こんにちは〜。10月になりましたね。 ぱだーぱだうらまずなー(お元気ですかー)?
今回も、いろいろな話がだう(たくさん)ありますよ!
秋のひと時、くま・かまでお楽しみください〜。
まゆがま(猫ちゃん)日記 パート7『ハナVSチーター』の巻
あば本舗(下地出身)
Vol.178でご紹介した、ふなーりまゆがま(迷い猫ちゃん)とハナは、あれからどうなったのか?
くまかまの読者は、気になって仕方がないはずよ??と一人で思い込みつつ話の続きである。
まず名前を決めた。毛並みと野性的な雰囲気が似ているのでチーターと名づけた。
で、身体をよ〜く観察して、おごぇ!と驚いた。みんぬ なかーっふぉーっふぅ(耳の中は真っ黒) ちびぬん からぁ いみーぬ むすんぎ むぬぬ いでぃき゜す(お尻の穴からは、小さな虫のようなものが出てきた)
どぅんな っさんぬ とぅなかぬ ましゃーん たばりうす゜(身体には、シラミの卵がたくさんくっついている)
あがーぃ!ぱごーむぬゆ!(うわぁ!気持ち悪〜い!)
そんなわけで、土曜日は動物のお医者さん通いと相なった。三日に一度は耳掃除と薬を塗布し、シラミとノミ退治のため、毎日全身の毛に薬を塗らなければならない。だいず世話が焼ける まゆがま(猫ちゃん)だ。
そうこうしている間に一ヶ月、二ヶ月と経ち、チーターはあっという間に大きくなった。神経質で気が弱いハナと違って、き゜むじゅー まゆがま(気が強い猫ちゃん)である。
ハナが九年間一度も破らなかった障子をバリバリ破るし、網戸も平気で穴を開ける。もちろん自分の通り道だ。
こんな有り様で、家の中で二匹が鉢合わせたりすると、にらみ合い追いかけあいが始まる。
最初は余裕を見せていたハナもチーターに追い回されるようになってしまった。人間で言えば60歳前後のハナなのに産まれて半年そこらのチーターを怖がる。しかも、エサを食べなくなってしまったのである。
こりゃ一大事だ。二階に逃げ込んでなかなか降りてこないので、やむを得ず二階にハナのエサ場を設けた。
これまで家の中でのびのびと過ごし、家族の愛情を独り占めしていたハナは、あにゃー いみまゆがま(たかが、仔猫)にビクビクするようになった。
それにいつもチーターが傍にいるためか?ハナは、あんな(母)が呼びかけてもなかなか側に寄ろうとしない。あんな(母)は、二匹に挟まれ、さび゜すきなり(寂しげに)ため息をついて言う。
つんだらーすっさ うぷぎがまぬ まゆがまん わーりまぁーり んじょーな むぬ いら(可哀相に、こんな小さな猫に追い掛け回されて、情けないねぇ)のーがすぅでぃ びゃーいら まーんてぃ〜(どうしようかなぁー、ホントに)
耳ダニ、ノミ、シラミ、あげくの果てはお腹に回虫までいた、ふなーりまゆがま(迷い猫ちゃん)。あれこれ世話しているうちに居ついてしまった。
しかし、我が家にはすでに長年家族同様に暮らしてきたハナがいる。仲良くなれない以上、何とかしなければならない。チーターには、年に一度は必要というワクチンも打ってもらった。あとは不妊手術(チーターはメス)を施したら本気で貰い手を探さなくては・・・。
だけど、あたらっさーしている(可愛がっている)あんな(母)の落胆を思うとどうしていいか分らなくなる。
マジで、しがりて(悩んで)いる私だ。トホ。
冴子おばあ が ぱなす(話)〜与那覇冴子さん〜
松谷初美(下地町高千穂出身)
「さえこおばあのよもやまばなし」♪ニノヨイサッサイ・・・軽快なリズムに乗って始まる、宮古テレビの人気番組「冴子おばあのよもやま話」(毎週土曜日午後8時〜8時15分放送 再放送:日曜日午前8時30分〜45分)に登場しているのが、冴子おばあこと与那覇冴子さんだ。
2006年7月に始まった方言によるこの番組は、今年7月に100回目を迎え、お茶の間ですっかりおなじみだ。私はこの番組を宮古テレビのインターネット配信サイト「みゃ〜くてれび」で見ている。
冴子おばあは、かんぷうを結い、着物姿で、終始みゃーくふつで話し、宮古の話題を紹介したり、カナダ人のグレッグさんと ゆがいな(冗談)をしながらの方言講座をしている。
とても楽しい番組で、宮古の出来事を知り、あんちぬくとぬど あーたーなー(そんなことがあったんだねー)と思ったり、グレッグさんとの珍妙なやり取りに笑ったり、冴子おばあのキャラクターに魅了され、方言の味をしみじみと感じ、しあわせ〜な気分になっている。
冴子おばあは、多良間の話のときは多良間ふつで、佐良浜の話の時は、佐良浜ふつでと、その時々の話題に応じて方言も変えたりしている。女性でこんなにいろいろな島の言葉を上手に話す人がいるとは。
この8月に帰省した折、お会いする機会があって、ちゃーがま ぬんがつな(お茶を飲みながら)話を伺った。
会ってみると、おごえー、ばかーばか!(若〜い!)テレビでは、60代ぐらいに見えるが(失礼)、昭和32年生まれの51歳だそう。
冴子さんは多良間村水納島で生まれ、4歳のころ、家族で宮古の高野に引っ越してきた。18歳の頃、内地に出たが、21歳で帰郷。バス会社に勤め、バスガイドになる。その後、西辺の人と結婚し子ども4人に恵まれた。嫁ぎ先はサトウキビ農家で、子育てをしながら農業にも精を出す。(多良間や西辺と関係があるのでいろいろな方言が話せるとの ばーだね。やらばどさいが(だからかー))
結婚後しばらくして、またバス会社(八千代バス)でバスガイドをするようになり、現在も続いている。観光バスは、観光客ばかりではなく、地元の人が同窓会で使ったり、還暦のお祝いや老人会などで利用することも多いという。
今から3〜4年前に高校の同窓会でバスを利用したお客さんから「貢布織女(こうふおりめ)の歌」(作:花城武彦)というミュージカルに出てくれないかとお願いされる。冴子さんの役はおばあの出で立ちで「森の精霊」だった。(「貢布織女の歌」は、2005年に宮古初の創作ミュージカルとしてマティダ市民劇場で上演され大好評を得た)
その芝居を見ていたのが宮古テレビの砂川健次さん。砂川さんは、冴子さん演じる「森の精霊」に釘付けとなる。「小柄なんだけど、大きく見えるほど迫力があって、とても印象的だったんだよね」。砂川さんは、以前から宮古方言の番組を作りたいと思っていて、そのとき「この人だ」と思ったのだそう。
早速、砂川さんは冴子さんに連絡を取る。しかし、時はちょうどキビの収穫時期。バスガイドの仕事も忙しくなる時だった(なんと、宮古で観光バスの利用が多いのは冬なんだそう。意外な感じがしたが、この時期会社の慰安旅行などが多いとのこと)忙しいのを理由に冴子さんは、この話を断った。
しかし、他の人では考えらなかった砂川さんは、年が明けて6月。キビも、バスガイドの仕事もひと段落した頃だろうと、再度連絡をする。話を断ったつもりになっていた冴子さんは、びっくりしたものの、砂川さんの熱心さに負けて引き受けることにした。
しかし、テレビに出てしゃべるのは初めてのこと。「カメラの前に座ったらもう ぷとぅぷとぅとして(ドキドキして)さー、しゃべれなかったよー。今でも、まだやっぱり、緊張するよ」
原稿・台本は砂川さんが書き、この話題はどこそこの方言で、とお願いされる。冴子さんは「全部の方言が分かるわけじゃないから、いろいろな人に電話したり聞いたりして、教えてもらいながらやっているよ。みゃーくふつは、一つの言葉でたくさんの意味がある。語彙が少なくて苦労することもあるけど、少ない言葉でたくさんの表現をするからすごいねーとも思うさ」
「子どもの頃から周りはみんな方言を使っていたから、方言は自然に身についたと思う。でも、あんまり大切とか思ったことはなかったよ。この間、93歳になる あんな(母)が『べーたが みんなふつまい んめーねーんど ないぐまた げーらいゆ(私たちの水納島の言葉ももうなくなってしまうのかねー)』としみじみ話しているのを聞いて、私たちの先祖は、この言葉で生活をし、考えてきたのに、なくなってしまうと思ったら、本当に淋しくなって、残念という気持ちが湧いてきたよ。小さい島だからきっと早くに方言がなくなってしまうさね。(水納島には現在、一家族しか住んでいないとのこと)そのことを考えたら、大事にしていかなくてはいけないねーと思ったさ」
「冴子おばあのよもやま話」の番組が始まってから、知らない人からも声をかけられるようになった。(今回、話を聞いているときも、女性の人から「冴子おばあ、テレビ見てますよー、頑張ってくださいねー」と声をかけられていた。)冴子さんは、「今までみたーいに まゆをぱがして まーれんさ(眉を書かずにまわれないさ)」と明るく笑う。
「でも、この番組を見て、方言の面白さや、大切さを分かってもらえたら、ういがど んにゃ ぷからすてぃ おばあや うむうさい(それが、うれしいこととおばあは思うよ)」
方言に対して熱い想いを語る冴子さん。バスガイドの仕事をしつつ、週一回の番組収録に臨み、これからも私たちにいろいろなものを届けてくれることでしょう。
私は毎回楽しみにネットを開く。
さぁ、今度は のーしぬ ぱなすがらやー(どんな話でしょうね)。
「みゃ〜くてれび」HP
http://media.miyako-ma.jp/mtv/
ぴるます いでゃい(不思議な出会い)
菜の花(伊良部町仲地出身)
8月のある日曜日。私の勤務する老人保健施設で納涼祭が行われた。今年のテーマは「琉球の風」。
納涼祭前日は、担当の職員が遅くまで飾り付けをした。私は誘導係なんだけど、今年のテーマはなんといっても「琉球の風」。会場のレイアウトについて宮古人として黙ってなどおられん!「琉球の風」を吹かすためには、どうしても必要なものがあるからさ〜!とばかりに飾り付けにもこだわった。
まず施設の玄関に入り、真っ先に目につくところに琉球古典舞踊の紅型衣装を着た うつなーびじん(沖縄美人)の大きなポスターを貼った。ポスターの下には、サブタイトルの「エコ祭り」を意識して、ペットボトルで作った だいばん(大きな)花瓶に施設の庭から切ってきたカンナの花をドド〜ンと投げいれて活けた。赤や黄色のカンナの花は南国情緒たっぷりで、ポスターの あぱらぎねぇねぇ(綺麗なお姉さん)がますます あぱらぎ(綺麗)に見える。イヒ〜〜。じょうとう!
大きなガラス張りの玄関戸には、伊良部島の佐和田の浜の風景ポスターを貼った。高さ2メートル以上もあるガラスの壁には、黄色い紅型の布を二本垂らし、その下にはデイケアの方や職員が廃品を利用して作った手作りのお神輿を据えた。
会場の至るところには、沖縄の歴史や文化、花などがスタッフ手書きで紹介されていた。納涼祭に色を添えるため、知人や沖縄コンベンションビューローに連絡して、美ら海水族館のポスター、芸能のポスター、マンゴーのポスターを集めて貼った。見ているだけで宮古から遠く離れている所に今、自分がいるとうことを忘れてしまうくらいだった。
メイン会場に入る前の壁には、葦に琉球絣や麻織の着物3枚を広げて展示した。このうちの一枚は透けるような布地で、光の当たり具合で黒にも見え、群青色にも見え、更にはライトブルーにも見えるという みーやーみーん(見たこともないような)かぎーかぎぬ(きれいな)つん(着物)だった。
今年88歳になる うぷあんな(伯母さん)から貰ってきたもので、うぷあんなも知人のおばぁから貰ったという。かるーく70年以上は経っているよーとのことだった。
この着物に袖を通したとき、あまりの軽さに「着ている」という感覚を感じなかった!着物というよりこれはまず羽衣か?!おごえ〜!(うわ〜!)と驚いた!涼しくて光沢があり光の加減でいろんな色に見えるこの着物は、私の内の何か〜に(自分でもうまくいえない何か)触れる感じがして、気になる存在となっていた。
だからこの着物はえこひいきして一番目に付くところに展示することにした。遠目にも、海を思わせる着物の色や、琉球独特の織柄は鮮やかですぐ目に留まった。
夜遅く会場の準備が整った。出来具合をチェックして帰るとき、あの着物の前に立った。「遠い伊良部から内地まで旅をしてきて、たくさんの人に見てもらえるんだよ。よかったね。」なぜか着物にそう話しかけていた。そう言いながら、着物が織られてから70年以上も経っているということ事体がすでに歴史だし、私が手にしたことで文化の継承なわけだからね。と、わけわからんことを口にする自分に苦笑。
納涼祭当日ったら、なんと、なんと!!もう書ききれんくらいの大盛況だった。ソーミンブットゥル(焼きそうめん)やサタパンビン(サーターアンダギーのことを宮古ではそう言う)はあっという間に完売!焼きそばもあったのに、なぜかソーミンブットゥルは絶大な人気だった!
食べてみて、歯のない老人、または歯が出来上がってない やらび(幼児)には、ソーミン(ソーメン)は柔らかくて、間違って たにく(塊)で飲み込んでも危なくない素材だからか〜と納得!アガイ、ちがう、ちがう。おいしいからさー!!
やまっさ(たくさん)の人で会場は がふ〜(満杯)としていて、どの顔も笑顔で楽しそう。見ている私も幸せ〜な気持ち。サンシン弾いて沖縄の唄を紹介できたことも嬉しかった。
唄を聴いて泣き出したおばぁ、その泣き顔を見てもらい泣きしている娘さん、麻痺して動かない手で懸命に手拍子をしようとするおじぃ、普段は無表情であさっての方向を見ているのに、顔を上げて唄っている職員の方をみているおばぁ・・・サンシン弾きながら、私の心はぱんぱんに膨れていった。演奏する私の気持ちと、聞いてくれる人たちの気持ちとが共鳴しあう喜びみたいなものを初めて体験した瞬間だった。
ポスターは狙い通り、盛り上げ効果バツグンだった。溜息をつきながら「綺麗な海ね〜」とか「行ってみたいわね〜」と話す声を聞いて、そうでしょ、そうでしょ!一度と言わず何度も行きなさいよ〜!とニヤニヤ。(かなりしまりのない顔だったはず)
そしてあの着物の周りには、新旧女性の群れができては解散し、また人群れができるということが繰り返されていた。手で触ったり、じっと見たり、素材を確認したりと、興味を持たれていることがわかった。なんだか誇らしくさえ思えた。
納涼祭も無事に終わり着物を片付けるとき、洗うべきかどうするべきか迷った。クリーニング屋に持って行ったら、縫い糸が ふとぅてぃて(腐って)いるので、保障ができないので預かれません、と簡単に断られた。
家の近くの呉服専門店に相談したら、洗い張りという技法だか何だかで、一度着物をバラバラにして洗い、再度縫い直すことを勧められた。2〜3か月の預かりで、費用は・・・かなり高価。70年も経っている着物だし〜、古着だし〜、いいや、自分で洗ってしまおう!ってことで、なんの迷いもなくジャブジャブと洗った!!
ナフタリンの かざ(匂い)もとれ、さっぱりー!・・・としたのは私の気持ちだけで、哀れ着物は光沢を失い、光の加減でいろんな色に変身できる技を失ってしまった!そういえば、洗ったとき絵の具のような青い色が・・・あれは琉球藍の色だったかも・・・。
あ〜!もったいない!そう思いながらも、この時点ではまだ自分のしでかした ぷりむぬしわざ(おバカな仕業)に気付かない。
9月にサンシン教室の発表会があり、それにこの着物を着れたらいいな〜と思いきや、着物の丈の短さに断念。那覇にいる姉に相談し、既製の琉球絣柄の着物を送ってもらい一件落着。
発表会の前日、沖縄から応援に来て下さった琉球舞踊の先生に着付けの仕方を習いに行った。姉が送ってくれた着物と、例のあの着物を まずが〜(だめもと)と持っていった。
舞踊の先生は例の着物を見るなり、一瞬凝視してから「これどうしたの」と口にした。「伯母から貰ったもので、伯母も貰ったらしく70年くらい前のものらしいです」と答えると、「こんなんじゃなく、まえは虹色に光っていたんじゃない?」と。 おごえ〜!(うわ〜)なんでわかるかさー。
光沢が消えたいきさつを話すと、舞踊の先生と同伴していた方たちは「アリヒャ〜!」と、どよめき、甲高い声・・・。(へ?洗っちゃだめだったの?一生もんって・・・そんなに価値のあるものだったの?混ざりのない麻織りって?今はもう織れないって・・・そんなこといったって・・・もう遅い〜〜)はい!全ては後の祭り。いや祭りの後だ・・・。
発表会当日は、姉が送ってくれた着物とあの着物で臨むことにした。帯を締めず腰ひもに着物を押し込むだけの「ウシンチー」という琉球独特の着物の着方は、おチビの私には丈の短い着物でも十分よくて、むしろ引きずることがなくてじょうとう!
布を織った人に思いを馳せ、初めてこの着物に袖を通した人の感動に思いを馳せ、そして私がその着物を受け継いで着ることに不思議な縁を感じないではいられない。
「ライトに輝く光沢は褪せてしまったけど、んなみかーや(これからは)大事にしますから!」遠い伊良部からやってきた一枚の着物に、袖を通せることに感謝をして舞台に立った。
さまざまな思いが巡る中、来月の新里教室での受講内容は ヲ゛ー(boと発音・苧麻の繊維のこと)績み(うみと発音)。
ヲ゛ームー(麻績み)とは、植物の苧麻から、髪の毛ほどの細かさの織り糸を績んでいくこと (参考資料『宮古古諺音義』新里博著)
これはいったい なんとのばーか(どういうことか)?!
ボーンタ!
神童(平良市島尻出身)
実はボーンタ取り壊しの内実を知っている。というか、関係者だった。
今を去ること平成マイナス2年晩秋。サシバも渡りを終え、島に秋風が吹きすさび北よりの冷たい季節風の吹く頃。野原岳頂上はミゾレ交じりの氷雨が降っていた。というか、フロントガラスに付着した水滴がちょっと氷りっぽかったりするんだ、まじで!
野原岳頂上に鎮座ましますボーンタの調査を会社が受注してきた。調査名は国防の機密に関わることなので明確に記すことはできない。・・・嘘だ。忘れたんだな。
要はこの進駐軍が拵えたレーダーの土台である建物が将来に渡ってどのくらいの耐久度を保持しているのか?の調査だ。レーダーの土台建造物が相当に傷んでいれば早急に取り壊し新品のレーダーを設置しよう!という日本最南端の基地の思惑なのであったんだな。
レーダーが2基というのは理由があって、現在のようにハイテクな時代になると航空レーダーなるものは1基でその機能を発揮する。核家族の時代だ。1基で事足りる。もしかしたらお釣りが来るかも知れない!では、何故に日本最南端の基地野原岳のレーダーは2基なのか?
1基だと寂しいからだ!人間一人では生きていけない。レーダーだって独りぼっちは嫌なんだよ。とマッカーサー元帥が考えたんだ!はず。
違うか!1基はダミーなのだ。お馬鹿な侵略者が攻撃してきたときに、はて?どっちを攻撃すればいいんだべか?と迷うように影武者ならぬダミーレーダーを設置してるのだ。2基のうち、1基の中身はがらんどう。隊員達の憩いの場なのだ!
これも違うね!
現在、宮古諸島には幾つかの航空レーダーが存在する。
まず、宮古空港の航空管制を司るレーダー。島尻集落の南方、野田山林に設置されている。これは宮古空港を発着する航空機の安全を確保するために国土交通省大阪航空局所管のレーダー。風防というかレーダーの周囲をシールドで保護している。
次に同じく航空管制レーダー。これは下地島訓練飛行場の脇に設置されている。訓練機の位置を確認するためのレーダー。このレーダーにはシールドがない。このレーダーでお解りのように長方形の腕状になったレーダーが回転している。
モアイ像を思い浮かべてほしい。モアイをレーダーに例えるならモアイが360度ぐるぐる回っていると思いねえ!して、下地島のそれはそのモアイがランダムに首を上下に振りながら回転している。
その次が宮古島地方気象台が保有する雨雲を確認するレーダー。平良の測候所にある。以上、3個のレーダーは国土交通省所管となっている。
野原岳のレーダーは旧進駐軍、現在は航空自衛隊所管であり防衛省の施設。旧式のレーダーは2基を持って一人前。片や水平方向の距離を確認するレーダー。此方、上下方向の高さを確認するレーダー。この2基で台湾を含む国境の領空を警戒監視している。
なので、旧式のモアイがぐるぐる回るだけのレーダーでなく首を上下に振りながら回転する現在のレーダーに取り替えるために1基が不要となったのである。
解りにくいかな。じゃーあね!
宮古で肯定的な返事をするときは首を縦に振るさーね。あーい!って。して伊良部方面では首が伸び上がるように上に振って返事するさーね。んーでぃ!って。だから、モアイがあーい!と、んーでぃ!を繰り返しながらぐるぐる回っていると思ってくれ!
建造物の調査は、簡易なレントゲン器具で鉄筋の位置を割り出し、コンクリート構造物の躯体をコア抜きし、コア抜きしたコンクリート供試体の破壊試験を行い強度を測定し今後の耐用年数を推定する調査である。コンクリートの耐久性調査は大きく2種類である。
まず、アルカリ性であるコンクリートが中性化しているかを確認する試験は現場サイドで試用液を塗布することにより目視確認出来る。
続くコンクリートの強度試験は建造物から直接コンクリートを取り出し破壊試験によりコンクリート強度を測定するものである。これは破壊試験機(主に圧縮強度)を備えた技術センターでの試験を要する。簡単に言えばどのくらいの力で壊れるかを試験するんだな。
コンクリート強度測定に用いるコア(直径10cm長さ20cm)は現場で採取する。しかし、使用中のレーダーであるためコンピュータ機材が密集する建物の中で作業を行う必要がある。従って粉塵舞う現場は静電気を発生しない特殊なシートで2m四方を覆い作業員を一坪ほどの空間に閉じこめて行う。防塵マスクはもちろんゴーグルを着用しないことには視界もままならない。窒息と粉塵飛散防止の観点から排気ブロアを運転しながらの作業となる。コア抜きする箇所は、コンクリートの柱、梁及びスラブ床版である。
スラブ床版はレーダーを30分間停波して行う。30分の間にシートによる作業箇所の密閉とコア抜きマシンの固定を行いコアを2個以上採取しなければならない。床版のコア採取は綿密な作業計画により、無事に終えることができた。
問題はレーダー下部の監視室の梁コア抜きで発生した。
当時は仕掛かり現場が7カ所もあり、宮古島全域に及ぶという過酷な労働条件で勤務を強いられていた。結局、作業員に徹底した指示を行い、次の現場に向かうのが常である。
ざっと書いてみるかな。まず、旧電電公社の交換局舎の雑工事。この工事場所が素晴らしい。池間、狩俣、大神、上野、城辺、伊良部、多良間の交換局舎全部だ。ふう!
さらに旧電電公社の鏡原送信所の直径10mのパラボラアンテナ撤去工事。自走式150トンクレーンでパラボラアンテナを吊り上げてガスバーナーで取り付けボルトをぶった切るというスリル満点の工事だ。ボルトが切れてアンテナの荷重がかかった途端、クレーンのアウトリガーが浮いたからね。
アンテナ自体は10屯も無いような代物なんだけど、いかんせん、工事費を安くするために細かくばらすなんて悠長なことを言っていられず、ボルトをガスバーナーで切りとばす方法を選択したんだな。普通の油圧ジャッキ内蔵の伸縮式のクレーンだと、ボルトが切れてアンテナの荷重がクレーンにかかった場合、転倒若しくはブームが折れる可能性がある。なので仕方なくトラスで組まれたタワークレーンを使用した。兎に角クレーンがでかいので現場に入れるのに1時間以上かかってしまった。
次に宮古島東急リゾートのレストランの雨漏り補修及び廊下のカーペットの補修並びにビーチスタッフの詰め所増築工事。東急だけで現場が3カ所。担当者はそれぞれ違うもののこちとら一人だ。
ここでは鉄筋屋が仕事が暇なのでと言うトンでもない理由から前面の砂浜で地引き網を曳いて中庭で網から魚を外し引き続き宴会を行うという傍若無人さを披露してくれた。支配人に呼び出されて大目玉。ちっくしょう知り合いってだけで。
この現場では、喉の渇きに堪えきれず不覚にもレストラン入り口脇に設置された散水栓を捻って水を飲んでしまった。うっぎゃーーー!浄化槽の処理水なのに。バケツに溜めると茶色に濁ってるんだぜ!しってぃ ぴっちゃがま のーがらかざまいどぅ っしゅうさいが。っししゃなさぬ!(して、少ーし 何かの匂いがしているさいが。汚ねー!)
極めつけは某航空局の事務所の増築工事。これは設計込みという忙しさだ。1年のうち休んだのは正月休みの3日間だけという働き者の奴隷もまっつぁおな労働条件。どうだ、参ったか!
昼前に現場に戻った時点でことの事態を把握できた。コンピュータ機材のエアクリーナが屋外に出され盛大に埃を払っている状況。作業員が当方の指示を無視してシートを解放。途端に室内にコンクリート粉塵が立ちこめコンピュータ機材をストップさせていた。
死んでも開けるんじゃねえぞ!って言っておいたのによ、伊良皆さん!お陰で基地関係者と会社の上司から大目玉だぜ!まあね、その次の仕事で電気屋が送信所の地下ケーブルをぶった切って日本全体の防空機能を停止させた事故に比べれば、なんてことないんだけどね!電気屋、翌日防衛本庁に呼び出されて東京にすっ飛んで行ったもんな。つんだらーさ!
と、かような経緯から将来に渡る使用期限は明かせないものの、首振りモアイを取り付けるのに十分な強度を有することが確認されてレーダーが1基に集約されたのであった。めでたしめでたし!しょんしょん。
あ、レーダーの位置からは晴れた日に多良間はおろか遠く石垣島が見えたりします!
そりから・・。当時、野原の航空自衛隊基地に飛んでくる航空機は、定期便として毎週木曜日にCH−47バートル輸送機が飛んでくる。実は、このバートル輸送機、陸上自衛隊と書かれている。航空自衛隊なのによ。バートル輸送機はタンデムローター式(同じ大きさのプロペラが前後に1個ずつ)タイプで、航空自衛隊のヘリは、もうちょびっと大きい。なので野原のヘリポートに着陸出来ず、宮古空港を離発着する。
ヘリの離発着は間抜けど。滑走路すれすれまで降下して滑走路のラインに沿ってエプロンに侵入する。で、所定の駐機場に駐車?する。
いいか。ヘリコプタはな、プロペラを使用した垂直離着陸機なんだ。滑走路要らんだろ!
(ぼーんた番外編:鉄塔)
思い起こすに。煎餅のような宮古島で高いところと言えば野原岳。ほかに、高さを実感できる場所はムイガーの断崖とか伊良部白鳥崎の断崖。あと七又の潮汲み場のバルコニーかな。これらの地点の眺めはすこぶる宜しい。ぱぎぃぬぅ びごーびごーてぃ なりってぃ かなまいぬ ぴさふみゅーんだかに(足の裏がこそばゆくなるような感覚をもって脳味噌が絶景に痺れている感じだ)
宮古島で高いところと言えば、通信施設の鉄塔や上水の高置タンク、灯台などがある。人工構造物ではね。この人工構造物からの眺めもいいねえ。
まず野原岳のぼーんた。本編の防空警戒レーダー。ここのシールド外周部庇からの眺めはなかなか。危うく仕事を忘れそうになる。
次に同じく自衛隊基地の送信所パラボラアンテナを支える鉄塔。高校時代にペンキ塗りのアルバイトで登っている。高所恐怖症のお馬鹿な先輩が低い部分から塗るもんだからペンキ塗り立ての部分で足を滑らせ死にそうな目にあったことがある。足を滑らせて落下。なんとか途中で引っ掛かったという、だから何?という感じの事故。
戦前の尋常小学校の本なら、「○○は死んでもラッパを放しませんでした!」となるはずなんだけど、俺は左手に持ったバケツを放り投げて右手の刷毛も捨てて、何とか助かったんだ。ぺんきんつきゃあ ばけつんつきゃあ ぱきがまんつきゃあ んぬつぬどぅ あたらかかあ!いいばあ 戦争ぬ 終わりってぃから んまりゅーき。平和てぃぬ むなー あたらすむぬやーば!・・・・自衛隊ぬ うばき?(ペンキよりバケツなんかより、ましてや刷毛ごときより命が大事。良かったよ、戦後生まれで。平和って尊いなあ。・・・自衛隊のお陰か?)
アンテナと言えば鏡原にあった沖縄県管理のパラボラアンテナを支える鉄塔も登っている。本編の解体撤去工事の際ね。
それから保良の東平安名崎灯台。昔は灯台の日に無料で開放していた。今は、てめえの足で登って、しかも金を払う。太平洋だか東シナ海だか知らないけどパノラマは絶景だ。残念ながら池間島の灯台は登ってない。大神島の頂上からの眺めもいいねえ。宮古島が大陸に見えるからね。
昔からある鉄塔で未踏破なのはNHKのテレビ塔とNTT東仲局舎の鉄塔。是非とも登ってみたいものである。あ、NTTの鉄塔で言えば伊良部島と与那国島の鉄塔は登ってるな。伊良部島は仕事で。
伊良部島の鉄塔は、鉄塔工事屋が上からボルトを落として危ないので注意の為に天辺まで登ってる。ここの工事は局舎内部の鉄部塗装。下処理のシーラーが思いっきりシンナーで、おまけに局舎は無窓!頭が痛くなるね。シンナーにやられて。
与那国島の鉄塔は無断だ!過去の記事にあるので説明はしない!
宮古方言研究会(通称:新里教室)のおしらせ
菜の花(伊良部町仲地出身)
新里教室は毎月第三日曜日に、『宮古古諺音義』を元に対応関係や文法、音声学などを学習しています。
10月は「麻績み」に関した諺ですが、新里先生は古い文献を見つけたとのこと。「麻績み」は、宮古のおばぁたちの生活の一部だったとも聞きます。私も小さい頃、ブーウン(麻績み)を手伝った記憶があります。
10月は宮古の歴史「麻績み」と、古い貴重な文献を対応させての講義となります。
日 時 | 2008年10月19日 日曜日 13時〜16時頃まで(途中休憩あり) |
場 所 | 渋谷リフレッシュ氷川( 03−5466−7700) 2階 会議室(申込代表:渋谷書言大学 |
会 費 | 500円(資料代・お茶代込) |
申 込 | 菜の花(nanohana617@hotmail.com) 松谷初美(kumakama@mbp.nifty.com) |
あなたも宮古方言の中に在る「上代和語・言葉の化石発掘」を一緒にしてみませんか?!
多くの方の参加をお待ちしています。
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
ここ2〜3日の東京はもう冬かー?と思うくらい ぴしーぴしでしたが、きょうはすっきり秋晴れとなりそうです。台風15号は温帯低気圧に変わったみたいですね。あなたのところは、どんな天気ですかー?
さて、今回のくま・かまはライターそれぞれ、その人ならでは!という話しでお楽しみいただけたと思います。
あば本舗さんちの2匹のまゆがまは、どうなるべきー?と思っていましたが、なかなか距離は縮まらないようですね。猫にもいろいろな性格があるんですね。対照的な2匹の様子とどっちもかわいいお母さんの気持ち、分かりますねー。あば本舗さんの しがり(悩み)が深くならないうちに、なんとか解決できるといいですね。
冴子おばあこと与那覇冴子さんは、とても気さくな方でいろいろな話に花が咲き、楽しく取材ができました。冴子さん、忙しい中ありがとうございました。また、宮古テレビの砂川健次さんにも大変お世話になりました。たんでぃがーたんでぃ〜。「冴子おばあのよもやま話」これからも楽しみにしています。まだの方はぜひ!
菜の花の話しは、うぷあんなからもらった着物を軸に最近あった納涼祭や発表会のことまでイキイキと書かれていましたね。着物がもたらす ぴるます縁・・・伝わってきました。海を渡り、やまかさ(たくさん)の人の目に触れられることになった着物。洗われてしまっても、菜の花の手元に届いたことをきっと喜んでいることでしょう。
「ボーンタ!」は、vol.179で紹介したアモイさんの「ボーンタのある風景」を読んで書いてくれたものです。違う角度からのボーンタの話し、興味深いものでしたね。しかし、神童は頭が良いんだか、馬と鹿なんだかよく分からないけど、仕事ができる人だなーとつくづく思う。一級建築士でもあります。与那国の鉄塔の話しは、vol.117(2006年2月2日発行)にあります。合わせてどうぞ!
新里教室は、9月がお休みでしたので、2ヶ月ぶりです。古い文献も見つかったということですので、どんな話しが聞けるか楽しみですね。ぜひ皆さんも参加してくださいね。メールお待ちしています!
今号の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(お待ちしています)投稿もいつでも受付中〜。
次号は、10月16日(木)の予定です。お楽しみに〜。
あつかー、また うぬときゃん いら(それではまたその時にね)どちらさまもお元気で〜。