こんにちは〜。 3月になりましたね〜。
あすが、春らしくなってきたかと思えば、冬に逆戻りしたり。冬の名残も楽しんでいきますか。
今回もんなま(今)の話から、んきゃーん(昔)の話までお届けでーす。
ニュージーランドのこと
Motoca(平良・下里出身)
じんの あーつか みやーこんかい てぃ ばーき うむう んまり やーば(お金があれば宮古に(帰ろう)とばかり考えてしまう性分なので)私はあまり遠くへ旅をしたことがない。海外にも一度きりしか行ったことがない。それも自主的な旅行ではなく、大学で必修だった語学研修のためだった。
その行き先が、ニュージーランド(以下、NZ)だった。私の母校では例年、大学1年生の8月末から9月にかけての3週間の日程で、語学研修を行っている。今回クライストチャーチの大地震で被災した学生たちと、年頃も渡航目的も ゆぬぐー(同じ)だ。被災はとても他人事とは思えない。
NZにはいい思い出しかない。素敵な思い出しかない。今から十数年も前のことだけど、鮮明に思い出せる。クライストチャーチ街の復興を祈って、NZ研修の思い出話をしてみようと思う。
私が滞在していたのは北島の南部にあるパーマストンノース(Palmerston North)という小さな街だった。他のグループはオークランド、ウェリントン、クライストチャーチなど、観光ガイドブックに載るような大都市ばかりだったが、パーマストンノースは、高いビルもほとんどない、小さな街だった。
平坦な街は遠くまで見渡せた。てぃんまい、あがーたがみ ぴすがりどうたー(空も、ずっと向こうまで広がっていた)。あば?(あれ?)んざがらーの(どこかの)宮古島で見たような地形だね。でも地平線の あがた(向こう)に見えたのは海ではなく、山だった。
さて研修では午前中、教室で授業を受ける。時にはゲームなどもしながら英語の発音や、簡単な会話を習う。10時の休憩時間はティータイム!みんなで紅茶やコーヒーを飲みながら ちょうき(お茶請け)のクッキーやケーキを食べ、談笑する。今思い返しても ありゃーみーん(ありえない)優雅な時間だ!
午後からはセントラル(中心街)にもどって友人とお茶したり、買い物をしたりした。街は、学んだ英語を使う実践の場だった。終バスの時間(夕方5時!)まで あすぴまーる(遊びまわる)ことも多かった。帰宅してからもホストファミリーとおしゃべりしたり、TVを見たり、宿題をやったりと英語だらけ。私のステイ先には9歳の女の子がいて一緒にトランプで遊んだりパズルを解いたりした。
週に何度か、アクティビティ(課外活動)というのがあって、牧場の見学や、カヤック(カヌー)、乗馬などを体験した。
牧場見学では、私の干支である羊に初めて会った。赤ちゃん羊を抱っこしたり牧羊犬と記念撮影した後、羊の毛刈りの様子を見せてもらった。羊が ぴんざ(ヤギ)に変身。あがい、冬なのに(※)、つんだらーさゆ〜(かわいそうにね〜)。※NZは南半球のため8〜9月は冬
乗馬体験も楽しかった。ぬうま(馬)は、やらびぱだ(子供の時)、近所で ふるがにやー(古金属集め)のおじさんの馬車をよく見ていたからかなぁ。動物の前では基本的に足がすくむ私が、ぬうまとはすぐに仲良くなれた。最後は私を乗せてくれた ぬうまにハグして別れたのだ。
あと、首都ウェリントンを半日訪問するバスツアーもあった。ビル街の十字路で迷子になっていたら、金髪の あぱらぎねーねー(美人なお姉さん)に日本語で話しかけられ(おごえ!)、道を教えてもらった。マクドナルドでバニラシェイク頼んだつもりが、Vの発音がうまくできずにバナナシェイクを出された・・・。ああ、宮古口を学んだ今ならちゃんと発音できるはず。
まだまだある。13年半前のことなのに、アルバムも何も見ずにこれだけ鮮明に思い出せる。悪い思い出がひとつもない。
あ、あらん(違った)。ひとつだけ残念なことがある。渡航が大学1年の時だったので、私は、内地で初めての冬を迎えるよりも先に冬のNZを体験することになった。滞在当初は10度を切る気温。コートもにゃーん(持っていない)、厚着の仕方も すっさいん(知らない)
私は、あまりの ぴしさ(さむさ)に くぱりて(固まって)いた。暖炉やらストーブやら(もちろん初体験)から離れられずにいると、乾燥にやられる。特にくちびる。あっという間に腫れあがり、立派なタラコくちびるが出来上がった。
しかし当時の私にはリップクリームを持ち歩くという うむくと(知恵)がなかったため、なかなか治らず・・・。手元に残る旅の写真には、美しい背景と、そこに佇むタラコくちびるの んずぎ みーちゃぎ やらび(おブスな子)の姿が。あがい、んぞーさ(あ〜、もったいない)!
NZで私が訪れたのは、滞在したパーマストンノースとバスツアーで行ったウェリントンのほか、飛行機を乗継いだオークランドの3都市だが、どこに行っても、世界各地からの留学生や語学研修生が多くいた。
NZの人々は皆、常に「んみゃーち(welcome)モード」だ。訪問者を受け入れる体制が、どの街にも、そしてどの家にも根付いている。何よりも、おおらかで、つむかぎ(心優しい)人が多い。
朝、バスを降りるとき、運転手さんはどの客にも「グッダーイ(good day)!」と声をかけて見送ってくれた。道に迷った時、街の人は私のつたない英語を聞いて親切に教えてくれた。街並みはきれいに整備されていて、歩道にはごみひとつ見当たらなかった。
ああ、いつがらーんな またNZんかい 行きぶすむぬ(いつかまた、NZに行きたい)。そのときには、まだ行ったことのない南島にも行ってみたい。だから・・・。
クライストチャーチの皆さん。あららがまどー(負けないで)!
今も行方が分からない多くの方の、ご無事と、そして1日も早い街の復興を、心より願ってやみません。
一行詩
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
☆ みんばにまい むぎぴらってぃの ぴぐるかじ
(耳たぶも ちぎれるほどの 寒風かな)
今年の冬はことのほか寒かった!駅まで自転車で行ったが耳がちぎれるかと思うほど寒かった。
☆ ゆきふふぃてぃ ぷかん うーすや ばんといん
(雪降りて 表にいるのは 俺と犬)
雪が降った表ではしゃいでいるのは南国人のおいらと犬だけ!
☆ ゆぬつきゆ すまの あぐまい みーうーびゃー
(同じ月を 島の友人も 観てるかな)
夜空に煌々と輝く月。もう何年も会っていない島の友人もみているのかな。
☆ あがたから かじんさーらい すまのかざ
(遠方から 風に運ばれて 島の香り)
はるか南方からやって来る台風は雨風だけでなく懐かしい島の匂いも運んでくる。
☆ あがす°かた くがにみちぶし ばたりぴす°
(東方に 黄金満星 渡り往く)
冬の夜空は華やかだ。東方にオリオン星座を従えた冬のダイヤモンドがゆっくりと渡って往く。
☆ ゆすぱすの つかふなりぴず ぴしさかな
(お小水の 近くなりゆく 寒さかな)
ノーコメント。生理現象をそのまま詠みました。
☆ スギ花粉 医者まい患者まい 看護婦まい
(杉花粉 医者も患者も 看護婦も)
みんなマスクしているから医者も患者も看護婦も見分けが付かない(?)
☆ ぼーちらしど やらびや すだいん ぷどいぴす°
(腕白しながら 子供は段々 成長していく)
子供の頃は少しぐらいきかん坊の方がいい。これ俳句?諺?
☆ かばすかざ ゆないんさきぴす° 月下美人
(芳しい香 夜中に咲き往く 月下美人)
夏休みに観察した月下美人。なんかドキドキしたな。
☆ とんびゃんの ぴす°しー つづす°たー ばが初恋
(竜舌蘭の 棘で綴る 我が初恋)
初恋の想い出は竜舌蘭の葉に綴る文字のように淡く清らかでちくりと痛い。
宮古島今昔物語(サッフィ編)
あすなろ(平良・東仲出身)
今は昔。ぴさら(平良)の西北に「サッフィ」という処ありけり。今回は、昭和56年に埋め立てによって消滅した「幻の浜」の ぱなす(話)です。
北小学校の やらび(子供)達の海水浴場は、「サッフィ」と決まっていました。勿論、50年前は「海水浴」等と言う洒落た言葉などありません。
「サッフィ」は、遠浅の砂浜で、かの有名な「砂山ビーチ」を小さくした感じでした。南側に「ポー崎」。北側に「ボラ崎」。この2つの岬に囲まれていました。「ポー崎」に面した浅瀬の一部が、岩場になっていました。潮が干くと、岩場の「水たまり」に取り残された色とりどり魚達。時も忘れて、彼等と戯れていました。
敵陣、「平一校」の やらび(子供)達はといえば、「ぬのはしどう(布干堂)=第2桟橋)で泳いでいたさー」と仲地のキー坊が教えてくれました。そこは、初夏の風物詩でもある「ハーリー(海神祭)」で有名な場所でもありました。
さて、たかあら(高阿良)地区から「サッフィ」までの道のりは、やらび(子供)達の足で15分程。東西に伸びる北小学校の北門沿いに直進する。2つ目の十字路を左折すると、「はいから湯」その先に「宮古中央郵便局」が見えてくる。が、「サッフィ」は右折する。ほどなくすると、北市場が現れ、その先に「八千代バス」の停留所。狩俣方面への「足」の拠点です。右折、左折を繰り返して「幻の浜」にたどり着く。
「遊びの天才達」は、この道のりを単に歩くだけには費やさない。
「十字路ごとに替わればいいサー」
「あらん!(駄目!)いん(犬)を見つけたら替わるさー」
「あらん!(駄目!)あらん!(駄目!)頭の上に物を乗せた あんが(お姉さん)を見たら替わるさー」
3つ目の案が採用された。直径25センチ、長さ2メートルもある「芭蕉の木」を担いで「サッフィ」まで運ぼうというのです。
3人1組、運び屋のトップバッターはジャンケンで決まります。北市場にさしかかった時です。3人組の一人が、あまりの重たさに泣きながら「木」を放り出します。
「んば!(もう、嫌だ!)」と泣きべそをかいています。あんが(お姉さん)は現れません!梃子でも動かない。仕方なく、再協議が始まった。
(1)十字路ごとに交替する。
(2)ジャンケンできめる。
ジャンケンに強い(?)私は、一度も「木」を担ぐことはありませんでした。しかし、この強運のしっぺ返しは強烈でした。
「芭蕉の木」は、遠浅の「サッフィ」で飛び込み台としての役目がまっています。そこから飛び込んだ、その時です。
「あが!(痛い!)あが!(痛い!)あがゆー!(痛いよー!)」
私は、あまりの痛さに泣きわめいていました。砂浜まで泳いでいくと、
「何か!何か!」と皆もゾロゾロついて来ます。
右足の太ももに「ケロイド状の白くて細長い足」がベッタリ付いています。「のりゃー、うりゃ!(何だ、これは!)」口々に不思議がっています。「電気クラゲの足」との結論に達しました。誰かが「小便をかけろ」と勝手な事を言い出した。私は泣きながら「ふすぐどぅん(馬鹿野郎)!」と怒鳴り返すのが精一杯でした。「木」を一度も担がなかったバチがあたったのだろか・・・。
「ポー崎」の高台には、「発電所」がありました。平良市営の「発電所」として出発しますが、他の村町からの要望で1959年(昭和34)に「宮古電力」となり、1971年(昭和46)「琉球電力公社」に移管されます。宮古島の近代化は、「三大事業」を提案した白眉の人、石原雅太郎(平良市長三代目)を抜きにしては語れません。この「発電所」も「三大事業」の一環でした。
「電気・水道・港湾」の「三大事業」は1955年(昭和30)3月8日に「平良市三大事業竣工記念式典」で結実します。小学2年生の私は、小旗を振ってパレード見送った記憶が・・・?♪三大事業遂に成る・・・何故か、このフレーズは自然に歌う事ができます。
「ポー崎」に抜ける坂を ぐしょーんつ(後生道)。「ポー崎」の名前の由来「パウ崎」(遠くから見ると蛇に見えるから)と教えて下さったのは「ひさぼう」さん(『くま・かま本』P103「平良市西仲」より)。
今、彼の文章に浸りながら、この原稿を仕上げています。未だ、「サッフィ」の名前の由来が分からない。ご存知の方は、教えてください。ちなみに、ダーヴィンが飼っていた犬の名は「サッフォ」だそうな。「サッフォ」が「サッフィ」で泳いでいたらどうする・・・
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
先日、掲示板にも書きましたが、くま・かまでも話題になった琉米文化会館(旧市立図書館)は、解体・撤去されることが決まったそうです。いろいろな意見が交わされ、深い話し合いがされるのかと思っていましたが、とても残念な結果となりました。
あすが、一時中止を求めての署名運動は、やまかさ(たくさん)の人に関心を向けさせ大きな意味がありましたね。この運動のおかげで、琉米文化会館のこれまでのことなどを深く知ることもできましたし、未来に残すもの、次世代に繋げる大切なものとはなんなんだろうということも考えさせられました。
跡地は、駐車場となるそうですが、小公園もでき、そこにはモニュメントの設置もされるそうです。運動の成果ですね。
「旧市立図書館(旧文化会館)の活用を考える会」の皆さんに感謝です。皆さん、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
建物は、今月末までには取り壊しされるそうです。あの建物が見られるのは、んなぴっちゃがま(後少し)ということになりますね。今度帰省したときにはもう何もないかと思うと、なんともいえない気持ちです。
さて、今号や のーしが やたーがらやー?
Motocaさんも語学研修でニュージーランドへ行ったことがあったとは!他人事でない気持ち、よく分かりますね。現地の方たちの温かさや街並み、自然。ニュージーランドへの想いが伝わってきました。まだ見つかっていない方たちの一日も早い救出と被災地の復興を心から願います。
ビートルズ世代のサラリーマンさんの一行詩、久しぶりでした。内地での冬の様子や遠く離れた宮古を想う気持ち・・・分かりますね〜。遠いあの日の思い出も鮮やか!思い当たる方も多かったのでは〜?
あすなろさんの宮古島今昔物語は、vol.217(昨年4月1日発行)ニャーツ編に続いて2回目。ぼうちらやらびたちの様子と、あの辺りの風景が見えるようでしたね。サッフィの由来も気になりますね。ご存知の方、いらっしゃいましたら、ぜひおしえてくださいね〜。
あなたの感想も きかしふぃーさまち〜(聞かせてくださいね)。
投稿もどんない宜しくお願いします。まちうんどー!
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みいただいて、ありがとうございました!)
次回は、3月17日(木)発行予定です。
きゅうまい ぷからすーとの(きょうもうれしい)一日でありますように!
あつかー、またいら!