こんにちは〜。
そうがつ(正月)気分も残りつつ、他にもいろいろな話がやまかさの今年二回目のくま・かまですよ。
お楽しみくださいね〜。
漲水御嶽
R(平良出身)
私が、宮古島に移り住んだのは、沖縄が祖国に復帰した年、昭和47年(1972年)、小学校4年生の時です。それから高校卒業までの9年間、宮古島で過ごしました。
宮古島に住む前、沖縄本島で迎えた新年は、家族での初詣から始まりました。行く先は、決まって、波の上神宮。やー(家)から近いことが理由だったのでしょう。母も姉も着物を着ており、私もおかっぱ頭に着物を着て目一杯おめかしした当時のモノクロ写真が今でも残っています。
波の上神宮の初詣は、当時から大変賑やかなもので多くの出店が並ぶ中、参拝しに行列を作ったことを覚えています。
宮古島で住まいを構えたのは、旧平良市の漲水港(平良港)の つかふ(近く)で、宮古島の最高の聖地と言われる漲水御嶽(漲水神社とも言います)も歩いて5分の距離にありました。
漲水御嶽には、引っ越した時に誰かに1度は連れて行ってもらったものの、あの「し〜ん」とした雰囲気は、やらび(子ども)が過ごす空間ではないように感じたのか、友達と遊びに行くことはありませんでした。
宮古島で過ごした期間は、ちょうど思春期真っ盛りで、地域社会への関心は「0(ゼロ)」という時期でしたから、漲水御嶽の由縁を当時は知りもしませんでした。
さて、宮古島で初めて迎えたお正月、やはり母は、12時になると直ぐに初詣に連れて行ってくれましたが、その先は、漲水御嶽。
波の上神宮の賑やかな光景を描いて行ったものの漲水御嶽の周辺は、電気一つ点らない ふっふぁーふぁ(真っ暗闇)で、私たち家族を除いては詣でる人は一人もいません。昼間でも静かな場所なのに夜は、更に不気味に静まり返っていました。
今考えると「御嶽≠初詣の場所」ですが、引越し間もない宮古島の情報不足の状況下で勝手にこの経験から「宮古の人は初詣はしないんだ」となり翌年から我が家の初詣の習慣は、無くなることとなりました。
私が宮古島を離れた後、両親も生まれ里の旧下地町に移り住んだことから漲水御嶽に行くことはありませんでしたが、2年程前、出張で宮古島に行った際に寄ってみました。
というのも、ある女性に3年前に死んだ父は、「仏壇のある那覇よりは 『宮古がいい』と言って、漲水御嶽にいるよ」と言われたからです。
漲水御嶽を訪れた時、ちょうど狩俣から来たという60才代の女性が一人、線香をたいて拝んでいました。「旅に出ている子どもたちの無事を祈っている」ということでした。
その方に「(あなたの)お父さんも子どもたちの旅からの帰りを待っているんだねー」と言われました。宮古島を守っている神様がいるという漲水御嶽で てぃゆ かみながら(手を合わせながら)父と会話をしました。
私が、「ごめんねー、待っても誰も帰ってこないかもしれないよ」と言うと、「でも、ここ(宮古)がいいさー」という父の声が聞こえたような気がしました。
漲水御嶽では、今日も静かに線香がたかれているのでしょうね。
宮古に帰ってきました
大和の宮古人さん(城辺長南出身)
後れ馳せながら新年おめでとう御座います。
12月29日から昨日(1月9日)まで宮古に行って来ました。
今年の宮古の正月は何処か知らないけれど、強風が吹き荒れて ぴしーぴしーでした。雪国生まれの姪婿は寒い寒いと言いながら暖房設備のない我がおばーや(家)で台所のガスレンジに火をつけて手を暖めながら、何で宮古はこんなに寒いか想定外だと縮こまっていました。
子年の今年が嬉しかったのか、小さいネズミ君のお客様が毎夜お出ましで何処かに御節料理を隠しているのか、カリカリかじり天井裏で運動会を開催し あばーだいずよ。
母にネズミがいて五月蝿いよと言っても、耳の遠い母は「あらん かずぬ つうかーばど あんちー きぃかい ううせー」(違うよ風が強いからそう聞こえているよ)私もそうかな?
3日の朝起きて見ると、わざわざ送ったもち米とお米の袋に穴が、「あば まんてぃ さいが、うりゃ とぅらだきゃ ならん」(あら本当だ取らないといけないね)
翌朝私達の前に昔のハエ取り紙を大きくした様な物にネズミ君が2匹くっ付いた紙か板かを持って来て見せ、キャ〜。お陰様でその日からは静かに眠れましが、賑やかな正月でした。
今年こそはアッチコッチ宮古島を探検しようと思いましたが、忙しくて無理でした。残念!来年こそは!(もう来年の計画です)
正月早々変な話題で御免なさい。子年にちなんでお許しを。
皆様のご繁栄とご健康をお祈り致します。
ふぁいやーーー!
神童(平良市出身)
火事だったんだな!ミュージアム前の原野が。ぷぅだ70坪ばかーい燃いってぃ なんくる きゃーり。(200平方メートル程度を燃やしてようやく鎮火。)
ぴとぉー どぅまいふぃつかーだいずさいが!のーぬがてぃ。ますぎぃや あらんむぬぅ。考いぬ。(人間、まくりるとすごいね!なにが凄いって。なにせ、まともじゃーないからね。思考回路!)
ぱずみゃー ぬかーぬか 燃いゆーたー んまつぬ あたまんてぃ ばふってぃ うぷ んまつんなり!(始め、ちょろちょろと燃えてた火がよ。いきなり、ばーーーーーっと燃えるさーね。)
うぬ んまっつぅ じゃーんが ぱずみん みーたーむなー すかまー休みぬ 消防隊員。んまっつぅ きゃーっすぁ みゃーくいち。(第一発見者は、非番の消防署員。火消しのプロ。)
ミュージアム向かいの牧草地が燃えているのを発見。あっという間に勢いを増すファイヤー!
消防署員の指示により消防署へ通報するミュージアム職員H子。まくりぃ うりば 消防ぬ電話番号ぬ いでぃくーん。てぃ あっさまい119番てぃ うむい まーすたー電話やーすぅが 110番かい電話。(パニクっているので119番が思い出せない、というか119をダイヤルしたつもりが110へ通報。)
110は県警本部への通報となる。宮古の場合、0110とダイヤルしないといけんらしい。
結局、対応にでた県警本部へひゃくじゅうきゅうばんは何番ですか?と、ドリフのギャグのような質問。県警本部から宮古広域消防へ連絡することで通報は間接的に成功する。
一着で現場に駆けつけたのはパトロール中のパトカー2台。ワンツーフィニッシュ!警官も交えてバケツリレー。火消しのプロは、バケツによる放水を燃え盛る火の手ではなく、これから燃えるであろう部分に放水するよう陣頭指揮。
あっすぅが のーがらーじゅんしゃ。うぷーうぷぬ んまつん あなぎなー みっずぅいきゃっふぃ。じぇーんじぇん 意味ゃーにゃーんすかま。(しかし、消火に不慣れな警官。燃え盛る火の手に直接放水。全く意味がない。)
プロの話をてんで聞きやしない。火事はじわじわとその縄張りを広げてゆく。ミュージアム館長に至っては、竹箒を持ち出し、燃え盛る火の部分をたたき出し、ぽ−きぃん たばりゅー 燃いーぬ ぱーがらゆ すきゃーし。きゃーしゅうがら ぴぃすぅぎゅがら っすぁいんしゃく。(ほうきにまとわりついた燃えた牧草の枯れ葉をまき散らす。消火してんのか、広げてんのか、わからない。)
消防車の到着で、鎮火した火災。うばいがふたい!
先日、一本の電話。消火活動に協力したミュージアム職員を表彰したいとのこと。MVPは間違いなくH子。古典落語並みのギャグだもの。ひゃくじゅうきゅうばんは、何番ですか?って。
ついでに、通報を受けた沖縄県警本部も表彰してくれないかな?彼女を。
年末のはなしをもうひとつ。
「不法投棄!」
んざがらーぬ ぷりむぬぬ すんたー ふぁーうっすぅ まやがらし 新聞ん ぬーりゅたーさ。かりゃー ぴとぅぬ わざーあらんぱず。(子牛が不法投棄されて新聞記事になったさーね。あれ、多分、不法投棄じゃないね。)
かながい 見ーたーゆ。福山なぎぬ んつん どまっふぃかいりぬ ふぁーうっすぅう。二からまい。(見たんだ。福山集落の辺りで迷子になった子牛を。2頭も。)
ぴぃとぅからー みんばにん 印ぬ たばりってぃ。んな ぴぃとぅからー のーまい にゃーだなしー。(一頭は耳にタグが付いてて。もう一頭は何にもなし!)
一応、近くの牛舎に通報して通り過ぎたんだけど・・・。高野方面に向かってたよ、牛は。そのうちの一頭だね。きっと。
その日は東風で、既に牛舎の風上にいる牛は母の臭いがしなかったはずよ。人工授精だから父の顔も知らないだろうし・・・。母子共にね!
んまうっすぁ どぅーまい っすさん まどぅん っふぁーなし。きりすとぅー なすたー んまびゃ?(母牛なんて、覚えもないのに子供が生まれて。マリア様か?)
どぅまっふぃぬ ふぁーうっすぁ んまー とみってぃ あがたぬ 浦底がみ。つんだらーさ。しってぃぬ ふぁーびん ぶどぅんき すにー。(迷子の子牛は母を訪ねてはるばる浦底まで。不憫だ。挙げ句、崖から落ちて。)
ということで、あれは迷子の牛が足を滑らせたんだはずよ。そりゃー、足が4本も有ればどれかーが滑るはずさーね。滑る危険率が足の数からして人間の2倍!
人間がみゃ−あ かいりゃーまい 手ぃーぬ のーがらーゆ んちゃんすぅが うっすぁ じぇーんぶ ぱぎぃやーばどぅ。んちゃんってぃ っしゃーまい ぱぎぃぬすぅらん ういびてぃや にゃーだ あたまんてぃつみ。うりまい あかふたーつがま。じぇーんぶ ゆみゃーしゃーまい 8個。(人間の場合、滑っても手が何かを掴むけど、牛は全部足だからな。掴もうにも足の先に指が無くて、いきなり爪だもの。それも、あか2個がま!全部併せて8個。)人間なんて20個どぉ。爪じゃーつかめんよね。悲しいのう。
不法投棄の犯人は居ないね、きっと。
んなくずやま(皆粉地山)
カニ(平良出身)
平成10年の第5回宮古方言大会で、吉野部落の根間たけばあさんが、吉野海岸のウミガメ産卵の保護活動のことを方言でユーモアに話した。
その時、昔の新城部落や皆福部落、それに七又、保良部落などの情景を話していた。昔はソテツ山やアダン山、サルカ山がいたるところにあったが、今は殆ど全部消えてなくなったと・・・その話のことが何故だか妙にいつまでも頭に残った。
カニは小学生の頃に、通り会の すざ(兄)が保良から嫁を貰うことになり、結納式があるということで、通り会の子供代表でバスに乗り保良部落に行ったことがある。小学1年生の頃だったような、今から40年以上も前の思い出である。もちろん初めての保良訪問である。
その時、城辺を過ぎて左手におっぱい山の見える坂道を降りながら、入ってくる景色が一転して変わったことを記憶している。つまり、緑豊かな素晴らしい自然の風景がカニの目に飛び込んできて、そのことが心に強く焼き付いたのだった。
保良に着くと時間があったのか、泉(保良泉=ボラガー)まで連れて行って貰った。そこで見たのは、真っ黒に日焼けした子供らが涼しげに湧き水の泉で水しぶきをあげながら楽しそうに泳ぎ遊んでいる景色だった。カニは「いいな、羨ましいな」と思った。豊かな自然の中で遊びまくる子供らを羨望の目で眺めていたのだ。
吉野部落の根間ばあさんはさらにカニが見た景色よりも、もっと昔の緑溢れる環境で過ごしていたのだな、と思った。どんな自然があったのだろうか?ソテツ山、それにアダン山、サルカ山が沢山あったという風景はどんなものだったんだろうか、と胸を膨らませ考えた。
アダン山ながぎ(アダンの木々を鉈で切り開き) サルカ山しゅらぎ(サルカケミカンの木々を鎌で刈り開き)・・・そんな多良間島のアーグを口ずさんだ。
城辺町元役場の通りを保良に向かって車を走らせると、先ほど話した急な坂があり、右手には丘陵、左手にはおっぱい山が見えてくる。この坂は結構な長い急な坂道なので、自転車で登ることは大変である。
その坂には名前があるだろうと思い、城辺の古老らに会う毎に尋ねた。一人の80過ぎの古老がその坂道の名前を知っていた。「難工事坂(なんこうじざか)」。そういう名前だった。
この坂道は「つがまき原」と呼ばれる丘陵を、道をつくるために削ったのだと話した。丘陵は高く硬い琉球石灰岩で形成されており、つるはしで山を削る工事は大変な作業だったようで、大正時代にダイナマイトを使用した大がかりな工事になったようである。
工期に1年半もかかり、殆どが人力での作業で、つるはしや荷車を使用した難儀な労働であったことから、その坂の名前を「難工事坂」と呼ぶのだと古老に教えて貰った。「つがまき原」の丘陵、「難工事坂」・・・初めて聞く名前なので新鮮な響きでカニの心に入ってきた。
カニは城辺の昔の風景を、本や写真集で見ていた。その時におっぱい山の近くを流れる川を描いた1枚の絵画を見つけた。「おや、どこだろう」と思った。現在おっぱい山の近くに川が流れているような場所はない。念のためカニは探してみたが、やはり見つからなかった。
子供の頃のカニが見た保良に行く途中の風景、根間ばあさんの云うソテツ山、アダン山、サルカ山がいっぱいだったという風景、それに川の流れている風景は、一体どうなったんだろう・・・そんなことを考えた。
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昨年のことだった。一冊の書を手にした。書の名前は『宮古島 保良の土俗信仰』、著者は松川寛良氏である。古里保良を愛する松川氏の書かれた本には、昔の風景が細かく描かれていた。その中に、「つがまき原」「難工事坂」の名前が出てきた。そうして「んなくずやま」の話が書かれていた。
カニは「んなくずやま」とは皆福部落の南側にある嶺だと思っていた。ところがこの書を読んで、それが間違いであることを知った。松川氏の書より引用して「んなくずやま」を紹介する。
「んなくずやま」は漢字では「皆粉地山」と書く。先ほどの「難工事坂」を降りていくと、新城部落とそのまま保良にいく道に分かれる。新城部落に行く道に曲がると、左手におっぱい山の東側にあるひとつが、右手には広大な畑があり、ところどころに嶺を思わせる小さな丘陵が福嶺小学校まで続いている。
この右手の広大な土地は、戦前は湿地帯で、「旱魃時も水溜まりが多く」「ヒル」などが生息していたという。また琉球王朝時代の偉大な政治家・蔡温の森林政策で、この広大な土地に琉球まつが植林され、多くの琉球松が立ち並びどこまでも続いていたということである。
この広大な土地の面積は広く、現在の大野山林程の森林を形成していたと云われている。この広大な森を「んなくずやま」と呼び、ここには宮古中に生息する動植物が豊富に存在していたようである。
森林の中には、「グミの木も支え切れない程赤い果実を枝につけたまま、ところどころに生えていた。」また「抱えることが出来ない程の幹をした巨木が生い茂っていた」とのことである。そうして「雨季には、強烈な勢いで地下水が湧き水かさが約一米にも達し小川も流れた。」ようである。
松川氏は森の様子をこうも伝えている。
「外のかんかん照りがまるで嘘のようで」、「空気が『ひんやり』とし」「メジロ、ヒヨドリ、サンコウチョウ、アカショウビン等多くの野鳥がさえずり、調和のとれた自然であった。」「思うに皆粉山は、宮古に繁殖しているすべての草木や、生息している昆虫や、鳥類の宝庫であり、また学術的にも貴重な森林であった。」
このような大野山林ほどの森林が戦後に土地改良で農耕地に変わり、消失していったとのことである。
松川氏の書を読み、カニは自分が子供の頃に見たと思われる「んなくずやま」の琉球松並木林が記憶のかなたから蘇ってきた。
そうして、根間おばあさんが話した、ソテツ山、アダン山、サルカ山の風景が、それに小川の流れていた「んなくずやま」の湿地帯の風景がすべて頭の中で繋がり再現できた。
素晴らしい森林であった「んなくずやま」
豊かな自然で動植物の宝庫であった「んなくずやま」
カニは松川氏のお陰で自分の頭の中に「んなくずやま」を創ることができた。保良に向かう「難工事坂」を降りながら、左手の前方には「んなくずやま」の琉球まつ並木がどこまでも続き、左手には「つがまき原」の丘陵を見、そうして皆福を越え、七又の部落を右手に見ながら、保良へと歩く。
「つがまき原」の丘陵の南側には、大原(うぷばり)、大道(うぷどう)の部落があり、大道(うぷどう)は、悪税として有名な人頭税廃止のために命をかけて立ち上がった西里カマが生まれた場所であること・・・このような素晴らしい土地をカニは胸をはって歩いている・・・そんなことが頭に描かれてくる。
保良に着き、早速、保良泉(ボラガー)の清水を飲み、一休みをする。保良部落では、すとぅがつ(旧盆)に綱引きが行われ、こんな綱引きアーグ(歌)が聞こえてくる。
いずざとぴとぅや つなだいしゃ(西組の人は綱引きには嫉妬深い)
うぷむぬまい いみむぬまい うぷずーだるだる
(大人も子供も大きな乳房を隠さない)
あららがあらら ししゃながししゃな(だらしがないね きたないね)
あがずざとぴとぅや なずきゃーやまぬ (東組はなずきゃー山の)
うぷびう゛がっさ いたんましー
(大きなクワズイモの葉を股引にしているね)
あららがあらら ししゃながししゃな(だらしがないね きたないね)
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「んなくずやま」のあった時代の豊かな人間の営みを考えていた。
#参考図書
『昭和初期の保良風俗誌』 松川寛良 著
『宮古島 保良の土俗信仰』 松川寛良 著
お便りコーナー
西辺出身・大阪在住 じなんさんより
【楽しみにしています】
はじめまして、じなんといいます。
方言を文字に表記することもさることながら皆さんの文才にいつも感心し、配信されることを楽しみにしております。
くまかまぬ つぎゃあいつがてぃ まちいゆう
(くまかまの 次は(配信が)いつだろう 待ってるよ)
今頃男連中しているでしょう
おとうりぬ だりゅうくせん なまらいん
(お通りの くたびれているくせに やめられない )
小生、宮古を出て36年、なかなか思い出せない単語も増えてきました。この方言、ぼくらはなんと言うたかな?と思い出すきっかけにもなっておりますこれからも楽しみにしております。
※一行詩・川柳の特集の後に、川柳でのお便り、ぷからすむぬどー。じなんさん、これからもよろしくお願いしますね。西辺のこともいろいろ、ならあしふぃーさまち(教えてくださいね)(松)
おしらせ
■下地勇さん6thアルバム「3%」発売!
下地勇さんの6枚目のアルバム「3%」が今月23日に発売になるそうです。全16曲収録。2500円(税込み)
タイトルの「3%」を初め、「イヌツ」、「ヤドゥバス」、「製糖屋」、「待つの木物語」など、期待が高まるタイトルが やまかさ(いっぱい)です。
去年の活躍もすごいものがありましたが、今年の活躍もだいず楽しみですね。
アルバム購入の方には、いろいろな特典も付いているようですよー。要チェック!
アルバムについての詳しい情報は、下記まで。
http://www.teichiku.co.jp/artist/shimoji/disco/ci1168.html
編集後記
松谷初美(下地町出身)
1月14日から昨日(16日)まで、宮古に帰ってました。まいにつ、あいにくの雨模様で、かじまい(風も)つーつー、宮古で上着を着るとは思わんかったさー。
サトウキビの ばらん(穂)も雨に打たれてうつむきかげん、ぴしぎなり(寒そう)だったよ。そんな中でも ぶーぎなぎ(キビ刈り)をやっている姿が、くま、かまん(あちこちに)。まーんてぃ だいずな作業いら。農家の皆さん、お疲れさまです。
宮古から東京に戻ったら15日付けの朝日新聞夕刊に、くま・かまでも紹介したことのある金子進さん(カメラマン・宮古在住)が撮った一番ガース(イワサキクサゼミ)の写真が掲載されていました。今年の初鳴きは、例年より1週間程早いのだそう。バックには青空が写っていて、私がいた3日間とはぜんぜん違う宮古みたーいゆ。
宮古では今月9日〜12日まで最高気温が25を越える日が続いたのだとのこと。あんちーやらばどぅさいがー(だからだねー)それにしても、この気温差。冬と初夏が交互にきてる??セミも うどるきー(驚いて)土にもぐりなおしたんじゃないかねー?
さて、盛りだくさんでお送りした、vol.164は、のーしがやたーがら?
新年号から感想、お便りが寄せられて ぷからすむぬでした。じなんさん、たんでぃがーたんでぃ いらー。
Rさんは、初詣の話。漲水御嶽は、宮古で一番有名な御嶽でしょうね。Rさんとお父さんと漲水御嶽がクロスして、なんとも ぬふーぬふの(温かい)ものが行間から流れていましたね。
大和の宮古人さんの話は、先日(10日)、くま・かまの掲示板に投稿してくださったのをメルマガでも紹介させていただきました。子年の正月を宮古で迎えた様子が生き生きと描かれていましたね。
神童のツッコミは、ホントにうむっしだのー。して、ニュースになるようなものによく遭遇するさーね。歩くアンテナ?それにしても、火事は大きな被害が出なかったようで、良かったですね。
「んなくずやま」の ぱなす(話)。そんな豊かな森があったとは。
カニさんの子どものころの印象的な記憶が今と繋がったときの感動も伝わってきますね。カニさんは、豊かに宮古の自然と向き合っているんだなーとしみじみ思います。教わることがいっぱい。
それから、勇さんのニューアルバム、チェキラ!ですよ〜。
あなたは今回のくま・かまをどんなふうに読んでくださったでしょうか。
ぜひ、感想をお寄せくださいね。
次号は、三週間後2月7日(木)の発行予定です。
寒さの一番厳しい時期。感冒などしませんように。あつかー、またいら〜。