こんにちは〜。 ぬふーぬふの日があったかと思えば、ぴしーぴしだったり
3月は、冬と春が まんちゃーして(混ざって)ますねー。 くまかまでは、ぬふーぬふに(暖かく)なってもらいましょう〜。
今号も、いろいろな話題満載どー。vol.120スタート。
映画『えんどうの花』とクイチャー
クイチャーマン(下地町出身)
石垣島出身の音楽家・宮良長包(1883〜1939年)の誕生120周年、戦後60周年記念作品として制作された映画『えんどうの花』が完成し、3月18日に石垣市民会館で封切られる。その後那覇市(3月27〜31日)、宮古島市(4月2〜3日)、東京(4月15日)など、全国で上映される。上映日程などについては「シネマ沖縄」で検索し、同社のホームページで見ることができる。
この映画の監督は宮古島市城辺出身の本永良夫氏である。監督から映画にクイチャーを踊る場面があるので協力して欲しいと電話があったのは、昨年12月中旬であった。早速、宮古民謡歌手の国吉源次さんとも連絡を取り、監督と三人で打ち合わせをした。
ぴるますむぬ。のーはーいら、やーまぬえいがんけー、みゃーくぬクイチャーゆいださでぃがら(不思議だ。なんでかねー、八重山の映画に、宮古のクイチャーを出すのかねー)と思ったので、率直に監督にきいてみた。監督は、顔をほころばせて「八重山の歌も、沖縄本島の歌も、久米島の歌も歌われるんです。90分の中に二十数曲も演奏される言わば音楽映画です。宮古の歌が加わることで、より豊かな広がりも出てきます」と話された。私にはその意味がすぐには理解できなかった。
頂いたシナリオを読むと、歌ったり演奏されたりする26曲の中で、クイチャーを踊るシーンは23番目、映画の終盤であった。場面設定は、沖縄本島南部の具志頭で開催される「村芝居」に特別出演するため、宮古からポンポン船とサバニを乗り継いで、踊りにやって来たという。このシーンは、監督が宮古出身でなければ設定されなかっただろう。監督はクイチャーを入れることで、長包の沖縄音楽全体への確信と展望を示し、そのような長包に対する監督の共感と、ふるさと宮古に寄せる思いを重ね合わせているのだと、私はようやく理解した。すばらしい監督だと尊敬している。
去る1月15日、よく晴れたロケ当日、物静かな感じの監督とは対照的に熱く燃えた国吉源次さんと、宮古民謡保存会のクイチャー愛好者約30人が、海辺の特設舞台でヒーヤサッサの掛け声も高らかに「漲水の(ぱるみずぬ)クイチャー」を披露した。踊っていて私もズミ(最高)であった。客席には地元・具志頭の住民多数と、指笛王国おきなわの指笛の名人たちも参加し、拍手と指笛で喝采を送り、盛り上げた。
映画では教壇に立つ長包の生徒への指導風景や、家庭での親子関係、妻安津子との夫婦愛などが時にユーモラスに展開する。東京在住の長包の末娘園子さんへのインタビューもあり興味深い。長包役の西表島出身の歌手池田卓の演技は前評判も高く期待している。
本永監督は1951年生まれ。宮古高校から琉球大学を経て(株)シネマ沖縄へ。これまでは沖縄に視点を置き、記録映画などを手がけてきたとのこと。大作は初めてという監督は、『えんどうの花』の封切を前に「八重山は盛り上がっていますが、宮古もすごいです。映画を観た皆さんが、ニコニコして、浮き浮きした顔で会場を出てきてくれると嬉しい。ぜひ多くの方々に観てもらいたい。クイチャーも良かったですよ」と話しておられた。
ばんめー、ぴゃーぴゃーてぃーみーぶすむぬどー。(私も、早く観てみたいさー)
どこまでいっても“THE宮古な本”『下地勇/心のうた』
宮国優子(平良市出身)
下地勇さん。公私ともに、本人の前でも大ファンということを豪語しています。宮国です。本人の前では鼻血が出そうになるのを押さえて、5センチほど浮きながら話をしています。いつも だいず どぅぐりです。
でも実は勇ワールドは封印しています。何故かというと、家庭崩壊しそうだからです。いえいえ、誤解しないでくださいね。決して私が熱烈ファンでストーカーというわけではありません。深いわけがあるのです。
初めて勇さんの歌を聴いたとき、なだ、だだだだでした。聞けば聞くほど自分の中の宮古をリアルに感じてしまって足下グラグラ膝ガクガク。私は平良の市内出身だけど、亡父が久松出身。歌の内容や方言度合いが私の心を宮古へと向かわせるのです。勇ワールドにはまると、思わず荷物をまとめて宮古行きの早朝便に飛び乗りそうになるのです。
でもこの本のおかげでこれからの私は少し冷静になれそうです。これからはちゃんと聴くこともできそうです。その時は必ずこの本を常備するつもりです。本無しだと私の中の根拠のない郷愁をあおられ、宮古まで吹き飛ばされそうですから。
この本のどのページを開いても励まされる、元気になれる。「私も自分の場所で頑張らなきゃ」と。だから荷物はまとめません。本を読み終わったとき、胸に迫ってくるのです。まんてぃ、彼の生き方や考え方に「こころ」があるから勇さんの歌は強く響くのだ。この本からは彼の心の立ち位置が見えてくる。まっとうななその生き方が宮古に逃げようとする私に鞭を打つのです。彼が存在するところには宮古の風景や人々がともなっているし、彼の「現在」は連綿と続く宮古物語なのです。それは(器はちがっても)自分もそうなのだと思うから。
それから勇さんの写真は勿論ですが、文章も絶妙。サービス精神満載。インタビューからは息づかいも伝わってきます。どこまでいっても「THE宮古な本」です。宮古を体感できます。だから勇ファンじゃなくても絶対楽しめると思うのです。あぁもうこれ以上は書いたらとまらんので書きません。ちなみに写真はP27が好きです。
最後に一言だけ言わして。
今度生まれ変わったら一度は学生時代の記念に告白したいです。え、何を言っているかわからんって?本の中に答えはあります。ふふふ。
思い出の写真ーーー途切れた文通
アモイ(平良市出身)
2〜3年前に帰省したときだったか、お袋が家にあるアルバムで我々の子供の頃の写真を見た事を楽しそうに話しするのであった。「はーいうわたーやー、やらびぱだー、ベトナム人がまにゃーんどぅ、っふくるくるてぃうーきす、うぬとぅきぬ、うむっし写真ぬありうーばみーみーる」(あのさ、あんたなんかは、子供の頃は、ベトナム人みたいに真っ黒だったんだよねー、その時のおもしろい写真があるから見てみれ)と言われてみせられた写真は小学6年生位の頃に隣近所の草刈仲間4人で写っている写真だった。
昔見た覚えはあったが、改めて見てみるとほんとに懐かしい。俺ともう一人はスプリング(半袖肌着)姿だ。4人のうちの一人が他界してしまっており、胸が痛む思いでしばらく写真を眺めていた。ほんとに時の流れの速さを感じずにはいられない。そして、写真からもう一つの小学校時代の出来事を思い出し、ああ・・・あの時にこの写真が存在していれば今頃は??なんて思いでを通り越して想像の世界へと入り込んでいた。
40年位前に、現在のように携帯電話やeメールができる時代がやってくるなんて想像していた人がいるだろうか?私はその頃小学生だった。当時、今のBBS(掲示板)やeメールのような通信に相当するものと言えば、交換日記や文通などであろうか。交換日記をやるほど几帳面でませた子供ではなかったが、文通はちょっとだけやった事があった。
あれは小学校の4年年生の時だった。学校で本土の小学校の生徒と文通しようという活動があり、本土の学校から文通友達を求めた手紙が届いたもので先生がクラスのみんなに適当に渡してくれた。私も一通もらって返事を書いて文通がはじまった。
手紙に書いた具体的な内容は忘れてしまったが、学校の事や家の事などを書いたような覚えがある。そして、2〜3度目の手紙をうけとったのであった。封筒がいつもより厚くて、なんだろう?とおもいながら開けてみると、中に写真が同封してあった。その写真は、本人と友達と2人で写ってるものだった。へー、すごいな、本土の人はこんななんだ。モノクロ写真であるが、色が白くて垢抜けしているのがわかった。やっぱり、ばんたにゃーんぬ、っふがー(俺達みたいな色黒な)少年とは違って都会的なんだなーと思ったものだ。
その手紙には「次の手紙で君の写真も送ってくださいね」と書いてあった。写真か??「しまい、うくらいぶすき写真なありべーやー」(まてよ、送れそうなな写真があったかなー)家に帰って写真を探してみたが、自分の写っている写真と言えば、入学式や終業式とかの写真しかない、普通の生活の場面で撮った写真というものがないのであった。どうしようか??そうか相手に送れるような写真を撮ってもらえばいいのか、
でも、うちには写真機がないし、どこかに写真機をもっている人がいないもんかな・・・。そういえば、J子先生が学校で写真を撮っていたのを見た事がある。そうだ、なんとかJ子先生に撮ってもらう事ができないだろうか。しかしそのJ子先生に受け持たれた事もないし、おそらく俺の顔も名前も知らないだろう。どうやって頼む?その頃は先生に気軽に話しかけられるほど標準語もうまくなかったし、先生に話しかける事自体が勇気の要る事だったのであった。
だけど写真がないと手紙の返事が書けないんだ、職員室に入る度胸もなかったアモイ少年はJ子先生が一人で歩く時が声をかけるチャンスとして狙っていた。ついに休み時間に一人で廊下を歩いているJ子先生を見つけてよーし今だ、と走り寄り勇気を出して「J子先生!」と呼び止めた。
「なーに?」と立ち止まった先生に、くぱすくぱすてぃぬ(たどたどしい)普通語で「J子先生、ぼ、僕の写真を撮ってください」とお願いしたのだった。先生の返事は、「え、写真?あー、写真ね、わかりました、そのうちにね」というような答えだった。用を成さないほどのほんとに短い会話だったが、それでもアモイ少年は やった!!と思った。写真を撮って貰う事よりも勇気を出してお願いできた自分の行動が嬉しかったのであろうか。
その後はJ子先生がそのうちに写真を撮って呉れる?と思いながら待っていた。1週間、1ヶ月、2ヶ月が経ち、3ヶ月が経っても声はかからなかった。J子先生はもう忘れてしまったのだろう、アモイ少年はついに手紙の返事を出す事が出来ずに文通は途切れてしまった。J子先生が写真を撮ってくれなかったのがいけないんだ、と当時はJ子先生をちょっぴり恨むような気持ちになっていたものだ。
文通の相手は和歌山県の小学校の同学年だった。送られてきた写真はどこへ行ったかわからないが、名前は「○水○二」といい今でもはっきりと覚えている。文通の事を思い出してからその時の事を謝る事ができたらいいのになーという気持ちになり、ネットで名前を検索してみたのだったがヒットしなかった。捜し当てたところで40年前のそんな事など相手は、とうの昔に忘れ去っていることだろう。
あのスプリング姿の写真はカメラを借りてきた隣の先輩に撮ってもらったものだった。当事、文通で送りたかった写真のイメージそのものだ。J子先生には、文通用の写真は取ってもらえませんでしたが「途切れた文通」という思い出を残してもらい感謝している次第です。
黒潮の流れに乗って
カニ(平良出身)
昨年のクイチャ−大会で、創作クイチャ−の部に「ヨサコイクイチャ−」が出てきた。遂に土佐のヨサコイと宮古島のクイチャ−が繋がった。いつかは繋がるだろうとカニは思っていた。椰子の実が黒潮の流れに乗って、愛知の知多半島にある伊良湖岬まで流れていくように、先島の民謡も黒潮の流れに乗って上っていくのでは・・・そんなことを思い浮かべるようになっていた。
くまかまの掲示板にも載せたことがある、「与那覇ヨンシ−」という労働歌も、最初は「国頭サバクイ」という名前で国頭村から発し、黒潮の流れに乗って、マ−ラン船の船乗りやバクロウ(牛馬の仲買人)、それに出稼ぎ労働者らにより、南は多良間島(多良間ヨンシ−)、北は種子島(庄司浦)まで伝わっている。それほど、この歌は親しみやすく、皆で競演する民謡として相応しかったのだと思う。
「あ〜ははははは」「い〜ひひひひひ」という笑いのあるこの歌を聞いていると、実際に元気になってくる。南島の人々はその昔、われわれの想像をはるかに超えて、海上交通で他地域との交流をしていた。沖縄本島のヤンバルの山村に生まれた「国頭サバクイ」が、種子島の船乗りや沖縄の漁師により、黒潮を北上して種子島まで伝わっていることに、カニは吃驚し、さらに黒潮の流れに乗りもっと北の国まで伝わっていくのでは・・・などと想像している。
カニは本土の学校に入った頃、宮古島から持ってきたのは、国吉源次らの歌う「宮古民謡」のテ−プだけだった。カニは時々、その国吉源次氏の歌う「宮古民謡」を聞き、古里・宮古のことを思い浮かべていた。また、沖縄本島の民謡、八重山の民謡も後から、送って貰い、3つの民謡を比べながら何度も聞いていた。
明らかに宮古民謡のリズムは沖縄本島、八重山とは異なっていた。沖縄本島民謡と八重山民謡は異なるが、しかし2つはどこか調べが似ていた。ところが宮古民謡はまったくといっていいほど異なっていた。素朴さ、力強さ・・・民衆のエネルギ−・・・そんなものが感じられた。特に「池間の主」の早引きで歌うリズムには何だか元気づけられた。「ドン チャッチャッ」「ドン チャッ チャッ」のリズムは軽快で、カニの知っているインディアンの歌のリズムに似ていた。そんなふうに感じていた。
そんなことを感じ始めている頃の昭和53年・7月の終わりに、北海道で集まりがあった。役員をしていたのでカニは代表として出席することになった。弘前に友達がいたのでそこに寄った。友達とは宮古・伊良部出身の後輩だった。昨年は彼が弘前からカニのいる栃木県まで訪ねてきてくれた。
弘前に着くと「ねぶた祭り」があるから見ていかないか、と誘われた。初めてみる「ねぶた祭り」・・・カニの胸はときめいた。異なる祭りをみることができる。本土の祭りは、笛や太鼓で「ピ−ヒャララ、ピ−ヒャララ」というイメ−ジが強かった。琉球の祭りの糸音(調べ)とは全く異なっていた。
ねぶたの歌と踊りを間近に見、聞いた。カニは驚いた。音楽のリズムが例の軽快な調子で、インディアンのリズムと一緒かつ「池間の主」の早引きのリズムと一緒だったからだ。宮古民謡、特にクイチャ−のリズムと一緒なのだ。さらに驚いたのは、その飛び跳ねる踊りだった。友利や砂川のクイチャ−の飛び跳ねている姿と重なった。カニの驚きはそればかりではなかった。弘前の民宿のお祖母さんの話す言葉(ズ−ズ−弁)が何故か、懐かしいミャ−クフツの臭いに似ていたからだ。
ねぶたの踊りをみてから、20数年が経っていた。カニは宮古島に戻っていた。宮古の芸能があると積極的に参加した。城辺町民祭りが開かれた。夏の涼しい夜に家族で見にいった。国吉源次氏の民謡ショ−もあり、祭りは最高であった。国吉源次氏がアンコ−ルで「ユナンダキカニスザガマ」を歌ったのも、昨日のことのように記憶している。
町民祭りでは、池間のクイチャ−(姉がまよ)、新城のクイチャ−も演じられていた。カニは2つのクイチャ−踊りに釘付けになった。特に、新城クイチャ−踊りは、まさに、地面を蹴り上げていた。カニは再び、「ねぶた祭り」の飛び上がる踊りを思い出し、ねぶた踊りと新城クイチャ−踊りが重なっていた。「何て似ているんだろう」「北の国と南の国」・・・どうしてこんなにも離れているのに、似ているのだろう・・・そんなことを考えた。
カニは最近、柳田国男著の「海上の道」を読んだ。黒潮の流れに乗って、南の国からいろんなものが北の国まで流されていく。寄木、植物の種、そして丸木船、イカダみたいな船をあやつる民族の海上移動、さらには稲や粟、・・・そんなことなどが書かれている。カニはさらに、エイサ−、カチャ−シ、ヨサコイ踊り、阿波踊り、ネブタの踊り、ソ−ラン節、そんな歌や踊りが、黒潮の流れと関係しているのではないかと思うこともある。そしてクイチャ−踊りのリズムが、人間により黒潮に乗って北の国・青森まで行き、ねぶたのリズムに変わり、ねぶたの踊りに変わったのではないかと、ふとそんなことを考える時がある。
南の国の熱帯ジャポニカという稲の種類が、青森県の遺跡から見つかった。温帯ジャポニカ(水稲)ではなかった。DNA(遺伝子)分析により、南の国で栽培されていた熱帯性のお米(水稲ではなく陸稲である熱帯ジャポニカ)が、北の国の青森まで伝わっていたのだ。このような事実からも、黒潮のことが頭に浮かんでくる。
カニは昨年のクイチャ−大会の「ヨサコイクイチャ−踊り」をみてから、時々黒潮のことを考えている。
ぱぐしや とぅぬげ−(足で蹴り上げろ) じならぬ くいちゃ−(地鳴らせクイチャ−) ・ ・ ・ ぱぐしや とぅぬげ−(足で蹴り上げろ) じならぬ くいちゃ−(地鳴らせクイチャ−)
おしらせコーナー
松谷初美(下地町出身)
東京駒込にある「琉球センター どぅたっち」で、くまかまライターの「ざうかにさん」こと「下里晄晴(しもさとこうせい)さん」の三線ライブが開かれます〜。ぜひおでかけくださいね〜。
「どぅたっちライブ vol.58 初登場『しもさとこうせい』宮古を謳う」
〜月の光のようにやわらかく 月の光のようにあたたかく〜
日 時 | 2006年3月19日(日) 午後5時半開場 午後6時開演 |
主催 会場 | 琉球センター どぅたっち 豊島区駒込 電話:03−5974−1333 http://dotouch.cocolog-nifty.com/blog/ |
入場料 | 2000円(ワンドリンク付き) |
編集後記
松谷初美(下地町出身)
去った3月12日は、宮古地区の13の中学校で卒業式があったんですねー。宮古では、ほとんどの生徒が、幼稚園から中学までの10年間をまーつき(一緒に)過ごすから、別れは、感慨深いものがありますよね。
私たちのころは、卒業が近くなるとサイン帳を持って、友人や先生にメッセージを書いてもらっていたけど、今の子どもたちもやるのかな?私は今でも大切にそのサイン帳持っています。当時の自分が分かって、かなり どぅぐりだけど、大事な思い出の品です。
こんどはまた新しい場所で、いろいろな良いことが やまかさありますように!卒業生のみなさん、さーと頑張ってくださいね〜。
さーて、vol.120や のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?
沖縄の人にとって「えんどうの花」は、なじみ深い歌ですねー。多くの人が歌えるんじゃないでしょうか。その歌の作曲者、宮良長包さんの話が映画になるとは楽しみですね。そして監督さんが宮古出身とはびっくり!映画に参加した垣花さんならではの中身の濃い紹介でしたね。みなさんもぜひ、足をお運びください。東京での上映には、ばんまいいかでぃー。
優子さんの勇さんの歌や本を読んでの気持ち、よく分かりますねー。思わず、P27を開いた方も多いのでは?『下地勇/心のうた』は、ボーダーインクより絶賛発売中〜。外身も中身も素敵な一冊です。
一枚の写真から、いろいろ思い出すことってありますねー。そんなことをエッセイにということで「思い出の写真」をテーマにしたアモイさんの「途切れた文通」でした。あの頃、文通というのはすごく流行ってましたねー。一生懸命なアモイ少年の姿が目に浮かびます〜。
カニさんの「黒潮の流れに乗って」、興味深い内容ですねー。カニさん自身が東北で実際に触れ、感じたことが強く伝わってくる話でしたね。 さて、カニさんには、これまでも何度か投稿いただいていますが、このたびくま・かまのメインライターになってくださることになりました〜。ご紹介しますね。
カニさん 1957年1月生れ 平良西里出身 平良在住
宮古の自然、人、みゃーくふつにカニさんの深い想いが やまかさ見えることと思います。今後ともどうぞご期待ください。
さて、くま・かまでは、5月の母の日に寄せて、「あんな(お母さん)への手紙」と題して特集をしたいなーと思っています。大人になっても、あんなへの気持ちは、いつもどこか心の隅にあるんじゃないかなーと思います。そんな想いを綴ってみませんか。投稿をお待ちしています。(1200字以内、〆切4月末)
今号のご感想まい、きかしふぃーるよー(聞かせてくださいね)よろしくお願いします。
次回は、三週間後4月6日(木)発行の予定です。
あつかー、またいらー。がんずぅやしーうらあちよー(お元気でー)。