♪ジングルベル、ジングルベル〜
1週間後はクリスマス、2週間後はお正月。
今年、しみゃー(最後)のくま・かま、お届けでーす。
ぷからす(うれしい)ニュース
宮国優子(平良下里出身)
『宮古史伝』が復刊された。地元の大先輩の佐渡山安公さんや佐渡山将二さんが中心になった大きなお仕事だ。
宮古史を初めて通史として体系化した慶世村恒任さんの本なのである。私は、復刻版の『宮古史伝』(1976年)を持っていますが、ちょいと難しくて、困っておりました。それが、再度復刊なのです。うむやすむぬ。
だってこの本はもう絶版なのである。私も拝み倒して頂いてきたものなのだ。あ、もしかしたら借りたものかもしれない。記憶がさだかじゃない。んぎ、ぷりむぬ!今、見たら名前が書いてあった。だいず返さんと!ごめん、田名(同級生です)!!
この新書には旧字から新字体になる。誤字も訂正されているという。うーん、そそるなぁ。なんだか、ここまで書いておいたら、やっぱりチラ見してみたくありませんか。
私の復刻版(いや、違う、田名の)でよければチラチラ書いておきます。
第一編が天太の代以前。
いわゆる古意角(こいつの)姑依玉(こいたま)の話から始まる。そして、次は争乱時代、豊見親の代、大親の代、明治大正と続くめくるめくる宮古絵巻なのだ。
アジの話や葬儀、ハジチ(ぴーつき゜)に関しても記載がある。
アジとは一種の魔除けのようなもの。娘が産まれたとき、母が作ってくれた小さなアクセサリーのようなものだ。刃物を新生児のそばに置いておく風習もあるが、それに近いと思う。
私が驚いたのは「一種に信仰に立脚したもの。貞淑なる婦女の表層として社会的価値を生じ、一種の装飾ともなった」という記述。神に合掌する手が白は不吉と思われたと言う。十三歳には盛大な祭典とともに針を入れ始めるだそうだ。だいず神秘的ゆー。
私はいわゆるネイルが好きで、自分の頭の中では現代のハジチだと思っている。いつも働いてくれる手に心を込める。夢や希望も。
そして、ひいおばあのあの青くなってしまったハジチを思い出す。カマドおばぁ、私の大好きだったひいおばぁ。女に産まれたことを喜び讃える模様。すべての象徴は、あの手に甲に彩られていた。
ちなみに長女が産まれたとき、名前の候補は「カマド」でした。夫に説得されて、ひららになりました。今思い返しても、やっぱりカマドでも良かったかも。
いろいろとまだまだ書きたいことはあるのだけど、いや、たぶん、購入してマイ本にした方が絶対良い!私はいつもペラペラめくっているが、新たな発見があるのだ。寝れない夜に読むと、ますます目が冴える。
この本をまたこの平成の世に送り出してくれた先輩方に心から感謝します。今度宮古に帰ったら佐渡山さんや仲宗根先生に一番に会いにいこうと思うほどです。相手はひくかもしれないけど、パッションを表現します。いらんといわれても。
あがい、私たちもさーとがんばらんと!
年末に宮古に向かって、またも熱く燃えるのであった・・・。
ちゃんちゃん。
『記憶の中の風景』
ビートルズ世代のサラリーマン(平良下里出身)
先日、1冊の写真集を拝見する機会に恵まれた。それは、豊島貞夫さんの写真集『記憶の中の風景』である。豊島さんは宮古島上野生まれで、この写真集には1960−1975年の沖縄の風景が紹介されている。
1960年代の10年間といえば、私の9歳から19歳に当たる。小学校3年生からの10年間になるわけだから、私が宮古で暮らしたまさにその時代に撮られた風景である。写真を見ていると色んな記憶が蘇ってきた。
「先島航路の便」という那覇空港の写真がある。ずんぐりした胴体、特徴ある傾斜を保って滑走路に佇んでいるのは、CAT機だ。
あの当時、宮古飛行場はまだ原っぱに毛が生えたような状態で、コンクリートの四角い建物がぽつんと建っているだけだった。滑走路と出迎えの人々を遮るようなものは何もなく、誰でも機体に近づけた。離陸のため滑走路に向かうときには、機体の後ろにいる見送りの人々に容赦なく小石混じりの砂塵がたたきつけられた。飛行場の入り口から建物までの道にはモクマオウ並木があり、その木陰にはタクシーや出迎えの車が並んでいた。
ジュラルミン色のCAT機を見ると、何故だか宮古で興行されたプロレスの事を思い出した。
力道山一行が宮古でプロレスを行うということで、当時はもう だいず(大変)な騒ぎだった。会場は昔の女子校跡(宮古球場)。広場にリングを設営し仮設スタンドを組み周囲をベニヤ板で覆っただけのにわかプロレス会場に、力道山一行が現れた時のみゃーくぴとの熱気と興奮は凄かった。
一行の中には、カールホーンという外人レスラーが予定されていた。今でいう小錦並の巨体の持ち主でいわゆるヒール(悪役レスラー)で、当時の やらび(子供)には絶大な人気があった。そのカールホーンは那覇空港まで来るにはきたが、その巨体故に宮古行きのCAT機の搭乗口を入ることが出来ず、結局、宮古行きを断念したという噂がまことしやかに流れた。
それからというもの、飛行場でCAT機の搭乗口を見ると、あの空間に巨体が挟まって身動きがとれない哀れなカールホーンを想像していたものだ。
もう1枚、記憶を呼び覚ます写真がある。
1962年の旧平良市の様子を写した「湯上がり」という写真だ。午後の日が傾く中を銭湯から帰る湯上がりの女性達の姿を写したものだ。
下駄の音までもが響いてきそうな旧平良市の路地裏を往く、洗面器を抱え かなます゜(頭)に湯上がりのタオルを巻いた女性の後ろ姿。電柱に「フォーシスターズ」というポスターが貼られている。
「フォーシスターズ」は4人姉妹の民謡(歌謡?)グループで、そのかわいらしい容姿と歌声は、沖縄のアイドル的存在であった。スピード(古いな)など足下にも及ばないほど、沖縄本島はもちろん、ミャークやヤイマのすまずま(島々)まで絶大な人気があった。
確か、小学5年生の頃宮古公演があったから、ポスターはその時のものに違いない。4人姉妹の末っ子は、ゆぬぐー(同じ)ぐらいの年齢だった。こともあろうに、我々の仲間のYがその末っ子と文通しているという。
俄に信じがたい話に呆然とする我々に、琉映館の楽屋で特別に会うことになっていると得意げに自慢していたY。何故かその後の顛末は記憶にない。今考えてみるとどうも眉唾もののような気がするが、今度Yに会ったら事の真偽を確かめたいと思っている。
その他にも、当時の記憶を呼び起こしてくれそうな写真がたくさんある。
1960年代の10年間は、今思えば本土復帰で沖縄が大きく変わろうとする前の古き佳き時代だったような気がする。少年期から青年期までの多感な時期を過ごした年代である。
1971年 那覇港の様子を写した写真がある。集団就職や進学のため内地へ旅立つ人とそれを見送る人々を写した写真である。桟橋に溢れんばかりの人々、デッキには希望に溢れた若者達がテープを手にして別れを惜しんでいる。私も同じ頃、同じようにして内地へと旅立った。あの頃の昂揚した気分を思い出し胸が熱くなってしまった。
一枚の写真から次々と当時の時代が蘇る。そこには懐かしい友達がいて、ヒーローがいて、アイドルがいて懐かしいミャークがあった。
一枚の写真を通して過去に遡ることは、単なる懐古趣味ではないと思う。長い年月を経て過去の自分に会いに行くことはとても意義のあることのように思えるからだ。
そして、なによりもこの1冊の写真集を通して、私は自分の原点に還ることが出来たように思う。たんでぃーがーたんでぃ。
形見
R(平良出身)
靴に入ったお菓子とまりつき用のゴムまりが私が やらびぱだ(小さかった頃)のクリスマスプレゼントでした。サンタクロースを見るため遅くまで起きようと頑張ったのですが、一度もサンタクロースの姿は見ることはできませんでした。
それから40年余りの時間が経って、私は、母の入院していたホスピスの病室の壁に20個の靴に入ったお菓子を飾りつけました。それはおばあーであるかあちゃんから んまが(孫)20人分のためのクリスマスプレゼントでした。
おとーの一周忌を間もなく迎えようとしていたかあちゃんは、「背骨に癌がある」と診断され、子どもたちが過ごす沖縄本島に宮古から移ってきました。癌に冒され、ボロボロになった背骨に金具を添える手術をした後、ホスピスでの療養生活を送りました。
ベッドで動けない体になりながらも んまが(孫)や小さな曾孫たちが来ると、何かあげられる物はないかと気にかけます。成人した んまが(孫)が、ボーナスをもらったといってかあちゃんに小遣いを持ってきた時もかあちゃんは、千円札に換えてもらい、んまが(孫)や小さな曾孫たちに配りました。
そんな様子を見ていて、私から母へのその年のクリスマスプレゼントは、んまがや曾孫たち用の靴に入ったお菓子にし、それを病室の壁に1個1個、飾りつけたというわけです。
看護師の皆さんもビックリするくらい賑やかな壁になりました。んまがや曾孫たちが来ると壁から外し、母からのクリスマスプレゼントとして配り、喜ばれました。
母は、11ヶ月の時間をホスピスで過ごし、天国へ逝きました。
母が死んだ後、私は、たうきゃー(一人)の時間があるとしばらく泣き続けました。そんな私を見て、小学2年生だった娘が、どうして泣いているのか尋ねてきました。
「おじいちゃんの看病が終わって、おばあちゃんはこれから自由に過ごせると思っていたはずなのに何もできないまま死んでしまったのがかわいそうだ」と応えると娘は「そんなことないよ。おばあちゃんは、病院の看護師さんたちを喜ばせてあげていたでしょう。おばあちゃんはちゃんと人の役にたっていたよ。」と言うのです。
思い出しました。その日の母の担当ではない看護師さんや介護士さんたちが、出勤するとまず母に会うために母の病室を訪ねて来るのです。皆さん、母の笑顔に癒されるといって。
娘の言葉に、寝たきりで何ひとつ自由がきかない体になり、下の世話までやってもらっていた母が、人の役にたっていたことに気づかされました。
おとーが亡くなった時は、おとーのことを知らなさ過ぎることに後悔を覚え、ずっと繋がっていたいとの思いで、お正月におとーが着ていた着物を形見としてもらいました。その着物から いみっちゃぬ(小さな)かばんを作り、かあちゃんの棺に入れました。
かあちゃんの形見は、私にかあちゃんの偉大さを教えてくれ、私を支えてくれる娘たちです。そして自分自身が存在していることが、おとーとかあちゃんと繋がっていることなのだと感じます。
娘は、かあちゃんから最後にもらった千円札をおばあちゃんの形見だといって使わずにサイフにしまったままにしています。
まもなく今年もクリスマスがやってきます。
靴に入ったお菓子で飾られた病室の壁の風景と、かあちゃんの笑顔を思い出しています。
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
今年も残すところ、んな ぴっちゃ(もう少し)となりましたね。やること、やらなければいけないことが だう(たくさん)あるはずなのに、なぜか、別のことに熱中してしまう。いつもの年末です。
さて、今年 しみゃー(最後)の、くま・かまは、のーしがやたーがら?
優子さんの「ぷからす(うれしい)ニュース」は、まーんてぃ 朗報ですね。私も1976年の復刻版を持っていますが、昔の漢字に阻まれて読みきれていませんでした。ぜひゲットしなくては!
ビートルズ世代のサラリーマン(B.サラ)さんも、本の話題でした。写真の中身とともにBサラさんの“記憶の中の風景”も鮮やかに切り取られていましたね。ゆぬぐーの(同じ)風景を記憶している方もいたのではないでしょうか。
Rさんの「形見」の話は、病院での様子がありありと浮かんできて、ジーンときました。時に親は、子どもの言葉に気づかされるということがありますね。Rさんの、悲しいけれど素敵なクリスマスの思い出をおすそ分けしたもらったような、ぬふーぬふの(温かい)気持ちになりました。
あなたは、どんな感想を持ちましたかー?
ぜひ、あなたの感想もお寄せくださいね。
この一年も「くま・かま」をご愛読いただきまして、まーんてぃ たんでぃがーたんでぃでした。
今年は、1月3日の「みゃーくふつ一行詩・川柳の特集」から始まり、エッセイ、旬の話題、民謡講座、お店紹介など、6月には初めて父の日特集をしました。それから、おしらせコーナーもいろいろな方が活用して下さって、ぷからすむぬでした。
そして、掲示板やメールでの感想は、何よりの励みになりました!時間をかけて、ていねいな感想を書いてくださることに、感謝の気持ちでいっぱいです。どうぞ、また、来年もよろしくお願いしますね。
くま・かまは、ライター自身のごく身近な話題、興味のあること、感じたこと、やらびぱだ(子どものころ)のことなどを宮古のことに限らず書いています。
一般の人が書く話の面白さやユニークさ、その人それぞれが持つ、個性的な文章を今年も味わっていただけたかと思います。
来年もまたバラエティ豊かにお送りできたらいいなと思っています。最近は、投稿作品が いきゃらふ(少なく)なっているので、淋しい限り。おしゃべりする感覚でぜひ、お気軽にお寄せくださいね。
次号は1月1日(木)の予定です。(2004年に続く、元旦の発行どー!)正月らしい ぱなす(話)を予定していますよ。どうぞお楽しみに!では、どちら様も ぞう そうがつぅ(良い年を)お迎えくださいね〜。
あつかー、来年いら!