒業後に入った、御茶ノ水美術学院研究科で同じことを習った時はびっくりした。遠近法も習う前から習得していた。
卒業後は、創作活動を続けながら、資生堂の花椿のアートデレクター仲條正義デザイン事務所や高島屋宣伝部にデザイナーとして勤務。現在は、東京デザイナー学院講師。
東京の生活が長いが、ふるさと宮古のことは片ときも忘れたことがないという。お母さんは特別何かを言う人ではなかったけれど、深い愛情を感じて育った。そして、やらびだぬ(子どもの頃の)悲惨な戦争体験から、戦争を二度とおこしてはいけないと、2001年、2002年に沖縄で「平和への祈り 久貝清次展」を開き、反響を呼んだ。
上京してからは、つらいこともたくさんあった。詩は、そんな時に自然と出てきた。自分を励ますために書いている部分もあったという。詩は、シンプルな言葉で書かれ、(ほとんど ひらがな)とても柔らかく包み込むようなのが多い。時折、久貝さんの見つめる先の淡々とした表現にハッとするものも。生きるということの強さや優しさがにじみでた深い詩に心打たれる。
久貝さんの絵と詩が一緒になった、受詩受画『おかあさん』(2000円)は、下記の場所で購入できるそうです。
ブックボックス(宮古、那覇、宜野湾)、安木屋(那覇市一銀通り)、リブロ(パレット7F)、球陽堂(新都心サンエー2F)
久貝さんのホームページで、受詩受画『おかあさん』のいくつか見ることができます。その他作品の紹介などもあります。ぜひご覧ください。
(久貝清次さんのHP)
http://goo.gaiax.com/home/jyuga
思いでの“つな しいどぅ(綱生徒)”
ワタリマリ(上野村出身)
私の生まれ育った宮国では盆の最終日に大綱引きが行われる。
1771年の明和の大津波以降が開始時期といわれ、その目的は干ばつの雨乞いだったとされている。宮国公民館前の道路で東組と、西組に分かれて行われる伝統行事である。(「上野村誌」1988年発行より)だいず んきゃあんからどぅ あーさいが(ずいぶん大昔からあるのね)。
この大綱引きの中心的な役割を担うのが「つな しいどぅ(綱生徒)」と呼ばれるしま(集落)内の中学2年の生徒たちである。綱引きに使われる綱は、キャーン(植物で蔓の一種 和名:シイノキカズラ)で作られる。それを採集することから始め、綱(約直径50センチ、長さ20メートル)が出来るまでの行程をリードする役目だった。それを誰かが任命するのでもなく、当たり前に中2になったら「つな しいどぅ」という意識のなかで、育てられている。代々続いてきた役割分担のひとつで、地域社会参加へのデビューともいえるのでしょうか。
「うりゃあ いふつりゃあ(その子おいくつ?)」と聞かれれば、「つなしいどぅ さあ」「あっかあ 来年な 受験さぁ」との会話が成り立つくらいに宮国ではメジャーな呼び方であり、新1年生と同じくらい特別な存在だった。もちろん私も「つな しいどぅ」を経験して地域に育てられたられた一人である。
中学2年生、思春期の夏は、男子はキャーンを採り、女子は採集現場への飲料水やアイスケーキ(アイスキャンデー)、おやつなどの差し入れで忙しかった。いや最高に面白かった。楽しみながら遊びながら、労力を惜しまずに働いた。
ここだけの話、父だか、伯父だかのバイクを無断拝借して無免許運転をするという悪さもこの「綱しいどぅ」でおぼえた。だって採集現場は海の近くのトラパーチン(石の名前だが、地元では場所の名前にもなっていた。現在、プールやら、ゴルフ場がある所)という、そのころでは遠い遠い山だったんだから。アイスが溶けてしまうので自転車よりもバイクのほうがいいのだ。
それに飲料水を入れた「すいかん(水タンク)」の重さだって半端じゃない。無免許で悪いことをしているという意識はこれっぽっちもなかった。ただ、無謀な運転をする友のバイクが、その後ろで、すいかんをささえて乗っていた私ごとひっくり返り、借り物のすいかんに穴が空き、こっぴどく怒られたことはあったが・・・。今でも同窓が集まるとその話題で盛り上がる。
また恥じらいの年頃でもあり、キャーンの採集に一生懸命の男子生徒に差し入れという形で近づくのは、どきどきでうれしくもあった。差し入れを直接手渡したので、あの子とあの子はできちゃった・・なんてからかわれて顔を赤らませるうぶな友もいた。うんがぴゃさ びきぶりゅうばあ すうん(そんなに早く男の子に夢中にならんよー)大人たちの心配はそこにもあったが、そこまで大人びてはいない。
キャーンの採集には女子も加わったが、その後の大綱引きまでの流れは、ほぼ男子生徒に任されいた。採集したキャーンを干し、敵組がキャーンを盗みに来ないように夜な夜な見張りをする。そして大人たちの中に入り、いよいよ立派な つなかき(綱つくり)をし、つなぴきぶどぅい(綱引き踊り)を見よう見まねで踊りながら公民館前まで綱を運ぶ。そこでメス綱(西組)とオス綱(東組)をつなぎ合わせ綱の引き合いが始まる。
「つな しいどぅ」のおかげで 宮国の人たちは、年に一回の うぷつなぴき(大綱引き)を大いに楽しむことができるが、楽しんでいる大人たちもまたかつては「立派な つな しいどぅ」だったのだ。ちなみに東が勝つと豊作、西が勝つと干ばつといわれているが何の根拠もない。
14、5歳の思春期真っ只中の少年少女たちは、こうして村から与えられた任務を無事に終え達成感と責任感に喜びを感じてた。「つな しいどぅ」は、これだけ大きくなった成長の証でもある。綱引きが終わった綱の頭は「つな しいどぅ」によって切り落とされ、それぞれの組の御嶽に祭られるのだが、その儀式の意味を違った視点から考えれば、それは「つな しいどぅ」の子供から青年期(大人)への脱皮の儀式でもあるように思えてくる。
つなしいどぅワールドを経験した私たち同級生の絆は他の部落のそれよりはきっと強くて深いと思う。「つな しいどぅ」なるものを存在させた昔々の人たちは、現代よりも子供の心と体の発達をより深く把握していたのかもしれない。
現在では、一連の流れに女子生徒も加わっているが、これもまたご時世でしょう。少子化で子供の役割もだんだん小さくなってきているが、どんな形にせよ、この大綱引きの行事がいつまでも引き継がれていくことを願っている。
亡き友がお盆に会いに来た
クイチャーマン(下地町出身)
この夏の すとぅがつ(お盆)に ぴるますーぬ(不思議な)体験をした。今年2月に急逝した親友のNくんが、私と会いたかったとでもいうようにお盆に帰って来たのだ。
Nくんは琉球舞踊の名手で、若いころ海外公演の経験もしていた。下地中学校の同期会でも常に余興の舞台を盛り上げてきた。専門のステンレス加工の技術を活かして働いていた。彼とは同じ下地町の与那覇の出身で幼馴染み、しかも数十年ずっと一緒にクイチャーを踊ってきた。
8月19日、その日は旧暦の7月15日で、沖縄のお盆の3日間の最終日「うーっふゆー(沖縄ではうーくい)」(仏を後生に送る日)であった。 私は日ごろバスで通勤しているが、その日は息子の車が空いたので使うことにした。仕事帰りに初盆を迎えたNくんの仏前に焼香することにしていた私にとって、車が確保できたのは好都合であった。
沖縄自動車道を通って職場まで約30分かかる。音楽を聴きながら運転することにし、部屋の隅に無造作においていたカセットテープを3本手にした。いまどき珍しいが、この車にはCDやMDプレーヤーはなく、カセットテープだけが聞ける。そのことがNくんとの「再会」を引き寄せることになった。
「カラオケハウスとまとで、2004年3月13日」と書かれたシールの貼られたテープを最初にかけてみた。エコーの効いた歌声やコメントから、宮古民謡保存会が、「国立劇場おきなわ」の柿(こけら)落とし公演でクイチャーを踊ったあと、慰労会を終えてカラオケの好きな人だけ二次会に行ったときの録音であることが分かった。役員の一人が気を利かせて録音し、ダビングして私にもプレゼントしてくれたものであったが、一度も聞いていなかったものだ。
一般道路から自動車道に入って間もなく、びっくりすることが起きた。数名が歌い終わってから「次はNの番だ」と、進行役をしていた私の声がしたのである。Nくんは『海人』(うみんちゅ)という、うき゜なーふつ(沖縄方言)の歌を熱唱したあと「今日のクイチャーは、笑顔で一生懸命踊りました。楽しかったです」と語った。
私はこのテープを聴きながら「Nがお盆に会いに来たよ、と私に知らせてくれたのだ」と感じ、涙した。初七日の焼香のときに、Nくんに渡しそびれていた柿(こけら)落しのクイチャーの記念写真を霊前に届けたのを、彼は喜んでくれたのだとも思った。
親友を亡くした悲しみは大きかったが、こういう形でお盆に会いに来てくれたのだと思うと、胸が熱くなる。「あんっかーらまた、やーにいら」(それではまた、来年ね)私は合掌しながら遺影に向かって小さく声をかけた。
うくいびー(送り火)(投稿)
ビートルズ世代のサラリーマンさんより(平良市出身 埼玉在)
去った19日、うくいびーの時に、宮古へ電話を入れました。携帯電話の向こうから、「すとぅがつ(お盆)」の変わらぬ様子が感じられ昔を思い出しました。
子供の頃の「すとぅがつ」は、かんだな(神棚)の掃除で始まりました。ご先祖様の写真や位牌の埃を払い、香炉、湯呑、酒杯、花挿等の用具を洗い、綺麗にした神棚に再配置します。香炉のからぱす°(灰)は、ふるいにかけ、線香の残塵などを取り除き、花挿には、お盆用の切花の他に庭から採ってきたクロトン等を添えます。仕上げは、両側に提灯を取り付けます。
うくいびーには、「かびす やき(紙焼)」の準備です。ご先祖様があの世でもお金に不自由しないようにと、たくさんの「かびす じん(紙銭)」を打ち、底に水を張り「ばそう(芭蕉)」の葉を敷いた金だらいを用意します。紙銭を燃やす時に使う、ながーながぬうみゃす(長いお箸)も庭の木の枝で作ったものです。
毎年、汗を流しながら神棚の掃除をやる行為や紙焼の準備をすることがいつのまにか、僕にとっての「すとぅがつ」となっていました。島を離れて内地に住むようになって、あの頃のことをなつかしく思い出します。
何時の頃からか、紙銭は市販のものを代用するようになり、家々から「かびす うつ(紙打ち)」の音が消え、芭蕉の葉もアルミホイールに取って代わった。「すとぅがつ」の道具は時代と共に変化して行くかも知れないが、うつざ(親戚)が うがなーり(集い)、先祖を想う「すとぅがつ」のくくる(心)は、何時までも変わらずにいて欲しいと思う。
電話では、島に戻れない なさきやにゃーん(薄情者の)僕の分まで「てをかみて(手を合わせて)くれ」と頼みました。そして、携帯を持っていない片方の手で、すまんかい ふつばしー てぃーをかみました。(島に向かって手を合わせました)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
台風13号は、もう去っていったでしょうか?被害が少ないことを願っています。
さて、vol.107は、のーしがやたーがらやー(いかがでしたかー)?
神童からもらった台風の話を!と考えていたら、ちょうどまた台風が来て、同じようなことが起こらなければいいなーと思いながら、編集していました。くぱりゃの私もひと事ではないさいがー。ともあれ無事に救出できて良かった、良かった。
それから、すとぅがつ(お盆)が終ってすぐということもあって、今回は、すとぅがつの話がたくさん集まりました。
クイチャーマンさんの話は、気持ちすごく分かりますねー。会いに来てくれたら、どんだけ ぷからす(うれしい)ことでしょうー。特に新盆のときはそうでしょうね。宮古では、かんたな(仏壇のことを神棚という)の前で、亡くなった人があたかもそこにいるように声を出して話し掛ける。亡くなった人とも濃ーい関係を保っているように思いますね。
ワタリマリは、今年の すとぅがつに里帰りをし、綱を引いてきたとのこと。そして、懐かしい「つな しいどぅ」のことを思い出したそう。12歳の気持ちが生き生きと書かれていて、伝わるものが多かったのではないかなーと思っています。200年以上の歴史のある「宮国の大綱引き」。ばんたが おばあまい、若い頃は下地から上野の宮国まで歩いて見に行ったそうです。次世代に繋げていくことは大変なことでしょうけれど、いつまでも続いてほしいですね。
ビートルズ世代のサラリーマンさんのは、掲示板に投稿されたものをメルマガでも紹介させていただきました。加筆もしてくださり、感謝です。そうそう、すとぅがつの かんたなの掃除などは、やらび(子ども)の仕事でしたよねー。「かびす じん(紙銭)」を打っていたのも今は昔の風景となりましたね。懐かしく思い出された方も多いのではないでしょうか? 投稿、ありがとうございました〜。
久貝清次さんには、2時間に渡りいろいろなお話を聞かせていただきました。家が鏡原とカザンミで近いということもあり、あの辺りの話や、子どものころの話なども宮古なまりで やまかさ話しました。今回の受賞は、同じ宮古出身者としても大変うれしく、誇りに思いました。今後のご活躍も期待しています。たんでぃがーたんでぃでした。
(訂正)
前号、vol.106の「茶房 とぅんからや」の紹介で「民族」と書いたのは「民俗」の間違いでした。大変失礼しました。訂正してお詫びいたします。
vol.107のご意見、ご感想、ぜひぜひお寄せくださいね〜。まちうんどー。
それから、10月に「笑い」の特集ができたらなーと思っています。「ばかすき(可笑しい)」話、ばた(お腹)が、んにゃ(大変)とするくらい大笑いする話がありましたら、ぜひぜひご投稿くださいね〜。よろしくお願いします!
次号は、9月15日(木)発行予定です。
きょうから9月、張り切ってまいりましょう〜。あつかー、またいらー。