こんにちは〜。
4月になり新しい年度のぱずまずやー(始まりですね)
くま・かまも13年目のスタートです。
新しい試みとして、以前掲載した話を改めて紹介するコーナーを設けていきます。初めての方も、再度読まれる方も楽しんでくださいね。
13年目もよろしくお願いします!
変な親子
大和の宮古人(城辺・長南出身)
私は第1次ベビーブームの頃に生まれた。息子も第2ベビーブームの頃に生まれている。全国的に児童が急増し小中高ともそれまでの施設では収容できず新設校が増加した。
住んでいる地区(神奈川)でも急遽小学校が建設され、それまでのクラスメイトが別々の学校にいくことになり混乱していたが、息子は幸いにも翌年の入学だった事と新設校ではなかったのですんなりと馴染んでいった。
(今時の子は幸せだよね。宮古では台風で教室が崩壊してガジュマルの下や2部授業と称して低学年が午前に、高学年が午後にと一つの教室を共有していた事もある。まあ、それはそれでいい思い出ですが)
中学校は花壇や校庭を縮小して校舎を増やして対応し、1500人以上のマンモス校となってしまった。高校も近くに2校増やされ、将来は老人ホームになるとのことで廊下は広く、階段も広く低く設計されている。少子化の現在は生徒数減少により中学校は1000人程に減少し、高校も1校は福祉専門の学校へ1校は私立の高校へと変更されている。
前置きはそれくらいにして事件にいきます。
息子が小学校に入学して一ヶ月程経過してから新一年生の親を対象に給食の試食会があった。(給食センターから運ばれる学校が多い中、珍しくこの小学校は校内で給食を作っており毎年一年生の親が試食できる。)
新一年生はまだ給食がないので授業は午前中で終わり集団下校が始まっていたが、親の方は開始時間過ぎても始まらない。仕事を抜けて来ている親も大勢いてソワソワしていた。
暫くして他のクラスの先生が遅れる事を伝えにきた。「池で泳いだ子がいて担任の先生の手が空かないので少し遅れます」と。
のんびりした性格で待ち合わせでも1時間でも平気で待っているこの私が、この日は虫の居所が悪かったのか一言つぶやいてしまった。「何処の子だろうね。この忙しい時に。親の顔が見たい」と。
他人には聞こえない位に呟いたつもりだったが大きな声だったらしく教室内はシーン。勿論云った本人も凍りついてしまった。
幸か不幸か、程なくして「○○君のお母さんいますか」と私が呼ばれた。んにゃ、ばがふっふぁ さいが(大変だ、私の子だ)「私の子ですね?」「はいそうです。あなたの子です」
皆の視線が私に向いている。仕方がない。「皆さんこの親の顔をとくとご覧ください。我が息子でした」と云うと教室中がドッと湧いた。それまで緊張していた雰囲気が一気に解けワイワイガヤガヤ。
職員室に行くとボーチラ息子(いたずら息子)は見慣れない服に着かえニコニコと座っている。(その時に最初に浮かんだことがある。小学校でも服が用意してあるんだと)
「どうして池の中に入ったの」と聞くと「友達と金魚がいるかな?いないかな?と気になったから入って探したよ。でも金魚はいないよ」とあっけらかーんとしている。のうしぬ やらびゅが なすたーがら。(どんな子供を産んだのかね)
平謝りに謝って、先生たちのクスクス笑いを背に帰宅したが、校門を出るまでの距離の長さよ。全校生徒や親が私たち2人を見ているだろうと思うと振り返る事もできず逃げるように足早に帰った。折角の美味しいと評判の給食も食べる事も出来ないまま。それ以来、何か事が起きた時は息子の事を疑うようになってしまった。
問題の池はなんと校門の横にあった。池とは言えないような水深が20センチ程の水溜まりだったが先生が池と云うのだから池だった事だろう。最近はこの池、影も形も無い。
2〜3年前にある会の役員会があって出席し自己紹介をすると、1人の方が子供の年齢や学校、担任の名前まで聞いてきた。無下にも出来ないので答えるとその方はいきなり笑いだした。驚いていると「貴女があの時のおかあさんね。ビックリしたけど面白かったよ」
その方とはそれ以来お付き合いが続いている。
◇あの話をもう一度
宮国勉(城辺・西城出身)
「つな(縄)」(vol.155 2007/9/6)
沖縄の民家には門という概念はあっても、玄関という概念がないらしい。子供の頃の我が家を思い浮かべると、ほんとに玄関らしくなかった。
みなか(庭)から右が1番座へ、左側が2番座に向かう出入り口であった。座敷の手前に奥行き3尺の土間があり、間口1間の入口で左側の2番座の方が玄関の役割を果たしていた。
2番座への入り口の両脇は物置で、キビを結わくための縄を毎日おばー(祖母)が ぎすき(すすき)を取ってきて かんさ(葉の付け根)を棒で叩き天日干しして、かやづな(茅縄)を綯うのが日課であったことから干した茅や縄の置き場だった。
その茅類を鶏が巣にして卵を産んだ時には、卵が乾いていく様子を間近で観察することもあった。右の1番座の方は行事や会合などの臨時の出入り口、時には化学肥料が山積みされた倉庫となった。
40年前は身近に在る材料の ぎすき(すすき)、まかや(茅萱)、あだなす(アダンの気根)、するがあ(くば=ビロー、しゅろ=棕櫚、まーに=クロツグ)、さにん(月桃)などがいずれも縄の材料であった。それらの自然材料を使った縄が様々な用途に使われていた。
生活に密着して重要な役割を果たしていた縄も現在では影がうすくなった。また、包装なども丈夫な化学繊維のナイロン紐やガムテープなどにとって代わってしまった。
< かやづな(茅縄)>
かやづなは2分した茅の硬い部分を折り曲げて がんぷ(こぶ)を作り、足の親指で挟み、手のひらで擦り合わせて撚(よ)る、時にはペッペッと唾を手につけると滑ることなく撚りの強い かやづなができる。かや(すすき)、まかや(茅萱)は容易く手に入り、長持ちしないので専らサトウキビを縛ることに使われた。茅萱は時に縄ではなく まぐ(篭)、うぷなびぬふた(大鍋の蓋)などの生活用品になることもあった。
< あだなすづな(アダナス縄)>
あだなすはアダンの気根で先端に帽子をかぶって下方へ伸びる。それが地面に着く前に切り取り、3ミリほどの厚みに引き裂いて天日に干して、更にそれを適度に引き裂いて縄の材料にする。あだなすは干すことによりすぴにがー(強靱)になる。それを綯うと すぴにーすぴに(千切れにくい状態)で手触りのよい縄となる。
縄も太さにより利用する用途が変わる。すぴにがー(強靱)な材料は細くすることが出来るから長くて丈夫さが必要な用途に使われ、細く綯うことで水くみの くばずー(釣瓶)用の縄にしていた。芋掘りのとき芋を入れて運ぶ あむでぃら(縄で網目状に編んだ入れ物)も あだなすづなであった。肥料や石を持ち運ぶ おーだ(もっこ)もあだなすづなであった。
< するがあづな(棕梠縄)>
するがあづなは くば(ビロー)や まーに(クロツグ)などの外皮の毛を縄にするのだが、水に強く長持ちすることから牛の鼻緒や茅葺家の ぎすきくび(すすきの壁)を結わくのに利用していた。
< さにんづな(月桃縄)>
さにんづなは葉の部分は取り去り、幹の方を叩き潰し干して使う。あだなすづなほど強くはないが、くばずー(釣瓶)用に使われていたらしい。余談だが縄は左利きの人が綯う綱が解けなくて良いなどと云われていた。
縄は結ぶことや編むことが容易で無ければならない。役に立つ結びを列記すると「ほんむすび、もやい結び、なんきん結び、8の字結び」などが有る。子供の頃はよく がじまーら(風車)を作って、風が何時でも吹いているような んみ(峰)で遊んだ。その結びは表が口の字で裏が十の字に成るところから叶結び(かのうむすび)と呼ばれている。
結びは職業に深く関連して残っており、登山、アウトドア、釣りなどのレジャーにも健在である。船乗り、とび職、運搬屋さんは知っていなければ成らない技である。緊張機などの出現で南京結びなども余り見かけないが知っておくとかなり使える結びだ。
むかしの人は身近に珍しい岩があれば縄で結び、聖域として祀り、注連縄(しめなわ)などにも聖なるものが宿っているような扱いをしている。縄を日常生活のなかで数多く使用していた時代は縄の神秘性を感じていたのかも知れない。
慶祝事に用いられる結びも未だに残り、昔の記憶が刻まれているかのようである。紳士の身だしなみであるネクタイも結びの一つであるが、未だに満足に結べない。
宮古島今昔物語(池間島編)
あすなろ(平良・東仲出身)
島に降り立ったのは、1956年(昭和31)の3月も終わりの頃でした。父親の仕事の関係で、1年間だけ池間小学校に転校します。
「池間島」の名前の由来は、『池間嶋史誌』(大井浩太郎著)によりますと、沖縄本島の古人達が「井計間(いけまー)」と呼ぶことに始まります。意味するところは、「いき果ての離れ島」との事。「井幾麻(いきま)」「井喜麻」の漢字も当てられますが、琉球王朝の「元文検地」で、中頭郡の「井計離(いちばなり)」という小島と区別するために、故意に「池間」の二字で標記したとあります。
ちなみに、ケラマ、ハトマ、イケマ、クリマの「間」は『中山伝言録』によると「離れ島」を意味すると大井先生は教えて下さいます。
まさに、「さい果て地」の船着場に降り立った小学四年生の私は、眼前にそびえ立つ双壁に恐れ慄いていました。こんな高い嶺を見た事はありません。まさに異空間です。怖いのか、弟や妹が手を繋いできました。
転校して一週間も過ぎた頃、近所の男の子が呼びに来ます。何事かと後ろを着いて行くと、かすかに見覚えのあるクラスの男子が、威厳のある態度で私を睨みつけています。明らかに敵意むき出しです。池間方言は皆目分かりませんが、雰囲気でわかります。
「うわぁ(お前は)ぴさら(平良)から来たと思って いばす゜なよー(威張っているんじゃないぞ!)」と肩をこずいてきます。どうやら、私が「町の子」の風を吹かしているらしい。
「威張りゃーうらん!(威張ってなんかいないわ!)」と肩を押し返します。砂浜でもつれ合いが始まります。決着はつきません。
面白い事に、翌日からクラスで一番の仲良しになっていました。クリクリした目が脳裏に焼きついていますが、名前が思い出せません。当時、島には唯一の診療所があり、そこの息子が坊ちゃん刈りの伊集君。今頃どうしているだろうか?
くま・かま(vol.213https://miyakojima.jp/kumakara-kamakara/vol-213/)で書いた、宮古郡小学校野球大会の決勝戦。敵陣、「平一校」のセカンドを守った下地H君とセンターを守った前泊H君は池間島での同級生。残念な事に二人とも鬼籍に入ってしまった。4年生担任の美人先生は、早熟な私の「初恋の人」。「初恋の人の名前を忘れてはいけませんよ」と言いながら、「松川」先生の名を教えてくれたのは、在静岡の加藤(旧姓濱元)J子さん。
池間島での出来事は驚きの毎日でした。巨峰の粒ほどの卵の中に「烏賊の赤ちゃん」が泳いでいます。この時の驚きは、今でも新鮮な記憶として甦ってきます。図画工作の時間に、烏賊の甲羅の内側(プラスチック状)を使って版画を彫ったり、想い出は尽きません。砂地の運動場では、サッカーボールまがいのゴムまりでボールを蹴り合う毎日でした。
「池間島」と言えば延々と三日間も続けられる「ミヤークヅツ」。五穀豊穣のお祭りとして有名です。『写真で追う池間島のミャークヅツ』(上里武・本村満・吉浜朝栄共著)で三日間が、いきゃまふつ(池間方言)で再現されています。標準語の解説が無ければ理解不能です。
旧暦八・九月の甲午(きのえうま)に行われる「ミャークヅツ」が、何故にその日なのか? 私の素朴な疑問でした。1959年当時、琉大教授だった饒平名健爾氏によると、「池間の主」(池間与人玄孝)が、島民の酷税の不満を懐柔する施策として、その日に設定したと、先の「史誌」で述べています。本来「ミャークヅツ」は、旧暦の五・六月の甲午(きのえうま)の節句に行われていたと氏は説きます。
現在、一つになっている池間島。昔は「北島=神道原(かむつばい)」と「南島=池間原(いけまばい)」の二島からなっていた。「北の入り江(いいのぶー)」に砂礫と土砂が積もり一つの島になったとされています。
入り江は、季節によって種々の魚群で海の色が変わるほどです。血嶺(ジャランミー)の魚見台から魚群の合図があると、老若男女総出で、砂浜へと魚を手繰り寄せます。獲れた魚は「魚だまうつ(魚の配分)」によって、男女の区別なく平等に頭数で分けられます。その魚の一部は浜で焼かれ、共食し、大人には ンッ(神酒)も振舞われます。酒がまわって、一人が歌い、一人が踊りだす。やがて、その輪が全体に広がります。ミャークヅツ(宮古節)の舞踏の前身です。
池間島は民俗学の宝庫です。野口武徳氏は島に住みつき、保守的な島民の懐の中に入り、その風習を『沖縄池間島民俗誌』として著します。
「彼は、島で二番目に酒が強かったらしい」と教えてくれたのは同級生で
「麻姑山書房」店主の田中君。
島にはポンポン船(池間丸)で渡った。56年前の昔日、「橋」が架かるなど思いも因らなかった。
「さおが曲がる かつおが空で 鳥になる」校庭に、この石碑があると言う。
この句は、全国小中学校俳句大会で後輩が特選に選ばれたと「還暦の記念誌」にある。島で育った子供でしか詠めないこの感性。これからも持ち続けて欲しい。
橋が架かって便利になった。島人の「絆」が薄れない事を祈りたい。知れば知るほど魅力のある島。この事を先哲から教えて頂いた。感謝です。それにしても、みんな元気にしているだろうか。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
NHKの朝ドラ「純と愛」が終わりましたねー。この半年間、毎朝欠かさず見て、泣いたり、笑ったり楽しませてもらいました。特に宮古の風景や宮古の人たちが出たときは、大興奮!「なりやまあやぐ」が流れてときはだいず感動しました。宮古では「最終回を見る会」が北小学校で開かれ300名が集まったそうです。これまでも朝ドラはいろいろ見てきましたが、宮古に関わるものが見られることは、ほんとにうれしく、幸せなことでした。関わったすべての方に、すでぃがふー!
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
大和の宮古人さんの話には思わず笑ってしまいました。入学当初はいろいろなことをやってくれますよね〜。(うちの息子もそうでした)して、お母さんの言葉もナイス!教室が和む様子が見えるようでした。この春もうまかま(あちこち)の学校で新一年生の活躍?があるはずね。
最初にも書きましたが、くま・かま13年目に入りました。おかげさまです。まーんてぃ たんでぃがーたんでぃ。さて、これまで紹介したエッセイ等は約1000!このあたりで埋もれた作品を(2006年までの分は本になっているものも多いので2007年以降を中心に)もう一度掲載するのもいいかなーと始めることにしました。(ネタ不足ということもありますが。笑)どうぞお楽しみくださいね。
今回はその第一弾として宮国勉さんの「つな(縄)」をお届けしました。とても貴重な内容だと思います。改めて、「つな」の種類の豊富さと昔の人の知恵。そして生活には欠かせないものだったんだなーと思いました。
あすなろさんの今昔物語は、ニャーツ編、サッフィ編に続く池間編でした。1年間の池間での生活があすなろさんに与えたものは だいず大きなものだったんですね。後輩の俳句も絵が見えるよう。池間へのつきない想いが伝わってきました。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。投稿もお待ちしています。
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今回も 最後まで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は、4月18日(木)発行予定です。
きゅうまい、かぎぴかず(きょうも佳き日)でありますように!あつかー、またいら。