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宮古島方言マガジン「くまから・かまから」
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くまから・かまから vol. 131

2021 5/01
メールマガジン
2006年9月7日2021年5月1日

こんにちは〜。三週間ぶりのくまかまです〜。
んにゃ、9月ですね〜。少しずつ秋の気配もしてきましたが、がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)。
今回もいろいろな話が盛りだくさん。どうぞお楽しみください。

目次

宮古のフッファ(こども)IN 東京

宮国優子(平良市出身)

夏休みは仕事(取材)で宮古の小学生たちに会う機会が増える。都会のおしゃれでクールな小学生を見慣れているせいか、宮古の子供たちは妙にキラキラ?いや、ギラギラと光っているように見える。

女の子はだいずパニパニ(元気いっぱいに)しているし、目も大きいし、小麦色の肌、ホリの深さ、確かに可愛い。でも特別可愛いかと聞かれたら、すっさいん(わからん)。

言葉を交わしていると無邪気すぎて不思議な魅力に巻き込まれる(惹かれるというんじゃなくもっと強い感じ)。男の子はジャニーズかもしくはスポーツ選手っぽい。きっと将来はもてるんだろう・・・。

だいず話がカママミネまでいったので、話を戻すと、先月は下地小の女子バレーチームと西城小学校の交通安全大会に出場した子供たちに会った。どっちもだいずかわいかった、この一言につきる。

どちらの親御さんたちも宮古からわざわざ上京。バレーの方の応援団は在東京の下地出身者でいっぱいだった。私はどっちの試合でも始まってからすぐに泣きそうになった。何がかって?聞くなよ〜。自分でもわからんってば。

昔は頭の中が自分も小学生だったので、彼らに会ってもなんの感激もなかったが、今や私の気持ちは宮古の母ちゃんである。もう宮古から来て、試合とか、大舞台に立っていると思うだけで、かなり涙腺がゆるむ。

だって宮古だよ、あの草いきれのする、湿った風が吹く、海の香りのする、光に陰が際だつ、あの私たちのふるさとだよ。詩人になりそうってば。

その宮古の皮膚感覚を思い出し、彼らが夕暮れに練習している姿を思い描くだけで号泣さーよ。そして彼女たちのスポーツマンシップや責任を果たそうとする気負いが遠くから見ていてもだいず伝わってくる。言葉の端々にチームワークや家族、近所の人とのつながりが濃ゆーいのが感じられる。だいず上等。

そして、そんな子たちは将来どうなるのかなぁと思っていたら、身近に答えがあった。

今、二十歳の宮古の女の子と頻繁に顔を合わせている。
ある日、遅くまで仕事をして、ご飯を食べに行った。雑談で「私が二十歳の自分に教えてあげたいのは、家賃を払うくらいだったらローンを組め!だな」と馬鹿なことを言ったら、彼女は「うーん、自分はお金があったらお父さんとお母さんに家を建ててあげるかなぁ」とフツーに言った。昔はこんな風に言う若い人は少なからずいただろうが、今や私の世代でもめったにいない。あまりのかわいさに思わず かふたこうかね(抱きしめようかね)と思うくらいでした。自分の娘がそんな事を言ったら私は子育て卒業と思うはず。

宮古ではたくさんの人といやがおうにもいろいろと関わりながら生活していかなければならない。同級生の家庭は勿論丸見えだ。友達の母ちゃんにもだいっず怒られる。知り合いの人も言っていたが、宮古のメディアには頻繁に子供が登場する。一年を通すとかなりの数だと思う。手放しでほめられたりもするけど、だいばん(大きな)声で怒られたりもする。でもそれは人を豊かにするのかもしれない。真剣に向かってくる大人にいろんなところで遭遇できる。(かなりうるさいこともあるけど・・・。)

確かに昔と比べるとそれも減っているかもしれない。でもそんな風に育った大人がまた子供を育てるのだから、まったく無くなるとは思えない。宮古人は特別人間がおせっかいに出来ていると思う。だから孤独死とか悲惨なニュースを聞くにつけ、公的な宮古人派遣を本気で考えるくらいです。

あ、また話がガングルユマタに行ったさいが、えーと親が責任を持って育てるのは当たり前だけど、親では教えられないことが外の世界にある。それを宮古の子供たちは知っている。そんなことがわかっていれば、勉強は出来なくてもいいや、と思う夏でした。

かやふきやー(茅葺家)の思い出

宮国勉(城辺町出身)

昭和30年代の ばんたがやーぬ ままあぃずんな かややーふき ぬどだうやーたー(私たちの家の周辺では茅葺きの家を建てるのが多かった)。それに、毎年5〜6回は台風に見舞われるので かやふき(屋根修理の茅葺き)はもっと増えて、その為に茅を植えていたほどであった。

そのススキの茅場で ぎすきぃばらん(ススキの根の※虫こぶ)を採って食べたことも懐かしい。その虫こぶは黒に赤の斑点がある びきやーんぷ(直訳は雄の蛍)に成るが、蛍とは異種の発光もしない昆虫である。

パドラ(雀)は茅葺きの家が好きらしく朝から晩までチイチイ パッパと宙に舞い、棟にぶつからんばかりに飛び越え楽しそうに遊んでいた。夕方になると茅葺き家の んきばな(軒先)に泊るので、夜中に懐中電灯で照らし手掴みで捕まえた。

鳥は鳥目と云うぐらい暗いと、すばしっこいあのパドラでさえも置物のように捕らえることが出来るのである。かなり捕ったが暖かい体温の感触と羽の色や模様を観察すると逃がしてやった。他のマチャ(小鳥)は食べてもパドラは食べる習慣が無かった。パドラと云う響きはギリシャ神話のパンドラに似ていて、私はいつもパドラとパンドラが同時に思い浮かぶ。

当時の夜はランプ頼りでマッチと灯油の欠かせない生活だった。夜になって誰も家にいないときは手探りでマッチを探しランプを点けてほっとするのであった。

ランプは油壺、ほや、かさ、吊し金からなり、ランプの芯はその辺の木綿の布を引きちぎって付けたような緩くてお粗末であった。何かの拍子に立ち上がると頭でランプを持ち上げ、顔が上向きになり、その瞬間に口の中へ灯油がドバッと入り込んで味見をした覚えがある。今思い出しても口の周りがぬるぬるとした感覚を思い出す。意外に味はないが灯油が腹に入ったと云う意識が気持ち悪さを引き起こしていた。あんちーどぅ さきふぁやんかい なりにゃーんだら(そんな訳で酒飲みに成ってしまったのだよ)。

あの頃、太陽が三日月ほどに小さくなる日食があった。木の葉っぱの陰も細く三日月形になり、陽ざしも弱くなりその時の不安な心境は石器時代の原始人と同じようだった(暗黒の世になってしまうかと心配で)。

兄が欠けた太陽を観察しようとランプの笠を持ち出して来た。それは意外と観るのには最適であったが割ったら今夜は闇の世界であるのは云うまでもない。透明ガラスを炎で煤けさせて黒い処を使う方法もあったが、眼の周りが黒くなりパンダ状態になった。

ランプの光は やーんぷ(蛍)より明るかったが、目の悪いお年寄りは うわぁとーりゃー(あなたは誰)と顔を近づかせたほどである。また、あの頃は、やーんぷ(蛍)がいっぱい居り、捕まえて、その明かりで字が読めるか試したことや、蚊帳の中に放して遊んだ思い出も昔懐かしい。蚊もいっぱい居り、朝になると10匹ぐらいは腹を大きくしているので蚊帳の片隅に集めて叩きつぶし、夕べの仕返しをするのが朝の目覚めであった。

私の母は5人兄弟のいちばん年上の長女で、早くに両親を亡くし親代わりに兄弟を気遣って生きてきた。その母の兄弟がすぐ隣に茅葺きのこぢんまりとした家を新築して引っ越してきた。それは親戚がすぐ隣に住む ぷからす(嬉しい)出来事であった。引っ越して2〜3年経っていちばん末っ子で私と8才ちがいの あざ(兄さん=叔父さん)が一人で住む事になった。私はあざと泊まるのが日常、いや寝床がそこになってしまった。

ある晩、頭の上にロウソクを点け、ゆらりゆらりと幻想的な炎を見ながら寝た。そこへ、ただならぬ母ちゃんの怒声で起こされた。「うわたーんにゃ(おまえ達はもう)・・・」と。何がなにやら理解するまで間があった。うどるき うきつかー(びっくりして起きたら)ボヤ(小火)になってしまっていたのである。

何かの拍子にロウソクを びらかし にゃーんだら(ひっくりかえしてしまっていた)。被っていた毛布も少し焦げ、きんど(間仕切りの戸)が燃え始める寸前であったのだ。夜中に二人して母ちゃんに説教、やっと解放されてもう一度寝ることになり、いつもの爽やかな朝が来た。

朝食の時、家族みんなの前でその話を持ち出され、ぱずかすむぬ(恥ずかしさ)で凹むやら、ほんとに母のタイミングに救われたことに感謝せずに居られなかった。二人は茅葺きの家もろとも、一溜まりもなく燃え尽きるところであった。

かあちゃんぬ みーが いかすたーくとぅ うれえ かんぬたすきどぅ やりうきぃどぅ(母ちゃんを見回りに行かせたのは神の助けだったかも知れない)。うんみづう やらびぱだどぅ やーたーぱず(運の強い子供時代であったようだ)。

※「虫こぶ」とは、植物の芽や茎、葉、蕾、花、実、根などに虫が寄生し、一部異常成長した処のことです。虫えいとも呼びます。

くるまぬ(車の)鍵

みしん(池間出身)

きゅうや(今日は)、ばが(私の)夫と義母(アメリカ人)から聞いた騒動話を かき〜み〜でぃ。(書いてみます) 

今から27年前、当時16歳だった夫はオハイオ州に住むお父さんと同居がきまりました。夏休みあけから始まる新学年はオハイオ州の高校に通うことになり、フロリダ州から飛行機で初めての一人旅。

出発日、お母さんの車を夫が運転して、見送りにお母さんと友達のデミートリーが同乗。タンパ国際空港に着きました。涙もろいお母さんは家から空港までず〜っと涙目。タンパ発、オハイオ州、シンシナチ行きの100座席以上ある便は満席状態。空港は夏休みの旅行者で混雑していました。

出発時間が近づいて飛行機への搭乗が始まりました。

「Take care(元気でね)Call home when you get there(かまんかいつきた〜でぃんわし〜よ〜:そこについたら電話しなさいよ)」
お母さんは なだだーだー。                      

夫は2人にバイバイして機内へ。ドアがしまり 飛行機は滑走路へ動き出しました。

ターミナルから離れていく飛行機を見送った後、お母さんはデミートリーと駐車場へむけてロビーを歩きながらバッグから車の鍵を取り・・・
「I don’t have any Keys!(鍵がにゃ〜ん:無い!)」あっがいたんでぃ!ぱたみきて(慌てて)出発ロビーへ戻りました。

「My son took my keys and He is in that plane. Please stop the plane.
(ばが っふぁぬどぅ くるまぬかぎ〜むち〜 ひく〜きんかい ぬり〜はり〜にゃ〜ん。ひく〜き〜ゅ とうみ〜ふぃ〜る:息子が車の鍵を持ったまま飛行機に乗って行ってしまったー。飛行機を止めてちょうだい)!」
キーホルダーには家の鍵、仕事場の鍵までついています。

別れの涙はどこにやら。

一方、機内では
「××××、Please give your keys to the flight attendant.(××××、くるまぬかぎゅ スチュワーデスぬ ね〜ね〜んかい わたし〜ふぃ〜る:××××、車の鍵をスチュワーデスに渡してください)」とパイロットのアナウンス。

××××の部分が自分だとは気づかずに離陸を待っていると、近づいてきたスチュワーデス。
「Do you have your mom’s keys with you?(んまぬ かぎゆ むちゅ〜いな?:お母さんの車の鍵をもっています?)」

「Oh No!Iforgot to give them to my mom.(あっぶない!おかあんかい車ぬかぎゆ 渡すのをばっしゆ〜たい:大変、お母さんに車の鍵を渡すのを忘れていた)」

周りの乗客の笑い声が聞こえて、はずかすうむい(恥ずかしい思い)でいっぱい。

飛行機は車の鍵のためにひきかえすわけにもいかず、スチュワーデスが夫から受け取った鍵を操縦室のパイロットへ。パイロットはその鍵を操縦室の窓から飛行機の下で 待っていたグランド整備員へ。無事、鍵はお母さんの手元にとどいて、一件落着。

テロ警戒の今のアメリカでは考えられない、なさそうであった うむっし(面白い)光景だったはずね。

古い道の記憶から

アモイ(平良市出身)

宮古島の現在の道路網は整備されていてすばらしい。宮古島一周道路ができて、トライアスロンやマラソン大会等のスポーツイベントには、道路事情の良さは必要不可欠であろう。

サトウキビの生い茂る交差点は見通しが悪く、注意が必要ですが、それを除けば、レンタカーで島巡りをする観光客も快適なドライブを楽しめることだろう。今は昔、宮古島の道路事情はどうであったろうか?古い道にまつわる記憶を呼び戻してみよう。
 
アスファルト道路ができる前(昭和40年代初期)には、ほとんどの幹線道路は、なうさんつ(山から掘り出された石灰質の石が敷かれた道)であった。なうさうんつを車が通ると、白い埃が舞い上がり、道路沿いの木や草花は、殆ど白色に染まってしまう。赤花だって白花に変わる程になる。車が近づいたら舞い上がるなうさ(石埃)を被らないように、風上に逃げた。

所は城辺本線、車は通勤通学の時間帯は多く、昼間は少ない。道路は雨水により侵食され、突然に穴が出現したりして、車に乗っている人が天井にぶつからんばかりに激しく揺れる事もある。その為か落とし物もよく落ちている。

そんな なうさんつで何をやったかというと、道路に落ちているお金を拾おうと言う事で、鏡原中学校からの下校時に、わざわざ遠回りをして普通は3Km位の道のりを、城辺線の「中休み」を通って更竹停留所を回って1K以上も遠回りをして瓦原部落まで帰る。道路に落ちている じんぬ(コインを)拾うためだ。

更竹の同級生と一緒に、「よし、きゅうや、じんぬぴそーがっちゃん、やーんかいいきみー」(今日はお金を拾いながら帰ろう)といって下向きに歩いた。お金が落ちていても埃を被っているので見えにくいが、少しでも面が出ていると太陽の光が反射し、遠くからも見え、やった!と思って近づいてみると、ブリキ缶の切れ端だったりする。

落ちているコインは、1セント、5セント、10セント、25セントだ。収入は多い時で30〜40セント位あったかな?その頃は映画が25セント、そばが10セント位の相場だった。しかし、日にちが経つと、お金がだんだん拾えなくなった。4日目くらいからは拾えなくなり、ほどなくやめてしまった。

それからずっと下をみて歩く癖がついたようで、運動会の行進の練習では先生から 「下をむくな、前を見みて歩け」と注意されたものだった。現在、猫背気味なのはその影響かもしれない。
 
なうさんつはまだいい道路だった。んたんつ(土道)や ふさんつ(草道)の雨降りは大変だ。土道は泥んこと化し、なびすた、なびすた(スルッスルッ)としていて場所によっては家の前が泥んこ道で、家に来るお客さんが、すってんころりんだ。起き上がろうとして、あがい、あがいと言って何度も転ぶ、すべりだしたらとまらないのだ。その時の泥のついたお尻を、えーってぃ ぬずぅきみー(後ろ向きに覗き込む)姿はこっけいではある。「みたまりゃ、かまぬ、どぅる んつんどぅ、うかーす なびすたむぬどー!」(かなわんなー、あそこの泥道はすごいツルッツルなんだよ!)といって照れ隠しをする。

我々は小学生の頃、草刈に行っては、道の悪さを遊びに取り入れた。草道では長い草の葉を輪状に結び、歩く人を引っ掛けて転ばせたり、落とし穴を作って落としたりした。

有るとき、悪ふざけの先輩が「はーい、んーなしい あなんかい、ふすぅーまりみーる」(おーい、みんなで落とし穴に糞をしてみろ)と言われ、穴の中をトイレ代わりに、なかなか出ないウンチを順番に、んくみいだし(いきんで出して)何とか一盛りにして、木の枝と葉で覆って土をかぶせ、元の道と変わらないように偽装して、落ちる人を待った。が、なかなか人が通らずそのまま放置、翌日来てみたら誰かが落ちたようであった。落ちた上にうんちまで踏んづけた人が居るはずである。誰だかは判っていないが、すみません。やったのは俺達です。

道路といえば、車が走ったり、人が歩いたりする他にも役目をもっている。生活を支るインフラ設備も道路に設置されている。電柱が道端に立っていたり、目には見えないが市水の配管等や下水道なども道路の下を走っている。

私が小学校4年から5年生(昭和40年頃)にかけて宮原地区の水道配管の工事が始まった。水道のない時は、家では井戸の水を汲んで使い、学校では屋根からの雨水等をタンクに貯めて使っていた、旱魃で学校のタンクが空になった時、米軍の消防車がタンクに給水をしてくれた事があった。背の高いアメリカ人が下りてきてタンクに勢いよく水を補給してくれて、「ハーイ!満タンOK」タンクの水はしばらく濁っていたが、蛇口から出る水は気にもせずおいしく飲んだものだ。

水道配管工事により、いよいよ家でも蛇口をひねればきれいな水が出る時代がくるのだった。しかし、水道工事の人夫達は大変な作業だ、今の機械化と違い、人の手によってツルハシでコツコツと掘られる人海戦術だった。

その時に配管工事をしている しーにん(青年)たちと、登下校の際に毎日のように、顔を会わせるうち仲良くなって、歌なども教えてもらったものだ。「じょうとぅぬ あーぐがもー ならーさっちゃー、しんしーがまいんきぃ あっし きすかしよー」(いい歌を教えるから学校へ行って先生の前で歌って聞かせなさいね)そう言われて意味も知らずに必死に覚えたものだ、教えられた通りに登下校で歌い歩いているうちに、完全にマスターしてしまった。

♪今の女性に処女○あーれば、焼いた魚がすいすいおよぐ、
♪腐れ豆腐は鉄より固い、アイスキャンディで火傷する。
♪あーぶんがじゃっちゃぶんがじゃちゃ。

校内で流行歌を歌うのが禁止されていたあの頃、まともに先生に歌って聞かせる度胸はなかったものの、休み時間に何人かで歌っているのを先生に聞かれてしまった。こら!誰がそんな歌を教えた?先生はもちろん意味を理解していた。我々は意味は知らかったが、変な意味だろう位は感じていた。しかし、「2度とそんな歌を歌ったら承知しないぞ」の先生の形相で、相当にろくでもない歌詞であろうことを悟った。

後で、しーにん(青年)達に歌っているところを先生に聞かれた事を話したら、「まーんてぃどぅあーたーなー?、いみゃーっさん ぷりやらびがまぬきゃーさいが」(本当にうたったのか?意味も知らん馬鹿な子供たちだねー)と言って仲間で爆笑していた。未だに意味を教えてもらっていないのだ・・・。

しかし、しーにん達によって掘られた、溝の深さや広さ、石と土の境目、赤土の色、埋めるときの砂の色、配管の大きさや色などは、場所によっては今でもよく覚えている。そんな配管工事をしてくれた、しーにん達や、昔から今まで生活を支え続けている古い道道にお礼を言いたい気分だ。

んきゃーんから、んなまがまみ、ぴすとぅん ふまい、馬車ん ふまい、車ぬ ゆーさんまい まきだな、(昔からいままで、人に踏まれ、馬車に踏まれ、車の重さにもまけずに)配管を守り、生活を支えてくれて、タンディガータンディ(ありがとう)。

オフ会@東京のおしらせ

松谷初美(下地町出身)

先月は宮古と那覇でくまかまオフ会をやりましたが、今月は、東京でやります〜。読者のみなさんと関東在のライターで楽しい時間を過ごせたらなーと思っています。ぜひぜひご参加くださいね〜。まちうんどー(待ってますよー)

日 時2006年9月23日(土)
午後6時〜
場 所新宿(店は決まり次第、掲示板でおしらせします。
参加人数によるかなー)
申 込9月20日くらいまでに松谷あてメールくださいね。
kumakama@mbp.nifty.com

編集後記

松谷初美(下地町出身)

前号は、宮古から東京に戻ってきて余韻に浸る間もなく、発行という感じでしたが、今号までは、三週間ありました。9月になりましたが、みなさんの夏は のーしがやたーがらやー(どうでしたでしょうか)?

私の夏は、8月27日に東京上野で行われた「アララガマフェスタ」で終わったという感じです。燃え尽きました(笑)

このフェスタは今年で4回目ですが、すっかり定着した感じがありますね。今年は、9組が出場。民謡から演歌、ポップスとさまざまなジャンルのアーティストたちが会場を沸かせました。ステージと会場は、距離的には、ぴっちゃ(少し)離れているのですが、観客と出演者の気持ちの距離は、だいず近い感じがしましたよ。

そのアララガマフェスタに、今年は、くまかまのライターでもある、棚原芳和(マツカニ)さん、下里晄晴(ざうかに)さんのユニット「アガイダンディーズ」が太鼓のはやとさんを加えて初出場!いやー、初出場とは思えない堂々とした ずみっ!なステージを見せてくれました。あてぃぷからすかいば ヒヤサッサてぃ ぶどずたーさい(すごくうれしかったのでヒヤサッサと踊りましたよ)

そしてこれまた司会は、指笛王国の国王で、くまかまのライターでもある垣花譲二(クイチャーマン)さんと宮古出身あぱらぎ金子育子さんの名コンビ。やぱ〜やぱぬ ゆなぱふつ(与那覇方言)で説明をする垣花さん、それをわかりやすい標準語に直して説明する育子さんは、アララガマフェスタには欠かせない顔ですね〜。

会場では、くまかまの本も販売させてもらい、やまかさぬ(たくさんの)皆さんに手にとっていただきました。たんでぃがーたんでぃ〜。

フェスタが終わったときには、すっかり日も落ちて、ふふぁーふふぁ(真っ暗)。熱い思いのまま、くまかまメンバーでまた二次会へと流れ、夏の夜は更けてゆくのでした。

さて、さて、vol.131や のーしがやたーがらやー。

下地小学校女子が出場したバレーボールの試合は、私も見に行きましたよー。優子さんは、コートに立っている選手たちを見たとたん、まーんてぃ みーや(目を)うるうるさせていました。ホントに宮古の子どもたちは、たくさんの大人の目で育てられているんだなーと思いますね。感じる心がとっても豊かで、宮古関係の取材をしている優子さんならではのコラムでしたね。

宮国勉さんの話を読むと やらびぱだ(子どものころ)身近な植物や鳥などの細かいところまでよく見ていて、してまたそれをよく覚えていることにとてもびっくりします。「虫こぶ」初めて知りました。それにしても、ぼやですんで良かったですね。かやふきやーが火事になったらと想像しただけでも、うとぅるすむぬ〜(怖い〜)

今回、くまかま史上?初めて英語の会話が登場。アメリカはカンザス州に住んでいるみしんさんのご主人とそのお母さんの話でした。英語、みゃーくふつ訳、標準語訳というこれまた今までないパターンでお届けしました。ひとりの乗客のために、パイロットからスチュワーデス、グランド整備員まで一生懸命やってくれるんなんて、素晴らしい!!ですね。ホッとするのと同時に心がほんわかとなりました。

アモイさんの「ふるい道の記憶」。当時の様子が なうさんつと一緒に、蘇ってきます。そうそうそのころは、ドルの時代でした。(ドルの時代を知らない大人が多くなっているのに、ちょっとショックだったりするきょうこのごろでもあります)。して、道路で工事をしている人たちも、うまかま見かけましたねー。のーてぃがら(なぜか)、やらび(子ども)をからうのが好きな人たちが多かったような・・・。道路ひとつとっても、その時代というのが浮かび上がってきますねー。

しまいぎーゆみふぃーさまい、たんでぃがーたんでぃでした。(最後まで読んでくださってありがとうございました)

今号の感想、ぜひお聞かせくださいね。お待ちしていま〜す。
季節の変わり目です。どうぞお体大切に。
今度は、9月21日にお目にかかりましょう〜。あつかー、またや〜。

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