くまから・かまから vol. 172

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 こんにちは〜。 がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
 今回も、みやこー、みやこの話題をお送りしますよ。ぬかーぬか、ゆみふぃーさまちよー。(ごゆるりと読んでくださいね)

“うすんきゃむぬぬ”弊害

宮国勉(城辺町出身)

 うすんきゃ とは(照れ屋、はにかみ屋、恥かしがり屋、シャイ=shy、意気地無し、内気など羞恥心の塊)を言う。
 
 私は幼児期から口数が少なく“すーふくめゃ”と言われてきた。
 “すーふくめゃ”とは口の中に汁の類を含み話すことが出来ない、ふくれっ面を言い表す言葉である。「ああ、恥ずかしい!」で何が?理由がない。
 
 しかし何をするにも、ちょっとしたきっかけが必要な田舎者の特徴を兼ね備えていたのである。今までに“照れ屋”で随分な損をしてきたような気もするが、単なる照れの弊害である。そんな消極的で臆病な自分に嫌悪感を持っていた。
 
 ことばを話せるようになった幼児期から方言を使い、聴きなれた言葉が宮古方言であった。その所為もあって自分の気持ちを共通語で表現できないために、孤独と戦いながら内心、寂しい気持ちで過ごした時期もあった。それは田舎育ちのせいで仕方のないことだと思う反面、恥かしがり屋の性分を克服すれば何か明るい未来があると、長い間自分に言い聞かせて来たことでもある。
 
 殻を脱ぎ捨てる最初の転機がやってきたのは高校時代を沖縄の那覇で過ごせたことだった。そこの学校は沖縄全域から集まってくるので、否応なしにコミュニケーションができた。照れ隠しせずに共通語を使う環境は引っ込み思案な性格を直すのに都合がよかった。周りが自分のことをよく知らない環境では見栄を張り、多少のことは乗り越えられたのである。あまり努力をしなくても変わっていけるような気がした訳です。
 
 生まれて15年間、宮古方言を話し、方言で考え行動してきた生活を変えるには相当のエネルギーを要した。話す言葉感を替えると感情表現が出来ない歯がゆさを感じるのである。宮古方言を使う相手も少なく、否応なしに共通語で話すしかなかったが、最初の頃はぎこちなく、もどかしい思いをした。
 
 卒業する3年が過ぎて共通語で話すことには一応の照れくささは無くなった。それでも方言で考え翻訳する思考の流れは変わらなかった。がしかし、「好きだ」「嬉しい」「ありがとう」をさり気なく表現出来るように成長したかもしれない。自分でも呆れるほど、いささか頑固な性分である。
 
 4〜5年間ほど本土就職し、資格でも取れたら沖縄か宮古へ帰るつもりで埼玉県の大宮にある小規模なゼネコンに就職した。埼玉に就職したことが、人生を大きく左右する結果となった。それは気候風土、人間模様、初めての仕事、初めての自炊等々、なかでも「言葉の壁」は大きかった。
 
 時が経ち段々と馴れ親しむ様になり、いつしか大和口(ヤマトグチ)で夢を見るように成っていった。それでも意味不明の言葉を指摘されることも多々、穴があったら入りたい気持ちになることもあり、言葉の壁を痛感した。
 
 4年間で取るつもりの資格も5年掛かかり、更に結婚、子供の誕生、と人生設計は大きく変更せざるを得なかった。仕事も忙しく、人生を振り返る暇もないぐらい働かされた。何時しか子供が2人になり、現在の仕事以外に考えられないと転職に二の足を踏んだ。
 
 また、15年間積み重ねた知識や経験が失われることも理由の一つだった。しかし、会社の運営、社員の待遇などこれから先を考えると自分のためには転職するしかないと考えていた。すると、運良く辞める口実として良い題材が飛び込んできた。やぱい(しめた)、チャンス到来と思い直ぐに再就職を決断した。
 
 仕事を変えたことは苦労もあったが退屈するほど時間に余裕が出来たことなどプラスの面が多かった。あまり好きではない勉強もしなければならない箍(たが)を嵌められたようなもので、少しずつやる癖が出てきた。いつしか20年を過ぎ、再就職は正しかったようである。
 
 その内、有難いことに“くまかま”の仲間と出会えたことが人生を楽しく、潤いのあるものになりつつある。今でも恥ずかしさはあり、大きな声で方言を使う気にはなれないが、現在は逆に共通語を宮古方言に替える努力をしている。
 
 うすんきゃ(内気)は克服出来なくとも、恥を曝すことは平気に成り、開き直りが出来るようになった。朝、夕“きむ(心)“を磨き精進すれば、その内に脱皮できるかも知れないと思う。
 
 「男は度胸、女は愛嬌」はよく耳にしたがエネルギーとチャーミングに訳せるらしい。”男は度胸”あすが(だけど)妻がメタボをたしなめる言葉に尻込みする自分が居る。
 
 照れ隠しに、昔は加山雄三が「僕はおまえが好きなんだ!」と言って人差し指で鼻を擦る仕草が受けていたが、今では花粉症の人の仕草にしか見えない。昨今は、はにかみ王子がもて囃される。

『宮古の自然と文化 第2集』によせて

かい(伊良部町出身)

 「宮古の自然と文化を考える会」は1995年に那覇市で発足した。
 
 ある時、新聞に平野長伴氏(現会長)が、開発の一途を進む宮古の行く末に提言する内容の投稿をされたそうだ。これに琉球大学理学部の渡久山章先生(現事務局長)が賛同し、沖縄本島に住む有志に声かけして会を設立。宮古島市の初代教育長を務められた、久貝勝盛先生も当時は沖縄県の博物館に勤務されていて、まさに設立に熟した時期だったといえよう。
 
 会の活動は、年に3回の講演会。毎回、自然と文化の分野の講師をそれぞれ迎えて、各1時間半くらいづつ話してもらう。
 
 2003年には、「沖銀ふるさと振興基金」の助成も受けて、講演の内容をまとめた『宮古の自然と文化』の第1集を発刊する。(増版の予定がないので、もしかしたら、もう今では書店では手に入らないかもしれない)宮古島の成り立ち(地質学)、地下ダム、さとうきび、宮古馬、サシバ、クイチャー、人頭税など収容している。
 
 そして、先月(4月)第2集を出版。
 
 なってぃーが みゃーくずまんにゃ はぶぬ みいらいんびゃあーんい?
 (何故宮古島にはハブがいないの?)
 
 これに対する答えは「宮古は完全に水没した時期があったから、その時にハブはいなくなった」というものだった。長いこと、この説が信じられ支持されてきた。ところが、最近この説に疑問をもたざるを得ない発見が宮古では相次いでいる。
 
 上野のピンザアブからはハブの化石も見つかっている。それらの化石の放射性炭素年代は、地質学年代で宮古が水没したとする年代よりもかなり後だ。つまり、宮古が水没したとされる後にも宮古にはハブが棲んでいたということなのだ。
 
 じゃあ何故その後ハブは宮古からいなくなってしまったのか?もしかしたら、宮古の人が食糧難で全部捕まえて食べてしまった?これについては、本書の中で、大田英利氏が「環境収容力」という説を紹介している。
 
 それから、城辺ではミヤコサワガニが見つかった。このサワガニの発見も宮古の地質学に大きな衝撃を与えた。サワガニは淡水で棲息する生き物である。だから、宮古が水没したのでは生き残れない生物なのである。宮古は水没しなかったか、少なくても一部水没しなかった所があるのではないかということになる。
 
 うつなあぴと と あいぬ人や ゆぬぐぅせんぞやあらんな?
 (沖縄人とアイヌ人は同じ先祖ではないのか?)
 
 宮古の人骨調査から、アイヌとの比較考察(土肥直美氏)も掲載されている。北海道で木彫職人として活躍している高校の同期生がいる。彼の個展が沖縄で開催された時見に行ったのだが、魂が揺さぶられる感じがしたものだ。一つ位、同級生のよしみで買おうかなとも思ったが、そう簡単に買える程安くはなかった。それもそのはず、彼は有名な賞をいくつか受賞したりしていて、新進気鋭の木彫作家だったのだ。彼が髭を伸ばした風貌は、まさしくアイヌの人を思わせる感じであるが、琉球人(沖縄人)とアイヌ人は似て異なるものらしい。
 
 その他サトウキビを利用したバイオエネルギーのこと、旧宮古農林高校の開発した機能性有機肥料のこと、宮古の摸合、井戸、戦争遺跡、アーグ、ネフスキーと内容は多岐にわたる。
 
 私が紹介するよりも、読むのが一番いいはずよ。研究者の方たちが、何年もかかってたどり着いた研究成果を、私たちは本一冊で手に入れてしまえる。何だか不合理のような気もするが、どうか手にとって宮古を深く理解してほしいと願う。たんでぃがたんでぃ。
 
 心残りは、第1集も第2集もこれまでの講演内容を網羅しているのではないということ。素晴らしい研究はほかにもたくさんある。私たちは、そういう地道な研究を一般にわかりやすく伝えていきたいと思っている。また、知識として知ることにとどめず、百年後、二百年後の宮古の姿に反映されることを願っている。いつまでも私たちの誇れる宮古であってほしいと祈りを込めて。
 
 会の活動は、3月、7月、11月の第2土曜日に那覇の久茂地公民館で行っている。参加は無料だが、もし会の活動に興味があるようなら、入会(年会費2千円)のご協力をお願いしたいな〜と思う。単年毎の入会扱いなので、継続的な会費徴収は無し。
 
 『宮古の自然と文化 第2集』は、沖縄・宮古の各書店、宮古空港内の売店などで販売している。この本の出版元「ボーダーインク」では、ネット販売もしているので、アクセスしてみてね。
 
 ボーダーインク
 http://www.borderink.com/
 
 宮古の自然と文化を考える会事務局
 
 〒903−0804
 那覇市首里石嶺町1−59  
 渡久山 章

『海人(いんしゃ)の島』と「海の生きもの(いむぬいきむす)」

カニ(平良西里出身)

 幼い頃、パイナガマの白い砂浜に遊びに行くと、そこには必ず「はいみゃー」(つのめがに)がすばしっこく白い砂浜の上を走り回っていた。カニ(筆者)の小さい頃のパイナガマは砂丘だった。
 
 その砂浜で「はいみゃー」(つのめがに)を追いかけはしゃぎ、掌で砂ごと「はいみゃー」(つのめがに)をすくい捕らえたものだった。透明なカニだった。砂の上で、「はいみゃー」(つのめがに)と遊び、そうしてしばらく「ぴだ」(渚)を歩き、しばしば色とりどりの貝を拾ったものだった。その当時は何でもないことが今となっては凄い宝だったんだ、と変わりつつある宮古島の自然の変化に、幼き頃の記憶の中の風景を懐かしむ。
 
 この「はいみゃー」(つのめがに)のものすごい数の集団が、池間島のトウ−イヤと呼ばれる白い砂浜の巣穴から出てきて一斉に動いていた、という話を『海人の島』という書より知り、子供の頃、そのことに感動した著者・平良氏の心に、カニも同様興奮し共感した。
 
 『海人の島』の著者は、昭和11年の池間島生まれ、現在、平良の西里商店街でお土産店を営んでいる「平良新弘氏」である。カニの家から歩いて3分ぐらいのところにお店があるので、カニは海のことが知りたくなったときには、決まってそこを訪れ、1時間あるいは2時間、平良氏とお喋りして過ごす。その時間は楽しく宮古の海のことを知る絶好の機会でもある。
 
 この書には至るところに池間島の生活のことが細かく池間方言で語られている。つまり盛り沢山の池間方言が出てくる。この書を読むと、昔の自然環境、とりわけ海の自然環境が素晴らしかった昭和初め頃の池間島の風景が脳裏に描かれる。
 
 平良氏の生まれ育った時代は・・・貧しいながらも皆必死に暮らし、そうして心豊かな人間らしい結(ゆい)の精神のある共同体で助け合い過ごしてきた、と云う。『海人(いんしゃ)の島』の書を読むと、温かい昔の生活の香りがしてきて、何だか羨ましい感じすらしてくる。カニはこの書が好きである。好きであるから何度も読む。何回読んでもやはり感動する。それは著者とカニの心が同じことに感動し共鳴しているからだろうと思う。
 
 『海人の島』の書の中で、あるいは、お喋り(ゆがたず)の中で知り得た干瀬(ぴし)や浜の名前を紹介する。

 ・ふっじゃびじ(鯨干瀬)
 ・なかまぐす(仲間越)・・・浜
 ・んなとぅ(港)・・・現在の港、昔は遠浅の海でユニムイ(現在の池間湿原)に繋がっていた
 ・とぅ−いや−ぬひだ・・・浜
 ・おはま・・・浜
 ・やまとぅばま・・・浜
 ・みすばいひだ・・・浜
 ・んすぬはなむつ・・・北の断崖
 ・いらびじ(伊良干瀬)
 ・つまびじ(津間干瀬)
 ・かぎんみひだ・・・浜
 ・っしぬに−ぬひだ・・・干瀬の根元の浜
 ・いさらひだ・・・浜
 ・いきず−ひだ・・・浜
 ・いらうんかいぬふつひだ・・・伊良部島に向いている浜
 ・いきま・さらんま・・・浜
 ・やびじ(八重干瀬)
 ・ふぅっびじ・・・干瀬
 ・っさびじ・・・干瀬
 ・たたたい・・・干瀬
 ・ちゅらびじ・・・干瀬
 ・みゃ−らんふぁいびじ・・・干瀬
 ・にぐ−びじ・・・干瀬
 ・みつは・・・干瀬
 
 カニはこのように池間島のある多くの浜や干瀬を鮮明に知ることができた。名前を知り、その名前の地を訪れ、そしてその名前をお喋り(ゆがたず)の中で使うと、名前そのものに、つまりは池間島に愛着が自然と沸いてくる。干瀬の中でも、「たたたい」、「にぐーびじ」、「みつは」は現在残っていない。
 
 また、「んなとぅ」も昔の「んなとぅ」とは異なる。カニは昔の「んなとぅ」の姿を、『海人の島』の書により、頭の中に思い浮かべることができる。「んなとぅ」は干潟であった。子供らの遊び場ともなっていた。「んなとぅ」は現在桟橋になっているが、昔は白い砂浜だった。そうして池間大橋のたもとまで、大潮になると干あがっていた。
 
 砂浜の陸地は、「あまん」(やどかり)や「はいみゃー」(つのめがに)の繁殖地であった。「んなとぅ」の砂浜では、「しな」(2枚貝)や「たまび−」(磯はまぐり)がいつでも採れた。大潮の際の所々にある深みには、「がさみ」や「ばたら」(トンゴロ鰯)、それに逃げ遅れた「はらふにゃ」(あみあいご=すく)の群れがいた。小さな「っず」(魚)を「ゆりゃ−っず」とも云った。潮が満ちてくると、砂浜にいた「潮まねき」(カニ)が穴から姿をみせた。また「てぃらじゃ」(まがき貝)や「んぬずがま」(小だこ)も姿を見せた。
 
 季節によっては、干潟には「さぎ」「ちどり」「しぎ」「かも」などの幾多の渡り鳥が飛来し餌を求め、そして休息した。子供らはそれを見て喜んだ。大人にとっても「んなとぅ」は、生きるやすらぎを与えてくれた。まさに自然の博物館であった。1日2回繰り返される潮の干満は、干潟に生息する生き物や植物の活動を支え、何千年も昔より、豊かな生態系を保ち続けてきたに違いなかった。そうして池間島の先人らは、豊かな「んなとぅ」を自然の恵みとして大事にし守り続けてきた。
 
 「平良新弘氏」のお母さんがいつも子供らに言い聞かせていた。
 
 「どぅ−や、でぃんまいにゃ−ん、はいまいにゃ−んすぅが、うっびな−ぬ、んなとぅぬどぅあいば、きばんっふぁにゃ−んどぅ、やらびんみ」(我が家は金も畑もないが、これほどの大きな「んなとぅ」があるのだから貧乏ではないよ、子供たちよ)
 
 このお母さんの言葉を誇りに思い、池間島を心から愛した少年のこころはいつも感謝に満ちていた。両親に対して、池間島の自然に対して、それから多くの人らに対してだ。その中から、こんな格言も生まれた。
 
 「わいてぃぬ すとぅどぅ かんな たすきぃふぃさまず」
 (一生懸命な人を神は助けてくれる)
 
 「きゅ−や いすぅっふぁ にゃ−っだんすぅが あちゃんかいどぅ−」
 (今日はつきがなかったが、明日はまた頑張ろう)
 
 「ふ−んな ふ−ぬ いじぬどぅ あず」
 (歩には歩の意地がある)
 
  ・
  ・
  ・
 海洋民族の子供らは潮風を受けて育った。東の方には、「んなとぅ」があり、いつでも磯の香りを運んでくれていた。春になると、「んなとぅ」の先にある「とぅ−いや」の浜には「はいみゃ−」の巣穴が北向きに変わり、「2月ま−ず」の終わりを告げた。そうして「さにつ」(旧暦の3月3日)には「んなとぅ」の干潟は狩俣までも歩いていけるのではないかと思うほど、潮が引いた。
 
 干潟には色々な「いむぬいきむす」(海の生き物)がいた。「あうびつ」(るりすずめだい)、「あっぶあみぃ」(くまのみ)、「しな」(2枚貝)、「やどぅむりゃ」(水字貝)、「いむぬ−まがま」(たつのおとしご)、「いむぬや−ずみ」(海月)、「んぬずがま」(小だこ)、「てぃらじゃ」(まがきがい)・・・色々な小さな生き物が沢山いた。子供らは色々と工夫し、自然のいきものと、知恵くらべしながら獲物をとっていた。
 
 その中で子供らは一生懸命働く大人らの仕事をみていた。夏にはカツオ漁にでていき、秋になると「うりずん」の頃の稚魚らが「んなとぅ」に戻ってき、それら小魚を網を投げて追いかける大人らの姿があった。冬にはコウイカ漁、アカイカ漁に「ふ−すにぃ」(帆をたてたサバニ)で漁にでていった。季節ならではの光景だ。皆でこんな「あ−ぐ」(歌)も歌った。

 池間の島は海の島     四面海もてかこまれし
  西には伊良の干瀬ありて  北にはフデに八重の干瀬

 人は遠くをみる習性を持つ。夢をみる習性を持つ。大きなものだけを見ようとする。なかなか近くをみない。自分が立っている地をみようとしない。小さなものを見ようとしない。私らの住んでいる池間島、宮古島は四面を海に囲まれている。こんなことは素晴らしいことだ。海から陸地が顔を出しているなんて凄いことだ。そんな島の海には宝の小生き物らが沢山いる。これこそ宝だ。
 
 あうびつ(るりすずめだい)、あっぶあみぃ(くまのみ)、しつぬぶとぅ(べら)・・・多くの小魚が色とりどりの珊瑚の中で、これまた色とりどりに泳ぎ回っている。「あがいたんでぃ、うりゃ、まんてぃ、りゅうぐうようかんど−や」(凄い、これは本当に竜宮城のようだよ)
 
 私は琉球列島の島々の海は宝ものだと考えている。それも凄い宝物だと考えている。そんなことをあらためて教えてくれた一冊の書・『海人の島』、そしてその著者の平良新弘氏には共感し、感謝の気持ちで一杯になる。
 
 私は池間島の珊瑚礁に住む自然の小さな生き物らを、池間島の方言で知ることができた。また多くの干瀬の名前を知ることもできた。このことで私自身のこころは豊かに広がっていくことができたような気がしている。海のことを宮古の言葉で知ることができたお陰で・・・池間島のことを知ることができたお陰で・・・少しではあるが・・・。

編集後記

松谷初美(下地町出身)

 東京は、ここのところ、雨が降って ぴしーぴし(寒く)していましたが、きょうは、久しぶりに ぞうわーつき゜(良い天気)になりそうです。そちらは、のーしーがらやー(どうですかー)?
 
 先月(4月28日)宮古では、震度4の地震がありましたねー。大きな被害は、なかったようなので、うむやすむぬ やすが(一安心ですが)、「こんなに揺れた地震は経験したことがないよー」と母は言っていました。
 
 そしたら、今度は、5月12日、中国の四川省で、マグニチュード7.8の地震があって大きな被害が出ていますね。ニュースを見聞きするたびに、被害の大きさと地震の恐ろしさに唖然としてしまいます。ライターのアモイさんは、中国の大連に住んでいますが(大連は影響ないとのこと)今は、宮古に帰っていて無事だそうです。ご安心くださいね。
 
 それから、きょうは、5月15日。沖縄が本土復帰した日ですね。あの時、小学生だった やらび(子ども)ももう40代後半。あれから30数年経ちましたが、5月15日は、ばっしらいん(忘れられない)日です。
 
 さて、今回のくま・かまは、のーしが やたーがらやー(いかがでしたか)?
 
 宮国勉さんの「うすんきゃー」の話、うむっしでしたねー。宮古には、やらびぱだ(子どものころ)「うすんきゃー」だったという人、多いと思うので(ちなみに私もそう。「嘘つけ」とよく言われるんだけどよ)、宮国さんと同じような経験をしたという方、多いのではないでしょうか。
 
 宮古の自然と文化を守る会の活動、長いことやっていてすごいですね。ライターの“かい”が、この会の会員なので、紹介をお願いしました。会や本への想いが伝わってきましたね。第2集、私も読みました。写真や図なども入って、だいず分かりやすいです。かいは、本のあとがきも執筆。ぜひ、手にしてくださいね。
 
 カニさんの宮古の自然を愛して止まない姿勢もすごいですよね。『海人(いんしゃ)の島』のひとつひとつに感動している様子が、あにぎな(そのまま)伝わってきました。著者である平良新弘氏のお母さんの言葉もとても印象深かったです。今度帰省したときに、入手しなくちゃ!
 
 さー、うわが感想ゆまい きかしふぃーさまちよ〜。(あなたの感想もお聞かせくださいね〜) 
  
 しまいぎー ゆみふぃーさまい(最後まで読んでくださって)たんでぃがーたんでぃでした。
 
 次号は、三週間後の6月5日(木)。「父の日」特集を予定しています。どうぞお楽しみに! がんずうかり うらあちよー(お元気でー)あつかー、またいら〜。