くまから・かまから vol. 227

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 こんにちは〜。
 9月になりましたね〜。 あすが、この暑さは、のーしぬばー(どういうこと)? 暑さは熱いので吹き飛ばそう!
 今回は、あの甲子園のぱなすからぱずみっとー!

甲子園秘話

あすなろ(平良・東仲出身)

 YSイレブンは、奄美大島空港を乗り継いで鹿児島空港を目指します。鹿児島から陸路で甲子園へ。この長旅、疲れは全く無く「修学旅行みたいに楽しかったサー」と笑いながら話して下さった池村さん。
 
 宮古島から興南高校の選手としてはじめて甲子園に出場した彼だ。クイチャーマンさんの親友でもある。彼はショートで8番でした。
 
 時は、1966年(昭和41年)第48回大会。その2年後が、かの有名な「興南旋風」の第50回大会。我喜屋監督は、池村さんの2年後輩だそうです。
 
 当時、高野連(副?)会長 の佐伯さんが「遠いところをご苦労さん」と、わざわざ、駅まで迎えに来て下さったとの話にビックリ。その頃の、沖縄球児達は「お客さん的存在だった」と池村さん。甲子園の秘話です。
 
 「沖縄の土は、赤土で硬いさーね。それに比べて甲子園の土は、砂の上でプレーしている感じだったさー。ぴんなぎ(変な)感じだったよー。それと、甲子園球場の観客席は段々と上にあがっているから、目線が観客席とダブって、プレーしにくかったさー。当時も沖縄より甲子園が暑かったよー。甲子園の砂は隠して持ってきたさー」と池村さん。
 
 延長の末、「6対5」の逆転で惜敗した竜ケ崎一校(茨城)戦から43年。首里高校が初出場してから半世紀。春夏連覇の快挙を成し遂げた興南ナイン。その場に、クイチャーマンさんと立ち会えた喜びは格別です。
 
 掲示板(8月22日)にも書きましたが、歴史的な瞬間に立ち会いたくて向かった甲子園。10余年ぶりです。蔦の生い茂った昔の面影はありませんでした。春夏連覇の偉業もさることながら、決勝戦が終わった閉会式の前段に思わぬ事が起こりました。
 
 何処からともなく始まったウエーブが甲子園をおおいます。そこには、勝者も敗者もありません。東海大相模の応援団にもウエーブが繋がります。2〜3周で終わると思いきや、「閉会式を始めます」のアナウンスもかき消すほどの凄いエネルギー。6回目でようやく終わりました。「この感動をありがとう!」その思いが球場を一つにしたんだと思います。
 
 それまで我慢していた涙線が緩んでしまい、涙は流れるままにしておきました。閉会式が終わったあの猛暑の甲子園に、秋風を思わせる風が一瞬吹き抜けました。
 
 高校球児達には、野球ができる幸せを感じとって欲しい。心からそう思います。「平和」であるからこそ、この感動が共有出来るのだと思います。「平和」である事の尊さを、さらに実感する貴重な1日でした。
 
 もう1度。興南ナイン感動をありがとう!

認知症

大和の宮古人(城辺・長南出身)

 ばがふっふゃぬ、どぅすの あんなんかい どぅ いだあいたーゆ(息子の同級生のお母さんと数年ぶりにお会いした)。久し振りに井戸端ならぬ路端会議と相成った。
 
 ご主人様が一人っ子であった事から、あんなとぅ、まーつき せいかつしっしうーゆ。(お姑さんと同居している)
 
 近所でも有名な仲良し親子で、んざゃんかいまい まーつきどぅ まーりゅうたー。(何処行くのもいつも一緒だった)。うぬ、あんながど、認知症かいなりうーっつぁ。(そのお姑さんが認知症になったようである)
 
 どぅすぬ、だりううんだかに ぱなし、うーたー(彼女が疲れたように呟いた)
 
 「病気って凄いね、人格を変えてしまったよ。あんなに優しかった義母なのに今は悪態ばかりついている。ブツブツ喋っているから、“なにか云った?”と聞くと“何でもないよ!!”と怒鳴り返し“調子に乗りやがってこのアマは”“その内に痛い思いをさせてやる”と呟く。最初は義母から出た言葉だとは信じられなかった。長年私に対して不満を持って生きてきたのかな?義母の正直な気持ちが病気となって現れてきているのかな?とか考えるとやるせない気持ちで一杯になる」という。
 
 「毎日人には云えない苦労があるよ。自分の気持ちに余裕があるときは何を云われても優しかった時の義母を思い出して聞き流がせるけど、余裕がないときは、怒りを感じてしまう。でも落ち着くと怒りを感じた自分に腹がたって涙が出てくる」という。
 
 息子である彼女のご主人が最後まで自宅で看てあげたいとの希望から施設にも入れずに自宅で介護しているらしいが、24時間面倒を看て家事もこなさなければいけない。
 
 夜間の徘徊がないからその点、安心のようだが心配で熟睡も出来ない。たまにはグッスリ眠りたいときもあるが、熟睡している間に何かあったらと思うと薬も飲めないという。
 
 この状態が長く続けば介護している方が倒れてしまうだろう。彼女が壊れる前にどうにかして欲しいと思うが・・・。
 
 勤めていたクリニックの4・5軒隣に認知症だけが入所できるグループホームがあった。医療が必要な時には介護師に付き添われて来院するが、気に入らないと叩かれ、蹴飛ばされ、唾を吐き掛けられ、罵詈雑言は日常茶飯事だった。自分の身内に同じ事をされたら腹も立つと思うが、仕事とわりきっているから気にならない。(打算的な言葉に聞こえるかもしれないが私の本音だ)
 
 彼女も一人で抱えこまず他の助けも借りた方が、気持ちもユッタリしてもっと優しい気持ちで向き合える気がする。しかし、どんなに彼女の事が心配でも他人の私では手助けにも限度があり、もどかしさを感じる。
 
 子供の頃、我が家の曾祖母も認知症になり一日中ご飯がまだかと訴えていた。子供の私は曾祖母の病が理解できずに悲しい思いをしたが祖母と母は「死ぬ時はコロッと逝きたい。家族に面倒は掛けたくない」と話していたことからするとやはり大変だったのだろう。祖母は一晩でコロッと逝ってしまった。母はまだ元気だが今でも同じ事を云っている。
 
 あすがー ばんまい ゆーど むぬう ばすきだら(私もよく物忘れをするよ)。いつの頃からか何かを取りに向かっても途中で忘れてしまい、戻って考えることも一度や二度ではない。人の名前も直ぐに出てこない。あれあの人となる。息子の名前を呼ぶ時は甥や姪の名前まで出てくる。その度に認知症かな?と気になる。お医者さんに聞くと、年相応の物忘れだよと簡単に言われるが、本人は真剣に悩んでいる。
 
 んなままい あんちううすが、んなまからぬどぅ、だいず しゅわんどぅなす゜(今でさえこうなのだから将来が心配になる)。息子ひとりしかいない身としては自分の事が出来るうちにコロッと逝きたいと思う。まあ、思い通りに行かないのが世の常ではあるが。
 
 いつーがみまい、とぅすぅばー とぅたっふぁ なゃーんてぃ うむいうゆう(何はともあれ、年は取りたくないと思うこの頃である)

昔話

myklibvo1(平良・下里出身)

 ※このショートストーリーは「第2回沖縄映像コンペティション」の応募用に書きました。琉米文化会館について書かれた資料と、当時働いていた方へのインタビューをもとにしたフィクションです。

 コンペに応募した理由は、この建物の取り壊しがせまっており、戦後から宮古に残る唯一の文化施設を記録したい思いがあったからです。この企画は1次審査を通りましたが2次審査で力及ばず落選となりました。しかし、今回、こうして多くの方の目に触れることが叶いました。ありがとうございます。

 映像化を前提としており、また私が素人なのでのちのち細部をプロの方にご相談しようと思っていたこともあり、稚拙な表現ではありますが、宮古島の図書館により多くの方が関心を持ってくださるきっかけになりましたら嬉しいです。


  「昔話」
 
 白いビニール袋にはタバコとアイスケーキが入っている。男性は近所の商店から帰るところだった。年は八十を超えるこの男性の足取りはしっかりしている。宮古島の日差しは厳しいが、健康を気遣ってなるべく歩くようにしている。
 
 孫がこれから遊びに来るという。いたずら好きのぼうちらでいつも手を焼かされる。おやつを渡せばいくらかおとなしくしてくれるだろうと三十円のアイスケーキをまとめ買いした。
 
 商店街の十字路を渡ろうとして車が来ないか左右を見る。ふと、左手奥に見える建物の壁が目に入った。晴天の青い空によく映える朱色だ。何十年も変わらない見事なコントラスト。そこはかつて戦後に米国が建てた図書館だった。彼の職場だった。
 
 「たしか・・・・」
 
 彼は一週間前のニュースを思い出した。久しぶりに行ってみようか。アイスケーキが溶けるのが気になるが少しくらいかまわないだろう。冷凍庫に入れれば元に戻る。

 前庭では既に雑草が伸び始めていた。人の手が入らなくなった庭というのはなんとも物寂しい。あのときと同じだ。既視感に目を細める。
 
 入り口に目をやると、ドアの前に女の子が立っていた。十歳くらいだろうか。肩にかかるまっすぐな黒い髪、Tシャツとショートパンツから細い手足が伸びる。日焼けのない白い肌。本土から来た子どもだと直感した。

 「お嬢さん、ここの図書館はもうやってないよ」
 
 声をかけると女の子は振り返った。二重まぶたの大きな目が見上げた。
 
 「えー、休みなの?」
 
 がっかりした様子で口をとがらせる。眉がしっかりと太い。沖縄顔だ。
 
 「あんたはー、宮古の子か?」
 
 男性が尋ねると、母親が宮古生まれだという。今は東京に住んでいて、夏休みで遊びに来ていた。遊び友達もいなくて暇を持て余していたところに母親に図書館を勧められた。
 
 「でもここさあ、小さいし、ボロボロだね。うちの近くの図書館のほうが大きくてきれい。なんかびっくりした」

 彼は苦笑いした。確かにこの建物は五十年を迎えようとしていた。閉館した理由も老朽化で安全面が憂慮されたからだ。しかし「小さいしボロボロ」と言われて、少なからず彼の心は傷ついた。人生の大半を過ごし、運命を共にしたかつての愛着のある職場である。袋の中のアイスケーキが気になった。そして彼はよいことを思いついた。
 
 「この図書館はねー、今は小さくてボロボロだけど、できたころは宮古で一番の新しい場所だったんだよ。あんたは時間はあるかー?おじいの話を聞いてみるー?」
 
 差し出されたアイスケーキに女の子は目を輝かせた。

 ここの図書館を作ったのはアメリカなんだよ。日本が戦争に負けて沖縄がアメリカのものになった時代があったわけさあ。知ってる?そうか。
 
 でね、アメリカは沖縄で自分の国の文化を伝えていこうとしたわけ。アメリカでは文化を発信する場所は図書館だから、沖縄でも同じように図書館をつくった。みんなが行きやすいように市街地の一等地に、琉米文化会館という名前でね。
 
 宮古だけじゃないよ。那覇や八重山にもあちこち作られた。はじめは木で作った建物だったけど、アメリカの人は台風を知らんかったかねー。建ってすぐにすっ飛んださあ。いま目の前にあるのはその後に建てられたんだよ。丈夫なコンクリートでできた新しい図書館が生まれた。時代のはしりだった。宮古島で初めての洋式トイレもあった。トイレだーけ、見に来た人もいたさあ。
 
 ここではね、本を置くだけじゃなくて、楽しい催しをたくさんやったよ。ダンスパーティやったり、レコードかけたり、映画の上映とかね。ここだけじゃなくて城辺とか地方にも車ででかけて行って、同じように本を貸したり映画を流したりした。テレビを今みたいにみんなが持ってる時代じゃないからね。仕事が終わったあとにみんなが楽しみに集まってくれた。
 
 そうそう、この庭は今は草ぼうぼうだけど、あの頃は花がいっぱい咲いていた。近所のお花が好きな人たちがボランティアで世話をしてくれてね。そんな具合に地域のひとがいろいろと手伝ってくれた。英会話教室もやってくれる人がいたよ。これはね、図書館を指導していたアメリカ人の方針だったわけ。
 
 「地域にはさまざまな分野の専門家がいるものだ。職員はそういう人をみつけて、先生にして、ほかの人が学べる講座をつくりなさい」
 
 いつも厳しかったなあ。あるとき、朝の話し合いのときにね、女性の職員にこう言ったよ。
 
 「あなたは昨日何人のお知り合いに図書館を話題にしましたか?」
 
 つまりね、図書館はみんなが使ってくれることが大事なんだね。だから普段から「こんな本はいりましたよー」「こんな催しやりますよー」って話題にしなさいよ、ってね。たくさんの人が集まる場所だった。若者もね。
 
 結婚した人はいるかって?ここで出会って?女の子はこういう話が好きだね。どうだろう、うーん。ああ、そうだ、交換手紙をしていたふたりがいたよ。誰もいかないような難しい本ばかりの書棚の裏に隠してね。私は偶然見つけたのだけど、そのままにしておいた。どうなったかねえ、あの二人は。
 
 さて、この図書館、役目を終える時が来た。沖縄を日本に返すことになって、それに合わせて図書館もおしまい。閉館は急に決まって私たちは次の仕事をみつける余裕もない。最後に鍵を閉めたときのことをよーく覚えているよ。いつものようにガチャンと閉めて、手の中の鍵を見た。そういえば、この鍵はどうするのかねー?ってまじまじと。そしたら、役所の人が「やあやあごくろうさん」とやってきて、持っていってしまった。
 
 手紙はどうなったか?ああ、さっきの話か。そうだね、あんたの言う通りだね。もしかしたら届かなかったかもしれないね。そうか、あのときは考えもしなかった。
 
 ここが閉まって、誰も来なくなった。庭も手入れが無いから草がぼうぼうに茂って近所から苦情がくるほどだったよ。ほら、ちょうど今の庭みたいな・・・。
 
 あー、いやいや、ここはあのときのままじゃないんだよ。そのあと国が宮古に土地と建物をタダでかすよーってことになったんだけど条件があってね。「図書館として使うこと」ってね。こうしてまた図書館として復活することになった。そのあと名前が変わったりいろいろあったけれど、もう五十年近くここにある。

 男性は朱い壁を見上げた。木陰に静かな風が吹いた。
 
 「お母さんもここで本を読んだって」
 
 アイスのなくなった棒をくるくる回しながら、女の子は言った。
 
 「でもまた、なくなっちゃったの?図書館」
 
 男性ははっとした。言い忘れていた。
 
 「新しい図書館を作るんだよ。時代に合わせた、今のみんなのための新しい図書館を。あんたの言う通り、小さいし、ボロボロになってしまったからね。」
 
 「それまでお休みかあ・・・・。あ、お母さん」
 
 日傘をさした女性が前庭の入り口に立っていた。「どうもすみません」と恐縮した表情でお辞儀をする。男性も立ち上がり「ああ、いえいえ」と胸のあたりで手を振る。女の子は母親のもとへ駆け出した。
 
 男性はビニール袋に残った、液体のアイスケーキを見て頭をかいた。買い直さないといけない。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 お盆で宮古に帰っていました〜。
 宮古は東京より涼しかったよ〜。風も南風より、にす(北)や あがず(東)から吹いていた時が多かったかな。でも紫外線は強烈。空気も澄んだ感じで、特に海の青さ、空の青さは格別でした。海と砂のコントラストは立ちくらみがしそうなくらい鮮やか。お盆(旧暦7月15日)の月も見事でしたよ。
 
 お盆は、母ちゃんの調子がいまいちなので、兄嫁と買い物、料理とやりました。スーパーには やまかさの買い物客。みんながお盆に向けて一斉に準備をしている光景は、東京では見られないこと。いいなーと思います。西日に照らされ(だいたい宮古の台所は西にあるのだ)、あしゃーだずだず(汗だらだら)となりながら天ぷらをあげたり、しーむぬを作ったり。家族みんなで神棚の準備をし、おじい、おばあを んかい(迎え)、送りました。孫や曾孫に かびじん(紙のお金)を これでもかとやまかさ焼いてもらって、おじい、おばあもぷからすとしていたはず。
 
 25日には、伊良部に帰っていた菜の花も まーつき、恒例「和風レストランたまよせ」でオフ会をしました。ライターや読者の方、そうでない方(笑)も、うがなーり(集まり)、楽しい時間を過ごしました。参加してくださった皆さん、たんでぃがーたんでぃでした!普段は離れていても、こうやって顔を合わせると繋がっているんだなーと実感。すでぃがふー(感謝です)!
 
 興南高校の準決勝、決勝の試合を宮古で見られたことも ぷからすことでした。素晴らしい試合でしたね。お盆もこの話題でもちきりでした。我家は、みんな自分が監督のごとく、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいとうるさい。(笑)でも、そんな中で応援できるしあわせをかみ締めました。
 
 相変わらず時間が足りない宮古での一週間でしたが、んまーんまの(おいしい)地のものを食べ、身も心も満タンになって帰京しました。


 さて、今回のくまかまぁ のーしが やたーがらやー?
 
 甲子園で興南高校の優勝を目の当たりにしたあすなろさんの感激、感動が伝わってきましたね。ウエーブの様子、臨場感がありました。池村さんの甲子園秘話は、へぇーと思うことが多かったですね。こういう先輩たちから繋がった今回の優勝だったんですよね。
 
 大和の宮古人さんの「認知症」の話は、経験したことある人、今まさにそうであるという人いたのではないでしょうか。私も義父のことを思い出しました。当事者でなければ分からないつらさというのありますよね。お友達は大和の宮古人さんに話せただけでも、楽になったことでしょう。
 
 myklibvo1さんの話はシネマパニックの下地さんから聞いていて、ぜひくま・かまで紹介させてくださいとmyklibvo1さんにお願いし、快諾をいただきました。myklibvo1さんの図書館を思う気持ち、琉米文化会館がなくなって、忘れられていってはもったいないという気持ちが短い物語の中にしっかりと刻まれていましたね。今回は残念でしたが、(次点だったということですよ)いつか、映像になってほしいですね。それにしてもこういうことを考える若い人の存在は、頼もしく、ぷからすことやー!myklibvo1さん、ありがとうございました。
 
 あなたの感想もぜひお聞かせくださいね〜。
 
 最近、ドミニカ共和国で読んでいますというメールをもらいました。オゴエー、びっくりですね。アメリカ、カナダ、オーストラリア、たぶんポーランドでも読まれているかな。ワールドワイドなくま・かまです。笑有難いですね。こんなところで読んでますよーのお便りもお待ちしています!
 
 投稿も どんない宜しくお願いします!
 
 きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
 (きょうも最後までお読みいただき、ありがとうございました!)

 次回は、9月16日(木)発行予定です。
 おしらせも やまかさありそうですよ。どうぞお楽しみに!あつかー、またや〜。