こんにちは〜。
春の息吹があちこち感じられるようになってきました。がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?んきゃーん(昔)の懐かしい話から、んなま(今)の話まで、今回もお楽しみくださいね〜。
きーぱぎっ(竹馬)
宮国勉(城辺・西城出身)
きーぱぎっとは宮古島の与並武(ゆなんだき)地域で“木の脚”の意味から竹馬のことである。
宮古島では、きーぱぎっになる太さの竹が乏しいので、木で作っていた。二本の棒に、それぞれ適当な高さに足がかりを造ってそこに乗り、両手で棒の上部を握って歩くものが竹馬である。
竹馬は昔からある遊び道具の一つで、道具の名前がそのまま遊びの名前にもなっている。私の年代には、とても懐かしい遊びだが、現代っ子には、あまり馴染みのない遊びかもしれない。また、昔は葉の付いた竹の元のほうに紐をかけ、これを馬になぞらえて幼児がまたがって遊ぶものを指して竹馬と呼んでいたらしい。
竹馬の仲間には竹を短く切って紐を付けたもので“竹ぽっくり”と呼ばれるものがある。似たもので、缶詰や粉ミルクの空き缶に穴を開け、そこに紐を通した “缶ぽっくり”はよく作り乗って遊んだ。また、大道芸人の足長おじさんで見かける手を使わない“西洋竹馬(スティルツ)”も仲間である。地鎮祭の時、神主が履いて儀式を行う木靴は木材をくり抜いて軽くし、形を丸く整え漆塗りしたものも“ぽっくり” で きーぱぎっ(竹馬)の仲間である。
子供の頃には きーぱぎっの材料探しに色々と苦労した。材料として選ぶのは すぅんびー(真っ直ぐ)とした素性の良い木で、細くても腰が丈夫な木でなければならない。
手近にあったのは もくまおうぎー(トキワギョリュウ)だが、枯れると釘が打てないほど硬くなり扱いにくい。まつぎー(リュウキュウマツ)は、くの字に曲がっているものが殆どで、ヤニも出ることから適さない。ばんちきらぎー(グワバの木)は実が成るときの楽しみを捨てる覚悟がいる。うぎゃすぎー(モクタチバナ)は意外に真っ直ぐだが末(上部)と元(下部)の太さの差が大きく、折れやすく腰も弱いので役に立たない。しょうじぎー(ソウシジュ)は当時低いものが殆どで、使えるようなものは見当たらなかった。また、丁度よい太さや長さのものがあっても生木の時は腰が弱く、きーぱぎっには使えない。たまうぎー(サキシマハマボウ)は、やはり曲がって節も多く、きーぱぎっにならない。がざまぎー(ガジュマル)も太さや腰の強さに問題がある。
つっつぁぎー(ヤブニッケイ)はウタキ(御嶽)に手頃な物が多いけれど、神様のいる森の樹はバチが当たるので切るわけに行かない。しんだんぎー(センダン)は余程太くならないと強度不足で、挽き割ってまで使う贅沢はできなかった。ゆすきぃぎー(イスノキ)は一軒に一本、庭に植えてあり、クバ(ビロウ)の葉を巻いて水の供給用として大事にしているので全く話にならない。やらうぎー(テリハボク)は植樹したものが殆どなのでヤマバンシュー(山の番人爺)に隠れて切り倒し枝葉を あだんぎーぬみー(アダンの木の藪)又は ぎすきぎー(ススキ)の中に投げ捨てて知られないよう処理しなければならない。
きゃーぎぎー(イヌマキ)は家の建て替えようとして植えてあるのが普通なので、余程のことがなければ切らせてはもらえない。家の柱となるべき きゃーぎぎーを2本も犠牲にして竹馬に変身させることは子供ながらも気が引けた。結局、やらうぎーときゃーぎぎーが適した材料であり、きーぱぎっ製作には一大決心をした。
現在では作らなくても鉄パイプと強化プラスチックで出来た、カニぱぎっ(鉄脚)が三千円程度で市販されている。格好も良く高さもワンタッチで変えられる機能性の良い優れ物である。おまけに初心者の練習用に後ろに倒れにくくした補助脚付まである。
まーだ んきゃーんのくと やーすが ばんまい かたぱぎしー たちうーてぃ すたのむぬう とずくとまい うむーが にゃーん しらいたー(遠い昔のことだが、私も一本足で立ち思いのままに、下の物を取ることまで自在に出来た)
んなまー うぷばたー いだしー うながいんまい なりぅーば しらいんがらまい っすさいん(今では太鼓腹を突き出して、期間も過ぎて出来ないかもしれない)
んきゃーんの やらびぇー かたてぃーんな むーむむち んにゃ かたてぃーんな ぴずちきのー むちなー きーぱぎっん ぬうりぅたーば(昔の子供達は、片手には芋を持ち、もう一方の手にはニンニクの漬け物を持って竹馬に乗っていた)
きーぱぎっの うむーが にゃーん ぬうらいつかあ うとぅとぅのきゃーん 「うかーす あざ」てぃ がありーみしってぃ わざぉーあみだし ぬーりみしたー(竹馬の乗りこなしが思いのままになり、弟たちに自慢して見せ、「たいした兄貴だ」と云われるのを期待して技を作って乗って見せた)
ぴょうすーんな かいらでぃ かいらでぃてぃー うりってぃ しまいんな ぶりんきかいり みぱなしー ずーんつき にゃーんにば ぱずかすむぬ(時にはヨタヨタとしていたかと思うと終いには、顔で地面に着陸して恥をかくこともあった)
踊りや身のこなしが上手でない人に対して えーい きーぱぎっ(木で出来た脚みたい=へたくそ)と云いけなされる。動きがまるで木で出来ているかのようでぎこちないという意味でよくぞ言い当てたと感心するほどである。
私などは運動会の走りは全て遅いので どぅが ぱぎっぬど まーんてぃーの きーのぱぎっどぅ やーたー(自分の足が木の脚そのものであった)。
イラブの純真
根間郁乃(平良・久貝出身)
んまりずま(出身地)を聞かれるたびに、いつも、ぴっちゃがま(少しだけ)説明をする。
父は旧下地町の与那覇、母は旧具志川市上江洲の生まれ。伊良部島で2人は出会い、私が生まれた頃も伊良部の小さな貸し家に住んでいたという。お産のときは船で宮古島にきたので平良生まれということになるのだろうが、やはり伊良部島出身と名乗りたい気がする。そんなこんなで、伊良部は私にとって思い入れのある場所だ。アイラブ伊良部。(昔、こんなフレーズがあったなあ)
伊良部の人の情の深さについて幼い頃から母によく聞かされていたし、大人になってから出会った伊良部の方々の大らかさや純情にも、心が ぬふーぬふと(温かく)なることがよくあった。
昨年のこと。仕事で伊良部地区の婦人検診の受付をしたが、ある女性から間違って余分に料金をいただいてしまった。平良の職場に戻って数日経ってから気づき、あわてて電話を入れた。すると、その方は言うのだ。「私ねー、今カボチャで忙しいわけ。あんまり家に居ないから、どうしようか・・・。あ、そうそう!私の家の玄関の横にね、洗濯機があるよ。あの脱水のところに入れておけばいいんじゃない?」
「だ、脱水槽にですか」意外な展開に面くらう私に、「やっぱり分かりにくいかねー。じゃあ、すぐそばの、お店のおばさんに預けていてもいいですよ」ということになった。電話を切っても私の頬はゆるんでいた。ああ、こういうとこが本当に好きだなあ・・・。
後日、伊良部島へ渡り、その方の家を訪ねた。留守だったので近所の商店にお金を預け、ちょっと思い立って、件の洗濯機の脱水槽に袋詰めのせんべいを入れておいた。商店のおばあが畑の場所を教えてくれたので車を走らせ、カボチャ畑で作業中のご本人に会うことができた。洗濯機のお菓子のことを話すと彼女はハハッと笑い、私が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれた。
伊良部では、これまで何度も、隣接する下地島空港の今後について取り沙汰されている。最近では米軍普天間基地の移設先候補地として下地島の名前も挙がった。この春には、伊良部島のある市民団体が、地域活性化のためにと、宮古島市長へ自衛隊誘致の要請をしたばかりだ。たしか10年ほど前にも、旧伊良部町で誘致の大きな動きがあった。
その当時、ある地元の女性がポツリと漏らした。「しかたがないさ。みんな、お金がないんだのに・・・」。柔和な笑顔をキュッと引き締め、遠い目をしていた。賛否両論あるとは思うけれど、島が元気になるための選択肢は、もっと多様にあっていいのではないだろうか。
いろいろな場面で、人口の少ない島や、お年寄りの多い地域に、日本という国の“豊かで安全な暮らし”のしわ寄せがきている気がしてならない。
山口県の祝島では長年、原子力発電所建設に住民が反対してきたが、今年に入り強行的に準備工事が始まった。3.11の東北大震災以降、原発の安全性が疑問視されるようになり一時中断したものの、計画に変更はないようだ。島の方々の不安を想像すると、胸がドゥンマドゥンマと苦しくなってくる。
友人から「宮古は、太陽光などエコエネルギーの島として、世界的にみても先進地になれる大きな可能性がある」という話を聞いた。宮古の島々が “真太陽(マティダ)の島”として、いつまでも輝いていてほしいと思う。
そのためにも、島の人々の純真さが、何か大きな力に都合よく利用されることのありませんように・・・と、私はもう、天に にがう(願う)ばかりだ。
おじいの話
アモイ(平良・宮原出身)
私のおじいは昭和34年宮古島に※サラ台風が襲来した年に亡くなった。私がまだ4歳の時だったので、あまり正確な記憶はない。母に話を聞きながら、当事の事を整理してみる。
サラ台風が来た時の家は茅葺きだった。台風が上陸し風が強くなってきて、家が揺れて傾き始め倒れそうになってきた。親父や兄や姉達がこの時ばかりと花札に夢中になっていたが、慌てて近所に一軒だけある まいばらー(前の家)の瓦家に避難する事にした。
しかし、おじいは寝たきりで目が不自由の状況だった。おじいを連れ出すのは難しいため、寝床の周囲に俵を置いて段差を造って家が倒れても隙間ができるようにし、先に我々子供達を連れて避難した。
避難した時の事はよく覚えている。吹き飛ばされそうになりながら、手を引かれて走って まいばらーに行くと近所中の人達がみんな集まっていた。その瓦家も何箇所か雨漏りがしていて、近所のおばあが、「あがいーのしが なす゜がらやー、とうとがなす、たすきふぃーさまちー、」(もう どうなるんだろう、尊い、助けてください)と、かんにごー(神願い)のようにつぶやいていた。
風が収まり、家に戻ると家は倒壊していた。幸いにもおじいの上には隙間があり屋根が覆いかぶさったおかげで雨風も防いで、おじいは大丈夫だった。それから数ヵ月後には持病が悪化し亡くなった。
葬式の日は少し覚えているが、おじいの顔は思い出せない。そんな事があったせいかわからないが、自分の子供が生まれた時、「この子の記憶に残るまでは絶対死にたくない」と思ったものだった。とっくにその責務は果たしたが、その後も色々と欲望がでてくるものだ。震災で亡くなられた方々の事を思うと、全ての希望や欲望は絶たれ、ほんとに気の毒に思う。
おじいの話に戻ります。後は全部聞いた話しである。
おじいはある事件がきっかけで体が不自由になり目も見えなくなった。10年間は寝たきりで、おばあは早くに亡くなった為、ずっと母が面倒をみてきた。「みーの みーらいんにゅば、なまやすかー むのー あらったんどー」(目が不自由なので世話するのは並大抵じゃなかったよ)と母は当事を振り返ってしみじみと語る。その当事は介護は嫁の役目として当然だったようで、現在のように介護が社会問題としてクローズアップされる事は無かったんですね。
そんなおじいも若い頃はお酒が大好きだった。時々ひらら(平良の街)迄酒を調達しに行っていたそうである。ある日の夕方、ひららに行って酒を調達し、馬の背に徳利をぶら下げて、とことこと馬に揺られながら家路を急いでいた。
鏡原中学校の裏の方に差し掛かると、とっぷりと日が暮れていた。すると突然何者かが近づき、馬の背から徳利を奪い取った。驚いたおじいは、馬から下りて、護身用にと持っていたナイフを取りだし、逃げる相手にしがみつき引っ張ると相手の顔が近づいたのでとっさに相手の耳を切り取った。しかし相手に振り払われて倒され逃げられてしまった。その時に相手の顔がかすかに見えた。好きな酒を奪われ、がっかりしながら、しかし切り取った耳だけはしっかり持って家に帰った。
翌朝は切り取った耳を持って、現場から近くの思い当たる知り会いの家を訪ねた。「あぐー、ばがど、きす すぅが、のーゆが っしうー」(おい同期よ、俺が尋ねてきたけどよ、何やってる?)と尋ねると、「ばーやー やみど にうい うーゆー」(私は病気して寝ているよ)と言っている。ちょっと強い口調で「やみどぅー? はーい きしみーる くりゃーうわが みん やらんなー?」(病気? おーい 来てみろよ この耳はあんたの耳じゃないのか?)と言うと、痛々しく起きだしてきて、証拠の耳を見せ付けられると「あがい うりゃー ばが みんばにさいが・・・たんでぃ ゆるしふぃーさまち」(はい これは わたしの耳です・・・どうか 許してください)と言って観念したそうである。
うちの裏にあるバダには戦時中に掘られた防空壕がいくつかあります。その中の一つの防空壕の入り口には何かを焚いたらしきお釜の後が残っていました。戦時中に兵隊さんたちが食事でも作ったのかと思っていたが、そうではなくて、うちのおじいがひそかにお酒を作っていたそうである。
買出しの酒だけでは足りずに自分で酒造りをしたようでした。お釜はその時のものだそうです。当事から酒税法はあったようで、密造という事で隠れて造る必要があり、防空壕は格好の場所だったのでしょう。さつま芋を使って酒造りをしていたそうですが、その時に隣の山田部落に親しいあぐ(同期)がいて一緒に酒作りをしては酒を酌み交わしていたそうだ。
事件は、その山田部落のあぐの家で酒を酌み交わしているときに起きた。飲んでるうちに2人とも具合が悪くなり、あぐは急に倒れてしまい、そのまま亡くなってしまったそうです。うちのおじいは一命は取り留めたものの、身体に異常をきたし、目も見えなくなってしまいました。それ以来、目も不自由で寝たきりになったそうだ。自分達で造った酒を2人で飲んで中毒したというように母は聞いていた。
ただちょっと真相は違うと思われます。酒を飲んで目が見えなくなるという事件や事故は過去に世界中では何件もあり、その原因となっている成分はメチルアルコールで、石油から精製して作られていて、植物からはエチルアルコールしか造れないとの事である。
現在宮古島で砂糖キビから作られているのも燃料用のエタノールである。目が不自由になったところから推測すると、おそらく飲んだ酒にはメチルアルコールが混ざっていたと考えられます。巷でよくメチルアルコールを飲むと、「目散る」だから目が見えなくなるよ、という冗談めいた話を聞いた事もありますが、おそらくどこからかヤミで出回っている医療用か工業用のメチルアルコールを混ぜたのでしょう。父が生きてるうちによく聞いてみればよかったと思いますが、父も10年以上も前に亡くなり、今となっては真相を知る由もありません。
おじいがそんなに酒が好きだったのかと思うにつけ、若い頃に飲みに行って家路を忘れて何軒もはしごしたのは、おじいのDNAのなせる業だったんだと納得。しかし今ではすっかりおじいのDNAも希釈され、さきよー(酒の弱い)身体になりました。
母は事あるごとに神棚の杯に酒をお供えしていますが、おじいと父とはあの世で好きな酒を飲みながら思い出話をしていることでしょう。
※サラ台風:宮古島台風(みやこじまたいふう、昭和34年台風第14号、国際名:サラ〔Sarah〕)は、1959年9月に沖縄県(当時はアメリカの施政下)宮古島付近を通過し、同島に大きな被害を与えた台風である。(Wikipediaより抜粋)
おしらせ
菜の花(伊良部町仲地出身)
■砂川恵理歌さんNHK出演!
砂川恵理歌さんが明日22日(金)のNHK「あさイチ」に出演します!そして、昨日(20日)は「一粒の種」の入ったアルバムも発売されました。どんどん広がっていく「一粒の種」です。
↓は恵理歌さんのブログから
●2011年4月22日(金)
出演情報
NHK総合「あさイチ」(朝8:15-9:54)
特選エンタのコーナーにゲスト出演、
「一粒の種」ライブも予定しています
http://www.nhk.or.jp/asaichi/
それから、現在、宮古の映画館「シネマパニック宮古島」では、「一粒の種 〜真太陽の島の大合唱〜」を上映中です。ぜひ、おでかけいただければと思います。
宮古島の多くの皆さんと まーつき(一緒に)、合唱を通して同じ時間と感動を共有できたことを本当に幸せなことだと感謝いたします。
被災地にも沢山の人の優しさの種が蒔かれていますね。優しさの種はいつか大きな花になって復興した大地を飾ってくれるといいですね。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古では、イワサキクサゼミ(うちのところでは、一番がーす(蝉)と言います)が鳴き始めたようですね。白いユリの花も、うまかま(あちこち)咲いているでしょうか。
一番がーすは、ビニール袋によく集めたものでした。うがない(集めて)何をするわけでもないのに、夢中になりましたねー。目をつぶると、この頃の風景や風の匂いがすぐ蘇ります。
くま・かまでは、16日(土)に、東日本大震災復興を少しでも応援したくチャリティライブを東京東久留米にある沖縄料理のお店「とぅばらま家」でやりました。
ばんたが(我らが)マツカニさんこと棚原芳和さんと菜の花こと高橋尚子、そして、マツカニさんの娘さん吉田里香さんの三人で、宮古民謡を中心に盛り上がりました。私は体調不良のため行けませんでしたが、菜の花によると、とぅばらま家に がふーとお客さんが入り、アットホームな温かいライブになっったということです。参加してくださったみなさん、ありがとうございました!
また、参加はできないけれどと義援金を託してくださったり、送ってくださった方もいらっしゃいました。ご協力に感謝します。ライブ代はすべて義援金として、日本赤十字社を通じて被災地へお送りいたします。
くまかまでは、これからも、被災地へ想いを向け続けていきたいと思っています。
さて、今回のくまかまあ のーしが やたーがらやー?
宮国勉さんの「きーぱぎっ(竹馬)」、作った経験、遊んだ経験のある方、懐かしく読まれたのではないでしょうか?それにしてもいろいろな木で試してみるというのがさすが宮国さんですね。木の方言名と和名も勉強になりました。メモメモ。
郁乃さんのお話しは、伊良部の人の大らかさや人柄が分かるエピソードでしたね〜。郁乃さんもまた、伊良部の心があるんだはず〜。いつーがみまい(いつまでも)憂いのない平和な島でありますようにと私も願います。
自分のおじい、おばあがどういう生活をしてきたか、というのは、案外知なかったりしますよね。アモイさんは、聞いた話をまとめたということでしたが、とてもリアルに伝わってきました。時代も色濃くでていましたね。個人の歴史を知る。くま・かまが大切にしたいことのひとつです。
砂川恵理歌さんの大活躍うれしいですね〜。昨日発売になったアルバム、手に入れました〜。「一粒の種〜真太陽の島の大合唱〜」迫力です。鳥肌がたちました。NHK出演もすごいですね!だいず楽しみです!録画予約、予約〜。
今回まい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふ〜。
(今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました〜)
感想をぜひ、お寄せくださいね。まちうんどー!
次回は5月5日(木)発行予定です。どうぞお楽しみに!
きゅうまい がんずぅかり うらあちよ〜(きょうもお元気で)!
あつかー、またいら!