MENU
宮古島方言マガジン「くまから・かまから」
宮古島方言マガジン「くまから・かまから」
宮古島方言マガジン「くまから・かまから」

くまから・かまから vol. 180

2021 5/05
メールマガジン
2008年9月18日2021年5月5日

こんにちは〜。
今年は台風はもう来ないかねーと思ったいたら、ゆらり(迷走)台風が、まわっていますね。沖縄にもかかっていたようですが、大丈夫でしたかー?
さて、180回目のくま・かま、夏の話あり、秋にふさわしい話あり、まさかの三回目の話まで多彩な内容でお送りします!

目次

『き゜むかぎ』という言葉

Motoca(平良出身)

「生徒が みぃんな、き゜むかぎだったさ。だから本当に、すばらしい体育祭になったよ。」

5年前、勤務先の中学校の体育祭を終えてきた父が、電話で私にこう言った。それ以来、「き゜むかぎ」という言葉がずっと、私の心に引っかかっている。

「き゜むかぎ」は、共通語には「心優しい」と訳されることが多い。「き゜む」は心、「かぎ」は「美しい」。だから直訳すると「心美しい」なのだが、意味的には「優しさ」が前面に出されるのだと思う。

今から5年前、2003年。当時、父は中学校の校長をしていた。体育祭の数日前にに60歳の誕生日を迎えた父にとっては、教員生活最後となる体育祭だった。父の誕生日からさかのぼることさらに一週間、あの台風が宮古を襲った。宮古の生活基盤に多大な損害を与え、最大瞬間風速74.1m/sを記録を残した、 2003年台風14号・マエミーだ。

宮古郡内の小中学校では、その翌週または翌々週の週末に、運動会・体育祭を予定していたところが多かった。しかし、暴風は学校施設をもいろいろと破壊していった。どこの学校の話を聞いても、校舎の窓ガラスは割れ、校庭の木々はなぎ倒され、散々たる状況だったという。台風が去った後は暴風の後片付けと、運動会・体育祭の準備に追われることになった。

父のいた中学校も、やはり同様の状況だった。体育祭は、台風から10日後の日曜日だった。台風の後片付けは、生徒・職員総出での作業となった。体育祭の直前まで電気/電話回線が復旧しなかったため、日中は窓からの明かりだけで授業を行った。体育祭の練習には、近所の方が発電機を貸してくれたらしい。体育祭に向けての準備には、生徒のご父兄にも加勢してもらったそうだ。

先日、父にあのときのことをを回想してもらったときの話。

「生徒も、父兄の皆さんも、そして学校の職員も本当によく動く。自分の作業を、責任を持ってやる。誰も手抜きをしようともしないし、ひと言の文句をも言わない。そしてそれが、何も特別なことではなくて、普通のこと。いつもそういう雰囲気だった。だから、あの台風から体育祭を無事に終えるまでの行動を見て改めて、彼らの結束力を、強く感じたのだと思う。」

その感動から出た言葉が、「き゜むかぎ」だった。5年前、勤務先の中学校の体育祭を終えてきた父から、電話で聞いた言葉。酒の飲めないはずの父が、ほろ酔いしたように何度も、「き゜むかぎ」という言葉を繰り返していた。いつもは口数の少ない父なのに、長電話になった。そしてずっと、台風から運動会までの話をしていた。

あのとき、こんなことも言っていた。「それは、小さな地域社会だからこその素朴さでもあると思うわけさ。市内の子供だったら、ああはならんさあね。あんたなんかも、ああいう環境で育てたかった。」

あば(あれ)、そこまで言うか。うりゃー(それは)つまり、ばんたー「き°むかぎ」やあらんとのばーな?(私らは「き°むかぎ」じゃないということか?)父、答えて曰く、「・・・して、人が多くいたら、自分ぐらいは手抜きしても大丈夫、と考え易いさいが。」

まあ確かにね、うちあたい(心当たり;沖縄方言)もいたします。市内はやっぱりちょっと都会なのだ。真面目はかっこわるい、という風潮はあった。でもそう言われて、私はちょっと悔しかったのだ。いや、悔しかったというより、羨ましかったというべきか。

だからそれ以来、「き゜むかぎ」という言葉が、私の中に引っかかっている。ばんまい(私も)、「き゜むかぎ ぴとぅ(人)」を目指そう、そうなりたい、とずっと思っている。

共通語ではただ「心優しい」とだけ訳されるが、もっともっと深い。その優しさを表出させる人の素朴さや力強さといった、バックグラウンドまですべて含まれているような感じがする。本当に素敵な言葉だ。

そして、そんな「き゜むかぎ」人たちに囲まれて、充実感とともに定年を迎えることができた父は、本当に幸せ者だと思う。ことあるごとに教育者が攻撃されやすい時勢だからこそ、特に。あのときの生徒の皆さんには、娘としても、お礼を申し上げたい。

あなたたちの き°むかぎさ のおかげです。 本当にありがとうございました。たんでぃがー、たんでぃ。

ICU3!

神童(平良市出身)

性懲りもなくICUの世話になってしまった。うむぅくとう にゃーん んまり。(馬鹿じゃなかろうか?まず!)

手慣れたもので心電図の波形を見ながら看護師が担当医師に連絡を取りまくる。早朝7時。ひやっとした感触で電極のシールが貼り付けられていく。心電図を記録する機器の無秩序、若しくは乱れうちのような警報音。んぎゃます!(あーーーっ!五月蠅い!)

それどころじゃない!左手甲の静脈に緊急点滴。その後、なんとかピリンとやらを噛み砕し飲み。罰んだかに みっずぅ ぬまさじゃーんつぁ。(例によって水分を与えられない。)ひたすら苦いなんとかピリン。ぬかーぬか かんだりみーる?ごーらぬ んぎゃさぁ まにあーんまぁ!(丁寧に噛もうものなら苦瓜の比にならない苦さが口中に広がる。)ここは3回目の経験者。適当に3回ほど噛み砕いて無理に飲み込む。これで苦さを抑えることが出来る。

連絡を受けた心臓担当の医師が告げる。上着を脱がして!指示を受けた看護師。やおら鋏を取り出し丸首のTシャツに当てる。待てマテ!お気に入りど!なんとか脱がしてもらう。脱がせられながら大人の分別をもって脱衣に協力すべく身をよじる。看護師が叫ぶ。動かないで!・・・やれやれ。

ストレッチャーに寝かされ当方の視界に入らない救急室の隅で医師がひそひそ話し。

心臓の血管が詰まってるはずだから緊急にカテーテルを入れて詰まっている部分に風船なんたらを入れて詰まりを解消する手術を行うらしい。大急ぎで心臓手術を行うレントゲン室に連絡を取りまくっている。

若手の医師が小さな声で説明してくる。手術になるかもなので尿道を確保します!なあーーーに言ってんのぉ、お前!やらなくていい。却下だ却下!阪急近鉄沿線を患ったときに懲りているから、やめてくれえ!

聞き入れられない。無理矢理尿道を確保されてしまう。痛いしよ!ちょっと咳き込んだだけで容器に尿が流れ出る。憶えておけよ、てめえ!して、どうでもいいけどパンツあげてくれ。後ろのほうね。ケツがめくれたままどぉ!お構いなしだ。けっ!

大勢に付き添われてストレッチャーが移動していく。救急診療室を出て左に曲がり右に曲がり更に右に曲がって直ぐさま左。そのまま直進して突き当たりが心臓のカテーテル手術を行うレントゲン室。2度目だぜ!

レントゲン室到着。おう、たー坊!久しぶり!知り合いの看護師に声をかけるも忙しくて目で合図を返すのがやっとだ。そりゃーそうだよな。ばやぁ やんむぬやーば たーっふぃぬ すかま。(こちとら患者で痛がるのが本業。)片や患者が動かないように所定の位置に移動するのが看護師の仕事だもんな。

ちょっと上に移動して!背中を微妙に動かしてずりあがる当方。医師の罵声が飛ぶ。患者を動かせるな!看護師全員でシーツを掴んで20cmほど移動。カテーテルを挿入する右腕を診察台から斜め45度に伸ばして麻酔を待つ。

ちょっと痛いよ!ちくっ。右手首が確かに痛い。

あれ?医師が狼狽えている。あしぃ ふぉーずぶんなぎん てーぷぅ ぱずしばどぅ あば、ゆがたみ!(4時間後ガーゼを外すと血管から5ミリほど外れていた。)更に麻酔が続く。ちょっと痛いよ!今度は右の肘内側だ。どうやら命中らしい。

カテーテルが挿入されていく。例によってレントゲンカメラが邪魔でモニターが見えない。血管造影剤を左官に注入してレントゲン映像で血管の修理箇所を探している。造影剤は心臓の辺りが暖かくなるので注入の度合いが解る。

医師が告げる。ニトロ入れよう!

良かったよトトロじゃなくて。あんな宮崎アニメのお化けを心臓に入れられたら堪らないものな。でも待てよ。ニトロ?おう!西部劇で荒くれ者が金欲しさに慎重に運ぶ代物か?にとろぐりせりん!慎重に扱えよ。俺の心臓だからね。ぱずかすんじゃねえぞ!

ニトロは微妙に臭うね。アルコールのような匂いが鼻腔をくすぐる。ニトロで血管を瞬間的に膨らませて更に詳細な検査を行ったらしい。後で聞いたけど。

さて、目出度く血管の詰まり箇所もなくてICUへ。

奥の硝子張りの個室に一人。手前の3名収容の大部屋?に当方一人。計2名。

なによりケツがめくれたままのパンツが気になる。引き上げようにも左手は点滴の針が2本も刺さって動かせない。さらに心電計の電線が邪魔だ。右手に至っては・・・。

右は右手首からカテーテルを入れられなかったものだから右の肘内側を四角い箱+幅広のセロハンテープでがちがちに巻かれて、更に箱の内側に風船を入れ、たやばーき空気を入れて圧迫している。止血らしい。30分に1回ずつ気圧を下げて4時間かけて止血するらしい。右腕が痺れる上に全くもって曲がらない。パンツあげるどころの騒ぎじゃない。

最近、中学校で2年生の腰パンを注意した上級生が大乱闘を起こしたらしいじゃないか。こちとら、ちびるんぬ まんでぃ うらまい!(こちとら腰パンどころかめくれちまってるぞ!)ってなもんだ。パンツの意味無いからね!・・・でも良かったよ、中学2年じゃなくて!

夜中に両サイドにそれぞれ入室して満杯になるICU。左は重症。病状は当方と同じく狭心症。心電図機器の警報音がときどき途切れる。いよいよもってやばい状況らしい。

医療スタッフからは患者が全員丸見えなのに対し、患者はサイドをカーテンで仕切られていて音声のみ。当方は翌日午後、一般病棟に移動。

入室と同時に右隣の80を超えた老人が話しかけてくる。狩俣のおじいだ。で、知り合いの父親。一生懸命に喋っているものの殆ど聞き取れない。口でもごもご。通訳が必要だ。

消灯時間をもって就寝。午前を過ぎた頃、右隣の老人に異変が。

枕元の電気を点けてごそごそし始める。固めのビニール袋を取り出して中を探っている模様。袋の中から更に固めのビニールに包まれた内容物を取りだして包装のビニールを外している。しばらくするとポリポリバリバリ!つまみ食いだ。いや、盗み食い?違うな、隠れ食いだ!糖尿だろ?おっさん!

家族や医療スタッフに気付かれない深夜にお菓子を貪り食う老人。
がっさぁがっさぁ ぐっちゃぐっちゃ かさかさ がう!むっしゃむっしゃ むっちゃむっちゃ ぐっふぁぐっふぁ なんみなんみ ぐず!あたまんてぃ いすぅくぅ どぅっふぁどぅっふぁ。いぴぃなーりゃ なまりってぃ またどぅ がっさぁがっさぁ。(ごそごそ ぐちゃぐちゃ ぱりぱり ぺろん。ぽりぽり ばりばり ぺろぺろ ごっくん!突然咳きこんでげほげほ。しばし休んでまたごそごそ。)すげっ!擬音の方言バージョン。日本初じゃなかろうか?

30分ほど続けて再び眠りにつく老人。監視カメラが必要だな、こいつには!糖分命の坂田銀時みたいなやつだ。こいつ、昼の3時頃にも同じことをするからね。何処に隠してあるかサーよ、お菓子を!パンツの下だったりして。

延べ2昼夜に渡って老人の隠れ盗み食いの音声のみを聞いたところで大部屋を更に移動。病棟3階の東端の大部屋に寝かされる。ここで担当のナースが変わる。チャンスだ!

左腕に刺さっている点滴の針2本の撤去を申し入れてみる。意外とあっさりOK。話せる看護師だぜ。見覚えあると思ったらICU2でハルおばあにトンでもない情報を吹き込んでた奴だ。ちょっと可愛いし!

残るは携帯式の心電図モニターのみ。こいつが厄介な代物。電極が外れた途端、モニタリングされているためナースステーションから看護師が飛んでくる。やれやれだぜ!

もし逃亡を図るのなら同室のケイコウおじいに装着するか、通りすがりの犬に装着するか、だ。・・・犬は無理かな?

ケイコウおじいは人工透析のために入院しているらしい。かなり長いこと入院しているらしく病棟のあれこれを教えてくれる。して、今日はトーケツがあるから午後から大変さーね。と話す。おーーーーいっ!凍結してどうする?ケイコウおじい!透析だろ、投石!

このケイコウおじい。医師の回診時間をすっとぼけて院内をうろつき次の回診は2週間後だからね!と孫のような看護師に叱られる始末。

シャワーの日なので心電図の電極を外して浴室へ。さっぱりしたところで確信犯的に携帯式心電図の装着を意図的に忘却。談話室でクイズヘキサゴンを観ているところをナースに踏み込まれる。なんで付けないの?いちいち五月蠅い人たちだ。

就寝前に談話室で歯磨き。うがいをしているところを看護師に呼ばれる。病室の辺りで看護師多数が当方を捜している。談話室に5名の看護師がなだれ込んでくる。○○さん、大丈夫ですか?苦しくないですか?

心電図のモニターの波形が心筋梗塞らしい。当方至って平気。知ってるもんね。ICUで経験済みなんだな。歯磨きをするとその振動を電極が拾って心電図の波形が暴れるんだな。

原因が解ったところで5名の看護師に部屋に戻るよう指示される。いいじゃん、なんでもなかったんだから!聞き入れてくれない。兎に角病室に戻りなさい!いいから戻れ!の命令口調の一点張り。それも5名で合唱。バス・テノール・アルト・ソプラノ一人余りってなもんだ。あ、一人は合唱指揮か?

いいか?おめーら。こちとら一人で貴方達は5名。マイノリティを虐めて楽しいか。自民党か、お前ら。数の暴力だろ!そもそもお前らがマイノリティなんだぞ、病院では。医療スタッフの人数を遙かに上回る患者の存在を知っているのか、控えおれい!

月曜に入院して土曜に退院。なんか学校みたいな入院だぜ。あ、2学期症候群かも?9月1日入院だものな。

そうそう。会社を定年退職した先輩に出くわしてしまったんだな。母親の見舞いに来たらしい先輩。

どうした?
職場体験です!

元気に答えてあげたよ!仕事の内容は患者だからね。

夏の思い出

R(平良出身)

6月末に北海道への出張がありました。

私の出張は、どこに行くのも日帰りで済ませられる内容ですが、せっかく北海道まで行くのだからと思い、1泊することにしました。

東京で乗り継ぎ、北海道への飛行機を待つ中、30年前、中学3年生(北中)の時に訪れた北海道の風景と夏休みの1ヶ月間を共に過ごした豆記者の仲間のことを思い出していました。

本土・沖縄豆記者交歓会は、太平洋戦争の結果、米国の施政権下にあった沖縄の早期復帰を願って、東京都中学校新聞教育研究会の皆さんが、本土と沖縄を結ぶ青少年親善運動の一環として昭和37年に双方の中学生を交歓しあったのが始まりということで、んなまがみ(現在まで)続いている事業です。

私は、本土復帰5年後の昭和52年、第16次豆記者団、26人の一員として参加しました。第16次は県内各地から集まった中学生20人、小学生6人というメンバーです。宮古からは、平良中、北中、福嶺中、佐良浜中各校から2人の計8人の参加でした。

夏休みの1ヶ月間をかけて、北海道(釧路・根室・函館)⇒東京⇒長野(軽井沢)⇒三重⇒愛知県という各地を訪ね、その間、5家庭で民泊(ホームステイ)を行いました。今とは違ってまだ沖縄への偏見があったとは思いますが、民泊した家庭はみな親切に受け入れてくれました。

夏でもストーブが必要な北海道。北方領土問題。阿寒湖のマリモ。沖縄の親戚のおじさんと んーんー(そっくり)だったアイヌ人。函館の小中学生との交歓で行った楽しいオリエンテーリング。函館山から見下ろした夜景。夜行列車で通過した青函トンネル。国会議事堂の食堂で食べたカレーライス。ヤクルトスワローズの選手へのインタビュー。軽井沢の緑豊かな空気。白樺並木。大変緊張した平成天皇・皇后両陛下となられた皇太子・皇太子妃の前での挨拶。伊勢神宮。鳥羽水族館。海女さん。・・・

その体験の ぴてぃーつ ぴてぃーつぅ(一つ一つを)移動中、また、宿泊先で記事にし、自分で名前をつけた個人個人の新聞にまとめて行きました。みんな必死になって取組み、行程中、4回ほど新聞を発行しました。

また、訪問先では、当番制で挨拶をしていたため、次の訪問先の挨拶担当となると、前の日は、挨拶内容もまとめなければなりません。舞台を務めるメンバーはなお大変です。具志頭中から参加した4人は「汗水節」を、若狭小から参加した3人は「鳩間節」を、また、空手の演舞の披露も行く先々でおこないました。最後には、全員で「てぃんさぐぬ花」を歌ったのですが、宮古のメンバーは だいばん(大きな)声で参加しました。

各地で沖縄を紹介する豆「記者」としては、本土各地での貴重な体験とともに故郷・沖縄を強く意識することとなりました。

30年経った今でも当時覚えた「汗水節」(作詞:仲本稔 作曲:宮良長包)の歌詞を口ずさむことができます。その頃にはわからなかった歌詞の意味が理解できるようになりました。

汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ
〈汗水流し働く人の〉
心嬉しさや 他所ぬ知ゆみ 
〈その心の嬉しさは 働かない者は知ることがない〉
エイヤサーサー 他所の知ゆみ
(囃子)しゅらーよー しゅらーよー しゅらー  働かな

それから15年後の平成4年に豆記者交歓会30周年記念式典に参加するため私が函館での民泊の際お世話になった「杉本先生」が来沖されました。

杉本先生は、ご自身も奥様・息子さん、娘さんと歯科医をされているご一家で、昭和52年に函館豆記者交歓会を発足させて以来ずっと函館交歓会の会長をされていました。毎年沖縄からの豆記者を函館に受け入れ、16年間で700人の沖縄の子どもたちとの交流があったということでした。沖縄に到着された日に私は娘(当時4歳)とともに杉本先生と夕食をとり15年前の懐かしい話に花を咲かせました。

杉本先生は函館へ帰る時の様子を豆記者交歓会の30周年記念誌に以下のように綴っています。

「(略)・・その時、ふと私にはこの沖縄の空の下に700人の子どもたちがいるのだと思うと満たされた幸福感でいっぱいになりました。別れを惜しみながら手を振り合ってさようならと・・・別れはやっぱり辛いやと思いながら機上の人となった。知らず知らずのうちに口元から聞こえて来るのは「今日の日はさようなら」の歌でした。「いつまでも絶えることなく友達でいよう。明日の日を夢見て希望の道を」とね」

そしてその8年後の平成12年、小学6年生になった娘は第39次の豆記者となり、北海道、函館の地を訪れ、杉本先生との再会となりました。入院中の奥様も車椅子で会いに来てくれたということです。その翌年、杉本先生はお亡くなりになりました。

今回、記憶の隅にしまわれた30年前の夏の思い出を引き出す作業をした中で、やまかさの(多くの)人との出会いと別れの重なりの中で成り立っている今の自分に改めて気づかされました。

あれから1度も会わずじまいの豆記者の仲間の近況がひょんな所から入ってきたりします。面白いものですね。みんな大人になったんだよね。

鳳作忌

ビートルズ世代のサラリーマン(平良下里出身)

9月17日は鳳作忌でした。

篠原鳳作は鹿児島市に生まれ、無季俳句の旗手として優れた才能を発揮した俳人で、東京大学法学部政治学科を卒業後、昭和6年に旧制宮古中学校(現県立宮古高校)に赴任し、昭和9年までの3年半、公民、英語を教えていました。

私が鳳作の事を知ったのは、中学生の頃だったと思う。国語の授業で先生が黒板に

“しんしんと肺碧きまで海のたび”

と大書し、「これは、昔宮古で教鞭を執っていた先生の有名な俳句です」と紹介してくれた。まだ、俳句など理解できない ぱんだる(はな垂れ)中学生の私でしたが、この句には、なんだか海の匂いを胸一杯吸い込んだような爽快感を覚えたのを今でも思い出す。

その有名な句は石碑に刻まれ、平良の南西にあるカママ嶺公園に建っている。ここからは、海に向かって広がる ぴさら(平良)の町並みが手に取るように見える。そして、きらきら輝く青い海の向こうには下地島、伊良部島が浮かびまさに「しんしんと肺碧きまで」の風景が見渡せる。この句は、那覇から故郷の鹿児島に帰省する際、客船から眺めた海を詠んだものらしいが、カママ嶺からのロケーションはこの句に相応しい。

その後、鳳作の他の句にも触れるようになったのはつい2〜3年前の事である。鳳作は、宮古で教鞭を執っていた3年半といいう短い時間の中で、南国宮古を題材にした俳句を沢山詠んでいる。鳳作のみずみずしい感性で紡ぎ出された句を幾つか紹介してみよう。

ちなみに、「鳳作」という俳号は、昭和9年、母校鹿児島県立第二中学校に転任してからのもので、旧制宮古中学校に赴任していた昭和6年より同9年10月迄の俳号は「雲彦」である。その雲彦時代に詠まれた句である。

1.蛇皮線に夜やり日やりのはだか哉
2.くり舟の上の逢瀬は月のまへ
3.颱風や守宮(ヤモリ)は常の壁を守り
4.くり舟を軒端に吊りて島の冬
5.踊衆に今宵もきびの花月夜
6.月光の重たからずや長き髪

いずれも、鳳作の目に映った“蛇皮線”、“くり舟”、“颱風”、“守宮”、“きび”等、南国風物が鮮やかに詠われている。

特に6番目の句などは、月明かりのもと琉球乙女のつややかな黒髪が照り映える様を「月光のおもたからずや」といういいまわしで表現してしまう鳳作の巧みさに感心する。それと、重たからずの「からず」が方言の「からず(髪)」と重なり2重韻を踏んでいるように響く楽しさがあって気に入っている。(勿論、これは鳳作の意図しないもので、私の勝手な宮古方言的 がんまり(悪戯)解釈なので誤解の無いように。)

鳳作は故郷鹿児島に帰った僅か2年後、昭和11年9月17日、心臓麻痺でその生涯を閉じている。30歳という若さである。鳳作の奔放な無季俳句が本領を発揮するのはこれからという矢先の死はあまりにも早すぎるし、あまりにも残念である。

何故、東大卒の鳳作が、宮古島までやって来たのだろうか。当時は極端な就職難で、東大出の学士さんでも就職にあぶれた時代だったようで、鳳作も東大卒業後就職先が無く、しばらくは職に就かずぶらぶらしていた。

『鳳作の季節』前田霧人/著(沖積舎)に、生い立ちから亡くなるまでのことが詳しく出ていて、宮古中学校で教鞭を執るいきさつも書かれているので、以下抜粋を紹介する。

「俳句で新しい出発を果たした雲彦に、更に大いなる出発が近づいていた。この頃ようやく彼の就職先が決まったのである。それは、鹿児島から南に一千キロの海を隔てた沖縄県宮古島にある県立宮古中学校の教職であった。当時、同校は創立四年目、雲彦は優秀な教師の人材を集めていた山城盛貞校長事務取扱から熱烈な説得を受ける。
当時、沖縄の那覇では兄の国彬が歯科医を開業していた。昭和五年三月の「泉」投句作品に「首里城」など三句があるから、雲彦も那覇までは何度か訪れていたことだろう。宮古島はその那覇からも更に海上三百キロを隔てた遥かな所である。そして、大学を卒業して帰郷してから丸二年、鹿児島で俳句修行も順調に進み、家には最愛の母と療病中の父があった。しかし、健康を回復した今、雲彦は何時までもぶらぶらしている訳には行かなかった。彼は宮古島行きを決心する。」
  
お兄さんの国彬は、その後、宮古の港の近くで歯科医を開業したようです。

鳳作の石碑がカママ嶺に建った当時、父と那覇から遊びに来ていた叔母と3人で見に行った事がある。父と叔母が石碑の前で「いい しんしーどぅやーたーどー(良い先生だったよ)」と話していたのを記憶している。

私の父は大正6年生まれなので、さんみん(計算)すると、丁度、鳳作が赴任した時、宮古中学校に入学している事になる。つまり、教え子に当たる。父から鳳作についていろんな話を聞いておけば良かったなと悔やまれてならない。父が亡くなった今となっては、叶わぬ夢である。

鳳作は公民、英語の他にも美術も教えていたようで、生徒からも慕われていたようである。

ネットで調べてみると、宮古では平成16年に「俳人篠原鳳作の世界展」(主催・平良市立図書館、主管・鳳作の会)が開催され、、会場には「旧制宮古中学校時代の鳳作」「父・篠原鳳作について」「カママ嶺公園に鳳作碑の建つまで」などのコーナーが設けられ、大勢の市民が訪れたようすが宮古毎日新聞(ネット版)で紹介されている。できれば、これらの資料を常設展示してもらいたいものである。

南国沖縄も鳳作忌を過ぎる頃から、少しずつ秋らしくなってくる。そして、寒露の頃になると天高くサシバが舞う季節がやって来る。鳳作も秋空に舞うそんなサシバの群に感動したのだろう。次のようなサシバの句を残している。

“天津日に舞いよどみいる鷹の群”

短い人生を光のように駆け抜けた夭折の詩人、篠原鳳作。実は彼の石碑はもう一基有る。それは、鹿児島県指宿市山川町長崎鼻に建っている。かって、客船のデッキから眺めた大海原を、今は対峙するそれぞれの石碑からどんな想いで見つめているのだろうか。

※篠原鳳作(しのはら・ほうさく)
明治39年(1906)生まれ。本名国堅。鹿児島県鹿児島市出身。
昭和4年(1029)に東京大学法学部卒業。昭和6年(1931)
県立宮古中学校(現在の宮古高校)に教諭として赴任。
昭和9年(1934)鹿児島第二中学校に転任。
昭和11年(1936)に死去。享年30歳。
宮古に教師として赴任中、無季俳句への理論研究と実作に情熱を傾けた。カママ嶺に公園に建つ句碑の「しんしんと肺碧きまで海の旅」は、代表作の一句。客船で鹿児島県へ向かう途中に見た紺碧色の海を詠んだものという。鳳作は優れた数々の俳句を発表。
今では「新興俳句の旗手」「夭折の詩人」として全国的に有名。
※「2004年11月25日付け宮古毎日新聞記事より転載」

編集後記

松谷初美(下地町高千穂出身)

9月の台風というと、5年前の9月11日の「マエミー」を思い出しますね。今年は、5年前と曜日の並びがちょうど ゆぬぐー(同じ)なのだそうです。(Motocaさんに教えてもらいました)。まーんてぃ、9月11日は、木曜日どやたず(だった)。あして、5年前のきょう18日もくま・かま発行日(vol.60)でした。あの時は、掲示板で激励の書き込みなどがたくさんあり、みなさんの声をメルマガでも掲載しました。

今回の台風は、5年前のような大きさではないですが、まだまだ油断できないですね。本土のほうに向かっているようなので、気をつけましょう。

さて、vol.180、のーしがやたがらやー?

Motocaさんの5年前にお父さんから聞いた『き゜むかぎ』の話し、いいですね。お父さんを想うMotocaさんの気持ちも伝わってきました。忘れられない心に残っている言葉ってありますよね。印象深かった『き゜むかぎ』について、Motocaさんは、ご自身のブログ「あっがいたんでぃ!」で文法解説をするそうです。ぜひ、こちらのほうもごらんくださいね。

まさか、「ICU3!」を掲載することがあるとは、うむいやつんみーったん(思ってもみなかった!)。神童の原稿「ICU3!」は、「おしらせ」の件名で「ただいま入院中・・・」と始まるメールに添付されてきた。ICUの文字を見て、びっくり!ぷとぅぷとぅ(ドキドキ)。電話の声は元気そうで、今はこんなふうに笑い話として掲載できるからいいけど(ホントに人を笑わせる、うむっし文章だから困ったもんだ?よね)、命あっての物種。家族はもちろん、神童ファンのためにも、これで「ICU」は終了!

Rさんから「豆記者」の話を聞いたときに、中学生のころ、「豆記者」にあこがれていた私は、ぜひ、書いてほしいとお願いをしました。「豆記者」が始まった理由や工程など、初めて知ることが多く、へぇーと思ったり、中学生のRさんの目にいろいろなことが新鮮に映っているのが伝わってきました。「豆記者」のことを始めて知る人にとっても興味深い話だったのではないでしょうか。杉本先生との出会いも印象深いものでしたね。

恥ずかしながら篠原鳳作のこと なんず(あまり)知らなかったのですが、昨日17日が、亡くなった日「鳳作忌」だったんですね。ビートルズ世代のサラリーマンさんのお父さんは、教え子だったとは。B.サラさんが鳳作に惹かれる理由が、句の紹介とともに伝わってきました。「鳳作忌」を読んで篠原鳳作に関心を持たれた方も多いのではないでしょうか?常設展、ぜひやってほしいです。

あなたの感想もぜひ、お寄せくださいね〜。
投稿もいつでも受付中です。まちうんどー(お待ちしています)

次号は、10月2日(木)の予定です。どうぞお楽しみに〜。
季節の変わり目です。お体ご自愛くださいね。
次号でお会いしましょう〜。あつかー、またいら!

メールマガジン
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
  • くまから・かまから vol. 179
  • くまから・かまから vol. 181

この記事を書いた人

松谷初美のアバター 松谷初美

関連記事

  • くまから・かまから vol.447
    2019年12月19日
  • くまから・かまから vol.446
    2019年12月5日
  • くまから・かまから vol.445
    2019年11月21日
  • くまから・かまから vol. 444
    2019年11月7日
  • くまから・かまから vo.443
    2019年10月17日
  • くまから・かまから vol.442
    2019年10月3日
  • くまから・かまから vol.441
    2019年9月19日
  • くまから・かまから vol.440
    2019年9月5日
アーカイブ
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月
  • 2018年4月
  • 2018年2月
  • 2018年1月
  • 2017年12月
  • 2017年11月
  • 2017年10月
  • 2017年9月
  • 2017年8月
  • 2017年7月
  • 2017年6月
  • 2017年5月
  • 2017年4月
  • 2017年3月
  • 2017年2月
  • 2017年1月
  • 2016年12月
  • 2016年11月
  • 2016年10月
  • 2016年9月
  • 2016年8月
  • 2016年7月
  • 2016年6月
  • 2016年5月
  • 2016年4月
  • 2016年3月
  • 2016年2月
  • 2016年1月
  • 2015年12月
  • 2015年11月
  • 2015年10月
  • 2015年9月
  • 2015年8月
  • 2015年7月
  • 2015年6月
  • 2015年5月
  • 2015年4月
  • 2015年3月
  • 2015年2月
  • 2015年1月
  • 2014年12月
  • 2014年11月
  • 2014年10月
  • 2014年9月
  • 2014年8月
  • 2014年7月
  • 2014年6月
  • 2014年5月
  • 2014年4月
  • 2014年3月
  • 2014年2月
  • 2014年1月
  • 2013年12月
  • 2013年11月
  • 2013年10月
  • 2013年9月
  • 2013年8月
  • 2013年7月
  • 2013年6月
  • 2013年5月
  • 2013年4月
  • 2013年3月
  • 2013年2月
  • 2013年1月
  • 2012年12月
  • 2012年11月
  • 2012年10月
  • 2012年9月
  • 2012年8月
  • 2012年7月
  • 2012年6月
  • 2012年5月
  • 2012年4月
  • 2012年3月
  • 2012年2月
  • 2012年1月
  • 2011年12月
  • 2011年11月
  • 2011年10月
  • 2011年9月
  • 2011年8月
  • 2011年7月
  • 2011年6月
  • 2011年5月
  • 2011年4月
  • 2011年3月
  • 2011年2月
  • 2011年1月
  • 2010年12月
  • 2010年11月
  • 2010年10月
  • 2010年9月
  • 2010年8月
  • 2010年7月
  • 2010年6月
  • 2010年5月
  • 2010年4月
  • 2010年3月
  • 2010年2月
  • 2010年1月
  • 2009年12月
  • 2009年11月
  • 2009年10月
  • 2009年9月
  • 2009年8月
  • 2009年7月
  • 2009年6月
  • 2009年5月
  • 2009年4月
  • 2009年3月
  • 2009年2月
  • 2009年1月
  • 2008年12月
  • 2008年11月
  • 2008年10月
  • 2008年9月
  • 2008年8月
  • 2008年7月
  • 2008年6月
  • 2008年5月
  • 2008年4月
  • 2008年3月
  • 2008年2月
  • 2008年1月
  • 2007年12月
  • 2007年11月
  • 2007年10月
  • 2007年9月
  • 2007年8月
  • 2007年7月
  • 2007年6月
  • 2007年5月
  • 2007年4月
  • 2007年3月
  • 2007年2月
  • 2007年1月
  • 2006年12月
  • 2006年11月
  • 2006年10月
  • 2006年9月
  • 2006年8月
  • 2006年7月
  • 2006年6月
  • 2006年5月
  • 2006年4月
  • 2006年3月
  • 2006年2月
  • 2006年1月
  • 2005年12月
  • 2005年11月
  • 2005年10月
  • 2005年9月
  • 2005年8月
  • 2005年7月
  • 2005年6月
  • 2005年5月
  • 2005年4月
  • 2005年3月
  • 2005年2月
  • 2005年1月
  • 2004年12月
  • 2004年11月
  • 2004年10月
  • 2004年9月
  • 2004年8月
  • 2004年7月
  • 2004年6月
  • 2004年5月
  • 2004年4月
  • 2004年3月
  • 2004年2月
  • 2004年1月
  • 2003年12月
  • 2003年11月
  • 2003年10月
  • 2003年9月
  • 2003年8月
  • 2003年7月
  • 2003年6月
  • 2003年5月
  • 2003年4月
  • 2003年3月
  • 2003年2月
  • 2003年1月
  • 2002年12月
  • 2002年11月
  • 2002年10月
  • 2002年9月
  • 2002年8月
  • 2002年7月
  • 2002年6月
  • 2002年5月
  • 2002年4月
  • 2002年3月
  • 2002年2月
  • 2002年1月
  • 2001年12月
  • 2001年11月
  • 2001年10月
  • 2001年9月
  • 2001年8月
  • 2001年7月
  • 2001年6月
  • 2001年5月
  • 2001年4月
  1. ホーム
  2. メールマガジン
  3. くまから・かまから vol. 180

© 宮古島方言マガジン「くまから・かまから」

  • Presented by 宮古島.JP
  • Cooperate with 宮古島文化協会
  • Powerd by ONEsta
目次