くまから・かまから vol. 282

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 こんにちは〜。
 今年も残すところ、んなぴっちゃがま(もう少し)となりました。今年、しみゃー(終い)のくま・かまお届けです〜。
 お楽しみくださいね〜。

雨のNAHAマラソン出場記

Motoca(平良・下里出身)

 きっと一生忘れ得ぬ日となる、12月2日。第28回NAHAマラソン、私のフルマラソンデビューの日である。それなのに、天気は見事な おぽあみ(大雨)だった・・・。
 
 スタート前には既にシューズの中まで ざぶんみ(ずぶ濡れ)で、雨がっぱに覆われているはずのシャツやランパンさえ、はやくもじっとり湿っていた。気温が20度近くあって ぴぐり(冷え)なかったのが不幸中の幸いである。
 
 9時きっかりに号砲の鐘が鳴り、前方のランナーから次々スタートしていく。その間にも雨は強まり、私はだんだんと弱気になった。あがい、こりゃー、中間地点まででもたどり着けたら、じょうぶんさいが(十分じゃないの)・・・。スタートゲートを過ぎるまで、そう思っていた。
 
 ところが、ゲートくぐって道路に出た途端、沿道に人、人、人!!大歓声に包まれた。うぬすくの やっう゛ぃ わーつき の中 やまかさのぴとぅのきゃのど ランナーの応援かい てぃうがなーり き゜しふぃーた(こんなひどい天気の中、たくさんのひとたちがランナーを応援しようと集まってくれた)。泣きそうになった。んじ(さぁ)、走ろう。背筋を伸ばす。
 
 どこを走っても、太鼓をたたき、三線を鳴らし、大声を出して応援してくれる人の姿があった。応援が途絶える場所はひとつもなかった。
 
 NAHAマラソンのコースは前半に上り坂が集中する。とくに約9km〜20km地点はずっと上りである。だんだんと走るのをやめて歩く人が増えてくる。走ろうとしても、歩くランナーが壁となり、まいやみーん(前に進まない)状態。なにせ我々ランナーの側もまた、人、人、人なのである。中間地点の制限時間が迫り、焦る。おぉい、もう歩いておったら間に合わんけどー!
 
「すみません、追い抜きます!」
 
 前を塞ぐランナーに声をかけて追い抜いて行くことにした。少しずつ、前へ、前へ。それでどうにか制限時間5分前に、平和記念公園内にある中間地点のゲートを通過することができた。公園から出てほどなく、リミットを知らせる花火の音。追い越してきた人の数を思うと、ふたたび背筋が伸びる思いがした。もう、きっと走りきってやる。
 
 コースの後半は最初に下り坂があって、あとはほぼ平坦な道なので楽になるはず。ならば次の関門である33.1km地点はもっと余裕を持って通過したい。声をかけて追い抜く作戦は、続行することにした。
 
 このあたりから、左足の指と右足首がだんだんと痛くなってきた。でも沿道から「がんばれー!」「ファイトー!」の声が聞こえると、ああ、ここで止まっちゃいけない、と思えてくる。
 
 コールドスプレーを片手に応援してくださる方も多く、走るなかで つぐす(膝)や くす(腰)を やました(痛めた)ランナーが吹きかけてもらっているのを 随所で見かけた。
 
 差し出された補給の飲食物も、黒糖、サーターアンダギー、チューチュー(アイスキャンディー)、バナナなど、沖縄ならではのものも多かった。おいしくいただいたが、補給ステーション周辺でゴミ袋に入らず路面に散らかっていた紙コップの数には心が痛んだ。後片付けの手間まで考えると、まーんてぃ(本当に)、応援の方々には頭が下がる思いだ。沿道の皆さん、にふぇーでーびたん(ありがとうございました/沖縄方言)! 本当に、皆さんあってのランナーです・・・。
 
 さて、私は追い抜き作戦が奏功し、33.1km地点は制限時間の約15分前に通過。なんだ、あと9kmがまなら、いつーまい(いつも)練習で走っている距離よりも短いさいが!
 
 ランナーの間で「35kmの壁」と呼ばれ、スタミナ切れを最も起こしやすいと恐れられる地点にさしかかる頃、私はランナーズ・ハイというべき状態になっていた。そのまま勢いづいてゴールまで走り続けてしまったのである。
 
 タイムは5時間53分30秒、順位は12053位。当日の出場者は、24333人、完走者が17657人だったそうなので、予想外の良い結果だと思う。ぴるますもの ゆー(ふしぎなもんだねぇ)、運動音痴だったこの私が。
 
 やまかさの応援に、背中を押してもらった、と思う。NAHAマラソンは沿道の応援がすごい、と以前から聞いてはいたものの、あの雨の中でもあれだけの人が応援してくれたのには本当に驚いた。スポーツで応援されること自体もほぼ初めてだったが、本当に いづ(力)が湧いてくるものだ。ゴールの達成感だけでなく、ぬふーぬふとした(あたたかい)気持ちもたくさんもらえた。
 
 また出られたらいいな、と思う。こんどは、晴れますように・・・。

冬野菜

松谷初美(下地・高千穂出身)

 冬は野菜が多く出回ってうれしい。大根、人参、キャベツ、白菜、ごぼう、セロリ、ねぎ、etc.
 
 宮古でも冬のほうが野菜が豊富で、懐かしい味を思い出す。
 
 まずは「人参」
 人参と言えば、シリシリーですね〜。我がソウルフードである。それから人参を乱切りにして茹で豚肉と煮付けるというのもよく食べた。野菜は人参のみ。あの頃の人参は味も匂いも濃かったように思う。
 
 次に「ニンニクの葉っぱ」
 ニンニクの葉っぱを東京で見つけるのは難しい。ここらあたりの人は、ニンニクの葉っぱを食べないのだ。聞いたら「何それ?」と言われる。あんなに、んまーんまなのにねぇー。茹でた豚肉を炒め、そこにニンニクの葉を投入。しんなりしてきたら、砂糖としょう油を入れ、甘辛く仕上げる。豚肉との相性ぴったり。で、また、そのニンニクと豚肉の味が染みこんだしょう油の汁をかけたごはんが最高なのだ。
 
 それから「ごぼう」
 私が子どもの頃、我が家では、ごぼうを作っていた。土を高く盛り、その上に青々と広がる葉っぱ。土に埋もれたごぼうを んーぷりゃ(芋ほり道具)で、掘り出した。きんぴらごぼうはあまり食べなかったかな。茹でて、人参、昆布と豚肉で煮付けて食べるのが多かった。そうそう、ごぼうの昆布巻も上等だよね〜。自分のところで作ったごぼうは、柔らかく香りも豊かで、んまーんま(美味しかった)だったなぁ。もう何年も宮古産のごぼうを食べていない。
 
 ごぼうの昆布巻で思い出したのだけれど、これは、きざず(行事)の時によくする料理で、お盆の時にも作ったりする。しかし、夏になると地元産のごぼうは見当たらず、茹でたパックの外国産のものが売っていたりする。それを見ると、宮古で美味しいごぼうができるはずなんだけどなーと残念な気持ちになる。
 
 どなたか、宮古でごぼうを やまかさ(たくさん)作って、夏まで保存できるようにしてくれないですかねー?
 
 して、できれば、内地までも出荷してほしい。宮古の野菜は太陽の恵みをいっぱい受けているので、内地でも喜ばれること間違いないかと〜。

遺言

大和の宮古人(城辺・長南出身)

 半年程前に突然母から手紙が届いた。
 
 電話なる文明の利器が我が実家にお邪魔してから40年以上になるがそれ以来、手紙が届くことは無かった。
 
 あば、のうてぃが、てぃがみ ぬ きす°からやー(あら、どうして手紙が来るのかな)と思いながら封を切った。殆どカタカナの手紙だ。
 
 私には、やーぬ名がある。(家ぬ名だと思っていたが神様の名だそう)我が実家は現在も、孫が生まれて1歳前後になると、かんぬなー付き(神様の名前付け)と称して盛大に御祝をしている。ぼー、かんどぅぬ、みが、かにと甥や姪の子に付いている。
 
 手紙はその、かんぬなーで呼びかけてあったが、かんぬなーは親しみ感がないので戸籍上の名前で呼ぶねと本名で続いている。
 
 「自分は子供たちに財産の一つも残してあげられない。元気でいるうちに1人1人に感謝の気持ちを伝えて遺言の替わりにしたい」と書いてある。あがんにゃ、のうしぬ遺言がら(どんな遺言かね)
 
 「うわー、やらびきゃーからどぅ、まゆがまぬ大好きどぅやーたー(あんたは、子供の頃から、猫が大好きだった)毎日、猫を後に従えて歩き猫がニャーと泣くたびに、のうがー まゆがま(何かよう猫)と話しながら抱いていたよ。その姿が脳裏から離れないよ。まんくまんくとした ふっふぁだったよ(コロコロした子供だったよ)」(まんくまんくだけ余計だ)
 
 「二人目の子供だから母乳を飲ませるときしか抱いたこともなく、その母乳でさえ忙しいからまともに飲ませられなかった。畑から早めに戻れないときには、がばおばあが(曾祖母)が、自分の出るはずのないお乳をくわえさせて待っていたよ。よく大病もせず育ってくれたね」から始まっている。
 
 子供の頃が少し書いてあり宮古を出たことに触れている。
 
 「親もあんたも一切口にはしなかったが、高校に行かせて貰えないと自分なりに判断し、働きながら学校に行くと東京行きを打ち明けられたときはかあちゃんは悲しかった。反対したいけど進学させられないのも事実だったしね。おとうは無口な人だから賛成も反対も一言も無かったが自分の不甲斐なさが身に染みたと思う。宮古から一歩も出た事のない子が、沖縄を通り越して内地のそれも東京に行くとは知り合いも1人もいない所で病気にでもなったらと色々考えて恐ろしかった。宮古を出る前も出てからも何日も泣いていたよ」
 
 そして覚えていないショックなことも書かれている。
 
 「後にも先にもたった一度だけだが弱気な手紙が届いたよ。東京に出て数カ月後だから、ホームシックになったか、嫌な事が有ったのか理由は書いて無かったが、宮古に帰りたいと書いてあった。親としては今日にも戻っておいでと言いたかったが言えなかったよ。学校に行きたいのなら我慢しなさいと返事を出したさ。それが今でも悔やまれて仕方がない。何度も言われたのなら気にも留めなかったのに、一度しか云って来なかったところにその後の辛さが分かるような気がする。それを思うと自分が許せないよ。あの世に行くまで後悔するだろう」と綴られている。
 
 確かに大変なことは沢山あった。だが後悔したことも辛いと思った事も余り覚えていない。マイナス思考の私ではあるが苦労したからこそ今が有るのだと思う。若い時の苦労は買ってでもしろと云う。買った覚えもないが残っている様子もないから売ったか忘れたかだ。
 
 幸せが何かは今だかって解らないが、不幸せだと思わないから幸せなのだろう。うぷあまいして(大笑いして)一日が過ごせているから幸せだはずよ。
 
 母からの手紙にはまだまだ書かれているが半年過ぎた今でも読めないでいる。母の心の平和の為にも元気なうちに悔いを取り除いて上げなければと思っている。残りに何が書いてあるか読み終わってからだけど。
 
 ホントは真面目な話がしたいのだけれど、照れくさいのと、母の顔を見るとついからかっていじくりたくなる。

おしらせ

宮古高校サッカー部が全国高校サッカー選手権大会へ

 みなさん、ご存知のように宮古高校サッカー部が県大会で優勝し、12年ぶりに全国大会へ出場となりました。まーんてぃ ぽからすむぬ!宮古から父兄の方たちも、やまかさ応援に来るようです。ご都合のつく方ぜひ応援にいきましょう!

日 時2012年12月31日(月)午後2時10分キックオフ
場 所さいたま市浦和駒場スタジアム
埼玉県さいたま市浦和駒場2−1−1
JR東日本浦和駅東口・北浦和駅東口から、徒歩15〜20分。
対戦相手前橋育英高校

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 12月16日に、宮古方言研究会(新里教室)の忘年会とくま・かま忘年会がありました。方言研究会は7年目に入り、新里先生は89歳とは思えない元気さで講義をしてくださっています。この日は、先生のお話とお弁当を食べながらこの一年を振り返っていろいろな話しをして、にぎやかに過ごしました。
 
 くま・かま忘年会は、あぐ(同級生)のお店(とぅばらま家)で16名が参加して、三線と唄で盛り上がりました。今年もこうやって、うがなず(集まる)ことができて、まーだ ぽからすものでした。ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
 
 さて、vol. 282は のーしが やたーがらやー?
 
 Motocaさんは初出場のNAHAマラソンで完走!すばらしいですね〜。雨の中、沿道の応援に押されて頑張った様子が伝わってきました。Motocaさんは「震災におびえて何もしなかった去年から一転、今年は大きな達成感を持って1年を終えることができます」と話していました。
 
 うちの実家は農家ですが、野菜は少しだけしか作らなくなりました。野菜を作る農家は減っているのかもしれませんね。東京で冬野菜を見ながらそういえば宮古も今が旬かなーと思いつつ書きました。
 
 大和の宮古人さんのお母さんからの手紙には、なだ(涙)があふれてきました。書きなれない手紙を書き、子どもたちに感謝の気持ちを伝えたいとは。大和の宮古人さんの幼いころのことも細やかなことまで覚えていて、深い深い愛情に胸打たれました。
 
 31日は宮古高校サッカー部の応援に行きます〜。くま・かま読者の方にも応援に行く方多いでしょうか。応援もがんばりましょうね〜。
 
 貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ) 


 おかげさまで今年も しみゃーがみ(最後まで)無事に発行することができました。これも読者のみなさんあってのことです。深く感謝申し上げます。たんでぃがーたんでぃ〜〜。
 
 今年は、3月にニューフェイス、羽地みなとさん(くま・かま一番の若手)がライターに加わりました。8月には与那覇湾のラムサール条約指定を記念して「与那覇湾特集」をしました。毎回のそれぞれのライターならではの話も楽しんでいただけたと思います。掲示板では、メルマガの感想や(ふくうさんには毎回の感想をいただき、うれしい限り。感謝!)宮古の地名、自然、祭祀のことなどいろいろな書き込みがあり、また新しい方の登場もあって、にぎわいました。
 
 読者の方からの感想やコメントは、まーだ ぷからすむぬで、ライター一同この1年も だいず励まされました。すでぃがふー!
 
 どうぞみなさん、かぎ正月をお迎えくださいね。
 
 次号は、年明け1月3日(木)発行予定です。
 がんずぅかりうらあちよー(お元気でー)!
 あつかー、来年やー。