こんにちは〜。
11月になり、イチョウやハナミズキの葉が色づいてきました。 そちらは、のーしーがらやー(いかがですか)?
今回は、宮古、沖縄、南米と幅広いお話のお届けですよ〜。
どうぞ、じっくりとお楽しみくださいね〜。
やまかさのガサミ鍋を囲んで
根間(幸地)郁乃(平良・久貝出身)
「まぁ、こんなに食べてくれると作り甲斐があるわね〜!」
大学時代、神奈川の友人の実家に行くと、その家のお母様によくお褒めの言葉をいただきました。魚をきれいに食べる子だ、とお気に入りにしてくれていたのです。
美しい食べ方をしているかはさておき、やらび(子供)の頃から魚が好きでした。父が家畜の獣医師をしていたおかげで、仕事帰りに農家さんからの頂きものを持って来てくれました。
海の近くの集落などは半農半漁の家があり、魚をもらうことも度々。いまの子どものように骨無しの切り身を食べた記憶は少なく、丸ごと1尾が食卓に並んだので、すみずみまで食すことだけは身についています。魚の目玉まわりなども、とにかく食べ尽くす。特に、頬の身のある部分を箸でつつくのは至福の瞬間でした。うっかり小骨を喉に引っかけたときは、おじいおばあが「白飯をかまずに飲み込みなさい。一緒に(胃に)下りていくから」と教えてくれたのを実践しました。
父が往診で知り合った島尻集落の方が、ある大潮の日の干潮時に、沖合の干潟へ連れて行ってくれました。岩の間のシャコ貝を見つけるや、バールの尖った部分を差し込み、ガスガスッと引きはがします。中身を取って「うり(ほら)、食べてごらん」と分けてくれると、口の中に磯の香りがぶわっと広がり、「ん…んまーんま(おいしい)!」と叫びたくなるような味でした。
休みの日、よく父と久松の漁港に行きました。私は大きな鍋を抱えて。漁師さん達から、ガサミ(かに)を買うのです。市場に持っていく前に、直接交渉すると、鍋一杯で千円というふうに安い値段で分けてくれるのでした。無造作に網から外して、ぽいぽいと鍋に入れてくれるガサミは活きがよく、たまには抵抗するかのようにアルミ鍋のふたをハサミで思い切りはさむのもいました。おかげでうちの大鍋のふたの縁(ふち)は、欠けてしまいました。
ガサミを、やまかさ(たくさん)家に持ち帰り、軽く水洗いすると、母が鍋を火にかけ茹でてくれました。私は、紫や緑色の模様の甲羅が、湯気の中で少しずつ赤みを帯びてきて、やがて真っ赤に茹で上がるのを眺めるのが好きでした。だから食べるのを待つ時間も、あっという間でした。飯台の上に新聞紙やチラシを敷き、支度も万全です。
父がガサミをひっくり返して「おなかの部分のふたみたいなのが大きいのがメスで、細いのはオス。メスが肥っておいしいから」と言うので、それを選んで甲羅をはがします。白い蟹肉はもちろんですが、ほくっとしたオレンジ色の卵や、とろりとした蟹みそを付けながら口にほうりこむのは格別です。黙々と鍋を囲みながら手と口は忙しく動かし、時折「脚の身が、こんなに取れたよ!」と家族に自慢して、またガサミを味わう―ほんとうにあれは、楽しくおいしい時間でした。
大人になり、ときどき「カニ食べ放題!」という広告の文句に惹かれることもありますが、それは内地から入荷した高級ガニで、鍋すきなど調理法も本土風だったりするので、なんだか違う気がしてまだ試せずにいます。私にとっては、あのガサミ鍋が人生一番の贅沢だったのかもしれません。
先日、荷川取漁港に息子2人を釣りに連れて行くと、全然釣れないところに一人のおじさんがフラリとやってきて、隣でばんばん魚を釣り始めました。そしてあまりにも釣果のない私たちのために、その場でイラブチャーやアイゴなどをさばいて分けてくれました。おかげでその晩は久しぶりに丸ごとの魚を家族で食べたのでした。
顧みれば、うちの子どもたちには、スーパーで食べやすく加工された食材ばかりを使って料理をつくっている気がします。昔のように丸のままの姿を食べさせてあげたいなあ。まだ漁港に行くと、あんなふうにガサミを買えたりするかしら、と思う食欲の秋なのです。
南米世界遺産紀行12日間の旅(後編)
宮国勉(城辺・西城出身)
今日は8日目にしてやっと待ちに待ったマチュピチュの遺跡観光である。宿泊ホテル(マチュピチュ村)から数分のところにバスの停留所があり、遺跡行き専用の乗合バスで、30分ほどで遺跡の入り口まで運ぶ。
入場には入場券とパスポートが必要で、入り口から登ること30分ほどで一望できる処に着き、説明と写真タイムとなった。石垣が土留めとして積まれ、柵が無い階段状の遺跡は、落ちると結構な怪我を覚悟しなければならない。馴れるまで慎重だが、馴れると平然として降ったり、登ったり出来るようになる。
移動しながら石垣が崩れにくいことや、石工事の話しが現地ガイドのセルジオさんから、詳しく説明された。石垣の間を抜け、階段を使って奥の小屋までたどり着き、さらに詳しく語られ12時30分をすぎてしまった。
レストランは入り口にあるので、下までおりて昼飯である。そこで暮らしているリャマが草を美味しそうに食べている姿を見ながら入り口のレストランへ戻った。
たった一つのレストランは空き席が少なく、生演奏を聴いても んぎゃます むぬ(うるさいだけ)である。席に着きビールとダチョウの肉を多めに貰ってきて、腹を満たすと、エネルギーが回復したようである。
インカ古道歩きに挑戦すべくジャンパーを脱いでリュックに詰める。食事の後もう一度登り、インカ古道を歩きに行く人が10人とホテルに帰る人は13人に分かれた。
インカ古道は遺跡群の横を通り、石畳の坂道と階段を登り、1時間ほど歩くコースである。インカ古道の高台から遺跡の全体写真を撮ることが第一目的で参加した。しかし、カメラのバッテリー残量が僅かになり、あと300メートルほど先が目標地点の筈だったが、最初の門のところで引き返した。結局10人中6人が目的地までたどり着いた。
次の朝マチュピチュ村を出発し、ペルーレイル(列車)にてオリャンタイタンボ駅をめざす。そこからはバスでモライの遺跡、マラスの塩田、ウルバンパ、クスコをまわってリマへ向かう。
モライの遺跡は細くて、崖縁のガードレールの無い道を30人乗りのバスで2時間かけて山道をひた走る。草原の谷底に丸い形のだんだん畑らしき遺跡があった。深さは約25メートルあり、草が刈り取られたように、不思議な遺跡で、水が溜まることは無いそうである。何の目的で作られたか判っていないそうである。
マラスの塩田は山の中に塩分をかなり含んだ水が斜面から流れ出ており、てぃーしー くみー なんみ みーつかー うぷそやーそ すからーすから やーたー(手で掬って舐めてみたら海水よりしょっぱいように感じた)その水を堰き止めると自然と水は蒸発して塩が残る、なんの装置も無い まーすぅの たー(塩の田んぼ)であった。山の中に其処だけが一面に白い塩、まるで雪景色のようであった。
その塩田のお土産屋さんの前に、瞳が黒く透き通った、何の邪心もない天使のような女の子に出会った。母親に頼んで写真を撮ることができた。将来、世界美女コンテストに現れるかもしれない。
アルパカの肉を食べてくることも今回の旅行の目的の一つであった。ペルーレイルの中で現地ガイドのセルジオさんの隣になったので、アルパカを食べさせてくれるところを訊ねてみた。お昼のバイキングでアルパカが出てくるかも知れないとのこと。
遂にその時がやって来た、バイキング方式で生演奏付きの昼食。他の食べ物はほどほどに、アルパカの肉とジャガイモをたっぷり皿に載せ席に着く。アルパカをつまみに伝統音楽を聴きながら地ビールを楽しんだ。味は牛肉や鯨肉のような脂分が無く独特の臭みもなかったが、硬い肉の印象だった。足の長いリャマは偶蹄目でラクダに近く、荷物運びに、アルパカは毛を刈って衣服に利用し、鯨偶蹄目で羊に似て短足であった。
ウルバンパに泊まり、フォルクローレディナーショー(民族音楽や踊り)を見ながら地ビールで喉を潤した。ショーも田舎芝居より珍しいものでペルーの音色に浸り、標高2,700メートルからの満天の星空をほろ酔いの皆で眺めた。今日は9日目だが、まだ雨の気配も無く、あつぁまい ぞうわーつきん なずぐむた やーば!(明日も良い天気になることは間違いない)
10日目は丘を越え、山を登り、富士山の頂上とほぼ同じ高度のケンコー遺跡を見学。通りすがりにバスの窓越しでサクサイワマン遺跡と、そこでアルパカが草を食べている姿を覗きながらクスコへ向かう。
クスコ市内のアルマス広場、大聖堂、12角の石(石積みの工法)などの市内観光。しかし、そこには名門校のOBが大勢集まりペルー軍の決起大会が行われ、車と人が入り交じり渋滞と混雑のお祭り騒ぎであった。広場に面した広々としたレストランで音楽付のランチだったが、とーまいCDや かーだな(誰一人CDを買わず)、3人のアーチストは挨拶も無く消えてしまった。夕べのフォルクローレディナーショーが鮮やかに残っていたようである。
ここクスコから空路で1時間30分かけてリマ空港、そこから9時間20分でサンフランシスコ、更に約9時間40分で羽田着となるが、まだ道は長い。いよいよリマ空港(ペルー)の最後の夜であるが、日本食レストランでの夕食であった。日本のビール350ミリリットルが9ドル、500ミリリットルが16ドルと高すぎる。ペルーのビールは小瓶5ドルで美味しい。食事は赤だしの味噌汁にご飯、湯豆腐だったような気がするが、記憶が定かではない。
羽田に夜の10時30分ごろ無事到着し、荷物を受け取り帰宅する。旅は思い出深い旅、目の肥やし、素敵な出会いなどばかりではない。旅は忍耐だと阪神交通社のガイド、長谷川さんの言葉であった。特に海外旅行は気候条件、馴れない食事、疲労、体調不良などの他、出入国の書類など不安なことが多く、忍耐も要る。今回の旅行は気短な自分を反省する機会でもあったようだ。
蔡温旧宅跡を訪れる
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
今年四月会社の旅行で沖縄へ行った際、一日延泊を申し出て日帰りで宮古島へ渡ったため翌日に半日ばかり時間が出来た。かねてから首里城周辺を歩いて見たいと思っていたので、これ幸いとばかりにの首里の散策に充てることにした。
東京への便は午後2時過ぎなので、ぴゃーぴゃーてぃ(早々に)朝食を済ませホテルをチェックアウト。ゆいレールで首里へ向かう。首里駅のコンロッカーに荷物を ぽーりて(放り込み)身軽になって駅を出ると、観光客相手のタクシーの客引きがワッと寄ってくる。
観光客らしからぬ出で立ちと みゃーくかーぎ(宮古じらー(面))が効を奏したのか直ぐに別の客の方へ行ってしまったのには、あまいて(笑って)しまった。駅前の案内板(地図)で首里城への道順を確かめるべく眺めていると、その中に「蔡温旧宅跡」の文字を見つけた。
蔡温は近世琉球王国を代表する すぐり(すぐれた)政治家で、彼の成し遂げた羽地大川の改修や元文検地、山林政策等、治水・治山事業は今でも高く評価されているが、その割には意外とその名を知られていないような気がする。
「蔡温旧宅跡」は、その蔡温が長男翼(よく)の結婚に際し尚敬王から賜った邸宅なのです。というのも翼の結婚相手というのが尚敬王の王女だった訳なのです。
中国で儒学などを学んで帰った蔡温は、その学識人望を認められ当時即位したばかりの尚敬王の国師(教育係)となります。王は長じてからも絶大の信頼を寄せていたといいます。それが王女を嫁がせることにも繋がっていったのでしょう。
只、そのことが周りからあまりよく思われていなくて、蔡温は国王を利用して自分の意のままに王府を操っているとこれを憎む者が多かったようです。後の友寄・平敷屋(朝敏)等の薩摩在藩所横目宅への落書(らくしょ)事件は際温と癒着した王府政治の在り方を直訴した事件ではなかったかと言われています。
しかも、蔡温の長男翼と尚敬王の王女恩鶴金との ささぎ(結婚祝)の年にこの事件の首謀者である朝敏等15人の処刑がなされているのです。
その曰く因縁付の「蔡温旧宅跡」を駅の案内地図で見つけたからには いきみーだかならんてぃ(行って見なければならないと)地図をしっかり頭の中にインプットして歩き出した。
先ずは、首里城への登城道である綾門大道(あやじょううふみち)を通り首里城へ向かう。綾門大道の入り口には第一の坊門「中山門跡」があって「下の綾門(シムヌアヤジョウ)」「下の鳥居(シムントウイ)」と呼ばれていたそうです。今ある守礼の門は第二の坊門だった訳です。かってこの道を、蔡温や朝敏等王府の役人達が行き交い、中国の冊封使の長い行列が登城して行ったのかと思うと感慨深いものがあります。
途中、美連獄、御客屋跡、安国寺、旧中城御殿跡等あちこち見ているうちにどんどん時間が無くなっていく。首里城見物をショーカットして「蔡温旧宅跡」へ向かう事にする。急げ急げ。
首里の赤平町は小径が入り組んでいてまるで迷路のようだ。頭にインプットしたはずの地図は たいがい ばすきて(あらかた忘れてしまい)方角を完全に見失い ゆらりて(迷って)しまう。丁度三人連れのおばぁが向こうからやって来たので道を尋ねる。
「サイオン?サイオンってだれね〜。あんた しりおるね〜。」と連れに聞いている。だめだなこりゃ。やはり、蔡温は人気が無いのでしょうか。
しばらく行くと庭の手入れをしている同年輩ぐらいのご婦人が居たので道を尋ねると丁寧に教えてくれた。こちらの方は凄く詳しくて、「あの家は名門だったのに、今ではすっかり落ちぶれてさー。屋敷も人手に渡り違う名義になっているさー」と、まるでつい最近の事のように話すのにはびっくり。誰かが、首里では んなままい(今でも)昔のことを昨日のように語ると言っていたが、その通りでした。それだけ歴史が現在の生活と共に生きている町なんですね。
おまけに、「そう、そう、旧宅跡にある案内碑に“長男翼に嫁ぐことになった尚敬王の王妃”と書いてあったので「王妃」では無く「王女」ですよと役所に訂正をお願いしたら、しばらくは訂正されていたけど、数年前に立替えたらまた「王妃」に戻っているさー。なんでかねー」と超マニアックな凄い解説をしてくれた。
このオバサンといったら悪いな。この歴女さん、近くにある沖縄で一番古い「泰山石巌當」の場所まで教えてくれた。お礼を言って、言われた通りに小橋を渡って暫くみちなりに行くと「蔡温旧宅跡」に辿り着いた。600坪あったといわれる敷地は今は一部が駐車場になっていて往時を偲ぶ石垣が所々残っているだけでした。
敷地の一角には例の案内碑が建っていて、やっぱり碑文は先程のご婦人が指摘した通り「王妃」となっていました。もし、案内碑を建てた役所関係者でこの「くま・かま」に目を通す方がいらっしゃいましたら(いるかな〜)「王女」に訂正するようあらためて私からもお願いしておきます。
案内碑には蔡温直筆の書も添えられていました。それにしても、うかーす(もの凄い)達筆です。
「言多語失皆因酒」(言(げん)多く語(ご)失うは皆酒に因(よ)る)
「義断情疎只為銭」(義を断ち情(じょう)疎(う)ときは只銭の為なり)
『御教条[ごきょうじょう]』で「酒の戒」・「金銭と正義」を説いた蔡温にふさわしい書です。
一方、禁酒のお触れに対し、「誰のほれ者の筆とやい書ちやが酒や昔から恋の手引き(どこの馬鹿者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるというのに)と嘆いたのが朝敏です。
思想的にも相容れない蔡温と朝敏ですが、そんな二人がだだ一度だけ対面したという興味深い話が蔡温自身の『家言録』に書かれているいう。それは朝敏だと断定はしていないが、某氏というものがいたという書き出しで始り、ある日この人が自分を訪ねてきたという風に続いていく。突然の訪問に家人は驚き警戒したが蔡温は快く招き入れお茶をご馳走して二人は談笑して夜遅く帰っていったというのである。(この時朝敏が訪れた屋敷はこの旧宅跡とは別の以前の屋敷です)
何故、悪者である彼と会ったかという家人の問いに、蔡温はこう答えています。「後になってその人は法を犯す罪、すなわち政治犯として断罪された。政治犯であるが故に普通の犯罪者とは違う。たとえ国法によって断罪されたとしても、これを理解し人間的尊敬を示したことは愚かでは無かった。人間として立派なことをしたことになるのではないか」
あまりにも都合の良い解釈で自己弁護にしか過ぎないと思えるのですが、蔡温の「家言録」は散逸して現存せず、これらの話は伊波譜献の「蔡温伝」に採録されている話しなのでなんとも言えない。
そんな蔡温と朝敏の事を色々思いながら今は何もない只の駐車場に馬鹿みたいに佇んでいた。気が付くとすっかり時間が経ってしまい、もう空港に戻らなければならない時間になっていた。いつしかぽつりぽつりと雨も降り始めたので急いで首里駅に行きモノレールで空港へ向かった。
ふと、外を見ると今しがた訪れた「蔡温旧宅跡」が眼下に現われた。600坪という屋敷跡は幾つかに分割されているが上から見ると石垣の遺構が所々残っていてその広大さがはっきりと見えた。その昔琉球王府が栄えた時代の首里の町をかいま見たような気がした。
遠ざかる首里の町を眺めながら、今度また ぬかーぬか(ゆっくり)散策しに来ようと思うにわかレキオ(歴男)のB.サラでした。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古では、11月3日にクイチャーフェスティバルが行われたんですね。宮古毎日新聞を東京で読んでいるのですが、写真特集でその雰囲気を楽しみました。ひとくちにクイチャーと言っても地域によっていろいろですね。子どもから年配の方々まで、だいず誇らしげで楽しそうでした。
神奈川では、同日、こちらも恒例の関東伊良部郷友会の敬老会がありました。会場の鶴見沖縄県人会館には、100名余りが、うがなーり(集まり)、島の先輩たちを祝いました。舞台では、琉球舞踊、唄、三線、演歌、ブレイクダンスや手品などが繰り広げられ、とても華やかで賑やかでした。関東の郷友会の中で敬老会を実施しているのは、伊良部郷友会だけです。宮古の心が脈々と息づいているんだなーと感じました。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
郁乃さんの ガサミの話、懐かしく読まれた方も多いのではないでしょうか。私も子どものころよく食べました。今思うとほんとに贅沢なことだったんですよね。このごろ見かけなくなったのは、のーしぬ ばーがらすさんすが(どういう理由か分かりませんが)、また、昔のようにガサミが食べられるようになるといいですね。
宮国勉さんの南米の旅(後編)も旅の醍醐味が伝わってきましたね〜。うまくいくこともいかないことも全てがいい思い出ですね。マチュピチュ、モライの遺跡、マラスの塩田など、どれも迫力が伝わってきました。ダチョウやアルパカのお肉を難なく食している宮国さんも見えるよう。「旅は忍耐」心に記しておこうと思います。
B.サラさんは、以前「江戸上りと朝敏」と題して書かれているので、(vol.232 https://miyakojima.jp/kumakara-kamakara/vol-232/)今回はその「対」のようなお話でしたね。蔡温旧宅跡が首里城つかふ(近く)にあるとは すさったん(知りませんでした)。蔡温への想いが蔡温のことをよく知る方との出会いへと結びついた感じがしますね。掲示板に写真を掲載してくださるということですので、どうぞこちらもご覧くださいね〜。
貴方の感想もぜひ、お寄せくださいね。
【訂正】
前号のおしらせ「琉球民謡伝統協会神奈川支部 第4回芸能発表会in宮古島」の中に間違いがありました。訂正してお詫びいたします。大変申し訳ありませんでした。
賛助出演 (誤) (正)
宮古民謡研究会 → 宮古民謡協会 です。
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今回も 最後まで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は、11月21日(木)発行予定です。
感冒しないように、お互い気を付けましょうね。がんずぅかり うらあちよー(お元気でー)。
あつかー、またや〜。