こんにちは〜。
台風4号が吹き荒れたと思ったら、今度は新潟・長野で大地震。自然のやることは容赦がなくて、呆然としてしまいます。ぴゃーぴゃーとの(早い)復興をお祈りしています。
今回のくま・かまは、夏の話題をお届けしますよ〜。
夏休みの思い出(1) なびがーす(クマゼミ)の羽化
Motoca(平良出身)
セミの幼虫は、羽化が近くなると地面に出てくる。やがて夜になると地上に出て、木の幹をよじ登り始める。中には、夕方、日も暮れきらないうちから木に登り始める気の早い幼虫もいる。
セミの羽化を観察して、自由研究のネタにしよう!
と、そんな羽化直前の幼虫を持ち帰ったことが何度かある。幼虫を自宅のカーテンに近づけると、わいっと足を伸ばしてつかまり、よじ登り始める。羽化するのに適切な姿勢がとれる場所を見つけたら、そこにとどまる。
そして、大体夜10時をすぎた頃、幼虫の背中がぴぃっと割れ、中から青白い成虫が、少しずつ出てくる。昼間に見る、真っ黒で堅い なびがーす(クマゼミ)とは別のもののような、白くて柔らかそうな、不思議な生き物がそこにいる。これが黒くなるのにどのくらい時間がかかるだろ・・・。
いつも、初めのうちは数分おきにスケッチしたりメモを取ったりと結構まじめに観察しているのだが、小学生に夜10時過ぎは、つらかった。毎回、成虫の全身がカラから出て、羽が伸びきったか伸びきらないかの辺りで寝こけてしまい、私の自由研究はいちども完遂できたことがない。
翌朝、目覚まし時計もセットしていないのに、けたたましい大音響で目が覚める。
がーしがーしがーしがーし・・・。
おごえ、がーすががーしている(おわっ、セミが騒いでいる)。家の中で。だいっず、んぎゃます(超うるさ〜〜いっ)。が、セミは夕べ羽化した場所に抜け殻だけを残し、姿が見えない。冷房で閉め切った家の中に、鳴き声が反響しまくって音の発生源が分からない。
それでもオスは鳴くからまだいい。メスはかすかな羽音だけを頼りに探さないとならないのだ。メスの場合、目覚ましというより、くーむや(ゴキブリ)が歩き回っている音と勘違いして、恐怖で目が覚める。
かくして、家族全員でセミの捕獲大会が始まる朝6時台。家の中では網を振り回せないので、雑誌とかうちわとかをみんな片手に持つ。これでちょっとずつ寄せていって、セミを家の外に誘導するのだ。
セミは大体、カーテンの裏や、室内干しの洋服のあいだ、または棚の後ろの隙間にいる。たまーに柱や梁にとまっている。いや、たしかに木ですけど、加工済みよ?ニス塗ってあるよ?
人が近づくのを感知すると、セミはすぐ、ぴんぎる(にげる)。気づかれないようにこっそりこっそり近づいて・・・と、なんだかもう、やっていることがゴキブリ退治と大して変わらない。やっとの思いでセミを外に追い出した頃には、家族全員、汗だくになっている。
懲りずに何度かやり、でも完遂したことがない、
私の永遠の自由研究テーマ「なびがーす(クマゼミ)の羽化」。
730(ななさんまる)の頃
神童(平良市出身)
陸軍中野学校が満州で展開した恐怖の部隊。ではありません。7月30日のことです。はい!
高校生三年(1988年)でした。当然、車の免許はありません。なので、じぃぇんじぇん関係ありません。でも、バイクの免許はあったので、そんなに関係なくもないか。ま、どーでもいいです。
ジャンアント パンタでした。(忙しかったな。かなり!繁多です)
冬休み。春休みに引き続き、夏休みもペンキ屋でアルバイト。冬休みと春休みは、養護学校と宮古高校に通ってました。養護学校は、開校前なので、校舎のあちこちのペンキを塗りました。宮古高校は、音楽室と図書館。バイト以外では、行くことのない場所だったりします。
三年のクラス替えで教室に行って、速攻でついたあだ名がペンキ屋!髪の毛が赤青黄色ってな感じで。夏休みは、ひたすら道路でした。道路の白線引きと交通標識の設置。
7月30日の午前零時を境に交通規則が右から左に変わるので、道路標識を左側に設置してカバーを掛けて、午前零時にカバーを外していく。目の回る忙しさだったぜ!
でも、作業は郊外部分が多くて通行する車も少なくて、交通規則の変化が実感としてないんだな。右から左へ変わるので大人しくなるということかな?くらいで。
ペンキ屋のバイトはですね、徳次の原付バイクで通ってましたね。原付に二人乗りの上、ノーヘル。当時は原付のヘルメット着用は義務づけられてなかったけどさ。何故か、警察に1回も捕まってない。悪運が強かったはずね。
あ、春休みは野原の航空自衛隊の鉄塔のペンキ塗りもしました。送信所の直径10mほどのパラボラアンテナを支えてる鉄塔。5mピッチで色が赤白に変わる。3色なので15mですね。その2色部分だから10mの位置で足を滑らせて、地上に激突する前に途中で引っかかった。あばら骨を強打して。
平成8年頃にあばらが傷むので、垣花外科に行ったら、以前にあばら骨を骨折してませんか?と、聞かれ、「ありません!」と、元気に答えたらば、医者がレントゲン写真をひらひらさせながら、ほら、ここの骨が5mmくらいずれてるでしょう?これは、骨折した証拠です。とか言って。
思えば、あの時、あばら骨が折れてたんだな。んなまどぅ っすぁい。初美、まいふか!(今、判ったぜ。初美、ありがと!)詳細は、学校がない。の後半に書いてるんだけど、みんな知らないよね。、機会があったら書きます。
伊良部島もよく行ったな。小学校の前の道路の白線引き。道路の白線を引く部分を竹箒で掃いて、墨打って、プライマー塗って。腰が疲れる仕事でした。
白線引きの作業内容は、まず、白線を引く箇所を竹ほうきではきます。して、石灰の入った袋に麻糸を通した道具で白線を引く箇所に墨を打ちます。熟練の技を必要とします。墨討ちは、両足で麻糸を踏みつけ足の間の麻糸をはじいて石灰をアスファルトに書き込んでいくという作業です。ほとんど中腰の作業なので椎間板ヘルニアの患者若しくは犬猿雉には不可能な仕事です。
次に、アスファルト面と白線の主原料である石灰を接着する役目のあるプライマーという液体を塗布します。女性の化粧の際の下塗り(ペンキや用語でシーラー処理)と似たようのものと考えて下さい。
これらの作業が終わると白線引きです。石灰をどろどろに炊いて人力で機械を押しながら白線を引いていきます。石灰はかなりの高温なので夏場は最悪です。白線を引きながら自動的にビーズ(ガラスの粉)を表面に振りまいて終了です。夜、白線が光って見えるのは表面のガラスの粉が光を反射しているからなのですね。
一番疲れるのは、ほうき!延々と道路の両側を掃いていく、れれれの高校生。
ま、なんでも掃除が基本だからさーね。住宅会社で働いていた頃は、入社3ヶ月まで現場の掃除。掃除はプロです!はい!兎に角、早く綺麗に、がモットーだ。吉野家じゃないけどね。
プロの掃除屋は、部屋の中央から掃き始めます。まず、部屋の中央部分を縦に左右にかき払うように掃きます。ほうきが行きと帰りで仕事をするので効率が2倍なのは、理の当然です。次に横中央を同様に掃きます。田の字を書くようにです。できるだけロングストロークで掃きます。で、ゴミを四隅に集めて終了です。びっくりするほど早いです。
掃除と言えば、ディズニーランドに尽きます!機会があったら是非、確認して下さい。ミッキーやミニーは各種のメディアで見ることができますが、掃除の技の妙は現地で確認する他ないからです。かいたー まーだぬ専門ぬきゃー。(奴らはプロです。)間違いありません。
まず、目つきが違います。客と視線を合わさないように心がけながら施設内のゴミを隈無く捜索しています。ゴミを発見すると客の間を縫うように滑らかに移動してゴミの約50cm手前で蓋付きちりとりを地面に付けます。しかし、歩く速度は一定です。間違っても立ち止まったりしません。して、通り抜けざまに右に持ったほうきでちりとりに入れるのです。この動作が終了しない内に、目は既に次のゴミを探し始めるのです。ほとんど芸術です。大道芸人と言ったほうがいいかも知れません。サインをもらいたいくらいです。
親父に連れられて伊良部島に渡ったときは、犯罪でした。ブルの部品をちゃみに。焦った親父の振る大ハンマーが何かの拍子跳ね返って、右頬をぶったかれて、顔が腫れてさ。よく、死ななかったな。まったくよー!
あ、今年の「730」の前日は参議院選挙です。・・・関係ないか!
人は左、車は右
松谷初美(下地町出身)
戦後から29年前の1978年まで、沖縄では、車は右側通行だった。そして、人は左側を歩くものだと教えられ、学校に通う道は、ずーっと左側通行を守っていた。「人は左、車は右」このフレーズは、呪文のように・・・とはいかないまでも、かなり浸透していたと思う。
ばんたがやー(我家)から学校までは、ほぼ4キロ。やらびぬ(子どもの)足では、1時間くらいかかる。小さな畦道も通るが、平良と下地を結ぶ幹線道路も通る。
もちろん学校で言われている通り、ずーっと学校に行くまでの間、左側しか歩かない。他の生徒ももちろんである。歩道はなかったので、車が向かってくる感じだが、うとぅるす(怖い)と感じたことはなかった。
行きの左側は、あがす゜かた(東側)になるので、咲田川や沖縄製糖工場のある側を通り、帰りは、与那覇湾沿いで赤名宮(あかなぐー)のある方を通って帰ったのであった。
本土復帰したのは、1972年だったが、交通方式が本土式になったのは、1978年のことだった。私はちょうど18歳になるときだったので、免許は、左側運転で取ることができた。なので、右側通行で運転をしたことがない。今考えたら、右側運転が経験できなかったのは残念だったかも?
1978年7月30日の午前0時を境にこれまでの右側通行から、左側通行に変わった。これまで右側通行で運転していたお父や母ちゃんは、幹線道路では気を張って左側を走っていたが、うちの近所の農道に入ると、気がゆるむのか、いつの間にか、右側を走っているということもあった。おごえー、お父よー。
息子が小学校に入ったとき、東京では「人は右、車は左」と強く教えられるかと思いきや、そんなことは聞かなかった。通学路には、片方の端っこにグリーンの色がつけてあって、行きも帰りもそこを通るようにということだった。
考えたみたら、東京で道を歩くときに右とか左とか考えたことがない。「人は右側を通りなさい」とおまわりさんに言われたこともない。歩道があるからなのか?すっさんすぅが(知らないけど)
やらびぱだ(子どものころ)は、歩くところは、決まっていた。行きの風景、帰りの風景、今でも鮮やかに思い出す。
それにしても、730(ななさんまる)と言っても、なんのことだか分からないという人、多いんだろうなー。もう29年も前の話なんだね。
新城・伝統クイチャ−への憧れ・・・新城クイチャ−ぬ なかだてぃ ぶどぅず(仲立踊り)
カニ(平良出身)
今から10年前にカニは故郷に戻ることができた。運がいいと思った。仕事があることに感謝していた。
宮古島に戻ってから2年目の夏の日のこと、多分7月だった。「城辺町民まつり」があると新聞に大きく報道されていた。プログラムを見ると、興味深い出し物が2,3あった。ひとつは、「新城クイチャ−」、もうひとつは「池間クイチャ−」、そして最後に「國吉源次ショ−」であった。
場所は城辺陸上競技場であった。県道は混んでいることを予想し、いつものカニの好きな裏道を通って出かけた。太陽も沈みかかる7時頃から始まっていた。裏道を通って行きはしたものの、車の置き場もないほどの混み合いで、駐車場もなく、仕方がないので、会場から遠く離れた福北部落の近くに車を止めて、家族で陸上競技場まで畑道を歩いた。遠くから町民祭りを見に来た人らも、カニらと同じように急ぎ足で会場に向かった。
・
・
・
「んざからが んみゃ−たず」(どちらから、いらっしゃいましたか)
「ぶらさい」(保良さい)
「うう゛ぁた− んざからが」(あんたらはどこからかね)
「ばんた− ピサラからが きすたずゆ」(私達は平良からきましたよ)
「い− あんち〜な きょうぬ まつりゃ− はなびまい あずつぁ−」
(そうなんですか。今日の祭りでは花火もあるそうですよ)
「まんてぃな あしば とぅずみきゃ−がみまいどぅ み−だか ならん
さいがや−」(本当ですか それでは最後まで見なくてはならないです
ね)
「あざ− まつりゃ− み−たずくとぅぁ にゃ−んな」
(兄さんは祭りは見たことはないのですか)
「ぱじみぃてぃさい ばや− 【み−ばや】てぃ うむいうずたゆ」
(初めてだよ 私は【みたいな〜】と思っていましたよ)
「ばんたまい ゆぬむぬさい」
(私らも同じだよ)
「うぬ まつりゆ み−だか なっつぁ にゃ−んゆ」
(この祭りを見なければ夏はないのと同じだ)
・
・
・
このような会話をしながら、会場に向かいました。
会場では、顔見知りの城辺町の町民らが賑わっていて、それぞれがブル−シ−トを敷き、場所を確保していました。殆どの方は、重箱にぱんびん(てんぷら)、そ-みんちゃんぷる-(そ−めんの炒め物)、おにぎり、果物など、酒のうさい(酒のつまみ)を用意して、場所取りをしていました。
中には親族でしょうか、車椅子に乗った長老(お爺さん)の方を、お孫さんでしょう、きっと、抱きかかえながら、ブル−シ−トの真ん中に坐らせ、そして長老を うつざ(親戚)で囲み、これまた楽しそうに酒をつまみながら、催し物が始まるのを待っていました。凄く故郷の香りの漂う、人情溢れる暖かいのどかな情景でした。
さて待ちに待った「新城のクイチャ−」が披露されました。円を作り、踊り始めました。カニは吃驚しました。特に2人の男性の踊りに目がいきました。動作が大きく、床を強く蹴り上げ、飛び上がり、右手は挙げるように天を向き、左腕は地面を向き、かいな(腕)をひねりかえし、右大腿は腹にくっつく程に高く上げ、左足で蹴り飛び上がっていました。
そうして新城部落の全員が、誰一人も乱れることもなく息が合い、グルグルと円の中を流れるように踊っていました。カニは満月の照り上がってくる中で、初めてみる「新城のクイチャ−」に酔いしれていました。このように動きの激しいクイチャ−踊りは見たことがありませんでした。
「かんちぬきゃ−ぬ みゃ−く にのよいさっさい」のかけ声でクイチャ−踊りは始まっていました。
今でもあの夜のことが忘れられません。感動したからです。あの時のクイチャ−踊りは、もう2度とは見ることはないかもしれません。その後にもクイチャ−大会で、「新城クイチャ−」が披露されていますが、ちょっと踊り方が異なっているのです。あの躍動的に踊ってみせた2人の男性の方の出場姿もありません。クイチャ−踊りとは、心から楽しむものだ、そんな姿でした。顔の表情も、笑顔で生き生きとしていて、股を高く上げて、天に舞う程の、「とぅぬぎ」(蹴り上げ)でした。カニの脳裏には強くあの日のことが焼き付いています。
・
・
・
この前、國吉源次氏と会う機会があり、源次氏は新城生まれだという云うことで、町民祭りで見た新城クイチャ−の話をしました。あの踊り方は「仲立て踊り」と呼ばれていることを知りました。カニが見たとおりのことを源次氏も語っていました。かいな(腕)をひねりかえすような仕草、地面を蹴り上げ、天に昇るように踊ること、一寸も違わずに全員揃って踊ることが特徴であること語ってくれました。
「かんちぬきゃ−く みゃ−く にのよいさっさい」と歌い そして右足から一歩前に出す
・
・
「かんちぬきゃ−ぬ みゃ−く」は足をぴったし揃え合わせるための最初の合図のかけ声なんだ、とも語ってくれました。
「やはりそうだったか」・・・カニは自分が考えていることを源次氏が語ってくれたので、またそのことも嬉しくなりました。
昨年の8月頃に國吉源次氏の率いるクイチャ−軍団が、国立劇場でクイチャ−踊りを披露していました。カニは偶然にテレビでその踊りを見ました。円をつくり、流れるような、全員が息の合った踊りをしていました。「仲立て踊り」ではなかったのですが、それに近い感じで披露されていました。凄い迫力で迫ってくるエネルギ−が感じられました。
このことも源次氏に話しましたら、その時の模様を語ってくれました。
その時のクイチャ−踊りがこの日の最後のとりの演技であった。クイチャ−踊りが終わると会場の皆が総立ちし、凄い拍手だった。幕が降りても拍手は止まず、皆が「宮古のクイチャ−は凄い凄い」と連発し、劇場始まって以来の感動の嵐だった・・・。
国立劇場で演じた沖縄の舞踊でこんなに拍手喝采となったのはクイチャ−だけだ・・・国立劇場の館長がそう話したそうだ・・・「源次、あんたは幸せだ、あんたにはクイチャ−がある・・・クイチャ−ア−グと踊りは宮古の誇りだ」・・・そんなことを国立劇場の館長に言われたことを、熱い想いで源次氏は語ってくれました。
カニが思っていた通りに、源次氏は、クイチャ−ア−グと踊りに、民衆の歌と踊りに、宮古人としての誇りを持ち、「クイチャ−こそが、宮古の民衆のア−グと踊りだ」と話してくれました。カニもまったく同感でした。
・
・
・
さて、城辺町民祭りも、最後の素晴らしいア−グシャ−・國吉源次の宮古民謡ショ−が終わり、花火大会となりました。カニら家族は花火を見ながら帰路に向かいました。カニの心は満たされていました。
新城クイチャ−、池間のクイチャ−、國吉源次の宮古民謡・・・それらすべてがカニの心には新鮮で新たな感動を引き起こしていました。城辺小中学校の裏通りの畑道を歩きました。同じようにこの道を祭りを見終えたしゅう・むま(お祖父さんやお祖母さん)、うや・あんな(お父さん、お母さん)、あざがま・あんががま(兄さん、姉さん)、っふぁ・うまが(子どもやお孫さん)らが、カニと同様に満足げに歩いていました。
カニはその時の光景が忘れられません。夜空に散らばる星くずを見ながら、涼しい夜風を受けながら歩いている沢山の人達・・・平和な田舎の光景です。途中、何やら、おばさんらが皆畑に入っていきました。そして、適当に離れたところで、ズボンやスカ−トを下げて、和式の便所に坐るような姿勢で、小便を始めました。このような光景が至るところで始まりました。何の違和感もありません。とても自然でした。祭りの間、じっと我慢していた「ゆすぱず」(小便)を、赤土の上に放っていました。あちこちで笑い声が聞こえてきました。
「ばんまい ゆすぱず す−ちゃ」(私も小便をしよう)
「ばんまい ゆすぱず す−でぃ」(私も小便をしよう)
「うう゛ぁまい ゆすぱすゆ ま−つき す−じゃ−んな」
(あなたも一緒に小便をしようよ)
「ばや− ゆすぱっざぁ− にゃ−んゆ」(私は小便はないよ)
「あがいたんでぃ ば−や ふすゆどぅ ま−たず ま−たずゆ・・・
の−がす−でぃな」(あら!私は大便をしたくてね、どうしようかな)
「あがい− び−ふかすなゆ うう゛ぁ− まんてぃ んにゃゆ んにゃ」
(大変だ、洩らしては駄目だよ、お前は本当に・・大変だ)
カニャ− んにゃてぃ あまい ばたぶにぬ ぶりんきゃ− かまぎたぶにゆ ゆがみんきゃ− くくるからどぅ ばらいうたずゆ− うぬくとぅまい まんてぃ ばっしらいんくとぅさい(カニは可笑しくて可笑しくて、あばら骨が折れるほど、あご骨の歪むほど、心から笑っていました。そのことも本当に忘れることが出来ません)
みゃ−くぬ 夏祭りぬ ゆ−や あまいぐいぬどぅ てぃんかい なりとぅゆみ まんてぃ んにゃ ぞ−むぬや−たずだら(宮古の夏祭りの夜は、笑い声が天まで鳴り響き、本当に良かったですよ)
かんちぬきゃ−ぬ みゃ−くぅ にのよいさっさい
(こんな宮古島だよ にのよいさっさい)
はいさい はい はい はい
ひやさっさ はい はい はい
おしらせ
宮古てれびさんより
■宮古テレビの番組がネットで!
みなさんこんにちは!宮古てれびです。
いよいよ宮古テレビのニュースがネットでご覧頂けるようになりました。(・・・テスト放送ですが)
宮古テレビの「ニュースライナー」や初美ねえねえの時代から続いている「週刊てれび・アガンニャ」みゃーくふつの番組「冴子おばぁの四方山ばなし」・・・などがご覧になれます。
「ニュースライナー」は1日遅れでのUPとなりますが、毎日更新します。これから、みなさんのご意見などを頂いてより楽しめるストリーミング放送を作ってゆきたいと思います。
みゃーく郷友のみなさんぜひご覧になって下さい。
アクセスは、『http://www.miyako-net.ne.jp/』or『宮古テレビ』で検索して〔みゃーくてれび〕のアイコンをクリックしてください。
◆宮古テレビの自主番組がインターネットで見られるとは、だいずぷからす(うれしい)おしらせですね〜!早速見て、感激しています。
みなさんもぜひ、アクセスしみーみーるよー(見てくださいね)
宮古てれびさん、おしらせ、たんでぃがーたんでぃでした!(松)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
宮古では14日(土)に「第14回鳴りとぅゆん みゃーく方言大会」がマティダ市民劇場で開かれて、大盛況だったようですね。先のおしらせの宮古テレビ動画配信サイトの「ニュースライナー」7/17放送分を見ました〜。この大会は、チケットがすぐ完売になるというほど大人気とか。まーんてぃ うかーすむぬやー(本当にすごいことですね)笑い転げる会場のお客さんの表情も映っていましたね。ばんまい 会場ん うーぶすむぬ やたんー(私も会場にいたかったなー)あすぅが(でも)今年も、主催の宮古島市文化協会からDVDが発売されるということですので、これを楽しみに待つことにしましょう〜。
さて、vol.152は、んなまずぶん(今の時季)のお話しをお送りしました。のーしが やたーがらやー(いかがでしたかー)?
夏休みの自由研究は、なぜか知らないけど、毎年同じものをやるという傾向、ありましたねー。Motocaさんは、「なびがーすの羽化」だったんですね。でも、結構熱心に観察してますよね。私など、羽化する様子は、みーたーくとぉーにゃーんたん(見たことなかったです)次号もMotocaさんの夏休みの思い出続きますよー。お楽しみに〜。
「730」が近いということで、神童にその頃の話をお願いしました。「730」を見る側ではなくて、働く側として参加していたとは!さすが。して、その頃に骨折していたのに、数年経ってお医者さんに言われ、今、気がついたとは、恐るべし神童!経験が濃すぎるんだけど・・・。確か、ぶーりゃ(同い年)だよねー??
「人は左、車は右」のキャッチフレーズ?あなたは、覚えていますか?
城辺町民祭りの様子が、にぎやかな音や あまいぐい(笑い声)とともに、見えるような楽しいカニさんのお話しでしたねー。でも楽しいだけでなく、カニさんの目を通してとても大切なものが分かりやすく私たちに届けられていますよね。近すぎると見えないこともやまかさあると思うのだけれど、近いところからしっかりと大切なものを見つめているカニさんの視線、すごいなーと思います。
さぁ、あなたはどんなことを感じましたかー?
今号の感想もお待ちしていますよ〜! もちろん、投稿作品も!
今回、おしらせコーナーに掲載した、宮古てれびさんからのおしらせは、ホームページの掲示板に書き込みされたのを、あにぎな(そのまま)メルマガでも紹介させていただきました。くま・かまの掲示板をおしらせの場所として利用してくださるのは、だいず ぷからすくとぅ(大変うれしいこと)です。どうぞみなさんもお気軽に、どんない利用してくださいね。掲示板では、いろいろな情報交換もされていますので、ぜひ遊びに来てください〜。
「くまから・かまからホームページ」
※こちらに移転 https://miyakojima.jp/kumakara-kamakara/
次回は、8月2日(木)の発行予定です。
またいろいろな ぱなす(話)をお届けしますよ〜。どうぞお楽しみに!
きょうも上等な一日でありますように〜!あつかー、またいら!