暑中お見舞い申し上げます!
まいにつ、あつむぬやーすが(毎日暑いですねー) がんずぅかりうらまずな(お元気ですか)?
今回は、夏にまつわる話が集まりましたよ〜。ぬかーぬかゆみふぃーさまちよ(ゆっくりお読みくださいね)
八丈島の七夕とお盆
大和の宮古人(城辺長南出身)
私の主人は、八丈島の出身です。八丈島の七夕とお盆は、ぴっちゃ(ちょっと)変わっていますので、紹介したいと思います。
八丈島は東京から287km、年間気温18,1度、人口約6〜7千人、島の面積68,5平方キロメートルの亜熱帯気候の火山島です。
伊豆諸島南部伊豆七島の最南端に位置し黒潮に浮かぶ緑豊かな島です。名称は伊豆となっていますが、東京都に属します。
空と海に囲まれ、いす゜ん(西に)八丈富士、あがす゜ん(東に)三原山を仰ぐ、瓢箪型で昔の宮古島がそのまま残ったような島です。家の周囲には幅1m、高さ150cm前後の石垣が家の周りを囲みハイビスカスやブーゲンビリア、椿の木が植えてあります。高温多湿で年間を通して雨が多く毎日のようにスコールが降りますが土が溶岩混じりで水捌けがよく瞬く間に吸い込まれます。
産業は生け花用のフリージア、極楽鳥花(ストレッチア)、フェニックス、等が栽培され関東に出荷されています。
細かいところはさて置き、七夕とお盆の様子を書きたいと思います。
<八丈島の七夕>
八丈の七夕は新盆の家だけ8月7日に供養の目的で行われるようです。8月6日に形のよい大きな竹を用意します。短冊に願い事を書いたり折り紙で鶴を折ったりして吊るします。8月7日早朝(4時頃)にお墓の入り口に立てて目印にします。その飾りを目当てに島の人でも、観光客でも、何方でもお参りできます。お参りの後お礼にお菓子、果物、ジュース等が貰えます。
主人の実家のあるお寺さんは檀家が約800軒あります。毎年かなりの数の新盆があり小学校高学年の やらび(子供)たち足の速い子は大きな袋一杯にして走り回っています。
んきゃーんな(昔は)3年間供養したようですが最近は1年しかしません。過疎化が進み若い人が殆ど関東周辺に出て行き、3年間も続けられないのでしょう。ご年配の方は「俺たちが死んだら七夕も廃れるだろうな、世の移り変わりだから仕方が無い、それまで頑張って続けていこう」と淋しそうでした。
今年は義姉の新盆です。7月の末に49日法要で帰りました。姉の子供、孫も大勢東京や埼玉から戻っていました。翌日30過ぎの孫が(男)「昨夜は夜中までかかっておばあちゃんの話をしながら七夕のお菓子の袋詰めをしたよ、悲しいはずなのに何か楽しかった」とポツリ話しているのが印象的でした。
<お盆について>
八丈のお盆は8月13,14,15日に行います。仏壇のお供え物は関東と同じ茄子とキュウリに爪楊枝を刺して ぬうま(馬)と うす(牛)を作り他には野菜、果物、お菓子を用意します。
12日の日にご先祖様の家を掃除します(お墓はご先祖様の家です。お墓に草が生えていたり汚れていることは恥かしい事で、自分の家のように1年中どこのお墓も掃除がしてあります。)
綺麗にした後、お墓の入り口に1m20〜30cmの高さの細い棒の上に箱型で屋根が付き周りにガラスをはめ込んだ灯篭を差し込みます。中にローソクが立てられるように造ってあり、お盆の3日間毎日夕方にローソクを灯しお参りをします。
お参りは自分の所だけでなく、親戚、隣、友達と知合いの所を全部回ります。まだ来ていない家がありましたら余分に持参したローソクを灯して差し上げます。家族みんなで回りますのでその3日間はものすごい人出でお祭りのようです。800もの灯篭のローソクの明かりがユラユラ揺れている様子は何とも幻想的です。
義母が一人で生活していたので、私たち家族は毎年帰郷し、小さい母に付き添ってお参りしました。8年前母が天国に旅立たれた後は1度もお参りしていません。今年は帰るつもりでチケット取りました。おっかー待っていてね(八丈では母のことをおっかーと呼びます。若い人はお母さんですが)
「鳥も通わぬ八丈島」と歌われている八丈島の1学区の七夕とお盆の風景でした。(学区ごとに違うようです)
皆さんも おじゃりゃれ(いらっしゃい)花と緑の島、八丈へ。
納涼祭、ただいま準備中!
菜の花(伊良部町出身)
あー ぱたらふ すぐとぅばんな(私が勤める職場では)、施設三大イベントの大運動会、納涼祭、クリスマス会が毎年行われる。
職員全員が、このイベントの のーがーらぬ(どれかの)担当になるという掟があり、ぴんぎらいん(逃れられない)。あばー(私は)、だいずやぐみ(もっとも大きな)イベントである納涼祭の係になってしまった。
4月の運動会が終わった直後から、納涼祭委員会が発足され綿密な企画が練られている。施設の介護職員は ばはみどぅんと ばはせいねんばーき(若き乙女に若き青年ばかり)彼らの話し合いを聞いていると、まーんてぃ うむっし(ほんとにおもしろい!)というか、ミラクルで、パワフルで、キテレツなのだ!
施設の職員の中には、一年のうちに何度も南下しては、沖縄の島めぐりをしている者もいる。そのために働いているくらい熱烈な沖縄病を患っている。沖縄で っさぎ(挙式)をした職員もいたが、伝染性があったとみえて、何組かのカップルが っさぎ(結婚式)を挙げるため沖縄に飛んだ。
そんな若者たちが担当になった納涼祭はどうなるか〜・・・
案の定、夏といえば南の島。南の島といえば沖縄!と言い出す者がいた。そして、テーマはもちろん「夏!琉球の風」となり、サブタイトルには「エコ祭り」とつけられた。ぱなすぬ(話が)まとまったと思いきや、栄養課に直談判した者がいたとみえ、当日の模擬店では沖縄料理をだすとのことで決定!ぴゃーむぬ(はやっ!)いつぬまどぅんが〜(いつの間に!)
テーマが決まったら、次は中身をどうするかだ。
地球温暖化防止に向けてどんなエコがあるか、施設では何ができるか、納涼祭とどう結び付けるか。案が出されるたび、いんしーやあらん(あーでもない!)あがい、あたらん(こーでもない!)うりゃーだみ(それはおかしい!)と、もういいたい放題!
施設職員が飲んだ後のペットボトルを使ってのゲーム、資源回収への協力、ペットボトルキャップで発展途上国の子供たちのポリオワクチン接種への協力という案がでた。日々の取り組みとして、節電、節水、廃品再利用の案もでた。(施設長が泣いて喜びそうだ)出し物では沖縄の歌・三線をとの話がでたので、廃竹を利用して四つ竹を作ることを提案した。やっとこさ、中身が見えてきたら、あとはもう自分が担当することにゴーイングマイウェイ!
納涼祭担当者はさら細かな係に割り当てられる。その他、レクリエーション委員がいて、当日それぞれの係をサポートしてくれる仕組み。
私は誘導係になった。お祭りは療養者の生活レベルに合わせ、決められた時間内で行なわれる。それこそ分刻みのタイムスケジュールだ。誘導する順番も、グループも決めなくてはならない。なぜなら・・・お祭りが行われる一階まで、私が担当して誘導する療養者はざっと78名程。ほぼ全員が車椅子使用者だ。しかも、体力や、座位時間、認知症のレベルも たうきーなー(一人一人)違うのだ。
この78人を誘導するにも、グループごとに責任職員をつけ安全管理しながら下ろさなくてはならない。皆がお祭りを一巡してもらいたいという思いがあるので、体力に合わせたグループ編成となる。寝たきりの方も少しの時間でも参加していただく。
家族の協力も、看護・介護学生ボランティアの協力も借りる。この協力は大きく、毎年この力に支えられているのだ。なんとかグループが決まりつつある今日この頃、次なるは療養者全員分、参加カード作りに取り掛かるしべし!との指令を受けた。参加カードは大勢の人がひしめき合う中、どのグループかがすぐわかるように名前とグループを入れること。その他、景品や模擬店でおやつや飲み物が配られたかチェックするので重要とのこと。
んがな〜(ラジャー!) だいず、じょうとうぬ(立派な)カードを作りますぞ!・・・といってもデザイン担当者が既に作ってあった。あたいは名前書きをするだけでいいらしい。さすが介護施設。年をとったもののいたわり方が上手!
私は日ごろから宮古島の話をすることが多く、職員からは「自分の田舎をこれほどに自慢する人、見たことない」と称賛?!笑参?!されている。そんなこともあり会場係担当の若者から、テーマ通り琉球一色にしたいのでアドバイスをと相談された。よ〜し!この伊良部の母ちゃんにまかせなさい!
メイン会場の天井には、南国の空をイメージして青い空に白い雲が描かれた布を貼る。玄関の大きなガラス戸には紅型の布を垂らし、入口には来所者を迎える気持ちを込めて、施設の中庭に生えているジンジャーや、カンナの花、ヤシの葉も壺に活けておく。壁には昨年使ったよしずを掛け、私が うぷあんな(大叔母)から貰ってきた年季のはいった琉球絣と麻の着物、絽の着物を下げてはどうかと提案した。
一つイメージが湧くと次々に繋がっていく、若き職員の柔軟さよ。廊下は療養者が南国の花の塗り絵をして、それを貼ってフラワーロードにしてはどうかとの意見がでた。OH!じょうとう〜!
療養者のリハビリも兼ね、筋力に合わせて色鉛筆、クレヨン、絵の具に分けてただいまハイビスカスの花作成中、もとい、栽培中!療養者は自分の花をいろんな色に塗り、名前も入れている。できない療養者には職員が付き添って塗り絵をしている光景がある。フラワーロードは咲き誇る療養者の花で埋まるでしょう。
でも、これだけじゃなんとなく雰囲気がでない、と欲をだす職員。どうせやるなら!を合言葉に、視覚に訴える琉球とのことで、ポスターが入手できないかとの話がでた。
療養者の中には、沖縄に行ったことがない方や、南の海の魚を見たことのない方も多い。そんな療養者に少しでも南の島を感じてほしいとのこと。
知人、友人にいきさつを話したら、ポスターが貰えることになった。そして、なんと!本場、美ら海水族館からポスターが届いた!職員からは歓声があがった。雄大に泳ぐジンベイサメを見て「美ら海水族館、行きた〜い」「ジンベイザメ、見た〜い」とざわめく。療養者より一足先に感動している職員等。ほんとに沖縄は美しい島だ!とポスターを見ながら私も思った。
自宅にあった東平安名岬と佐和田の浜のポスターも加えた。他にも数枚沖縄のポスターを手にいれたので、ぼちぼちポスター貼りもしなくては。ポスターを見た瞬間、療養者はどんな反応をするか・・・想像しただけでウキウキしてくる。
出し物「沖縄の歌・三線チーム」もただいま特訓中!療養者も歌える「十九の春」と、旋律やさしい「童神」、「サーユイユイ」と発声訓練と誤嚥防止のため「安里屋ユンタ」を選曲した。歌うは新人アナにも負けない新人女子介護職員と、各フロアから1名ずつ先輩職員を導入し、菜の花プロデュースで結成した10人のユニット。
四つ竹は福島に帰省する職員に頼んだところ、裏山の竹林の竹を拾ってきてくれた。エコだ〜。旦那様が大工さんだというので、ついでに電気ノコギリで四つ竹のサイズに切ってもらった。エコだ〜(違うか)それをヤスリで角を削り滑らかにして配った。
見たこともない沖縄の楽器に「火の用心、チャンチャン」と遊ぶ若い職員達。そうきたか・・・。持ち方から教える。なかなか持てない、音が出せない。あがい〜!んぞうな〜むぬ!(あらまー!しょうがない子!)これほどまでにも不器用な子もいるのかと思いながらも、気長に ならーす(教える)歌の途中で落下。気を取られる菜の花、集中できずに三線間違える。くぬ〜、んぞうなむぬ(この、未熟者め〜)と、自分をなじりつつ何度も練習する。
練習の成果あって、なんとか、なんとかいい感じになってきている。衣装も紅型のハッピでばっちり。髪にはハイビスカスの花を飾るというので、「やりすぎじゃない?!」という私に「可愛くなって何が悪い!」と一喝をくれたのは、職員の間で「環境大臣」と親しみを込めて呼ばれる先輩ナース!・・・おそるべし、おばちゃんパワー。
8月23日までには、もう少しレベルアップできることを祈って、ただいま特訓強化中の歌・三線チーム。当日は朝から沖縄の音楽を流し、南の島気分を味わえってもらえるようにするんだけど・・・いったいどうなるかね〜〜?!
戯曲『父と暮せば』
松谷初美(下地町高千穂出身)
きのう8月6日は「広島原爆の日」。
この物語は、広島で原爆が落ちた後の1948年が舞台になっている。
井上ひさしの戯曲で1994年に初演。その後、数々の賞を受賞し、2004年には、宮沢りえ主演で映画化されたので、知っている方も多いはずね。
私は、恥ずかしながら今年、この話を知り、新潮社から出ている本を手にした。
登場人物は、主人公の「美津子」(23歳)と「おとったん(お父さん:竹造)」の ふたーずちゃーん(二人のみ)。(話の中には、他にいろいろな人が出てくるんだけどね)
原爆で亡くなったはずの「おとったん」が一人で暮らす娘、美津子の所に出てくるようになる。ふたりの会話は、終始、広島弁だ。
明るく活発だった娘が原爆のあと、変わってしまったことを しわ(心配)する父。
美津子は、勤め先の図書館で原爆の資料を探していた青年を好きになる。相手も結婚したいと思っているらしいのだが、原爆で父を亡くし、友人を亡くし、どうして自分だけが生きているのか、あの時に死ぬべきだったのではないか、自分を責め続けていた。そして、自分だけが幸せになってはいけないと苦悩する。
美津子の口から語られる、友人たちのむごい死に方や、父親を原爆の火の海に置いて逃げなければいけなかった気持ち・・・二十歳でこの思いを背負って生きていかなくてはならないとは。
そんな美津子に「おとったん」は、自分の分まで生きること。こんなむごいことがあったということを覚えているために、美津子は生かされているんだということを話す。
最後の「おとったん、ありがとありました」のセリフが、胸に響く。
原爆の後の、市井の たうきゃー(ひとり)の女性の暮らしから、原爆の恐ろしさ、悲惨さ、それを乗り越えようと一生懸命生きる人の姿が伝わってくる。本は、109ページで あんちなーや(そんなには)長くない。会話にも難しいことは一切書かれていず、とても分かりやすい。二人だけの会話なのに、書かれていることは、たくさんの人のことだった。
著者の井上ひさしは、この戯曲を書いた理由として、
「ヒロシマ、ナガサキの話をすると、「いつまでも被害者意識にとらわれていてはいけない。あのころの日本人はアジアにたいしては加害者でもあったのだから」という人がふえてきた。たしかに後半の意見は当っている。アジア全域で日本人は加害者だった。
しかし、前半の意見にたいしては、あくまで「否!」と言いつづける。
あの二個の原子爆弾は、日本人の上に落とされたばかりではなく、人間の存在全体に落とされたものだと考えるからである。あのときの被爆者たちは、核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ。だから被害者意識からでなく、世界五十四億の人間の一人として、あの地獄を知っていながら、「知らないふり」することは、なににもまして罪深いことだと考えるから書くのである」
と記している。(『父と暮せば』井上ひさし著 新潮社 より)
夏休みの宿題
R(平良出身)
8月になり、夏休みも中盤に入りました。
夏休みといえば、「セミの大合唱」「熱闘!甲子園」「お盆での怖い話」「ビーチパーリー」等、楽しいことが やまかさ(いっぱい)ですが、私はいつもこの時期、娘たちの夏休みの宿題に悩まされます。
私の夏休みの思い出といえば・・・
1.小学4年生の時、宮古島へ引越し、初めての夏休み、朝のラジオ体操が終わると友達の自転車を借りて夏休み中練習し、初めて自転車に乗れるようになったこと。(自分の自転車を毎日私に貸してくれた友達のことを「いい人だったんだなー」と今さらながらに思います)
2.台風が去った後に平良港の桟橋に打ち上げられまだ跳ねているいす゜(魚)をラジオ体操仲間と海に戻してあげたこと。
3.ラジオ体操を終えると家にも帰らずにぱーいしゃ(歯医者さん)に直行したこと。(歯が痛くなることになぜか大変な恐怖を覚えていた私は病院が開く前から歯医者さんの外で待っていた)
4.父に海洋博に連れて行ってもらったこと。(いつもそんなことをしてくれる父ではありませんでしたが、すぐ上の姉とまーつき(一緒に)船で連れて行ってくれました。愛知万博があった時に姉が、「お父さんが私たちを海洋博に連れて行ってくれたくらいだから自分の子どもたちも(愛知万博に)連れて行ってあげないといけないかねー、と考えてしまうさー」と言っていました)
5.夏休みの宿題を父が手伝ってくれたのは嬉しいけれど、父は私にはぴっちゃがままい(少しも)触らせてくれず、小学生では絶対作れない程精巧な木の船を作ってくれたこと(スクリュー付き)、しかも私のどぅす(友達)にまで。でも私の船が若干大きかったこと。(友達と二人、本人が作ってはいないとばればれの船を複雑な思いを持ったまま宿題として提出し、学校の池で走らせました)
6.夏休み最終日は、毎年、徹夜に近い状態で宿題に取組んだこと。(家族みんなが寝静まった家の中、一人起きて宿題をした寂しい蛍光灯の灯りが目に浮かびます)
いづれにしても朝6時半のラジオ体操に合わせ やー(家)を出て、ラジオ体操を終えてもまっすぐ家に帰ることはありませんでしたね。
上の娘が小学1年生になった時、私の時代とは変わり、夏休みの宿題がかなり少なくなっていることに驚きました。絵日記は、夏休み期間中、10日分だけ描けばいいし、「夏休みの友」は、夏休みの日数分ありません。あとは好きな課題に取組んでください、といった具合です。さて自由研究は何をさせようか?
沖縄の公立学校では、「慰霊の日」のある6月に入ると沖縄戦を通しての平和教育が行われます。娘がその際に持ち帰った紙には、「月桃の花」の歌詞が記載されていました。私も知っている歌だったので二人で だいばん(大きな)声で歌いました。そこで「平和・戦争」をテーマに小学1年生でも取組める内容はないか、と考え、「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争体験の話を聞こう!」ということになりました。
娘の聞き取りへのおじいちゃん、おばあちゃんの回答は以下のようなも
のでした。
○ おじいちゃんのこどものころ、せんそうちゅうは、たべるものがなくてたいへんでした。あるひ、いなかでもらったおにぎりがとてもおいしかったです。いまでもおじいちゃんはしろいごはんがだいすきです。(山の上で、笑顔でおにぎりをほおばるおじいちゃんが描かれています)
○ おばあちゃんのせんそうのとき3さいでした。おばあちゃんのおとうさんはせんそうでしんでしまったのでおばあちゃんはおとうさんのかおをしりません。(おかあさんを9人の子どもたちが囲んでいる様子が描かれています)
○ みやこのおじいちゃんは、せんそうにはいきませんでした。だけどながさきけんでぐんかんをつくっていました。(軍艦の側で汗をかいて仕事をしている姿が描かれています)
○ みやこのおばあちゃんは、せんそうのとき、こうこうせいでした。せんそうがひどくなってきたのでけがをしたひとがいっぱいでした。かんごふさんがいなかったのでおばあちゃんたちがてあてをしました。(けがをした人を手当てしている姿と窓の外に飛行機が描かれています)
娘は聞き取りしたそれぞれの内容を絵も添えながらハガキ大の用紙に書きとめ、大きな画用紙に貼り、「おじいちゃんとおばあちゃんのせんそうのはなし」としてまとめました。
4人の話は私も初めて聞く内容もありました。今、読み返してみると、戦争に対して「怖い」というイメージではなく「悲しい」というイメージを持つ内容だと思いました。
我が家の冷蔵庫の扉に「月桃の花」の歌詞を貼ってから、かれこれ14年経ちました。用紙はもうすっかり茶色くなりました。沖縄に生まれ、沖縄に育ち、生活する人間としては、「沖縄戦」もベースの一つに持ち続けなければならないと思います。
体験者がどんどん少なくなっていく中、娘の小学1年生の時の「夏休みの宿題」は、娘が子どもを持った時に大変な財産になってくれることだと思います。
月桃の花 1.月桃ゆれて 花咲けば 夏のたよりは 南風 緑は萌える うりずんの ふるさとの夏 2.月桃白い花のかんざし 村のはずれの石垣に 手に取る人も 今はいない ふるさとの夏 3.摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は 青い空 誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏 4.海はまぶしい キャンの岬に 寄せくる波は 変わらねど 変わるはてない 浮世の情け ふるさとの夏 5.六月二十三日待たず 月桃の花 散りました 長い長い 煙たなびく ふるさとの夏 6.香れよ香れ 月桃の花 永久(とわ)に咲く身の 花心 変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏 【作詞】海勢頭 豊 【作曲】海勢頭 豊
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
宮古では、今年も「鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会」が盛大に行われたようですね。毎年、毎年、みーぶずむぬ、ききぶすむぬ(見たいものだ、聞きたいものだ)と、思っているのに、なかなか行けないでいる。でも、いつーかは、きっと。
さて、vol.177、のーしがやたーがらやー?
「主人のふるさとのお盆がとても変わっていて面白いですよ」という話を大和の宮古人さんから聞き、ぜひ、くま・かまでとお願いしました。初めて知ったという方も多かったのでは?ホントに地域によって、お盆のやり方もいろいろなんですね。お参りしてくれる人へのお菓子のお礼。たくさんのローソクの火がゆれる幻想的な風景・・・いいですね。
菜の花の「納涼祭」の準備の様子は、入所者の人たちや家族にいかに楽しんでもらうか、一生懸命取り組んでいることがよく分かりますね。しかも今年は、沖縄がテーマとは。菜の花の出番だ!老人をとり巻く環境は、せちがらいものが多い中で、現場でこのように真摯に働く人たちが大勢いるんですよね。
『父と暮せば』、良かったら ゆみみーるよ(読んでみてね)
夏休みの宿題といえば、最後の2〜3日で、だいずあくせくするのが年中行事だったなぁ。Rさんの娘さんの自由研究はすごいですね。一生懸命聞き書きをしている様子が目に浮かびます。「月桃の花」の歌、いいですね。ずーっと冷蔵庫に貼り続けているRさんの気持ちも娘さんに伝わっていることでしょうね。
今回も、しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃでした。(最後まで読んでくださり、ありがとうございました)あなたはどんな感想を持ちましたか?ぜひ、お聞かせくださいね。お待ちしています!
今年の旧盆は、新暦の8月13・14・15日と、ガフと当っていますね。ばんたがやーや(我家は)おばぁの新盆。10日から宮古に帰る予定です。
さて、次号は、8月21日(木)発行予定です。それまで、がんずぅやしー うらあちよー(お元気で〜)
きゅうまい、かぎぴかず(上等な日)でありますように!
あつかー、またいら〜。