こんにちは〜。 がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)
さぁ、きょうも宮古色満載のくまかまですよ。 ぬかーぬか、ゆみふぃーさまちよー。(ゆっくりお読みくださいね)
かたとぅず(バッタ捕り)
宮国勉(城辺町出身)
バッタは英語でグラスホッパー(grasshopper)、草の上を飛び跳ねる意だそうで、草原をのびのびと自由に飛び回るような良い響きである。
宮古方言ではバッタは かたと言い、種類によって、あらかちゃ(タイワンツチイナゴ)、すーずがた(スイッチョ=ウマオイ)、うんたるがた(タイワンクツワムシ)、じったがた(キリギリス)、ぬーまがた(トノサマバッタ)、みがかた(タイワンハネナガイナゴ)と言う。
因みに ちぬしゃ は、(コオロギ)、びーぃず(トンボ)、ちゃん(アオバハゴロモ)、たぶくびーら(ホウジャク)、あんぱず は、(クモ類)のことである。
これらの中でも「あらかちゃ(タイワンツチイナゴ)」がもっとも生活と関わりが大きかった。あらかちゃは何回か脱皮を行い成虫となり、体色は茶色に縞模様が付いて枯葉の保護色を演じている。初夏の頃は、おーみがた(卵からかえった幼虫)と呼ばれ頭でっかちで目が大きく緑色をしている。
おーみむぬ と言うと臆病者を指すことから、ススキの青葉の裏などにかふぃかふぃ(陰に隠れる)しているから臆病者の意をこめた呼び方かと思う。それとも、幼虫は緑色をして青みを帯びていることから おーみがたの名前が付いただろうか。
ぴゃーりんな まさりなー やまかさ すでぃって ういたん ぶーぎぬぱーや んーな すっざい ぷに ばかーず なりゅたー(干魃の時に大量発生してサトウキビの葉は全て食い尽くされ骨筋だけが残ることもあった)あらかちゃあ ぶーぎぬぱーゆど ふぁい いきでぃうーば(タイワンツチイナゴはサトウキビの葉を食べて生きている)
ある晴れた日にサトウキビ畑に入ると、周り中からカシャカシャ、カチャカチャと色々な音がして あらかちゃが一斉に飛んでいった。陽射しを受け、銀色に輝いたキビの花穂の間から赤紫の美しい羽を広げて飛び立って行く光景はいまだに目に浮かぶ。
あらかちゃは飛距離が長いから追っ掛けて捕まえるわけに行かない。息を殺して近づき、サトウキビの葉の陰に隠れるようにして腕を伸ばし とゅびつかむ(跳んで掴む)ので俊敏さが要求されるのだ。
娯楽の一つだった あらかちゃとぅず(タイワンツチイナゴ捕り)は、雨の日が静かで あらかちゃ自体も とぅりばず(じっと)して捕まえるのに都合がよかった。
風が無く冷たい雨が降っている方が「かたとぅず」日よりだ。メリケン袋を準備して きゅうや あらかちゃとぅずが ちー(バッタ捕りに行こう)と父、母、兄、弟、みんなで行った。
メリケン袋は あらかちゃを入れて持ち歩くのに最適な入れ物だった。あにぎなーしーや ぴんぎりば ちびぱぎゆ ぶり(そのままだとだと逃げるから後肢を折って)袋に入れる。その日の晩ご飯は桜色をした あらかちゃが「バッタ汁」として出てくるのだった。
当時は さたやー(製糖所)が部落のあちこちに在った。馬が広場でグルリ、グルリと丸太の先を引っ張る、すると丸太の根元では鉄の歯車が回され、その歯車と歯車の間にサトウキビを差し込むと圧搾されて汁が出る。その汁を受けて樋で鍋まで流れるように成っている。その鍋を熱して黒砂糖が出来る訳である。最後に鍋に移し、そこで掻き混ぜるタルガー(樽)に詰めて出荷していた。
うんなぎゃー んざーからまい かばすーかばす ぬ かざしー うーたー(あの頃は何処からともなく良い香りが漂っていました)。
そして、捕ってきた あらかちゃをぐつぐつと煮えたぎった砂糖汁の中に入れると一瞬にして桜色の佃煮となった。今思い出しても出来たて あつこうこう(ほっかほっか)と最高のご馳走であった。
子どもの頃は あらかちゃを んちゃみ ちびぱぎゆ とい(バッタを捕まえて後肢を外し)、膝当たりで筋を残すようにして折り、筋を引っ張って膝が曲がることを実験して遊んだ。また、そのとき口から黒い液を出したり、噛まれたり、肢が丈夫なので蹴飛ばされるのは慣れっこであった。
宮古島に居るのはタイワンツチイナゴと云う種類だそうで本土に棲息するツチイナゴよりも大型で体毛が少ないのが特徴らしい。本土のツチイナゴは冬の寒さを成虫で乗り越えるそうだ。タイワンツチイナゴより毛深いのは冬越しの為かも知れない、その生命力の強さには驚嘆する。
ばんたがやーぬ あず(我が家の味)1【しーむぬ】
菜の花(伊良部町出身)
食は命の源。料理は文化。受け継がれていく母の味、家の味と言われるけど、宮古にも祝い事には欠かせない料理がちゃんとあるんです。それが、「しーむぬ」
「しーむぬ」とは大和風にいえば、お祝いの席に出されるお吸い物で、豚肉やモツ、椎茸、細切りのこんにゃくなどが入っている。同じ日に何軒からも、お祝いに招待されることだって珍しくない宮古。訪れる家々で味付けが違うのが分かるはずよ。
母ちゃんが作る しーむぬを やらびぬときゃ(子どもの頃)から食べて育っているけど、まだ受け継いでいない。実家の しーむぬは、いたってシンプル。作り方を紹介しますね。
材 料 | 干し椎茸、板こんにゃく、豚肉、中身(モツ) |
薬 味 | すりしょうが(母ちゃんはおろししょうがとは言わないんだよね) すんな(「死ぬな」ではなく あさつき(ねぎ)のこと) |
調味料 | 鰹節たくさん 粗塩 醤油少々 だしの素少々 |
え、こんだけ?って感じだけど、そう、こんだけ。
では作ってみましょう〜
(♪キューピー三分間クッキングの音楽が流れていると想像して・・・♪)
1.豚肉は前の日から下ごしらえする沸騰したお湯を豚肉の塊りにジャッとかけて、表面のあうう”ぁ(脂)を落とす。その肉を鍋に入れて、グラグラ煮たら一回茹でこぼす。さらにもう一回グラグラ煮てから火を止め、フタをして翌日までんちーうき(おいて置く)(こうすることで肉がやぱーやぱ(やわらかく)なるらしい)
2.だし汁を作る鰹節をやまっさ(たっぷり)入れて沸騰させてだしをとる(最近はお茶パックのような袋に鰹節を入れているけど、以前は網じゃくしで鰹節を丁寧にすくっていたなー)
3.しいたけは水にもどす(もどし汁も使えばいいのに、母ちゃんは椎茸のにおいが苦手なお客さんだっているかも知れないと言って使わない)
4.板こんにゃくは5センチくらいの長さにして、細く切る。切ったこんにゃくは一度塩で揉み洗いしてゆすいでおく。 そうすると、独特の匂いがとれるので必ずやるべき。
5.中身(モツ)は、一度さっと茹で余分なあうう”ぁ(脂)をおとす。冷めたらこんにゃくの長さに合わせて細く切る。
6.前日に準備した豚肉は脂身のついていない すーす(肉)の部分だけを細切りにして使う
7.だし汁に材料を入れて煮る
8.粗塩(母ちゃんはヨネマース{商品名}がいいよ〜とこだわる)少々で薄味に仕上げる(母ちゃんはこの塩加減にはうるさい。私が味つけをした時ほんのちょっとでも そぅからーそぅから(しょっぱいと)即座に指摘が飛ぶ。他の料理も食べたりすると喉が渇く、お客さんがくるたび温めなおすから必然的にしょっぱくなると言う・・・ごもっとも・・・味付けは母ちゃんの技にはかなわん)
9.だしの素を少しがま入れ、仕上げに醤油をタラタラと垂らす。ほんのすこーしがま色がつくのと、香り付け程度にしておく。(タラタラの滴下を誤ると母ちゃんからまた指摘がタラタラとでる・・・)
10.仕上げに薬味のすりしょうがとすんな(あさつき)をちょっとのせれば出来上がり。(母ちゃんは薬味の苦手な人もいるからと、小皿に薬味をのせたりもする)
「しーむぬ」と聞くとお祝いで賑わう声と人々の笑顔、みどうんぬきぬ(女性達の)せわしない働きぶりを思い出す。「しーむぬ」は祝いの席に訪れる人をもてなす心と、来てくれることへの感謝を込めて作られ、祝いの席によばれた人はそれを頂く喜びを味わう。そうやって、ずーっと繰り返されている食べ物かもしれないね。
おとーり
神童(平良市出身)
「おとーり」の起源は諸説だ。琉球王朝時代に王が最も恐れたのが毒殺によるクーデターであるといわれる。考えあぐねた王が生み出したのが、「おとーり」。臣下に命じて宮殿に酒を持ち寄らせ、持ち寄った酒を一つの容器に入れて、参加者全員で飲む。という説がある。定かではない。
宮古では、近年まで酒を製造しておらず、廃藩置県後、純度の薄い酒を飲んでいたらしい。その結果、農業に精が出ず酒に溺れる輩が続出して、時の役人をして島の未来を憂えさせたと言われている。
おとーりは、殺人的な飲酒方法である。おとーりのような破滅的な飲み方をすると、どんなに「つぅーばー(強者)」でも4時間が限度だ。中には、それ以上の時間、耐えうる強者もいる。そういう奴は、おとーりを誤魔化しているか、アル中の人たち、若しくは、紅毛人並みの肝臓の持ち主である。
ここで、おとーりの状況というか、説明をしよう。
おとーりは開始当初は静かだ。しかし、回を重ねるごとにざわめき始め、終盤近くになると個人対個人の「さしつさされつ」状態となる。
詳しく説明しよう。
「おとーり起承転結」
起:おとーりは開始当初、妙によそよそしく宴会進行役以外の発言者はいない。無口な「うすんきゃー(引っ込み思案な奴)」は、控えめに杯を傾けている。(開始から10分程度)
承:おとーりが一巡する。話し声が大きくなってくる。食事時間の養鶏場か養豚場を彷彿とさせる雰囲気というか、ざわめきだ。進行役がばみきて(わめいて)も聞いている人はいない。(開始から一時間程度まで)
転:おとーりが二巡目に入る。座が落ち着いてくる。比較的静かだ。うすんきゃーが便所から戻ると別の人が座っていたりする。これは、話し相手を求めて席を移動するからだ。熾烈な席取りゲームだ。して、話し相手を求めることから、一対一の飲み会へと突入する。個人対個人で日頃のお礼、説教、布教、プロポーズ、犯罪計画の打ち合わせ等が行われる。
周りが見えてないので逃げ出したい人は今だ。というか今しかない!ま、この時点で一対一の輪に入れない人は嫌われているか、存在感がないかのどちらかだ。酒が飲めない人はこの時点で帰ってよい。断る必要はない。どうせだれも聞いてない!(開始から3〜4時間まで)
結:宴会参加人数が半分以下となっている。もはや建設的な話はできない。仕事の話をすると間違いなく喧嘩になる。この時点で残った人は、無理矢理二次会のイーザトメンバーに入っている。二次会に行かなくても割り勘がまわってきたりする。注意だ!運悪く(良いのか?)イーザトメンバーに入れた人は、意識を無くさないよう注意だ。して、明日は、確実に二日酔いだ!(開始から4時間以降)
と、こんなかんじだ。
正月の二日に催される伊良部佐良浜の敬老会に参加したことがある。数え年で行うので年明け早々に行うんだはずね。
親父の名代で弟と二人、参加した。弟は、身長180cm。歩く格好がちんぴらに似ている。弟は手を、体の横でなく、体のうしろで振る。少し顎を突き出しながら両足を進行方向に向かってそれぞれ30度くらい外側に投げ出して歩く。同行すると対向する歩行者がよけるのがわかる。
敬老会の目的地は振興センターの裏手にある祖母の実家だ。近づくに連れ、民謡とともに三味線や太鼓の音が聞こえてくる。玄関で、年頭及び敬老の挨拶を済ませて いちばんざー(客間)に招じ入れられた。玄関での挨拶の際に顔見知りを発見した。以前に何度かおとーりを酌み交わした下地島空港に勤める あぐ(同級生)であった。聞けば、祖母の実家の婿であるという。悲しいかな、親戚である事実を知らずして何度か飲んでいたんだな。
よーいざー(祝い座)の中央にいる親父の従兄弟夫婦に敬老の挨拶を改めて行い、親父が急用で来れないことから代理できたことを併せて伝える。
敬老の主人公の傍らに、楽団が控えている。初めて見る光景だ。三線、太鼓、お囃子のトリオ。訳がわからないうちに手拍子が始まり、「順番だから」という言葉に従って踊らされた。弟と交代しながら一曲踊り終えてビールで一息つく。
さあ、とりあえず料理を腹に入れて、おとーりに備えねばと考えているところに次の曲が始まる。料理を口にする間もなく、「順番だから」の踊りが始まっている。結局、30分近く踊って尋常でない雰囲気に気が付く。そういえば、玄関で迎えてくれたあぐの姿がない。おかしい。いちばんざーは敬老の主役に近い年齢の人で埋まっている。しぇーねんが居ないという構成がおかしい!確かめねば。
もよおしてきたと嘘をついて、便所の場所を探す。しかし、探しているのは便所ではない。あぐだ。教えられた便所と反対方向に向かって家の中を移動し、勝手口から外に出た時点で謎が解けた。しぇーねんんみ(青年達)がたむろって居る。20名近いしぇーねんは静かに酒を飲んでいる。あぐの名前を呼んで いちばんざーに来るようどやしつける。
聞けば、いちばんざーはおどりがあるため、料理班と称して屋敷の裏に籠もっているのだ。確かに、おどりは辛い。弟のことが気になったものの、若者どうし裏座で盛り上がる。気が付くと宮古島へ渡る連絡船の時間。いちばんざーで弟に声をかけて港へ向かった。さすがに弟は、ちんぴら歩きができなくなっている。延べ3時間にわたって踊り続けた弟は、腰がふらふら。心なしか、声もうわずっている。相当な疲労だ。
普段、傍若無人な飲み方をする弟でも年配が列席している宴席では大人しいのだ。初めて知った。どうしよう。屋敷の裏手で若者どうし 楽しく飲んできたと言えない。八年前のことだ。未だに、話せないでいる。
弟、すまん!
ミャークフツ講座 ミャークフツの“ 音 ”をじっくり聞いて 編
ひさぼう(平良市西仲出身)
小学校入学時の「国語の本」の始めに何が書かれていたか、今となってはよく思い出せないけれど、ジャック・アンド・ベテイ ではなく、はるおさんとよしこさんが主役だったように思う。
それで、道で出会った二人は「あば(あら)、んざんかいりゃー(どちらへ)」と、あいさつをかわしました、というはなし・・・。まさか、こんなミャークフツの本ではなかったはず。 国語の本の始めは「ハナ、ハト、マメ、マス」だった、という上の世代はよく話題になる(かな?)
センダン(栴檀)は二葉より芳し
『宮古古諺音義』の新里博先生は、小学入学当初からすでにこの<ハナ、ハト、マメ、マス>に疑問をもたれ、(「ハナ、ハト、マメ、マス」は、ミャークフツでは「パナ、パト、マミ、ツガ」である。「穀物を量る升(マス)のことを、宮古では、なぜツガというのだろう?」)それから実に38年と1ケ月、たどり着いた答えは「マスの用材に使われていた“ツガの木”に由来する名称」だった。
その間の「学問」の道のりはというと
1.近所の年寄りへの質問から始まって、2.八重山、沖縄、奄美の方言調査、3.文献その他、歌謡、民謡、口碑調査、4.宮古への方言調査旅行等々を経て先の結論にたどり着き、5.最後に考古学の教授の証言も得てこの問題は完結されたとのことである。なんとも修行僧かとも思えるその学問への情熱には、ただ敬服するばかりである。
この「なぞ解き」の文章は次のことばで結ばれている。
「それにしても、奈良の都からは絶海・遠隔の地、宮古の島々へ、だれがいつ、この上代人の「ことだま」のこもった穀量容器をもたらしものか。歴史は黙して語ろうとはしない。ああ。」
文献でたどれる古代は、紀元600年ころの飛鳥・奈良時代までである。「ツガ」ということばはこの時代に使われていたとのことである。その先は、→古墳→弥生→縄文だけれども「言語学者」は文献がないから、その辺のことは語ろうとはしない。資料がないものは証明のしようがない、と。
ミャークフツの独特の発音、摩擦音とか破裂音とか中舌音とか、これらは一体いつの時代の“ 音 ”なのか。親から子へ、子から孫へと連綿と伝わってきたこの“ 音 ”はどれくらい、もともとの“ 音 ”を保っているのか。
いまの平成天皇は、歴史上125代目とのことである。初代の神武天皇は紀元前660年ころということになっているらしい。日本という国は、島国であるが故に、他国や他民族による侵略やら排除ということはなかった。
大陸ではそのようなことは稀有であり、歴史はやったりやられたりの連続である。天皇が二千年以上も続いているというような国は他にない。そんな中で、ミャークフツはもしかして比較的純粋にむかしの“ 音 ”を保持しているのではないかという期待がある。
で、どのくらいむかしかというと、日本という国が出来る前、すなわち紀元600年よりまだ前の、日本に文字ができる前の、もっというと、列島に北から南からあるいは大陸からと人間が集まって来ていて、何かが出来上がる前である。その何かというのは、“国”とか、そこの“母語”とかである。
飛躍するのだけれども、その混沌とした時代の“ 音 ”を、もしかしてミャークフツは保持しているのではないかと期待しているわけである。そうなったら、ミャークフツは“ 世界遺産 ”になる。
「現在の沖縄人は、古代、倭人に征服された民族なのか?それとも九州から南下した倭人の末裔のひとつなのか?昭和40年3月、生まれ育った沖縄宮古島の高校を卒業し、同年4月から広島で学生生活を送るようになって以来、私の心の中に燻り続けている疑問である。・・・」
これはその著書『古代天皇 実年の解明』新泉社刊 の「あとがき」でのことばである。著者名は砂川恵伸といって、くまかま仲間のKさんから教えてもらった著書であり著者である。
なんでも「アズ」(共通語で 言う の意味)というミャークフツを手がかりに、天皇どころか「大国主命」まで時代をさかのぼろうという考えのようである。
“ 完成 ”はまだ先らしいけど、ミャークフツが「天皇」を手がかりに解明されるというなんとも驚くべき作業が進められているのである。古代、この列島に何が起こっていたか、『古事記』『日本書紀』の“物語”が単なる作り話なのかそうでないのか、人によって見方が大いに異なるのだけれど、現実に、2月11日“建国記念日“というのは、初代神武天皇が“奈良”の地で“建国”の詔を挙げた日、ということになって祭日になっていたりする。
“ 音 ”というと、ミャークフツ伝導師 下地 勇 を外すわけにはいかない。ミャークフツの“ 音 ”そのものを直に伝えるのだからこれに勝る手段は他にない。問題はその“ 音 ”がどのくらいむかしの“ 音 ”なのかということである。
イサムのアーグ(歌)を、“ 古代からの伝言 ”として聞くと、頭の中は『古事記』『日本書紀』の世界が拡がったりする。宮古のカンカカリャは、もしかして卑弥呼の末裔じゃないかと妄想するわけである。
お便りコーナー
東京在住 広島出身 風人さんより
「前号の感想」
Rさんの「ばんたがやーぬつかふ15」− 坂の風景 −
良いエッセイですね!
坂道を行く荷馬車の写真を、昨年秋、宮古島の島人さんから見させて頂いた思い出があります・・・。
通りを行きかう人の声が、リアルに、聞こえてくるような光景でしたネ!
島人さんの馬車屋さんともある事がきっかけで、間接的にですが、知り合うことにもなりました・・・。
イーザト界隈もここ1年〜2年、都市計画整備事業で変貌しつつありますね・・・。
もうすぐ公設市場もなくなって、大きなマンションが建って、道が整備されるそうで、昔の面影がなくなることに、私のような旅人でも寂しいです・・・。北市場もなくなるし・・・。
復帰前までの旧市街地の変貌が急激に始まりつつありますね・・・。
※風人さん、感想たんでぃがーたんでぃ〜。
風人さんも同じように変わり行く寂しさを感じるですねー。
Rさんもお便り喜んでいましたよ。ありがとうございました。(松)
出版祝賀会のおしらせ
松谷初美(下地町出身)
■くまかま本出版祝賀会
日 時 | 2007年3月4日(日) 午後6時〜9時 |
場 所 | レストラン・クール(新館) (西里322 電話:72−4008) |
会 費 | 3000円 |
ゲスト | 下地勇、狩俣政作、徳嶺勝也、 のひなひろし、かつ吉、こうちゃん |
申込み | 2月22日まで 松谷あて kumakama@mbp.nifty.com |
その他にもいろいろ出し物の予感が・・・お楽しみに!
場所がなかなか決まらなかったのですが、やっとがま決まりました。懐かしいことが大好きなくま・かまにぴったりの会場「レストランクール」です。その昔は、結婚披露宴の会場で有名でしたね。昔の結婚式のイメージ、長机にパイプ椅子、折り詰めでやりますよー。どうぞ、お気軽にご参加くださいね。やまかさぬ参加・申し込みをお待ちしています!
編集後記
松谷初美(下地町出身)
下地勇さんが出た「トップランナー」みぃですたーな?(見ましたかー)勇さんの魅力があますところなく、たっぷり見られましたね〜。見逃した方、きょう(15日)の24時〜NHK総合テレビで再放送があるそうですよ(地域によっては再放送の時間が違うそうです)ぜひぜひ!
さーて、vol.142 のーしがやたーがらやー(いかがでしたか)?
それぞれの個性があふれんばかりで楽しんでいただけたと思います。
宮古の動植物に詳しい宮国さん、さすがバッタの方言名もすごいですね。「かた」にこんないろいろな名前があったとは すっさたん(知らなかった)普段、バッタの方言名を口にすることはなくても、原稿を書いていると次々と名前を思い出すのだそうですよ。草や風や黒砂糖の匂いまでしてきそうなエッセイでしたね。
宮古といえば、「おとーり」と言われるくらいいろいろな本や雑誌などでよく取り上げられますが、起承転結で説明しているのは、他にないはずよ。雰囲気がよーく分かるさね。伊良部の「順番だから」と踊るおどりは、自己流で踊るのだそうです。挨拶があったり、おどりがあったり、宮古の飲み会や祝いの席では、知恵と表現力と体力が必要なんである!?
今回から「ばんたがやーぬあず(我が家の味)」と題して宮古の料理を紹介していきたいなーと思っています。旧正月も近いということで、(2月18日)今回は、「しーむぬ」でした。宮古の人なら たーまい(誰でも)大好きですよね〜。菜の花のお母さんの味も んまくいぎや〜(おいしそうですね〜)まだ自分で作ったことがないという方、参考にしてぜひ、つふぃみーるよー(作ってみてね)
ひさぼうさんは久しぶりに方言講座でした。
みゃーくふつの“音”の世界へ、太古への旅をしているような感じがしましたね。勇さんの歌は、まーんてぃ 悠久の彼方からの声のように聞えます。「ミャークフツは“ 世界遺産 ”になる」とは、確かに!新里先生の「つが」の話もまたすごいですねー。すでに やらびぱだ(子どものころ)からその素質があったんですね。納得です。
きゅうまい、しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜。(きょうも最後まで読んでくださってありがとうございます〜)
今号のご意見、ご感想、お気軽にお寄せくださいね〜。
次号は、3月1日(木)発行予定です。どうぞお楽しみに!
花粉症の方、お大事にねー(ばんまいさいが)あつかー、またいら〜。