こんにちは〜。
今年も残りわずかとなってきましたね。くとぅすしみゃーぬ(今年最後の)くま・かまです。
じっくりお楽しみくださいね〜。
初めての雪
ビートルズ世代のサラリーマン(平良出身)
何年経っても大和の寒さに慣れない。
最初大和に来たとき、腹筋が痛くてしょうがなかった。それは、ぴしさんふーりて(寒さに震えて)無意識の内にお腹に力が入るせいだった。
寒ければ厚着をすればいいのだが、南国で育って来た習性かコートを着るとかいう かなまず(考え)が無かったのである。いまだに長袖のアンダーシャツやズボン下が苦手で、薄着で「寒い〜寒い」と震えている。そんな苦手な大和の冬だが、一つだけ楽しみがある。それは雪である。
雪の降らない宮古島で育ったものにとって、雪は一つの憧れである。私の知っている宮古のネーネーは、雪だけでなく冬そのものに憧れていて、一度でいいから毛皮のコートを着てみたいとファッション雑誌を拡げながら溜息混じりにつぶやいていたもんだ。確かに、毛皮やコートで冬のおしゃれを楽しむには宮古は暖かすぎる。ネーネーの嘆きは分かるような気もする。
高校の頃「ある愛の詩」という映画(洋画)があった。幸せな若いカップルの女性の方が不治の病で亡くなってしまうという大悲恋映画で、病気の事実を知った二人が冬のセントラルパークで抱き合うようにスケートをするシーンは、当時の高校生達の涙をさそったものである。と同時に、二人の吐く息が白くなる程の冬景色やライアン・オニールが着ていた白い手編みのセーターに南国の高校生はおおいに憧れたものである。
南国生まれの者にとって、初めて見る雪がどのくらい感動的かそれを物語るエピソードがある。
高校を卒業して内地に行った○○兄からある日電報が届いた。何か良くない知らせかと思い不安げに電報を開いた父母はあっけに取られた。
「コチラハ ユキデス ○○」
おごえー(びっくり)である。先日、その事を確認するため兄に電話を入れると、「俺、そんな電報を打ったかなー」と当の本人は全然覚えていないようだった。
さて、私が初めて雪を見たのは、高校を卒業して上京した時である。その年の3月に降ったドカ雪が道路のあちこちにまだ残っていて、それは泥まみれの固まりとなって転がっていた。あれ程憧れ続けていた雪のイメージとはほど遠い出現にガッカリして、なるべく視界に入れないようにした。
ほんとの意味での雪を見たのは大学に入り名古屋に行ってからである。ある日、空から灰のような ぴるます(不思議な)ものが降ってくると思ったらそれが雪だった。
それは段々本格的な雪になって、綿のような大粒の雪がふわりふわりと舞い降りてきた。その夜はアパートの2階の窓を開けっぱなしにして、物干しの細いロープにまで降り積もる雪を一晩中飽きずに眺めていた。
翌朝、一面銀世界となった表に飛び出して新雪を踏みしめ足跡を付けてはしゃぎまわった。まさに童謡に歌われている「♪犬は喜び 庭かけまわり〜」状態である。
雪の降らない南国生まれの私にとって、雪は特別なものである。毎年、雪が降るのを心待ちにしている。何度見ても、天から降ってくる純白の雪は幻想的で美しい。
雪をみてはしゃぐ私を見て、新潟生まれの妻は、雪国の生活の苦労をしらないからといって笑う。
今でも雪が降ると、いつまでも窓を開け放しにして家族のヒンシュクを買っている私である。
『古見の主』 どぅかってぃ解説
マツカニ(上野出身)
今回は「古見の主(くんぬしゅう)」というリズミカルな唄を取り上げました。宮古民謡の第一人者國吉源次さんがライブでよく唄うので、聞いたことがある方も多いとおもいます。唄の途中で「ウリッ」という力強いハヤシをご自分でいれるあの唄です。
「古見の主(くんぬしゅう)」 1. ばんぬ かみかみやよ どぅぬうりゃが ぬうりゃがよ (私は亀 亀です 身体を(浜に)乗り上げようと) ※ハイシュヌ カミヤ ヤイマヌ シュド ユスマヌシュウ(ハヤシは2番以降省略) 2. あらぱなぬ ぬうす゜あよ ぱづみてぃぬ ぬうす゜あよ (最初に上がるのは 初めて 上がるのは) 3. くんぬ まいどぅます゜よ かなすばが とぅます゜よ (古見村の 前泊だよ 恋しい私の 前泊だよ) 4. ばたやみどぅ ぬうす゜たよ っふぁ なさてぃどぅ ぬうす゜たよ お腹が痛くて 上ったよ 子供を産もうと 上がったよ) 5. くんぬしゅうが いんぐな まないしゅうがさうとぅりゃ (古見の主の海の係り 物静かな主の 釣竿の係り) 6. すとぅむてぃんな ぴゃあしうき あきしゃるんな ぴゃあしうき (朝は 早く起きて 明け方には 早起きをして) 7. いんゆ まあり みいりばどぅ ぱまゆ まあり みいりばどぅ (海の様子を 見ていると 浜を歩き回っていると) 8. ばんゆ みたんがら かみゆ みたんがら (私を 見つけたらしく 亀を 見たらしく) 9. くんぬ しゅうが みなかんかい まないしゅうが ゆさすんかい (古見の主の 庭へ おとなしい主の 庭先へ) 10. ばんゆ むたぎぬうし かみゆ さあぴすき ぬうし (私を 持ち上げて乗せ 亀を ひきずり 乗せ) 11. かたな ならしうりばよ まなつぁ ならしうりばよ (刀を鳴らしているので まな板を 鳴らしていたので) 12. ばがんぬつ きゅうだら うぷみ うてぃ きゅうだら (私の命も 今日までだ この命 落とすのは 今日だ)
(解説)
まず、大まかな意味から
私は亀です。初めて浜に上がるのはなつかしい古見の前泊です。
おなかが痛くて子供を産む為に上がりました。
すると物静かな古見の主に仕える魚釣りをする係が朝早起きして
海の様子を見に歩いてきました。
その時に私を見つけたらしく「庭にひきずり上げられて刀やまな
板を取り出しているので自分の命も今日までだと覚悟をしていた」
ここまでが12番です。
この後の歌では、覚悟をしていたが、古見の主の奥様の情けによ
り助けられ、その恩に報いるべく古見の主の航海の際はいつも船
に付き添って航海を安全に導いたと歌われています。
「平良市史」には37番まであり、その辺をうかがい知ることができるとおもいます。機会があれば御一読を・・・。
ハヤシの部分は「もしもし亀さん、八重山の主だよ、四島の主ですよ」と、こんな感じでどうでしょうか?
古見の主は四島の主のことで仲宗根豊見親の時代に狩俣・島尻・池間・大神を治めて仁政を施し人徳を集めた領主だったそうです。
学問に秀でていたことが「四島の主」という民謡で唄われています。豊見親に重用され西表の古見村へ派遣されて造船の監督をしていたそうで、その時の出来事を唄ったものと思います。通常は6番までが唄われています。
さぁ、では、昔々の宮古島に思いを馳せながら、唄ってみますか。
ジャング、ジャング・・・
台湾旅行記
宮国勉(城辺町出身)
今年11月24日から28日まで妻と妻の母親、荷物持ちの私の3人で4泊5日の台湾旅行に出掛けてきました。
現地のガイドさん、一人目はチンさん、年は同年、二人目のヨウさんは1才年上、三人目のロさんはおそらく7才ほど年上。個性的な三人のガイドさんに案内され、亜熱帯と熱帯が混在する台湾を旅した。
台湾は他国の統治時代が何度もあり沖縄と共通した歴史がある。台湾の人達は親日的で、日本語が堪能である印象を受けた。寺院なども柱、建具、壁飾り、格子天井など沖縄の首里城を見るような朱漆塗りが目立った。おまけは、美味しいビールと食事で、土産にお腹に肉を付けて帰ってきた。
11月24日 土曜(第1日目)
第1日目の11月24日(土)成田発13時25分(日本時間)、約4時間半のフライトで台湾の桃園空港に17時10分(台湾時間)到着。現地ガイドのチンさんに迎えられ車で新幹線の桃園駅へ向かった。
あれ“んにゃ(大変だ)20分したら新幹線が出発しちゃう” 私の時計は日本時間のままだった。はやる気持ちを抑えながらいると、母と妻は余裕でトイレタイム、それでやっと状況が解った。日本と台湾は時差1時間あるので余裕があったのだ。
車を駐車して戻ったガイドのチンさんに年を訊かれ、チンさんと57歳で同年であることが判明。なぜか握手し空港から駅までの僅か30分のふれ合いが親密にすら感じられて良い旅のスタートを予感しながら別れた。
改札を通りエレベーターで地下三階のホームに辿り着くと、なんと客が少ない。ホームの奥行きは広いがベンチの数は少なく10数人分程度あるだけ。乗る電車は二本やり過ごしてから一時間後だ。
今度は退屈を紛らわす手だてを見つけにジュース買いに行く。台湾はジュースが安く日本の半値ていど、それを飲み干して待望の電車が来た。新幹線は300キロメートル/毎時の運転で軽快に走るのだが客が少ない。2割程度の乗客数で18時30分発〜19時03分、台中に到着し、現地ガイドのヨウさんに迎えられる。
夕食は広東料理を満腹、その後、果物屋さんに立ち寄り、ピラミット状に積まれた果物の山、柘榴(ザクロ)、蓮霧(レンブ)、スターフルーツ、グワバ、釈迦頭(シャカトウ)、パパイヤ、椰子など豊富にあり、安いのでつい買ってしまった。なかでもグワバは粒が大きく改良され、種は少なく果肉は白くて堅く、甘さ控えめで酸味があり、独特の香りも余りなく別の果物のようであった。
第1泊目エバーグリーン・ローレル・ホテルに案内され明日の出発時刻7時15分を告げられ部屋に向かった。
11月25日 日曜(第2日目)
時間どおり7時15分にガイドのヨウさんが迎えに来た。初めに日月潭をめざし、途中に孫悟空に出てくる三蔵法師の祭られた玄奘寺を見学。湖の日月潭に10時半ごろ到着、畔にある文武廟を1時間ほど掛けて見学。日月潭とは湖のことで湖水の背後に山が二重三重に重なり山の濃淡も程よく絶景だった。
さて台南へ移動、しかし車のエンジンが動かない。電気が・・・とガイドのヨウさんが一言残し、姿を消した。のうすっきゃ んざんかいが ぴずたりゃ(何処へ何しに行ったか?)。そのうち男を3人連れて戻ってきた。ああ、なるほどノーマルギヤーはこんな時に助かる。ばんまいうさでぃー(私も押すかねえ〜)直ぐにエンジンは動き、手伝ってくれた人達へのお礼もそこそこで目的地に向かった。「トンネルに入り電気を付けたが消し忘れた」と言う、言い訳を聞きながら、整備不良でエンジンの調子が悪いわけではなさそうで安心した。
台南に12時半に到着し、遅めの昼食は四川料理で、辛いはずの料理だがそれほどではなかった。その後、市内観光(赤嵌樓 ― 台南大天后宮― 台湾府城隍廟)いずれもお寺参りだ。信心深い民族のようで、信心深いのは良いが、子供まで線香を持って祈る姿には少し行き過ぎに思った。神頼みだけで頭が良くなり、健康が保て、人生楽しいことばかりでは勝手すぎる。「努力が足りないなあ、と・・・」あすがあ(でも)誰しも心の内に神を秘めているから否定はしないけれども。
移動はもっぱら車で、車窓から細くスマートな椰子がそこら中に目に付いた。特に台中の小高い丘は至る処が涼しげな椰子林である。ガイドのヨウさんによればあのスマートな椰子はビンロウ(檳榔)と云って肉体労働者などが愛用しているそうで中毒に成るようだ。
ビンロウは椰子科の植物でそれの実を食すると興奮作用を起こし、空元気が出るとのことだった。大通り沿いに2坪ほどガラス張りの小屋が建ててあり、その中に水着姿の若い女性が客を待っている。至る処に檳榔の看板が目に付き夜はネオンが灯る目立つ存在であった。
台南大天后宮の裏通りに案内されて、冬瓜を8時間以上煮詰めて作ったというジュースをガイドのヨウさんに買ってもらった。味は冬瓜で飲みやすく美味しく夏の疲労回復に良いらしい。何故そんなに苦労して作る冬瓜ジュースなのかが理解できなかった。
今度はピーナツとゴマの雷おこしに似た温かいお菓子を奨められた。これは温かいうちは美味かったが、量が多くて食べ残し、冷めてからは歯が欠けそうになるなど台湾庶民の味を楽しんだ。
台南から高速で高雄に着いて直ぐに晩ご飯、台湾の海鮮料理だ。しかし、工事中のホテルの片隅(17時30分〜18時10分ごろ)にポツンと我々だけだった。玄関を挟んだ向こうの部屋では何処かの会社の会議、若しくは飲み会らしい大声のなか、こちらは行儀良く静かに食事をした。
寝る前に寿山公園からの夜景を楽しむ企画。そこからの夜景は台湾の好景気が伝わってきた。その公園は日本の統治時代の靖国神社だったらしいが、電気が煌々と照らされ10人前後の人たちがカラオケを楽しんでいた。晩ご飯の時のホテルと打って変わって中国風の目覚めるような赤一色に金ぴかのグランド・ホテル・高雄(高雄圓山大飯店)に泊った。
11月26日 月曜(第3日目)
今日は8時半出発、朝から霧雨のなか澄清湖(チェンチンコ)の畔を散歩。その公園には香港桜のように初めて見る樹もあったが、南洋杉、木橘(モクタチバナ)、福木、木魔王(モクマオウ)、ガジュマル、鳳凰木など沖縄で見馴れた樹が多かった。香港桜はコブシの花をピンク色にしたような花で街路樹として道路脇を飾っていた。
澄清湖は高雄の水瓶だそうで、そこに架けられ、くの字に曲がった橋は九曲橋と呼ばれており、曲がりくねることは魔除けの意味があるらしい。欄干の柱頭にツバメに似た鳥が二羽ずつ留まり、写真を撮るのに近づくと飛び立つが、すぐに舞い戻りペアーを組む、その仕草が可愛らしかった。その橋を渡り近くの蓮池潭で7重の塔に登り霧の中の公園周辺を展望した。
その後、花蓮のタロコ峡、大理石の加工工場を見る予定だったが台風の影響で飛行機が欠航となり予定を変更して台北へ向かうことになった。高雄から14時発の新幹線にて台北に16時ちょうどに到着した。そこには別のガイドが待っているはずだった。
待ち合わせ場所で10分が過ぎたが、現れないので旅行社に電話すると手違いが判明。こちらは地下三階のホームからエレベーターで改札の外へ出られた。エレベーターを降りると若い女性が切符にハンコを押してくれた。東の何番出口と云われたが、エスカレーター側の改札のつもりだったらしい。
さすがにガイドさんも疲れた表情で現れた。紹介もそこそこに車へ乗り込んで溜め息がでる。ガイドは口が二つの呂(ロ)と名乗り、経緯が言い訳がましく聞こえる私であった。
んにゃ おわずたー くとう ういやーす ごめんてぃー あずだら(もう過ぎたことを・・・其れよりもごめんの一言をいえよ)しかし、“たかが30分、会えたことが何より“ハプニングは付きもので気持ちを切り替える。
まだ5時前で晩ご飯までは早いらしい。予定を変更したのでこちらの希望を訊いたので、雨も風も強くなってきたし、じゃ、101タワー見学と相成った。
最上部には制震装置が見えるようにしてあり、何とか教のシンボルかと思うほど薄明かりで照らされていた。見学を終わり降りてきたときには先ほどの雨も風も穏やかになり、台北の街や通りが見通し良くなっていた。台北のメイン通りは8車線の一方通行で2車線毎に椰子が植えられた1車線分ありそうな広さのグリーンベルトが作られている。都市計画がちゃんと成されていた。
しかし、他の場所では結構混雑して、車社会の歪みが現れているのを感じながら ぱご〜ぱご〜(恐ろしい)。二輪車(バイク)の多さにも驚く。赤信号では50台ほどのバイクが先頭に並び、信号が変わると一斉に中央から端のほうまで車を先導するが如く走り去る。しかも、若者から年配の女性まで多様である。割り込みが多くちょっとした隙間からバイクが左から右からすり抜ける。この何日間でも幾つかの事故を目撃しておりガイドさんの運を頼るばかりであった。
台風到来のおかげで今日は臨時のホテルで泊まることになった。中華料理を頂き8時ごろ街のホテルに到着し部屋に入る。電気のスイッチが分からずに明るい中で2人共寝てしまっていた。
先に寝た私は目が覚めて、スイッチ探しを始めた。母の頭の上に電話機に似たコントロールが有り、やっと解決した。その後眠気がなくなりビデオを悪戯していると取り出し忘れられたディスク入っていた。
マジックで日本女性の名前が漢字で3名書かれていた。たぶん前に泊まった、日本人客が忘れたのかと思い再生してみた。だが、そうではないことが判った。一人で見たから良かったと思うほどのエロイやつで、連れの二人が起きていれば居場所がなかった。
11月27日 火曜(第4日目)
ホテルを8時30分に出発し9時20分には故宮博物院に着いた。この博物館には中国の歴史的遺物がおよそ2600点にのぼり保有しているそうである。約3時間12時までガイドのロさんから歴史について詳細に説明を受けた。
予定は2時間だったが1時間オーバー、それでも駆け足だった。もう一度ゆっくり見たいと思うほど半端じゃない。ガイドのロさんの見識の高さにも感心しながら充実した半日であった。見学する人の数もすごい、危うく迷子に成るところだった。
午後からは雨の中、九ふん(14時20分〜15時50分)の街を歩いた。九ふんは昔、金が採取された鉱山で、そこに住み着く人が今の街を築いたらしい。雨模様でなければ海も見え山が織りなす絶景と思われるが、あいにくの天気である。
だが、その九ふんで日本人かと思うほど日本語が話せる姉妹との出会いがあった。ちょっと太めの姉妹は栃木の宇都宮で働いた経験があるらしい。色々な話から母を写真に撮りたいと告げられる。写真撮影することになぜか日本人3人、台湾人3人の記念写真ができた。外国に居ることを忘れるほど身近な出会いに思えた。
食事の後に雨の中、士林夜市(18時30分〜19時30分)の見学をした。ゲーム、金魚釣り、ファッション、食い物屋、八百屋、魚屋、その他いろいろ雑居している。そこの向かいには高架橋に駅があり、ホームの屋根は斬新な吊り構造だった。暗くてよくは見えなかったが台風も地震も有るらしいので冒険に思えた。
宿泊は目覚めるような赤一色に金ぴかの豪華絢爛なマダム蒋介石(蒋介石の夫人)、宋美齢が建てたというザ・グランド・ホテル(圓山大飯店)。敷地の広さも半端じゃないが建物も14階建て、間口が100メートル以上、奥行きが70メートル以上、軒の出が6メートルほどある。柱の直径は約1メートル、ロビーは縦横とも50メートル〜70メートルほどもある。吹き抜けは20メートルほどあって2階は廊下が廻されている。奥には旧館が控えており全体像は分からぬままの圓山大飯店でした。
11月28日 水曜(第5日目)
今日は台湾最後の日で、先ず蒋介石の一生を展示している台湾民主記念館と総統府の見学だ。台湾は何処に行っても敷地や建物の規模が大きすぎるぐらい大きくここも例外ではなかった。前日に引き続きロさんの博識が冴えて蒋介石の講義が始まった。
次は比較的規模の小さい趣のある龍山寺を観た、しかし台湾で一番古いらしい。屋根の魔除けは沖縄のシーサーを思わせた。この寺の柱の彫刻は特に繊細で、石の彫り物とは思えないぐらい見事であった。本堂だけは3層で、他は平屋なので後ろの古い10階建てほどのマンションが目障りであったがご利益とは関係ない。
13時30分に桃園空港に着き、手続きなどが忙しなく機内食を当て込んで昼食抜きだ。あば、あれだけ食べたのにこの空腹感はなんだろう。やはり食い溜めは出来ないのが分かった。
桃園空港14時50分発の成田着18時10分(日本時間)で帰還して胸を撫でた。台風が後を付いてきたが、宮古の かんがなす(神様)が沖縄の方へ引き寄せてくれたようで無事予定通りに帰国できた。
あば〜、信心深くなっている、しまい(あちゃあ〜)。
お便りコーナー
名古屋出身 トモさんより
【涙だだだーでした】
初美さん、こんばんは。トモです。
12月になってカレンダーをめくり、今年も最後の一枚になったなぁと一年がアッという間に過ぎたことを感じていました。そしていつの間にか秋も過ぎて、冬になっていました。。。ホントに時間の流れは早いですね。
先々週末は沖縄にいっていました。
毎年私の中で恒例行事になりつつあるNAHAマラソン出てきました。名古屋はスッカリ冬ですが、沖縄はまだまだ暑かったです。途中で暑さに負けそうになりつつ、何とか完走できました。
vol.161の“くまから・かまから”読ませていただきました。涙だだだーーでした。
神童さんの「達人シリーズ」で笑い泣きしました。ケガをされたご本人は気の毒ですが、最後ホントに笑ってしまいました。いつもメールをプリントアウトして通勤の地下鉄の中で読んでいるんですが、一人でニヤニヤしてかなり危ない人になっていたかもしれません。。。
そして、菜の花さんの「一粒の種」のお話。
くまからかまからの本を読んだときもあの詩をよんでジーンときました。そして今回はご家族の方にまつわるお話で涙がとまりませんでした。
音楽は無限の力をもっていますね。勇さんの歌の持つ力をあらためて感じました。
そして自分自身の事も考えました。もっともっといろんなことに感謝していかなければ・・・何気に過ごしている時間こそが幸せなんだってことも再確認しました。
ホントにいろいろ考えるきっかけをもらった今回のメルマガでした。ありがとうございます。
今年はあと1回ですね。こちらも楽しみにしています。
12月になって何かと忙しく過ごされることが多くなることと思いますがお体に気をつけて良い年末年始をお過ごしくださいね。
あつかーまたいら。
トモより。
※トモさん、感想メールたんでぃがーたんでぃでした〜。メルマガを楽しまれていることがすごく伝わってきました。NAHAマラソン、これからも頑張ってくださいね〜。(松)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
伊良部のほうでは、ぶーき゜(キビ)の収穫が始まったようですねー。んきゃーんな(昔は)、下地のほうでも年が明けない前に始まっていたように思うのですが、最近は、年が明けてからだそう。豊作だといいですね。
さて、今年最後のくま・かま のーしがやたーがらやー?
B.サラさんの「初めての雪」を読んで、どぅが(自分の)「初めての雪」のことを思い出した方も多かったのではないでしょうか。南国の人に初めての雪のことを語らせたら、だいず、とまらんはずよ。それにしても、お兄さんは電報を打ったとは!その感激、感動ぶりが分かりますね。
マツカニさん、久しぶりの登場でした。今回の「古見ぬ主」の歌は、よく耳にする歌だったのですが、なぜ「古見ぬ主」と「四島ぬ主」が同じなのか、ぴるますむぬー(不思議)に思っていたのですが、解説を読んで納得しました。亀の気持ちになって歌った歌というのもユニークですね。
宮国さんの「台湾旅行記」。一緒に旅行しているような感じがしましたねー。植物や建物の話しも出て、宮国さんらしいものでした。宮古からすぐのところにある台湾なのに、私は、一度も行ったことがないので、行ってみたいなーと思いました。
あなたの感想もぜひお聞かせくださいね〜。
2007年も、もうすぐ終わり。
年年、一年の間隔が短くなって、やらびぱだ(子ども時分)の半分もないんじゃないかと思うこのごろですが、思い返せばいろいろありました。
今年のくま・かまは、「思い出の歌」特集で始まりました。普段はエッセイや民謡解説、みゃーくふつ講座などをやっていますが、5月には「やらびぱだぬ かしー(子どもの頃の手伝い)」の特集、9月には「十五夜特集」をお送りしました。読者のみなさんからの楽しい投稿もありましたね。(みなさん、ありがとうございました)。あ、それから、ばんたがやーぬあず(我家の味)のシリーズも始まりました。
そして、読者のみなさんからいただく、感想や励ましが何よりうれしかったです。まーんてぃ たんでぃがーたんでぃど〜〜。
あと、3月には、宮古で本の出版祝賀会をやり(その節は、たくさんの皆さんに祝福してもらって、だいず ぷからすむぬでした)、5月には、菜の花とNHKのラジオ番組に出演。
なんだか、もう遠い昔のことのようですが、それらが繋がり、こうして無事に今年最後のメルマガvol.162を発行することができて、感謝の気持ちでいっぱいです。この一年も、まーんてぃ たんでぃがーたんでぃでした!どうぞ、来年もよろしくお願いしますね。
さて、次号は、お正月3日、みゃーくふつ一行詩・川柳の特集をお送りする予定です。どうぞ、お楽しみに!
ぞう とっすぅ(良いお年を)お迎えくださいね〜。
あつかー、また来年!