こんにちは〜。
ひと雨ごとに秋が深まる感じですね〜。 がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今回もいろいろなぱなすお届けですよ〜。
整体
大和の宮古人(城辺・長南出身)
還暦まい すぎるばどぅ、うままい かままい だみんかいなり、まいにつアガイがアガイてぃ なりきしゅう。(60歳も過ぎるとあっちこっちとガタが来たようで毎日 痛い!痛い!となってくる)
数か月前から脱力感に襲われ左肩甲骨の辺りに のがりゃーぬ たばりゅうんだーかに やんぬ つづきゅうたー(何かが張り付いたような痛みが続いていた。)心臓系ではないかと色々検査もしてみたが異常がない。
憂鬱だが激痛ではないので我慢していたが、無意識のうちに時々顔をしかめていたらしく友達に訳を聞かれた。かくかくしかじかと説明すると、其れなら整体がいいよと相成った。
少しでも楽になるなら神でも仏でも整体でも何でもござれだ。直ぐその場で予約の電話を入れてくれた。次の週、2駅離れた隣の市まで女2人整体ツアーに出かける。
場所は駅から5〜6分の所にあり、小さくて可愛いらしい。中は白で統一されているにも関わらず置物などが女性らしく、温かみのある作りになっている。女性二人に男性一人の整体師が在籍されていて指名が必要だと云う。
医療に長年従事していながら私は痛みに弱い。男性だと痛いような気がして女性を指名した。30代の、体格が私に似ている人だ。(どんな体格かは云いませんご想像にお任せ)
まず、用意されていたトレーナーに着替えてから施術室へ。ところがこの施術台幅が50〜60センチしかない、病院の手術台のように頭や足の部分が上げたり下げたり出来るようになっている。私のこのふくよかな身体は、はみ出るではないかと思いながらうつ伏せになる。よくテレビで観る、トドと同じに見えるだろうな〜との思いが脳裏をかすめる。
整体師の第一声「あなたの身体は冷たいね」と言う。自覚はないが、確かに若い頃から手は冷たいと云われた。冬場に私が患者さんに触ると皆さん悲鳴を上げる。寒いときは白衣の両側のポケットにカイロを入れておき、触る前にはカイロで温めてから触るようにしていた。手が冷たい人は心が温かいらしいよと冗談を飛ばしていたが、暑がりの私は汗タラタラになっていた。
その次に「普段は湯船には浸かりますか?」と聞かれた。私は生粋の宮古人だ。湯船は好きではない。真冬であれシャワー一筋だ。例え、雪が降ろうが震えながらもシャワーだけだ。毎日湯船に浸かって温まってほぐしなさいと云われたが3日坊主になる。
施術が始まって直ぐに気が付いた。女性の力を侮ってはいけないと。男性は元々力が強いから手加減が出来る。しかし力が弱いと信じられている女性は全身に力を込めて施術を施す。硬い体が緊張で益々凍りつく。
整体師の少しでもほぐしてやろうとの親心から此れでもかと頭から爪先まで揉みほぐすが、あがいたんでぃよ〜 痛くて んびゃーいん。(痛くて我慢が出来ない)
うつ伏せだからいいが私の顔は引きつっていたと思う。「痛い時は云ってくださいね」と云われるが、私は痛いとは云えない性格だ。つい「大丈夫です」といってしまう。何で私は嘘つきなのだろうと嘆きながら40分我慢し「終わりです」と云われホッと全身の力が抜けた時が至福のときだ。
最後に強烈な一言。「身体中が硬いが、中でも頭が一番硬いね」。頭が硬い?固い?(「よく主人に強情だねと言われるが」と呟いて、皆に大笑いされてしまった)
頭は硬いものじゃ?と返答に困っていると、硬いものと思い込んでいるが、頭蓋骨は固いが皮膚は柔らかいと云う。
帰路は背中の痛みも忘れて頭をあっちこっち触りながら帰ってきたが、私の頭はボールのようになっていて1ミリも皮膚が動かない。針で突いたらパーンとはじけそうに感じる。
まーんてぃ ばが かなます°や、どうりゃにゃーん くぱむぬさいが。(本当に私の頭はどうしようもなく堅い)
あらん!ばやー かなます°ぬどぅ、うだいゆぅ。(違う!私の頭は太っているのだ)
相変わらず我慢の40分を続けているが、台風の季節が過ぎた最近は痛みも消えたように思う。神経痛だったかね。
皆さんの頭はどうですか?硬いですか?固いですか?柔らかい?
英語がんばります!宣言
Motoca(平良・下里出身)
仕事でも私生活でも英語を使う必要性を全く感じないまま30ン年生きてきた。それに、私は中学の頃から英語が大の苦手科目。見ず知らずの言葉や発音なんて、とんでもない!音読なんて、どぅーぐりーさ!(恥ずかしい!)と思っていた。
高校時代も英語に苦しんだ記憶しかない。とにかく、英単語が覚えられずに んにゃとしていた(苦しんでいた)。どれだけ辞書を引いても紙に書き続けても単語の意味が覚えられない。綴りだけは覚えて、意味は すさいん(分からない)ものばかりが増えていった。右手中指にできた鉛筆ダコは うわり(とても;若者語)痛かったのによ・・・(遠い目)。
大人になってからも、英語ができたらいいはずー(いいのにな)、とたびたび思っては参考書に手を出すのだが、ちょっと勉強しては止め、またちょっと再開しては止め、を繰り返すので、結局私の英語レベルは まいやみーん(すすまない)状態だった。
しかしこの頃、だんだんと英語が必要な状況に陥ってきた。それも、仕事でも私生活でもない。去年vol.210で書いた、あのスピーチクラブの活動で、だ。
実は、うちのクラブの他にも、同様のスピーチクラブが幾つもあり、お互いに交流がある。その中には英語でスピーチをするクラブもある。また、活動の半分を英語、半分を日本語で行う「バイリンガルクラブ」というものもある。かくして、クラブ間をやりとりするメールは英語または日英併記のものが多い。
ちなみにうちのクラブは、ずっと日本語スピーチのみだったのだが、去年あたりから英語にもチャレンジし始めた。英語が堪能なメンバーが数人いるのだ。クラブの活動時間の約4分の1が英語になった。あっがいたんで、んにゃさいが(Oh, my god)!
それでも私はとことん、ぴんぎまーりて(逃げ回って)いた。即興スピーチにはなるべく当てられないように・・・長いスピーチはいちばん後回しにしてもらうように・・・。
そんな私に、最近、一通の英文メールが届いた。秋のスピーチコンテストで知り合った、英語のクラブの人だ。クラブ間の連絡ではなく、私個人あてに英語のメールをもらったのは生まれて初めてだった。日本で働く外国の方で、会った時はずーっと日本語で話してくれていたのだが・・・。
「この間のコンテストではスタッフを引き受けてくれてありがとう!スタッフの仕事のために、あなたがコンテストを楽しめなかったのではと心懸かりです。ところで、いちどあなたのクラブの活動日に伺いたいと思います。次にバイリンガル(日本語/英語両方)で活動する日はいつですか・・・」(多分こうだろう抄訳 by Motoca)
あがい、き゜むかぎ ぴとぅ(なんて優しい人なの)! すぐに、お礼のメールを返さなければ、思った。しかし、こんな親切なメールをいただいておいて、別言語(日本語)で返信するのはなんだか気が引ける。英語で書いてみようと思い立った。
英語で書くと決めたはいいが、前に英語の勉強をやめた時から、だいずながーながの(とても長い)ブランクがある。もともと語彙力がないうえに、比較的得意だった文法まい ばっしど にゃーん ぱず(文法も忘れてしまっているだろう)。あがーい、しまい(しまったなー)、やっぱり勉強しておくんだった。
一晩かけてメールのあらすじを考え、翌日の夜に、文章を作り始めた。インターネット上の辞書や翻訳サービスを使って悩むこと、数時間。中学レベルの英文法さえすっかり忘れてしまっていたりして、どうにもこうにも んびゃーいん(どうしようもない)。また、んにゃと悩んだ(七転八倒した)末、なんとか十数行分の英文を書き上げた。さらにその翌晩にうちのクラブのメンバーにも英文添削してもらい、ようやく返信した。
送ってしまったら、その後にほんわかとした気持ちが残った。やれば書けるさいが(書けるじゃん)、私! それは、ほんの いみーっちゃの(ちいさな)達成感。
それと、高校時代に何度辞書を引いても何度紙に書いても意味が覚えられなかった単語が、今回のメールに使ったことでやっと覚えられた。言葉を覚えるには、やっぱり自分で使ってみて納得するのがいちばんの方法だはずね、と思った。
できなかったし、縁もないと思っていた英語が、向こうから近づいてきた。ぴんぎる(逃げる)のはもうやめて、このチャンスをば わいーと(しっかりと)つかんでおこう・・・。これまでになかった出会いも、もっとできるようになるはず(妄想)。
よし、私、んなまから(今から)また英語の勉強頑張る。して、いつがらーんな(いつかは)英語スピーチだって堂々としてみせるからー!!
今度こそ怠けないように、くま・かまのみなさんに宣言しておきます。
江戸上りと朝敏
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
記録的な猛暑が続いた長い夏がやっと終わり、すだーす(涼しい)秋風が吹き始めた10月のある日、私は深川にある本誓寺というお寺を訪れた。
実はこの本誓寺は、享保3年(1718)江戸上りの一員として江戸を訪れた平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が、滞在中に仏教や源氏物語、伊勢物語、和歌などを学んだ寺だといわれている。
桜の枝が茂る門をくぐると、いみちゃな(小さな)庭をはさんですぐ本堂がある。現在の本堂はコンクリート造りで関東大震災で被災後、再建したものであり、当時の朝敏達が通った面影は無いがどうしても訪れてみたかったのである。
平敷屋朝敏は、1700年首里の金城村に生まれた。彼は幼い頃から神童の誉れ高く、文才に優れ『若草物語』『苔の下』『貧家記』『萬歳』等の文集と組踊り『手水の縁』を書き著した。琉球の和文学者である。
あすが(しかし)、1734年「平敷屋・友寄事件」により34歳の若さで処刑されている。この事件の詳しい内容は不明だが、言い伝えによると同士である友寄と組み、王府体制を批判した落書(らくしょ)を当時の琉球政務の監督者である薩摩藩史、川西平左衛門邸へ投げ込んだとして、一味15名と共に安謝港にて処刑されている。また、妻と娘は宮城島へ流刑、長男は水納島へ、次男は多良間島へ流刑されるという悲惨なものだった。
朝敏は琉球王第二尚氏、尚真王の流れをくむ子孫であり、二度の江戸上りのメンバーにも選ばれる程のエリートである。そんな彼がこんな悲惨な断罪をうけた落書とは一体 のーしぬ(どんな)内容だったのか、事件の詳細は一切記録されていないという謎に満ちた事件である。
当時の琉球は、中国と冊封関係を維持しながら一方では1609年の薩摩侵攻以来、薩摩の支配下におかれ、二重支配的な状況の下、財政は困窮し加えて大飢饉などにも見舞われ人民とも疲弊していた時代である。
時の三司官蔡温は、後にこのような状況を自らの著書で「朽ちた手縄をもって荒馬を御するが如し(『独物語』)」とその困難さを表現している。尚敬王の信任も厚く次第に政権の中枢に上り詰めて行く三司官蔡温は、このような琉球の行く末を案じ国力の強化を図るべく様々な改革を進めて行くのである。
幼い頃から、人一倍気が強く反骨精神旺盛だった朝敏は、そんな蔡温のやり方に反発していたようだ。次の琉歌にもそんな朝敏の心意気が見える。
(1)四海波たてて 硯水なちも 思事や あまた書きもならん
(2)誰のほれ者の 筆とやい書いちゃが 酒や昔からの 恋の手引き
(3)乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ
(1)は、海に見立てた硯の水を、四海を波立たせるようにして書き綴っても、思う事は決して書き尽くせないと憤怒の情が伝わって来るような激しい歌である。もちろん、思事とは施政者に対する批判であろう。
(2)は、飲酒を慎むようにというお触れに対して反論だと思う。くま・かまの読者には「みゃーくふつ」に訳した方がその意味がより鮮明になるだろう。「とうぬ ぷりむんぬが 筆やとぅい かき°たーが さきや んきゃーんから 恋ぬ手引き」(一体どこの馬鹿者がこんな事を書くんだ酒は昔から恋の手引きというじゃないか)。まさに多くの恋愛物語を手がけた朝敏らしい歌です。
(3)は、治世者を乱れ髪を整える櫛に例えてこれまた痛烈に批判している。
朝敏は、正徳4年(1714)、享保3年(1718)の2度も江戸上りに参加している。朝敏15歳、19歳の多感な時期である。当時の江戸は人口約100万の世界有数な巨大都市である。華やかな町人文化が花開き、新しい文化の息吹が満ち溢れこの上ない活気ある大都会だったに違いない。
江戸上りのメンバー達は、公務以外、江戸の街の自由行動は制限されていたというが、朝敏は江戸の街の自由な空気、活気溢れる町人文化を肌で感じ取った筈である。そして、その後の創作活動に大きな影響を与えたのは間違いない。
本誓寺の小さな庭には、朝敏達江戸上りのメンバーが通った痕跡を示すものは何も残っていなかったが、庭の奥に古い五重の石塔が立っていた。台座に当たる四面には仏像が彫られている。もしかしたらこの石塔を朝敏も見ていたかも知れない。若い朝敏はどんな気持ちでこの石塔を見上げていたのだろう。まだこの時、朝敏は自分の身の上に起きる悲劇を知らないのだ。
私はそっと手を伸ばし石塔に触れてみた。300年も前に34歳の若さでこの世を去った朝敏の無念さが伝わって来るような気がした。そして、朝敏のあの唄が思い浮かんだ。
くらさらぬ 忍で来やる 御門に出ぢめしゃうれ 思い語ら
(『手水の縁』)
(じっと一人で居るのは絶えきれず密かにやってきた。外に出てきて思いを語りましょう)
これは、有名な組踊り『手水の縁』のなかの恋人を慕う主人公の唄であるが、私には朝敏があの世から自分の無念を語る為にやって来たんだと叫んでいるように聞こえた。
今、沖縄は普天間問題、尖閣問題と大国の利権の狭間で揺れ動いている。沖縄の置かれている状況というのは、あの朝敏達が生きた時代(唐と大和の間で呻吟し苦しんでいたあの琉球時代)と本質的に変わっていないのかも知れない。
朝敏が今の沖縄を知ったらなんというだろう。きっと、「お前たちは、300年もの間一体何をしていたんだ」と一喝するに違いない。
【参考文献】
真栄田義見 著『蔡温・伝記と思想』1976 月刊沖縄
玉栄清良 著『殉教の文学』1984 島田保
横山學 著『琉球国使節渡来の研究』昭和62 吉川弘文館
平敷屋自治会のホームページhttp://www.okinawajoho.net/heshikiya/index.htm
おしらせ
一般社団法人 ATALASネットワーク(本村)
■宮古の神歌と古謡 2010
12月4日に開催される法政大学市ヶ谷キャンパスのさったホールで開催されるコンサート「宮古島の神歌と古謡 2010」のご案内です。
宮古で古くから祭祀の場だけで歌われてきた祈りの歌・神歌。そして人々の生活の場で歌い継がれてきた歌・古謡。それらは長いこと、島に生きた人々の精神的な支えでもあったはずです。しかし、ライフスタイルが大きく変化した現在、神歌や古謡の引継ぎ手は激減しています。
そんな中で現在もその伝統を守り続ける継承者が、神歌・古謡を東京で披露します。その あたらす(大切な)歌声を、ご体感ください。
皆さんの心に響く“何か”がきっとあるはずです。
出 演 | ≪神歌≫ [伊良部島佐良浜地区] ハーニーズ佐良浜 [宮古島上野地区] 宮国マツ [宮古島狩俣地区] 狩俣ヒデ ≪古謡≫ [在東京・宮古島西原地区出身] 仲本光正 (歌・三線・クイチャーパラダイス代表) [多良間島] 浜川春子(歌) ≪ゲスト・スピーカー≫ 谷川健一 (民俗学・地名学・作家・歌人) サラーム海上 (よろずエキゾ風物ライター・DJ) ≪ナビゲーター≫ 久保田麻琴 (音楽プロデューサー・音楽家) |
日 時 | 2010年12日4日(土)17:00開場 18:00時開演 |
場 所 | 法政大学 さったホール 市ヶ谷キャンパス 外堀校舎6階 〒102-8160 東京都千代田区富士見2-17-1 市ヶ谷駅または飯田橋駅から 徒歩10分(JR・東京メトロ) 法政大学ホームページのキャンパス案内 |
入場料 | 前売り 5500円/当日6000円/学生3000円(全席自由) |
チケット販売 | イープラス/ローソンチケット(Lコード 70527) |
主 催 | 法政大学沖縄文化研究所 |
共 催 | 株式会社じゃんま、一般社団法人 ATALASネットワーク |
お問合せ | 晴れたら空に豆まいて 電 話: 03-5456-8880 メール: miyako@mameromantic.com |
詳 細 | http://mameromantic.com/?p=5644 |
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古はこのところ、雨続きだったようですね。きゅうの わーつき(天気)は、のーしーがらー?
17日付けの宮古毎日新聞に「宮古ボーリングセンター」が16日にリニューアルオープンしたことが書いてありました。「宮古ボーリングセンター」は、1970年にオープンしたとのこと。そう、40年前もからあるんですよねー。やらびぱだ(子どもの頃)からよく行ってました。今も宮古に帰ると、行ったりします。ボールの弾ける音いいですよね。昔を思い出すレトロな感じも良かったですが、リニューアルされたボーリング場も楽しみです。
宮古に帰るたびに、昔からあったものがなくなっていたりして、寂しい思いをしたりするのですが、何十年も続いている「宮古ボーリングセンター」のニュース、ぷからすーと読みました。
さて、今回のくまかまぁ のーしが やたーがらやー?
「整体」、うぷあまい(大笑い)してしまいました。大和の宮古人さんの話には、毎回心がゆるーゆるになって「いいなー」と思います。ばがかなまずざ(私の頭は)・・・あがい、くぱーくぱ(硬い)!
Motocaさんの英語に奮闘する話、まーんてぃ中学から6年以上英語習っているはずなのに、なんでこんなに身にならないのかね。音読の どーぐりさ、分かるぅ。いろいろな出会いの中で、頑張ろうと決心するMotocaさん、ワイドー!
平敷屋朝敏のことを なんず(それほど)知らなかったので、B.サラさんの話、興味深く読みました。『手水の縁』のほかにもいろいろ書いていたんですね。壮絶な最後にもびっくり。ゆかりのあるお寺を訪ねたり、B.サラさんの朝敏に対する興味の深さも伝わってきました。
おしらせの神歌コンサート、行くべきさ〜。谷川健一氏の話もだいず楽しみです。おしらせをしてくれた「一般社団法人 ATALASネットワーク」も気になりますね。詳細のアドレスもぜひクリックしてくださいね。本村さん、お知らせありがとうございました!
あなたの感想もぜひお聞かせくださいね〜。
投稿、いつでも受付中〜!宮古旅行記なども上等です。お気軽にお寄せくださいね。
きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
次回は、12月2日(木)発行予定です。
あがんにゃ んにゃ 師走さいが〜。きゅうまい かぎぴかず(佳き日)でありますように!
あつかー、またや〜。